2020年01月14日

ルノワールとパリに恋した12人の画家たち

  令和2年1月5日(日)、横浜美術館で開かれている「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展を見てきた。

  展覧会公式解説書の挨拶文には、以下のように書かれている。

  「2019年、横浜美術館開館30周年を記念して、オランジュリー美術館所蔵品による「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」を開催いたします。
  パリのセーヌ川に建つ、チュイルリー公園のオレンジ温室を改修した瀟洒な佇まいのオランジュリー美術館。画商ポール・ギョームが基礎を築いた同館所蔵の印象派とエコール・ド・パリの作品群は、ルノワールの傑作<ピアノを弾く少女たち>をはじめ、マテイス、ピカソ、モデイリアーニらによる名作が揃った、ヨーロッパ屈指の絵画コレクションです。
  ギョームは若き才能が集まる20世紀初頭のパリで画商として活動する一方、自らもコレクターとして作品を収集しました。私邸を美術館にする構想を果たせぬまま若くして世を去った後、そのコレクションは妻のドメニカにより手を加えられていきました。そしてこれらの作品群は、ギョームとドメニカの二番目の夫の名を冠した「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギョーム コレクション」としてフランス国家に譲渡され、同館で展示されるようになりました。
  本展は同館が所蔵する146点のコレクションのうち69点が、21年ぶりにまとまって来日する貴重な機会です。 以下省略 」

  20世紀初頭にパリに集まってきた画家と画商を中心に、さまざまな個性と夫々の人生が織りなす人間模様を、こうして100年以上の時を経て日本の現代の我々が絵を通じて垣間見ることができることに不思議な感慨を憶える。

  海の見える丘の上に建つ明るいアトリエで、日がな一日太陽の光を浴びながら一心に絵を描いている自分を想像してしまう。ああ、そんな時が現実になることを夢見ながら。

  主な展示作品

<アルフレッド・シスレー>1839-1899
  印象派の風景画の巨匠として知られる。1862年にモネやルノワールらと知り合い、パリ郊外のフォンテーヌブローの森でともに風景画を描く。生涯にわたりパリ近郊に住み、田舎の村々の風景を繰り返し明るい色調で描いた。

・モンビュイソンからルヴシエンヌへの道 1875
  1871年、パリから西に10キロほどのルヴシエンヌ近郊に転居したシスレーは、セーヌ川の丘陵地帯で葡萄や果樹を栽培するこの農村地帯で、豊かで穏やかな自然をテーマに数々の風景画の傑作を生み出す。
  なだらかな丘の上から遥かにセーヌ川を望み、晴れた空のもとで馬車や人々が道を行き交うのどかな田園の情景が落ち着いた色彩で描かれている。画面を広く占める明るい空、地平線上のほぼ中央の消失点に続く道、画面に生命感を与える点景の小さな人物など、シスレーの風景画の特徴を見ることができる。(解説書より)

クロード・モネ1840-1926
  周知のとおり、「印象派」は1872年に製作されたモネの作品「印象、日の出」に由来する。1883年に、パリからノルマンデイーのジベルニーに移り住む。1890年代終わりから1926年に亡くなるまで「睡蓮」の連作に取り組み、晩年に制作された「睡蓮」大装飾画はオランジュリー美術館に収められている。

・アルジャントウイユ 1875年
  アルジャントウイユはパリから北西に10キロ程のセーヌ川右岸の町。サン=ラザール駅から20分で行ける行楽地。モネは、川面の光の反映を間近で観察するために自ら舟を改造して水上アトリエを造った。この絵はそのアトリエ舟から描いたものといわれている。(解説書より)

<オーギュスト・ルノワール>1841-1919
  最初は磁器の絵付け職人だったが、同じ画家のアトリエでモネやシスレーと出会い、一緒にパリ郊外の屋外で絵を描くようになる。1879年のサロン(官展)で成功してからは印象派とは距離を置くようになる。
  1890年代以降は家族の肖像画を描くようになり、また草木の繁茂する景色のなかの女性を線と色彩を調和させながら描いた。

・桟敷席の花束 1878-18880年頃
  パリのオペラ座の桟敷席の椅子に置かれた薔薇の花束。

・桃 1881-1882年頃
  白いクロスが掛った机の上に置かれた白い磁器に、葉がついたままも桃が盛られている。桃は黄色がかった淡いピンク色から赤へと美しいグラデーションで彩られ、葉の緑や、器やテーブルクロスの白と対照をなして、みずみずしい輝きを放っている。机の上に転がった一つの桃が、画面にリズム感を生み出している。(解説書より)

・手紙を持つ女 1890年頃
  左手に読みかけの手紙を持ち、右手を頬に当てて物思いに耽る女性。明るく描かれている画面の左には窓があって、彼女は窓の外をぼんやりと眺めているようだ。黒目がちなその目は商店が曖昧で、手紙の主のことを夢想しているようである。中略 女性の肌の輝きや夢見るような表情は、ルノワールの絵画に共通する生きる喜びや生命感を伝えている。(解説書より)

・花束 1900年頃
  紺色の暗い背景のなかに緑色の陶器の壺を配し、そこにあふれるように生けられた赤やピンクの鮮やかな色の芥子やバラの花を濃厚な筆遣いで描いている。暗い背景のなかで花びらが生き物のように妖しくうごめいているようであり、画家が花を通して生命力の表現を模索していた様子をうかがうことができる。(解説書より)

・ピアノを弾く少女たち 1892年頃
  政府からリュクサンブール美術館に収蔵する作品の制作を委託されたルノワールは、ピアノの前に座る二人の少女をテーマにした同様の構図の油彩画やパステル画を少なくとも6点制作したといわれる。そのうち国家が買い上げた作品は、現在オルセー美術館に収蔵されている。オランジュリー美術館所蔵の本作は、油彩によるスケッチといった性格のもので、晩年まで画家のアトリエに保管され、画家の没後の1928年にポール・ギョームが収集した。オルセー美術館所蔵の作品では室内の調度品や楽器が細部まで描きこまれ、人物もやや硬い調子であるが、本作では人物に焦点が当てられ、周囲は筆跡を残して簡略に描かれている。顔を寄せ合い楽譜を覗き込む少女たち。伸びやかで柔らかい筆致によって美しい色彩の調和で満たされた画面から、ピアノの音色と少女たちの声が聞こえてくるようである。(解説書より)

・ピアノを弾くイヴォンヌとクリステイーヌ・ルロル 1897-1898年頃
  描かれているのは、画家でコレクターであったアンリ・ルロルの二人の娘。中略
  (前出の)「ピアノを弾く二人の少女」が華やかな若々しさにあふれているのに対し、本作は、水平線を強調した安定感のある構図、はっきりとした輪郭線や落ち着きのある色彩など、古典的な様式で描かれ、落ち着いたブルジョア的な雰囲気を生み出している。以下略。(解説書より)  

・バラをさしたブロンドの女 1915-1917年頃
  この作品のモデルは当時16,7歳であったアンドレ=マドレーヌ・ウシュリング、愛称をデデといった。ルノワールは、この愛らしい顔立ちとブロンドの髪、輝くような素肌の少女を気に入り、最晩年のモデルとした。デデは、女優となってカトリーヌ・エスランと名乗り、画家の次男で映画監督となったじゃん・ルノワールと結婚して彼の映画に出演した。中略
  全体が赤茶のトーンでまとめられ、薄塗の地に鮮やかな色が濃彩で描かれる。対象の形態は空気に溶け込むように曖昧ではあるが、はだけた胸や袖をまくりあげた腕の輝くような素肌の表現には、画家の衰えない創作意欲が垣間見える。以下略。(解説書より)

<ポール・セザンヌ>1839-1906
  1862年頃、生地であるプロヴァンスから友人だったエミール・ゾラのあとを追ってパリへと移住した。ルーブル美術館で過去の絵画を、リュクサンブール美術館では同時代の絵画を模写した。印象主義は放棄したが、パリとプロヴァンスでの制作は続けた。
  1895年に最初の個展が開かれ、以降若い芸術家たちから近代絵画の先駆者として崇拝される。ピカソにも影響を与えた。作品には、静物とプロヴァンス地方の風景画や肖像画、浴女を描いた作品も手がけている。

・りんごとビスケット 1879-1880年頃
  木製の箱の蓋が帯のように画面を横切り、その上に鮮やかな赤やオレンジ色の果物がリズミカルに配置され、右端には青い皿の円形が半分だけ描かれている。箱の手前につけられた縦長の金具が、画面の中央でバランスを取る役目を果たしている。壁紙の花柄は浮き出るように描かれ、すべての要素が緊密に関連づけられ、緊張感のある画面を作っている。(解説書より)
  静物画のお手本のような絵だ。

・セザンヌ夫人の肖像 1890年頃
  オルタンス(セザンヌ夫人)は、簡素な肘掛け椅子に座り、両手を厳かに膝の上に置いている。彼女の顔は表情がなく、何にもこびない様子である。筆遣いは素早く、不規則で一つ一つが際立っている。輝くようなハイライトは、明るい絵具の厚塗りではなく、カンヴァスの地が見えるように塗り残すことでつくられている。このテクニックによって、質素な黒いドレスに量感と生命感が生まれている。背景は筆跡と青と緑の微妙なヴァリエーションだけでいきいきとしている。ここでもまた、絵具を塗らずに地が残された部分がある。正面を向くモデルと少し角度をずらして置かれた椅子がちらりと見えており、それによって構図に不安定さがもたらされている。(解説書より)

・小舟と水浴する人々 1890年頃
  横に細長い形をしており、画面中央には広々とした水面と空が、左右には岸に沿って水浴する人々が描かれる。左眼には小さなボートが係留され、画面中央にはゆったりと停泊する帆船が描かれる。そのマストの垂直線は、やや弧をえがくように空と水をつないでいる。以下略。(解説書より)

・わらひもを巻いた壺、砂糖壺、りんご 1890-1893年頃
  本作は、テーブルの上の果物や器などを通常とは異なる視点で描くという革新的な表現方法を取り入れた、セザンヌの独奏的な静物画の最良の例である。以下略。(解説書より)

<アンリ・ルソー>1844-1910
  フランス西部のラヴァルで生まれ、従軍した後パリの税関で働いていた。余暇に絵を描き始め、1885年頃にはパリのサロンに定期的に出品するようになる。1905年には、サロン・ドートンヌに3枚の絵を出品、前衛的な詩人や芸術家たち、そして批評家にも称賛された。

・人形を持つ子ども 1892年頃
  青空を背景に、水玉模様の赤いワンピースを着た少女が大きく描かれている。上半身は正面を向いているが下半身は斜めから捉えられ、椅子に腰かけるように膝を曲げている。しかしそこに椅子はなく、しかも彼女の足は草原の中に埋まっているようだ。目を見開いてこちらを凝視する少女の顔は、彼女が腕に抱いた人形と同様表情や動きがなく、イコン(聖画像)のような神秘的な印象を与える。以下略。(解説書より)

・婚礼 1905年頃
  木立の中で花嫁を中心に正装をした人々が集う、結婚式の記念写真を思わせる作品である。後列右から二人目がルソー本人と言われる。周囲の木々を斜め方向に次第に小さく書き、前景に大きな黒い犬を置いて奥行きある空間を暗示しているが、人物は切り絵を貼りつけたように平面的に描かれる。奇妙なことに、花嫁は空中に浮かんでいるように見える。以下略。(解説書より)

・ジェニエ爺さんの二輪馬車 1908年頃
  ジュニエ爺さんは、ルソーの家の近くに住む食品雑貨商で、毎朝荷馬車に載って野菜を買い出しに出かけた。ジュニエの妻がルソーの料理人だったこともあり、ルソーはその一家と親しくしていた。ここみはジュニエ爺さんの一家とともに、黄色い帽子を被ったルソーが描きこまれている。以下略。(解説書より)

<アンリ・マテイス>1869-1945
  フォーヴィズム(野獣派)のリーダー的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も、20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し、「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけている。(Wikipediaより)

・三姉妹 1917年
  三姉妹の肖像画である本作は、マテイスによる傑作のひとつである。濃褐色の背景の前に佇む黒髪の三姉妹のうち、二人はこちらを真っすぐ見つめているが、右下の一人は読書に夢中になっているようだ。画家は、衣服や姿勢の異なる三姉妹や首長の強い色彩、異なる視点から描かれたモチーフといった、一見すると相容れない要素をバランスよく配置している。以下略。(解説書より)

・若い娘と花瓶(別名:バラ色の裸婦) 1921年
  本作に描かれている裸婦は、タオルを引きずるように手に持ち、窓際に佇んでいる。頭には白いターバンを巻き、その顔貌ははっきりと描かれていない。彼女の胸も簡単に表され、二つの丸いふくらみを示唆するに止められている。以下略。(解説書より)

・赤いキュロットのオダリスク 1924-1925年頃
  画面右側には大ぶりな花柄のパネル状のものが2枚並んでおり、画面全体の平面性を印象づける。中略。
  女性が見に着けているゆったりとした白いチュニック(丈が長めの上着)と、金の刺繍と宝石が縫いこまれた赤いムーア(イスラム)風のキュロットは、中近東の文化を連想させるに十分だ。以下略。(解説書より)

<パブロ・ピカソ>1881-1973
  言わずと知れた20世紀で最も有名な画家であり、その一生は数々の女性遍歴とともに膨大な数の作品を残した。ここで解説をするまでもなく、これまた膨大な伝記本や解説書、ネットにも分かり易い解説が沢山掲載されている。(例)art-whitecanvas.com/picasso/

・大きな静物画 1917-1918年
  より分かり易く単純な形体を用いた後年のキュビズム作品。瓶やグラス、果物鉢などが複数の視点から捉えられ、一つの画面に再構成されている。

・白い帽子の女 1921年
  女性が赤い椅子に右腕をもたれ、メランコリアのポーズで座っている。無機質な色味のキュビズム作品から一転し、画面には色彩が取り戻された。明部には青や赤、白が、それらの影にあたる暗部には灰色や茶色が柔らかな筆触で描かれることによって、パステル画のように、甘美で繊細な印象を見る者に与える。(解説書より抜粋)

・布をまとう裸婦 1921-1923年頃
  ピカソと親しく交流したジャン・コクトーは、この時期のピカソの作風について、「大きな牛の目を持つ、堂々として美しい女性が、巨大な四角い手で、石造りの布を掴んでいる」と表現したように、女性の手は不自然に肥大化されて描かれる。そして彼女は斜め下を剥いてうつむき、静かに目を閉じている。灰色とピンクを基調とする色味もまた、この時期のピカソ作品の特徴である。(解説書より抜粋)

・タンバリンを持つ女 1925年
  片方の手でタンバリンを持ち、もう片方の腕にもたれて横たわる女性が歪曲されて描かれる。また、画面の随所に、ピカソの本領である挑戦的な表現が見られる。意図的に輪郭線と色面がずらして描かれたり、絵の具を擦り付けることにより、故意に下地を見せたり、さらに藤色や黄土色、ターコイズと深紅といった、捕食に近い色味を並置するという色彩の冒険にも挑んでいる。(解説書より抜粋、一部修正)

<アメデオ・モデイリアーニ>1884-1920
  1906年に美術を学ぶためにイタリアからパリに来て、モンマルトルに住んだ。初めは彫刻家を目指したが、後に絵画に専念した。ポール・ギョームはモデイリアーニが1920年に早世するまで、その作品を数多く購入した。(解説書より抜粋)

・新しき水先案内人ポール・ギョームの肖像 1915年
  モデイリアーニは1914年にポール・ギョームに出会った。当時ギョームは、23歳で画廊経営を始めたばかりであったが、まだ無名のこの画家のために、モンマルトルの「選択船」にアトリエを借りた。1915年から翌年にかけて二人は親密に交流し、モデイリアーニはこの若きパトロンの姿を4点の肖像画に描き留めた。(解説書より抜粋)

<キース・ヴァン・ドンゲン>1877-1968
  キース・ヴァン・ドンゲンはオランダで生まれ、子どもの時から絵を描いていた。1897年に初めてパリを訪れ、以降何年もモンマルトルで貧しい生活を送った。その間、雑誌や週刊誌の出版に協力し、戯画的な素描によって知られることになる。1904年頃からヴラマンクやマテイスとともに色鮮やかな作品を発表し、「フォーヴ(野獣)」はと呼ばれた。1920年代から30年代にはパリの社交界を象徴する肖像画家として絶頂期を迎え、富と名声を得た。1922年にはレジオン・ド・ヌール勲章を授けられた。(解説書より)

・ポール・ギョームの肖像 1930年頃
  ポール・ギョームは1918年に、ドンゲンの最新作25点による古典を開催した。本作はその古典からおよそ12年後、ギョームは画商として、またヴァン・ドンゲンは画家としてそれぞれ名声を得た頃に描かれた。 ギョームの胸には、レジオン・ド・ヌール勲章の赤いリボンが見える。(解説書より抜粋)

<アンドレ・ドラン>1880-1954
  フォーヴ(野獣)派の一人。ポール・ギョームとは、長年にわたり強い結びつきを持った。

・ポール・ギョームの肖像 1919年
  ギョームは多くの画家に自分の肖像画を描かせた。本作では、右手に煙草を、左手に本を開く姿が描かれる。スーツや蝶ネクタイと瞳は、ギョームが最も好んだ青色で統一される。寒色系の色調により、ギョームの威風堂々とした冷静な様子が演出されているようだ。(解説書より抜粋)

・台所のテーブル 1922-1925年頃
  フライパンを中心として、その周りに配置されたグリルやバゲットと木製のスプーンは十字架を暗示しており、個々の道具の配置や形体、色味の決定における画家の綿密な計算をうかがわせる。また、画面右側から差し込む強い光は、ありふれた道具にドラマチックな演出を加えている。(解説書より抜粋)

・アルルカンとピエロ 1924年頃
  本作では、イタリアの仮面演劇コメデイア・デラルテの登場人物が主題とされる。多色格子模様の服に三日月形の帽子を被るアルルカンと、ひだ模様の白い寛衣に黒い縁なし帽を被るピエロである。16世紀以降、こうした曲芸師の主題は、セザンヌやルノワール、ピカソなど多くの画家により繰り返し取り上げられてきた。
  片膝を上げてギターを演奏する彼らは、永遠に同じダンスを繰り返すマリオネットのようだ。楽しげなダンスや音楽のイメージとは対照的に、彼らは互いに目を合わさず真面目な表情を浮かべており、哀愁が漂う。(解説書より抜粋)

・大きな帽子を被るポール・ギョーム夫人の肖像 1928-1929年頃  
  モデルは、ポール・ギョームの妻であり、後に建築家のジャン・ヴァルテルと再婚したジュリエット・ラカーズ(通称ドメニカ)である。大きなつばのある帽子に豊かな襞のストールを見に着け、エレガントな装いだ。背景の赤いカーテンもまた、裕福な住まいを暗示する。
  整えられた眉や白いハイライトで強調された瞳からは、社交に長けた彼女の一面とともに、強い意志や傲慢な性格も感じられる。彼女は、ポール・ギョームが亡くなった後、地位と財産を守るため、手段を選ばずに夫や愛人を操って、数々のスキャンダルを巻き起こした。画家は本作において、晩年になるにつれて明らかになった彼女の本性を描き出すことに成功している。(解説書より)

・黒い背景のバラ 1932年
  漆黒の背景と花瓶によって、鮮やかな花と葉の存在感が際立っている。花瓶が画面の垂直軸に、また花束が画面のほぼ中心部から放射線状に配されることで、堅牢な構図となっている。一方、花を描く軽やかな筆致が、画面に躍動感をもたらす。画面下部に添えられた、一輪の花が浮かぶ透過性の高いガラスのボウルの存在や、光の反射を示す花瓶の白いハイライトも効果的だ。(解説書より)

<モーリス・ユトリロ>1883-1955
  モーリス・ユトリロは、パリのモンマルトル地区に生まれた。父親は不明であり、母親はモデルであり画家でもあったシュザンヌ・ヴァラドンである。若くして患ったアルコール中毒を紛らわすために絵を描き始めたが、絵に喜びを見出して絵を描き続けた。モンマルトル地区を主題にして何百もの絵画を手がけた。クリニャンクール教会のように、インスピレーションを与えてくれる通りや記念物をなんども繰り返し描いた。(解説書より抜粋)

・クリニャンクールの教会 1913-1915年
  灰色の空と紅葉した樹木によって、秋の風景であることが示唆される。わずかに人物のシルエットが描きこまれていることでひとの気配が感じられるものの、寒色を基調とした画面には寂寥感が溢れている。(解説書より抜粋)

<シャイム・スーテイン>1893-1943年
  リトアニア育ちのフランス人画家シャイム・スーテインは、エコール・ド・パリの代表画家の一人である。彼はグラジオラスや家禽、接客する店員や聖歌隊の子どもたちを次々に描いた。彼が描く人物像はメランコリックで、風刺のように誇張された特徴を持ち、その身体は激しく歪曲され、鮮やかな色彩のコントラストの衣服を着ている。静物画では殺された動物や川を剥がれた動物の骨格が好んで描かれた。(解説書より)
  
・小さな菓子職人 1922-1923年
  モデルの顔は長く引き伸ばされ、細く華奢な首が白い仕事着からのぞいている。あどけなさが残る顏、大きな耳、肩を張って強張った姿勢から、この少年の人間性を読み取ることができるだろう。手に持った色鮮やかな紅い布は、グレーや緑によって陰影を入れられた白い衣服とコントラストを生んでいる。
  画家を発見したギョームは、手に入れたスーテインの菓子職人を描いた絵について、自身が創刊した「パリの芸術」で絶賛している。そして、ギョームの画廊でこの作品を目にしたアメリカ人美術収集家のアルバート・バーンズが、スーテインの作品を大量に買い上げることとなり、画家の生活は一変した。(解説書より抜粋)

posted by ぼたん園々主 at 14:38| Comment(0) | 日記

2019年12月21日

Vincent van Gogh 展

  令和元年12月21日(土)16:30。窓からは、今にも冷たい雨が降ってきそうな黒灰色の空と、ゴルフ場の照明灯が枯草色の芝生を煌々と照らしているのが見える。今日は、朝から8℃前後の気温が続いていて、これから夜にかけて冷え込み、最低気温は3℃の見込みだ。明日は雨の予報で、山沿いでは雪が降るとの予想だ。

  昨日は、午前中に上野の森美術館で開催されている「ゴッホ展」を見てきた。10月11日(金)から来年1月13日(月)まで上野の森美術館で開催され、来年1月25日から3月29日までは兵庫県立美術館(神戸市)に巡回開催されることになっている。
  今年の2月1日(金)、すなはち平成31年2月1日には、同じ上野の森美術館にて開催された「フェルメール展」を見に行っているので、今年は「フェルメール」と「ゴッホ」を同じ美術館で続けて見ることになった。

  午前10時に家を出て、11時半ごろに美術館に着く。「フェルメール」のときのように並ぶこともなく、スムーズに入場券を購入して、館内に入ることができた。ところが、館内は「フェルメール」ほどではないにしても結構混んでいて、やはり人ごみの後ろから絵を見るか、のろのろと人の流れに従ってゆっくりしか進めない。

  この日は、午後2時半までには新百合ヶ丘駅に戻らなければならない約束があるため、途中からは「ハーグ派」と「印象派」のゴッホ以外の作品はサッと見る程度にして、最後の部屋に集中して展示されているゴッホの作品を重点的に見ることにした。

  フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜90年)は、37年の短い生涯のうち、画家として活動したのは27歳からのわずか10年に過ぎない。しかし、その10年のあいだに約850点もの油彩画と、素描(デッサン)約1000点を残している。

  今回の「ゴッホ展」では、傑作「糸杉」、「薔薇」をはじめ、初期から晩年まで、世界10か国27か所から重要作品約40点が集結され、ゴッホの画風に大きな影響を与えたオランダのハーグ派とフランスの印象派を代表する画家の作品約30点とともに展示される。

  僕は、これまでゴッホの作品は「ひまわり」しか見たことがない。「ひまわり」は、1987年(昭和62年)に当時の安田火災(現損保ジャパン日本興亜)が53億円で購入し、新宿本社の42階にあった「東郷青児美術館」に展示された。当時、僕は同じビルの32階に勤務していたので、その頃に何回か見に行く機会があった。

  そのときは、ゴッホについてほとんど知識もなく、「これが53億円か」と思った程度で、それほど感動した記憶はない。でも、今回は素直に「いいな!」と思った。なによりも、一途な気持ちがそのままストレートに伝わってくるところが、いいなと思う。一人の男がその不器用で一途な性格の故、社会には馴染めずたったひとつ残された「画家として生きる」ことに己の生命をかけ、凄まじいまでの執念をその作品の中に残している。それが見る者に伝わってくる。

  それと同時に、できればこれから自分も絵を描いてみたいなと思った。これほどに、ひとつのことに没頭できることが羨ましいと思った。これからの自分に、そのような機会があるのかどうか分からないけれど、永年の夢でもある、チェロを弾くことと、絵を描くことがこれから先の時間にあればいいなと強く思った。

  今回の「ゴッホ展」の意味については、作品を出品し監修もしているオランダ・ハーグ美術館のベンノ・テンペル館長の寄稿から抜粋しておく。

  「本展覧会と図録は、ファン・ゴッホが画家として歩み始めてから亡くなるまでの人生、すなわち画家としてのキャリアを開始したオランダに始まり、パリ時代、アルル時代、そしてサン=レミ時代を経て、亡くなるまでを過ごしたオーヴェール=シュル=オワーズまでの最期の時期までを辿る。同時に、彼に影響を与えた画家たちの作品を通して、ファン・ゴッホの成長にも焦点を当てる。ファン・ゴッホに影響を与えたのは、ハーグ派とフランス印象派の画家たちであるが、とりわけ彼の成長におけるハーグ派の重要性は、世間にはほとんど知られていない。ファン・ゴッホと他の画家たちの作品から約70点が精選され、彼の人生と画業について物語ってくれる。中略
  本展では、ファン・ゴッホがハーグ派の影響を受けていた初期の時代から、フランス印象派に魅了され画家として成熟するまでの軌跡を辿る。彼はクロード・モネやカミーユ・ピサロをはじめとする印象派画家の作品から色彩がもつ表現の可能性を学び、ハーグ派特有の色調からの移行を果たした。そして最終的に、彼ははっきりとした輪郭線と大胆な色遣いを特徴とする日本の浮世絵から受けた影響を、印象派や新印象派の技法と融合させてゆく。」

  帰りに、以下の2冊の本を買い求めた。
  1.「ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家」 圀府寺 司(こでら つかさ) 角川ソフィア文庫
  2.「Vincent van Gogh」 産経新聞社発行

ハーグ派の画家たちとの出会い
  ハーグ派は、19世紀後半にオランダの都市ハーグを拠点に活動した画家たちのグループを指す。17世紀オランダ絵画の黄金時代より続くレアリスムの流れに属し、街の周辺に広がる田園地帯や海岸に出向いては風景画を描いた。豊かな自然とそこで営まれる素朴な暮らしを詩情豊かにとらえた彼らの作品は、画廊勤務時代からファン・ゴッホを強く魅了していた。
  グループは1870年代に最盛期を迎え、ヤコブ、マテイス、ウイレムのマリス三兄弟やマウフェ、ウエイセンブルフらが中心になり、ファン・ラッパルトら若い世代がそれに続いた。ファン・ゴッホはハーグを訪れると画家たちに教えを請い、ともにスケッチに出かけ、また芸術について熱い議論を交わした。彼らとの交流は1885年頃までにほぼ途絶えてしまうが、この時期に教わった画材の扱い方や目の前のモテイーフをひたむきに観察する姿勢は、画家としての土台を形作ることになった。(2.「Vincent van Gogh」 産経新聞社発行より)

ハーグ派の画家たち
<ヤン・ヘンドリック・ウエイセンブルフ>
・黄褐色の帆の船ca.1875
 今回のゴッホ展で、初めてオランダ・ハーグ派の画家たちについて知ったが、どれも素晴らしい絵だと思った。特にこの絵は、上空に流れる雲の合間から降ってくる光が、悠然と流れる川面とそこに浮かぶ船に映える様子が、なんとも暖かい気持ちにさせてくれる。

<ヨゼフ・イスラエルス>
・縫い物をする若い女ca.1880
 質素な造りの薄暗い室内で、窓から差し込む光のもと、まだ初々しい若い女性が黙々と針を運んでいる。縫い物は自身の嫁入り支度なのかもしれない。実物を見て感じたことは、フェルメールやルノワールの描いた少女やあのイレーヌよりも、もしかしたらもっと精神的に深いものを感じたのかもしれない。

<アントン・マウフェ>
・雪の中の羊飼いと羊の群れ1887-88
 マウフェ最晩年の作品。寒々とした雪の中に固まって群れる羊と一人の羊飼い、そして遠くに小さく群れ飛ぶカラス。寒さがひしひしと伝わってくる。

・収穫Undated
 一面の枯野で腰を曲げて枯草を刈る農夫と、傍らで腰を屈めて刈った草を集める妻、遠くに協会の尖塔と街並みが小さく見える。僕には理想の夫婦に見える。
 ゴッホは弟テオとその妻ハンナへの手紙に、マウフェはいつも「自然は良い、人々が感じているよりも遥かに良いものだ」と言っていた。と書いている。

<マテイス・マリス>
・出会い(仔ヤギ)ca.1865-66
 若い母親がまだ一人歩きできない幼児を支え、子どもは飼い葉を恐る恐る仔ヤギに差し出している。子どもの目線と同じに、低く対象に接近した視点で描かれており、見る者もまるで自分がすぐ近くでこの場面に立ち会っているような親密な感覚を覚える。(2.の解説より)
 農家の庭先の明るい陽射しのもと、くっきりとした光と影の中に微笑ましい場面が描かれ、どこか懐かしい既視感がある。

<ベルナデユス・ブロンメルス>
・室内1872
 農家の暗い粗末な室内であろう、小さなテーブルを挟んで夫が赤ん坊を抱え、妻がテーブルの上の茶碗にお茶を注ごうとしている。大きな窓からは光が差し込んでいるが、テーブルの上には二人の茶碗と赤ん坊に食べさせているジャガイモ?のかけらしかない。暗い室内には家具らしきものは何もない。
 これから農作業にかかる前なのか、あるいは農作業の合間の休憩なのかは分からないが、いつかどこかで確かに見たことのある光景である。

<オランダ時代のフィンセント・ファン・ゴッホ> 
・疲れ果てて Etten,September-October 1881
 炉辺の椅子に座る病気の老人で、膝に肘をついてうなだれるように頭を抱えている。質素な衣服や生活用品がその境遇を物語るようだ。

・永遠の入り口にて 1882
 同じく、炉辺の椅子に座り、両手の拳で顔を覆うようにしている老人。人生の苦悩や悲哀が老人の身体全体から滲み出ているようだ。

・ジャガイモの皮を剥くシーン 1883
 1882年1月からハーグで暮らし始めたゴッホは、クラシナ・マリア・ホールニク、通称シーンまたはクリステインという子連れの娼婦と出会い、同棲するようになる。当時シーンは30過ぎで、未婚ながらすでに3人の子供を出産し、うち2人を生後間もなく亡くしている。ひとり生き残った5歳になる女の子を養い、さらに4人目の子を身ごもっていた。ゴッホは二人を自分の家に住まわせ、弟テオからの仕送りを分け与えることになる。
 ゴッホはこの年に、彼女をモデルにして「悲しみ(Sorrow)」と題したデッサンを描いている。

・ジャガイモを食べる人々Nuenen,April-May 1885
 小さなランプの光でジャガイモを食べているこの家族が、皿に手を伸ばしているその手で自分たちの土地を耕したということ、つまりそれは「手の労働」であり、彼らがいかに自らの食糧を誠実に得たのかということを、僕はどうしても示したかった。いずれこれが「真の農民の絵」だと言われることになるだろう。僕にはわかっている。
 もし、農民の絵にベーコンや、煙やジャガイモの湯気のにおいがしたら申し分ない。それは不健全じゃない。厩にこやしのにおいがしたら、結構、それこそ厩らしい。畑に熟れた麦やジャガイモや堆肥やこやしのにおいがしたら、それこそ健全だ。だが、「何てきたない絵だ」と言われるかもしれない。その心づもりでいてくれ。ぼくもその心づもりでいる。それでも「真実なもの、正直なもの」を表現しつづけるだけだ。
 ふたたび両親の住む、田舎町ニューネンに戻ったゴッホは、弟テオや妹ウイルへの手紙にこう書いている。

・器と洋梨のある静物Nuenen,1885
 この絵は、写真で見るよりも実物のほうがずっといい。土の匂いがする。樹からもいできた感がする。

・鳥の巣のある静物Nuenen,Octover 1885
 暗い画面は、目を凝らさないとちょっと何が描いてあるのかわからない。よく目を凝らして見ると徐々に自然の芸術作品が見えてくる。

パリでの印象派の画家達との出会い
 1886年2月末、ファン・ゴッホは突然パリに出てきた。到着した後で急な来訪を謝罪する走り書きをテオに送っていることから、やや衝動的な行動だったようだ。モンマルトルのラヴァル通りにある弟の部屋に転がり込むと、さっそく「パリの屋根」や「ブリュット=ファンの風車」のように周囲の風景を描きとめている。ファン・ゴッホは、約2年のパリ滞在中に大きな出会いをいくつも果たした。
 孤高の画家モンテイセリ、日本の浮世絵、タンギーやタッセといった画材屋、そして印象派の画家たち。印象派についてはすでにテオから手紙で知らされていたが、ファン・ゴッホはどちらかと言えば懐疑的なままだった。しかし、パリで初めて目にした彼らの作品は大きな衝撃となり、後に明るい色調の作品を描き始めることになる。1886年の間はこれまでのように茶やグレーを基調にした写実的な作品を手がけていたが、一方で「花瓶の花」のように、いくつもの異なる原色の間に調和をとろうと色彩研究を行っていた。(2.解説より)

印象派の画家たち
<アドルフ・モンテイセリ>
・庭園の宴Undated
 この他にも、「陶器壺の花」「ガナゴビーの岩の上の樹木」「猫と貴婦人(猫の食事)」が展示されていたようだが、僕は混んでいたので見ずに飛ばしてしまった。

<カミーユ・ピサロ>
・ライ麦畑、グラット=コックの丘、ポントワーズ

<パリ時代のヴィンセント・ファン・ゴッホ>
・タンギー爺さんの肖像Paris,January 1887
 モンマルトルのテオとゴッホの住まいの近くにタンギーの画材店はあった。店主のタンギーは売れない画家たちの面倒をよく看ていて、「タンギー爺さん」として彼らから慕われていた。

<南仏アルル時代のヴィンセント・ファン・ゴッホ>
・麦畑とポピーArles,1888
 この絵も、写真でみるより実物のほうがずっといい。色彩が生き生きと見える。色彩の躍動感は写真では伝わってこない。アルルの空はオホーツクの空を連想させる。

・麦畑Arles,June 1888
 この絵を見ていると、北海道の大空町の麦畑やひまわり畑にいるような気持ちになる。オホーツクの透明な空気の中を青い空から降り注いでくる太陽の光と、あらゆる植物と土の匂いと、あらゆる昆虫のざわめきが聞こえてくる。麦畑やひまわり畑の中を走り回っていた北見のこどものころが蘇ってくる。

<サン・レミ療養院時代のゴッホ>
・糸杉Saint Remy,June 1889
 緑の炎が燃え上がり、うねりながら天を目指して登っていくような糸杉である。1889年5月にサン=レミの療養院に入院してから2か月程後に描かれた絵である。

・薔薇Saint Remy,May 1890
 翌年の1890年、サン=レミの療養院を退院する前には体調が安定し、多くの作品を描いている。花の静物画も複数描いている。その中のひとつ。

<終焉の地、パリ郊外オーヴェール・シュル・オワーズでのヴィンセント・ファン・ゴッホ>
・ガシェ博士の肖像 1890

・オーヴェールの教会 1890

・鴉の群れ飛ぶ麦畑 1890

  これらの作品は、今回の展覧会には含まれてはいないが、ゴッホ最晩年の作品である。この年の7月27日には、ファン・ゴッホは腹部に銃弾をかかえたまま帰宅した。翌日、パリから弟テオがかけつけたが、医師も銃弾を取り除くことはできず、29日息をひきとる。享年37歳。自ら銃弾を打ったのか否かは現在も分かっていない。 
   
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2019年11月10日

原節子賛歌

  「原節子の真実 石井妙子」(新潮文庫)を読んだ。

  孫に読ませたい子ども向けの本を買いに若葉台のコーチャンフォーに行った。何気なく文庫本の書棚に目を走らせていたときに、何故かこの本に目が止まった。

<原節子の真実 石井妙子著 新潮文庫>
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  今までに、僕は小津安二郎の「東京物語」と「晩春」以外の原節子は知らないし、そのときの印象は古い映画(「東京物語」は昭和28年(1953年)、「晩春」は昭和24年(1949年))にもかかわらず、他の日本の女優とは一線を画する、理知的な雰囲気が印象に残っている。

  特に、「東京物語」では他の出演者と比べてさして出番が多い訳ではないが、最も印象に残っているシーンが、実の子どもたちが尾道から会いにきた笠智衆、東山千栄子が演じる老夫婦を忙しさにかまけて、ないがしろにするにもかかわらず、ただ一人心から歓待したのは、戦死した次男の嫁であり、血の繋がらない原節子演じる紀子であった。舅は紀子に「いい人がいたら再婚したほうがいい」と勧め、紀子がそれを聞いて泣き崩れるシーンである。

  それともうひとつ、紀子の将来を案じる笠智衆の舅に対して紀子が、「私、ずるいんです」と告白するシーンである。亡き夫のことを、しばしば忘れている、そして自分に何かが起こらないかと期待している自分がいる、と告白するのである。

  このシーンは、いま思い出しても笠智衆と原節子の取り合わせでなくてはならないと思わせる。他の俳優では成立しないシーンである。

  平成27年11月26日、原節子死去のニュースを新聞で読んだ。産経新聞によると、25日に死去が判明した鎌倉市内の自宅前には、前夜に続き26日も報道陣が集まったが、時折、リスも見かけるような閑静な住宅街で、50年以上前に女優引退後は表舞台から姿を消したのと同様に、自宅前はひっそりとしたまま、と報じた。

  同日、海外の主要メデイアも大きく取り上げ、伝説の大女優を悼んだ。そのなかでも、ドイツ紙ウエルト電子版が「節子は日本人に対しては西洋的な美を、西洋人には理想の日本人女性を体現した」とたたえたことが、僕には特に印象に残った。

  同じ敷地内の別棟に住む甥(75歳)によると、8月に暑さのため体調を崩して入院、診断は肺炎だった。その後、9月5日に親族5人に看取られて息を引き取った。本人の意向で公表していなかった、とのこと。

  甥によると、10年以上前に入院したことはあったが、その後は元気で料理や洗濯も自分でし、元気で暮らしていた。本や新聞をよく読み、頭はしっかりしていたという。近所付き合いはなく、時折、親族が訪ねてくる程度で、映画館などにも一度も出かけたことはなかった。テレビで放送される映画などはたまに見ていたという。

  80代の頃は散歩にも出かけ、甥の運転する車で外出もしていたが、90歳を超えてから足が弱くなり、庭を散歩する程度で外出しなくなったという。ただ、「本人は100歳まで生きるつもりだった」と甥は話す。

  近所に住む男性(76歳)によると、原さんが家の生け垣の手入れや落葉の掃除をする姿はよく見かけていたといい、「時々は買い物袋を下げて歩いているのも見かけ、挨拶を交わしていた」という。だが、5年くらい前からはあまり姿を見かけることもなくなったという。
  
  彼女の写真を見ると、内面の美しさが気品として溢れている。写真でさえそうなのだから、実物はさぞかし、その立居振舞を含めて美しい女性だったろうと思う。

  一人の人間を見るときに、その人間の生き様が全てを物語る。

  この評伝を読んで、彼女が会田昌江として大正9年(1920年)に生まれてから14歳で女優となり、女優、原節子としてそれからの28年間の女優人生で、120本の作品に出演し、昭和37年(1962年)、42歳で突然、理由も告げずに銀幕から、そして世間からも消えてしまう。そして、それ以来、姿を隠し沈黙を守り続けたこと、その間、彼女が勁(つよ)い女優として、また勁い女性として最期まで生き切ったことを知った。

  会田昌江は大正6年(1920年)6月17日に東海道線の保土ヶ谷駅に近い会田家で、二男五女の五女として生まれた。昌江が映画界に入るきっかけを作ったのも、映画界から身を引いた後も世間から彼女を守ったのも兄と姉たちとその子供であった。

  母親が大正12年(1923年)の関東大震災で負傷し、その結果心身を病むことになったり、昭和4年(1929年)のアメリカに端を発した大恐慌の影響を受けて父親の稼業である生糸の輸出も大きな打撃を受けるなど、昌江の小学校、女学校時代は経済的には恵まれない、というより困窮していた時代を過ごしている。

  小さいころから本が好きで成績も優秀だった美少女が、家庭の経済事情により女学校を中退して意図しない映画女優となり、当時はまだ世間的には評価の低かった映画業界の真っただ中で、健気にも生き抜いていくことになる。
  
  その後、原節子16歳のときに偶然にも、当時の世界情勢を反映して、表向きは映画史上初の「日独合作映画」を作るという名目で、実際にはナチスが出資して日独軍事協定締結を促進するためにドイツ人を納得させるために作られる国策映画「新しき土」(外国では「侍の娘」)の主演女優に抜擢されてしまう。

  これ以降は、いい意味でも、悪い意味でも、美人女優として、当時の映画界と時代の荒波に乗り出して行くことになる。

  原節子に対する評価は、国内外の名匠たちの言葉を借りると、次のようになる。

  山中貞雄(作品名「河内山宗俊」)
    「この役柄に欲しいのは清純そのもの、女学生のような女優」
    「女優にはあんな子は珍しい。素直で、無口で、あどけなくっ
    て・・・一口に云えば、まだ全然子供なんだ。悪く女優ズレし
    たところが一つもない。清楚で、如何にも純真って感じだ」

  アーノルド・ファンク(ドイツ人、作品名「新しき土地」(海外では「侍
  の娘」))
    「いいですか。わざわざ、ドイツの映画監督を用いて、ヨーロッパで
    受けるような映画を作ろうとしているのですよね。だとしたら私の目
    を信じてほしい。彼女こそ、ヨーロッパにおいて日本を代表する女優
    にふさわしい美しさ持っているのです」

  島津保次郎(作品名「光と影」、「緑の大地」、「母の地図」など)
    「節子さんの性格は、女優に珍しい程地味なので、撮影所の中でとき
    どき、人づきあいが悪いなどと言われますが、私がつきあった限りで
    は、別にそんな風にも思えません。無口な人ですから、そう思われる
    のかも知れませんが、変に馴れ馴れしくされる薄気味悪さより、この
    方がずっと私にはつき合い良く思われます」
    「この人が巧くなったら素晴らしいだろうな、と。すると急に、この
    人を大成させるのは自分の義務であるような気がしてきます。聊か思
    い上がった気持ちですが、これもインスピレーションの一種でありま
    しょうか」

  黒沢明(各品名「わが青春に悔いなし」)
    「原節子の美しさは、幾ら讃めすぎても讃めたりない。こういう女が
    吾々の種族のあいだから生まれて来たことが、すでに吾々にとって不
    思議である。奇跡の感を与える」

  吉村公三郎(「安城家の舞踏会」など)
    「こんな立派な顔をした女優が日本にもいたものか」

  新藤兼人(当時、吉村の助監督)
    「原さんはまるでライオンのように見えた。素晴らしい美貌で、王者
    の風格があった。セットで椅子にひとり腰かけていると誰も近づけな
    かった」

  石坂洋二郎(「青い山脈」原作者)
    「原さんの風格ある美しさは日本映画の貴重な財産だと思う。
    (中略)大ていのスタアと云われる女優さんの美しさの中には、どこ
    かミーチャンハーチャンが好む卑俗さが潜んでいるものだが、原さん
    にはその卑俗さが全然感じられない。だからこの美しさは映画の内容
    によってはむしろ邪魔になる美しさなのかも分からない。だが、これ
    からの日本映画は、この原さんのもっている美しさが邪魔にならず、
    むしろ生かして使うような方向へ進んで行くべきではないだろうか」

  小津安二郎(「晩春」、「麦秋」、「東京物語」など)
    「原君を一言にして批評してみると、第一に素晴らしく、”感”のいい
    人だということであり、”素直”であることだ。このことはお世辞では
    なく僕ははっきり言い切れる。
     ”晩春”のシナリオも勿論、紀子の役は、最初から原君を予定して書
    いた。原君自身はあまり乗っていない様だが、僕は彼女を立派に生か
    して見せる自信のもとに仕事を続けている」
     「原節子のよさは内面的な深さのある演技で脚本に提示された役柄
    の理解力と勘は驚くほど鋭敏です、演技指導の場合も、こっちの気持
    ちをすぐ受け取ってくれ、すばらしい演技で回答を与えてくれます。
    (中略)演出家の中には彼女の個性をつかみそこね大根だの、何だの
    と言う人もいますが、その人にないものを求めること自体間違ってい
    るのです」

  原節子は戦後間もなくアメリカ映画「カサブランカ」を観て、イングリット・バーグマンに夢中になる。それ以来、イングリット・バーグマンに憧れ、バーグマンのような演技者になり、バーグマンのような役どころを演じたいと切望するようになった。また、バーグマンが結婚して子どもを得たうえで女優を続けられるのは、アメリカ社会が成熟しているからで、日本では望めないことだと語っている。28歳のときである。

  バーグマンは決して人形のように美しいだけではない。陰影のある豊かな表情は、内面からにじみ出るものだと節子は思った。そして、バーグマンの演技を盗み学ぼうとした。以下のようなエッセイを「映画グラフ」昭和23年8月号)に書き残している。

  「バーグマンさま。あなたの演技の持つ幅の広さ、その深さは、同じおしごとにたずさわるほどの者なら、誰しも深く羨望するものであると存じますけれど、わたくしの最もうたれます点は、あなたの表現なさる人間性のなまなましさ、強烈さなのでございます。わたくしは最近に出演いたしました数本のわたくしの映画で、どうにかしてその女主人公の持っている女らしさ、人間らしさを、生のままで、そして強く、またあなたのそれのように洗練されたかたちで表現したいと努力いたしております。そして、いつもあなたの身のまわりにただよっている一種の温かい雰囲気とかかぐわしい匂いのようなもの、そんなものをも、わたくしは身につけたいと、欲深く願っているのでございます」

  彼女は、これまで小津を含めて、出演してきた作品に決して満足していなかった。「カサブランカ」のバーグマンのように、美しいだけでなく、自我があり、自分で人生を切り開いていくヒロインを演じたいと思い続けている。戦前から、ことあるごとに「意志の強い女性を演じたい」と語ってきたが、そういった役は巡ってこなかった。という以前に、女の「自我」が日本映画に描かれること自体が稀だった。日本社会のなかでそのような女性が好ましく思われていない、現実として存在していない、ということでもあった。

  昭和27年、32歳になった節子は、日本史のなかにそうした人物を探して細川ガラシアならばと考えたのだろう、この後、引退の間際まで、「明智光秀の娘で、気性の強い勝気な夫人、細川ガラシアを演じたい」と言い続けるが、結局実現することはなかった。

  この頃から、節子は長年続けてきた徹夜の多い不規則な仕事や、戦中戦後の食糧不足による栄養失調のせいか、一家を養うために無理を重ねたせいであろう、腸を切除する手術を受けて体調不良を理由に1年近く映画には出演せず、自宅で静養している。この後も、活躍した年の翌年は体調不良で休養を取ることが、ひとつのパターンとなっていく。

  昭和28年には、節子の義兄となる、二番目の姉、光代の夫、映画監督の熊谷久虎の「白魚」に出演中、撮影現場での鉄道事故でキャメラマンとして参加していた二番目の実兄、会田吉男を失う。吉男は節子とは6歳違いで、年も近く、仲がよかった。映画界に入ったのも二人一緒であった。

  翌、昭和29年1月には、突然左眼の視力が衰え、ものが見えなくなる。白内障である。このとき節子は33歳。本来なら白内障を患うような年齢ではない。これも、戦後、食糧事情がわるいなかで無理を重ねたせいか、それともアップを望まれることが多い、美貌の女優の宿命として、至近距離からライトを浴び続けた結果なのか。節子は、アップを撮られる時には、どんなに眼が乾いて辛くとも、まばたきをしない訓練を日頃から積んでいた。他の女優に比べて眼が大きいので、まばたきをすると目立ち過ぎてしまうことを的確に認識していた。医者からは、このまま放置すれば失明すると言われる。最大の魅力と言われる大きな眼にメスを入れるのだ。

  このとき、節子の頭をよぎったのは、引退の2文字であったという。しかし、今はまだ女優をやめるわけにはいかない。やめて暮らしていけるだけの蓄えがなかった。
  彼女には、シベリア抑留中に亡くなった長兄の家族、撮影中に事故死した次兄には遺された妻(実姉)とこども、戦争で銀行員の夫を失った三姉の家族、の生活がその肩にかかっていた。
  そして、何よりも、自分の代表作への未練があった。自分にはまだ納得できる代表作がない。せめて、自分の演じたい役を思いきり演じ、これが自分だというものを残して去りたい、という思いである。
  
  結局、様子を見続けて11月に手術を受ける。幸いにして、手術は無事成功した。

  明けて昭和31年、節子は将来を考えたのだろう、すでに東京都の狛江市に自宅を取得していたにも拘わらず、この頃から少しづつ土地や株を買うようになる。同時に、納得のいく代表作を得て映画界に生きた証を残そうともしている。「細川ガラシア」にこだわり続けたのである。

  もともと節子は質素な暮らしを好んだ。ぜいたくな着物や宝石類にはまったく興味がなく、高価な調度品も嫌った。外食はほとんどせず、食べ物に凝ることもなかった。撮影所ではよく畳鰯を無二の親友だった結髪師と結髪部屋のストーブであぶって食べた。ぜいたくを慎んで手にした金で昭和33年には狛江の自宅周辺の土地を買い増している。そのほか東京都内、あるいは神奈川県下にも少しずつ土地を購入している。

  そして、昭和37年(1962年)11月に公開された、東宝が創立30周年記念映画として、オールスターキャストで挑んだ大作「忠臣蔵」に東宝のトップ女優として松本幸四郎演じる大石蔵助の妻「りく」を演じた。
  登場シーンは長くはないが、八代目幸四郎に一歩も引けを取らない、格調高い演技であった。
  これを最後に、二度とスクリーンに戻ることはなかった。節子42歳のときである。

  この評伝を読んで、最初に思ったことは人間は、その人がいつも心のなかで思ったり、考えているとおりの人間になる、ということです。原節子(会田昌江)の美しさは、彼女の心の美しさそのものだったのだと思う。彼女の気品も、やさしさも、強さも、すべては彼女の心の有りようを映しているものだと思う。だからこそ、それらが、彼女の生き様となって一生を貫いているのだと思う。

  そして、彼女の一生を貫いているものの大きな柱の一つが、家族に対する想いのような気がする。年配の両親のもと、兄2人、姉3人に囲まれて大事に育てられた彼女が、12歳のときに発生した大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で不幸にして母親が大やけどを負い、その結果、母親は心身を病むことになる。

  評伝では、こう書かれている。

  病んだ母親に代わって少女の世話を焼いたのは姉たちだった。遠足に行くと言えば、夜を徹して自分の服を解き、昌江の服に仕立ててくれた。朝早くから台所に立ち、弁当も作ってくれた。
  「母は病弱でした。ですから、私は姉の手で育てられたようなものです」
  昌江は後年、たびたびそう語っている。
  彼女は生涯、姉や兄たちをひたすら想い、幼き日に与えられた恩に報いようとした。

  特に、義兄夫婦(熊谷久虎夫妻)に対する信頼は終生、揺らぐことがなかった。次姉光代とその夫である熊谷久虎は、ふたりとも当時、日活で光代は脚本家を目指し、熊谷は監督になったばかりであった。そもそも、この二人によって昌江は映画界に入ることになるが、熊谷は、節子のお目付け役として節子を守る役割も果たすことになる。

  評伝を読み進むに従い、節子が売れっ子女優になるにつれて立場が逆転して、むしろ、節子が熊谷を立てようとして自分の出演映画の監督に推したりして、逆にその企画が流れてしまったり、節子が20歳前後の頃には、相思相愛になり結婚を強く望んだ男性を熊谷が東宝から追放するという事件もあった。
  
  評伝ではこう書かれている。

  節子に近づこうとする男を熊谷はゆるさなかった。熊谷によって節子の恋愛の機会は、ことごとく摘み取られていた。そして、こうした熊谷の過保護で専横な振る舞いは、やがてひとつの疑惑を生んだ。
  「熊谷自身が、義妹の節子に恋慕しているのではないか」
  すでに洋行(「新しき土」のドイツ特別試写会)の頃から、ふたりの仲を怪しむ声は映画界に上がっていた。映画人は口さがない。当然、節子の耳にも、こうした噂は入ったことだろう。義兄は、いろいろな面で節子の障害となっていたようである。

  だが、それでも節子は、義兄夫婦のもとから離れようとはしなかった。駆け落ちをするような無責任さを節子は持ち合わせていなかった。両親や長姉といった養うべき家族もいた。節子は清島(恋人)の一件から、うかつに恋をしてはならないと、どこまでも義兄ではなく自分を責めたのではないだろうか。

  清島の一件とは、節子が二十歳前後のころ彼女にとって一生に一度の熱烈な恋をしたことが、映画関係者の間で密かに語り継がれていることである。相手は、東宝の同僚で、脚本を書きながら助監督をしていた青年で、名は清島長利といい当時は全く無名で、地位もなく目立たない存在であったようだ。

  当時、既に大スターであった節子が清島の地味だが誠実な人柄に惹かれたということは、彼女が男を見るのに外形ではなく、内面を、人間の本質を見抜く眼を持っていたことの証左と僕は捉えたいと思う。

  僕が、最も感銘を受けるのは、節子が出演を断り、銀幕から姿を消してからの彼女の生き方である。

  東京狛江の自宅を引き払い、鎌倉の義兄夫婦とその息子が住む敷地内の庭先に、離れを改装してこじんまりとした家を建て、終の住処とした。最初のうちこそ、親しい友人を招いて麻雀や食事をすることも稀にはあったようであるが、それもどこからか漏れて活字になったりして、結局、誰が訪ねてきても、電話でさえ本人が出ることはなく、すべて義兄夫婦とその息子が対応した。

  本人は、大半の時間を家にいて一人で読書をし、時おりレコードを聞き、庭を手入れし、家事をした。
  外出はせず、人にも会わなかったが、新聞は二紙を隅々まで読み、社会や政治、経済への関心は持ち続けていたようである。新聞の書評や広告を見て、甥の久昭夫妻に「この本を買ってきて」と頼んだ。

  引退後の節子は、マスコミを遠ざけ50年余の間、一度も取材に応じなかったとされているが、実はたった一度だけ、電話取材に応じたことがあった。
  それは、戦時中に米軍の少佐が中国で拾った一枚の「日の丸」を母国に持ち帰り、その後すっかり忘れていたが、あるとき気がついて、在日米大使に「持ち主を見つけて返してほしい」と送り届けた。ところが、この日の丸には、「きみがよのぎせいとなれよわがしんみん正久君」とあるだけで持ち主の氏名がわからない。

  一同、途方にくれたが、寄せ書きのなかに著名な女優のサインが含まれていることに気づく。
  その二つのサインのうちのひとつが節子のものだった。人を介して電話取材を申し込んだ新聞記者に対して、節子は「私はもう「原節子」という名前を捨てて、いまは本名の会田昌江で暮らしております」とし、取材を受けるに当たり、これが例外であることを、まず念押ししている。

  そのうえで、懸命に思い出そうと義兄たちにも尋ね一緒に考えたものの、「どうしても思い当たる人がいない」と答えた上で、こう続けている。「あのころ戦時下で、この種の国旗には何百回とサインしていますので、ほんとうに申し訳ありませんけど、正久さんというお名前には記憶がありません」(報知新聞 昭和48年2月14日)と。義兄夫婦を通じて「記憶がない」と言えば済むものを、何故、この取材にだけは応じたのか。

  平成6年(1994年)、思いがけない形で、「原節子」の名が話題となった。
  この年の高額納税者番付に「会田昌江」の名が載ったからだ。全国で75位、納税額は3億7,800万円、所得総額は13億円以上と推測された。東京狛江の約800坪の土地を売却したからである。昭和22年(1947年)に購入した当時は、麦畑が広がり人家もまばらで寂しいくらいだった。半世紀近い時を経て、あたりは住宅地と化し、地価は高騰していた。これより8年前には、義兄夫婦が亡くなり、節子は72歳になっていた。

  他にも節子が購入した土地は、長年の保有によって軒並み大きく値を上げていた。一部は親族に贈与している。土地の売却に伴い、かなりの所得があったはずだが、彼女の生活は少しも変わらなかった。自身が暮らす鎌倉の家は、たいして広くもなく、しかも借地である。着る物にも食べるものにもこだわらず、旅行もせず外食もしなかった。ひたすら家に籠り、本を読み、自炊をして質素な生活を送り続けた。
  ただし、世間への関心を失っていたわけではなく、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災の時には、朝一番に自ら郵便局に赴き相当な額の義捐金を送っている。

  僕は、経済観念はその人の人格を表すと思っている。凡人は金に振り回されるが、賢明な人は金とは距離を置くことができる。節子の生き様を見ると、どんな時も、華やかな時にも、落ち込んだ時にも、変わらず質素な生活、堅実な生活を送っている。そして、将来を考え、きちんと打つべき手を打つことができる判断力を持っている。

  そして、何よりもどんな時にも、撮影の合間でも、本を手放していない。あらゆる分野に興味を持ち、自分の視野を広め、見識を高めることを本能的に実行している。だから、大所高所から世間を見ることができ、物事の本質を捉えることができたのだろうと思う。

  いづれにしても僕は、日本にこのような心身ともに美しい女性が存在していたことを誇らしく思うのと同時に、同じように美しい心と、賢い頭脳、健康な肉体を持った女性が、今も、将来も、日本に増えていくことを願っている。

  最後に、この評伝にはこのように書かれている。

  節子は引退後も親しく付き合っていた詩人の慶光院芙紗子に対して、こんな言葉をもらしている。
  「恋愛は一生に一つしかないもの、その1回が永遠で、それがきのうのことのように忘れられない。(中略)自分が恋した人は、たいしてえらくない人なので、会社からいわれて他の方と結婚してしまった」(「女性自身」昭和46年8月7日・14日合併号)

  僕は思う。人は時間とともに変わっていくが、その人の生まれ持った人間性は変わらない、と。

<35歳のときの原節子。原節子の真実 石井妙子著 新潮文庫 見開きより>
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2019年11月09日

近況報告

  今日は11月9日(土)です。時刻は午後15時40分です。

  この1週間程は連日、爽やかな晴天が続いています。風も無く家に籠っているのは勿体ない気がして、例によって自転車を車に積んで、連日多摩川土手のサイクリングコースに出かけています。
  今日も1時間程前に、多摩川から戻ってきて遅い昼飯を食べてこの原稿を書き始めたところです。

  いつも自宅からは、小田急線を越えて津久井道へ出て、そこから抜け道を通って千代ヶ丘、読売カントリー、よみうりランドを越え、稲城大橋により多摩川を渡れば、そこからは目的地である府中市の小柳公園までは5分とかかりません。ここまで、家から約20分くらい。公園内にあるテニスコート脇の駐車場に車をとめて、自転車を車から降ろし、駐車場入り口すぐの土手を登れば、そこはもうサイクリングロードです。

<多摩川土手のサイクリングロード 右側の木立が府中市 小柳町 小柳公園>
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  多摩川サイクリングロード(左岸、東京都側)は多摩川河口(羽田)から玉川上水の取水口がある羽村堰堤(東京都羽村市、福生市の先)まで、およそ55qあります(実際は、さらに700mほど未舗装道路を走り阿蘇神社が終点となります)。小柳公園は、サイクリングロードの丁度中間点近くになります。

<たまリバー50キロの道路標識では、下流の川崎大師橋から28q、上流の羽村取水堰まで25qとなっている>
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  いつもは、そこから上流に向かって国立まで、丁度片道10qを往復したり、下流に向かって和泉多摩川まで片道約8qを往復します。以前は羽村まで往復したり、羽田までも往復したりしたこともありますが、今は無理はしないことにしています。それでも、往復で約1時間ほどかかり、丁度よい運動になります。

  10月12日の朝方、伊豆半島に上陸して13日朝に福島県付近から太平洋に抜けた大型で強い台風19号は、各地に記録的な強風と大雨をもたらしましたが、ここ多摩川も各地で氾濫し、両岸の東京都世田谷区や大田区、川崎市高津区の住宅街が多大な被害を受けました。
  それから、すでに1か月近くになりますが、まだ河川敷には流木がそのまま残されていたり泥が放置されています。サイクリングロードがある土手のすぐ下まで濁流がきていた痕跡が残っています。

<台風の痕跡が残る多摩川 11月8日夕方撮影>
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<同じく11月19日 午後撮影>
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  ところで、いつも自転車を運んでくれる愛車のTOYOTA VISTA ARDEOは、すでに20年近くになり走行距離も10万qを超えました。私はこの車が大好きで愛着があるのですが、そろそろ買い替えを考えなければなりません。モデルチェンジしていれば、すぐにでも購入していましたが、何故か残念ながらいまではもう製造されていません。本当によくできた車だと思います。

<もうすぐ、別れなければならないと思うと愛し子を手放す心境です。永い間、ありがとう。>
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<Vista Ardeoは発売と同時に購入しましたが、当時は5ナンバーにもかかわらず、室内空間はセルシオと同じ、というのが宣伝文句でした>
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posted by ぼたん園々主 at 20:41| Comment(0) | 日記

2019年09月29日

野菜の種が自家採取できなくなる?

  令和元年9月29日(日)午前6時37分です。スマホでは、現在の北見の気温は13℃、今日の天気は快晴、最高気温は25℃となっています。でも、現在のぼたん園は上空には薄い雲があって曇り空です。
  5時半に目が覚め、さっきからFM放送ではビバルデイーの「四季」が流れています。

  今日の話題は、私が最も関心のある「日本の食の安全」についてです。

  私が、偶然にも「自然農法 わら一本の革命」(福岡正信著 春秋社)に出会ってから15年以上になります。その間、主として本から得た知識を基に自分なりの自然農法を実践してきましたが、日本の農政がどうなっているのか、何が本当の問題なのかについても、関心はありましたので何冊か本を読んではみましたが、結局のところほとんど何も理解しないまま過ごしてきました。

  この度、ある方から「日本では、これからは野菜の種子が自家採取できなくなる。大変なことになりそうなので、是非シェア拡散して頂けませんか。」との連絡をいただきました。戦後、私たちの主食である米、麦、大豆などを、安心、安全に、しかも安価で提供することは「種子法」という法律で国の責務であると定められていました。ところが、この「種子法」が国会で審議らしい審議もされず、マスコミで報道されることもなく、2018年4月に突然廃止されてしまった。というのです。
  
  私は、自然農法では当然の事ながら、野菜の種は自家採取を毎年繰り返すことにより、年々その土地に馴染んだ品質のよい、強い野菜ができるものと思っていましたから、できれば種子は自家採取したいと思っていましたが、時間的な制約(毎年9月から10月にかけては野菜の収穫や日頃お世話になっている方や家族への発送、ヤマブドウの収穫そしてヤマブドウワイン造りなどの作業に追われ、10月中旬の雪の降る前までにそれらの作業を終わらさなければならない)もあって自家採取はこれまで実現できていません。

  そうした状況のなかである日、本屋で「売り渡される食の安全」山田雅彦著、角川新書 という本を見つけました。早速購入して読んでみると、日本の農業の将来にとってはもちろんのこと、私達自身の食の安全に関してとても重要なことが書かれています。

  そこで、本稿ではこの本の内容に沿って特に重要と思われる部分をピックアップしてお伝えするとともに自分でもよく考えてみたいと思います。

<「売り渡される食の安全」 山田正彦著 角川新書>
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  著者の山田正彦氏は、2010年に当時の民主党政権で農林水産大臣を務めています。この本の筆者紹介によれば、以下のとおりとなっています。

  1942年、長崎県生まれ。弁護士。早稲田大学法学部卒。司法試験に合格後、故郷で牧場を拓く。オイルショックにより牧場経営を終え、弁護士に専念。その後、衆議院議員に立候補し、4度目で当選。2010年6月、農林水産大臣に就任。12年民主党を離党し、反TPP・脱原発・消費税増税凍結を公約に日本未来の党を結党。現在は、弁護士の業務に加え、TPPや種子法廃止の問題点を明らかにすべく現地調査を行い、また各地で講演や勉強会を行っている。

1.そもそも「種子法」とは?そしてなぜ廃止されることになったのか?
  私は、いまから15年以上前のサラリーマン時代の日曜菜園から野菜を作りを始めましたが、お米を作った経験はありませんので、毎日当たり前のように食べているお米は、大変な手数をかけて作られていることはなんとなく理解しているつもりになっていますが、本当のところは何も知りません。
  春の田植えから始まり、夏には満々と水を湛え、青々茂った田んぼが、秋には黄金色に変わり、刈り取り風景は日本の原点といってもいい景色です。正直なところ、そんなイメージしか持っていません。

  でも、農家ではない私たちがあまり目にすることがないところで、田植えの前には種籾の選別、発芽、田起こしが、田植えの後には水の管理、雑草との戦い、ウンカなどの害虫やいもち病などの病気との闘い、さらにはスズメやカラス、イノシシやシカといった鳥獣との戦い、そして台風や大雨による洪水などの自然災害の危険とも向き合わなければならない。無事に刈取りが終わった後も、乾燥、籾すりという作業で籾殻を落としたものが玄米となる。さらに、玄米のなかから粒のそろった、大きなものだけが選ばれて袋に詰められ、ようやく出荷される状況が整います。

  それでは、こうして大変な手数をかけて行われるお米作りのスタートラインともいうべき、お米の種籾を農家の方々はどうやって手に入れているのでしょうか?

  野菜作りでも同じですが、一つは自分が作った野菜やお米から種子を採取する自家採取する方法です。稲作の場合は、生育のよい田んぼのなかから特によく実った稲を選りすぐり、休眠状態にさせたうえで翌年の種籾とします。現在の日本で自家採取している稲作農家は全体の1割程度しかいないようです。稲の自家採取を何代も繰り返していくと品質が少しづつ劣化し、収穫量も減っていくので3年に一度は良質で純粋な品種の種子を育てなければならない。そのためには、大変な手間と時間、そしてなによりもかなりのお金を必要とするからです。

  では、残りの9割の稲作農家はどこから種籾を手に入れているのでしょうか?

  その鍵が、戦後間もない1952年に制定された「種子法」にあるのです。「種子法」は、正式な名称を「主要農作物種子法」といい、全8条からなっています。日本の主要農作物である米、麦、大豆の品質を保ち、それらの優良な種子を安定的に生産し、公共の財産として供給することを、国が果たす役割として定めているのです。

  最大の特徴は、栽培用の種子を採取するために播く種子となる「原種」と、原種の大元である「原原種」を栽培・生産し、一般の稲作農家へ供給していくことを各都道府県に義務付けていることです。現在の日本では、原種や原原種の栽培・生産は、農業試験場をはじめとする都道府県の公的試験研究所が行っており、予算は国が担っています。

  そもそも、種子法は、第二次世界大戦中の食糧不足から1942年に制定された食糧管理法による配給制の時代を経て1952年に「二度と国民を飢えさせてはならない」との、時の政府の決意と覚悟から生まれたものなのです。

  農業試験場などの公的試験研究所により、その厳重な管理のもとで原原種から栽培・生産された原種の種子は、収穫された翌年、採取農家(種を採取することを専門にした農家で、収穫した米は種として、一般の農家へ販売されます。さまざまな条件をクリアした熟練農家が選定される。)のもとにわたり、ここではじめて一般の稲作農家へ販売されます。さらに、稲作農家では、製品の出荷までに5度もの検査をクリアしなければならなず、ここまで原原種の生産開始から数えて4年目にして、やっと稲作農家のもとへ稲の種子が届くことになります。

  高い発芽率、優良な品質、種子法による補助があり価格も安く、種子の管理もしっかりしていて、供給も安定している。これが、自家採取が全体の1割前後にとどまり、9割の稲作農家が公共の種子を毎年購入して栽培している理由なのです。

  また、米の品種改良についても、種子法第8条では、優良な品種を決める役割を各都道府県に義務付けています。全国の農業試験場では地域ごとの土壌や気候に適した新たな品種を育てることに取り組んでいます。
  種子法は、優良な種子を安価で、なおかつ安定して稲作農家に供給できる体制を保証するとともに、長い年月と膨大な労力をかけた末に、新しい品種が次々と生み出される状況をも後押ししてきたのです。

  ところが、第二次安倍政権のもとで2017年2月10日に、この「種子法」を廃止する法律案が閣議決定され、国会提出が決まります。このころは、テレビや新聞は森友学園問題一色で一般には殆ど知らされていませんでした。そして、異例ともいえるスピード審議を経て同年4月14日には種子法廃止法案が国会で可決・成立、2018年4月1日を以て廃止されました。

  政府の説明によれば、種子法が民間の参入を阻害しているということが大きな理由でした。これまでのように国が種子の供給に義務を負わなくなれば、当然のこととして、農家が種子の自家栽培を担わなければならなくなります。
  ところが、前述のように種子の栽培には膨大な労力と時間と経費がかかります。今の農家の現状では、ただでさえ人手不足と高齢化が著しく、米を育てながら純粋な種子をつくり、新たな品種を開発することは不可能に近い。となれば、民間の企業が原種や原原種の栽培を担うしかありません。

  そうなれば、先に述べたように種子の開発には大きな資金と時間がかかるため、資金力のある企業でなければ参入が難しく、企業は数えるほどとなり、米の値段は企業の思いなりになってしまう。多様な品種は淘汰され、企業にとって効率のよい単一の品種が全国一律に作付けされることになる。
  というのが、著者ならびに日本の農業の将来を危惧する人たちが問題とするところです。

2.海外企業に明け渡された日本の農業
  ところで、政府は種子法を廃止するに至った理由を3つ挙げています。
   @民間の種子生産者の技術が向上して種子の品質が安定しているため、
    都道府県に対して種子の生産および供給を一律に義務付ける必要性が
    低下している。
   A多様なニーズに対応するためにも、民間の力を借りる必要がある。
   B種子法が存在するために都道府県と民間企業の競争条件が対等ではな
    く、公的機関による開発がほとんどを占めている。

  政府は現在の日本について「国家戦略として、農業分野でも民間の活力を最大限活用しなければいけない時代」と位置づけ、民間企業の進出を妨げているのが種子法としています。これに対しては、著者は実態を正確に反映していないと反論しています。なぜなら既に20年以上も前から種子法は幾度となく改正されてきて、実績を見れば種子法が民間企業による米の育種事業への参入の障害になっているとはいえないとしています。

  また、私も日曜菜園での野菜作りからスタートして福岡正信著「わら1本の革命」に出会い、自然農法による野菜作りを素人なりに実践してきたつもりですが、まだ自家採取まではいかずに毎年JAや民間の種苗店から種を購入しています。その際に購入する野菜の種はF1品種といわれる種です。

  F1品種(Filial hybrid = 一代雑種)というのは、遠縁の品種同志を交配させて、両親の優れた性質がともに1代目の世代に受け継がれる雑種強勢という現象を利用した種で、大量生産や大量消費には適していますが、2代目以降は人間が望むような性質が現れず、また、栄養価の低下も指摘されている品種のことです。
  従って、その種は一代限りしか使用できず、農家は毎年新しい種を購入しなければなりません。

  F1品種に対して固定種とは、地域ごとの土壌や気候に適応させながら、親から子どもへ、子どもから孫へと年月をかけて品質を受け継がせるなかで固定化させた品種をいいます。
  その種は、毎年自家採種することにより、翌年以降毎年新しい種を購入することなく、使用することができます。

  私も最初のころは、F1品種と固定種の違いがよく分からずに使用していました。、園芸店で買った種は大抵、消毒がしてあり、鮮やかな色のコーテイングがしてあったりして、無農薬の野菜を作ろうとしているのに種は農薬を使っていいのかな?などと疑問に思ったことを憶えています。
  また、時間に余裕がある時は、ネットで自然農法により作られた固定種の種を取り寄せて使ったこともありました。

  そして、政府は種子法を廃止する法律案だけでなく、同時に種子法に変わる新たな法律となる「農業競争力強化支援法」を閣議決定しました。そのなかには、これまで全国で地域ごとに開発されてきた米の品種を絞り込み、集約することが謳われています。

  これに対して、著者は多様な品種が存在するからこそ、予期せぬ気候変動や病害虫の大量発生などから米を守れてきたが、民間企業の進出が促進されればコストや労力をかけて多数の品種を維持するより、同一品種を広域的かつ効率的に生産することになるだろう。政府が掲げる品種数の集約が進めば、リスクが高まることは自明の理だと批判しています。

  さらに、新法ではこれまで公的な研究機関や都道府県が開発、改良してきた種子事業に関する知識やノウハウを民間事業者に提供することも謳っています。この民間事業者には海外の企業も含まれることになります。現在のところ、まだ日本の米の種子市場に進出している多国籍企業はありませんが、公共の種子が民間に開放されるとき、その先頭に立つのはモンサントだろうと筆者はいいます。

  モンサントはアメリカのミズリー州に本社を置いていた多国籍バイオ化学メーカーで、遺伝子組み換え作物で世界トップのシェアーを誇っていました。モンサントの日本法人に、日本モンサントがあります。

  2018年6月にドイツの製薬・化学大手のバイエルがモンサントを買収、吸収しましたが、モンサントが栽培・生産する遺伝子組換え作物の日本への輸入認可を取得することを主要業務のひとつとしてきた日本モンサントは活動を継続しています。同時に日本モンサントは稲の育種産業へ進出、茨城県で「とねのめぐみ」という米の新品種を開発し、品種登録しています。

  筆者は、種子法が対象としてきた稲、麦、大豆が将来どうなるかは、種子法では指定されていなかった野菜や果物の種子がどのように変遷してきたのかを見れば、見えてくると言います。

  昭和30年代までは日本中の農家で、キャベツ、白菜、大根、ニンジン、タマネギ、トウモロコシ、カボチャ、トマトなどの野菜は自家採取されていました。ところが、昭和30年代以降はほとんどがF1品種に取って代わられてしまいました。

  その最大の理由はF1品種の方が早く成長し、収穫時期や収穫物の大きさと形状が一定している点があげられます。農家にとっては作業効率があがり、箱などに詰めやすいので量販店やスーパーへ流通させやすい。大きさや形状が揃っていると見栄えがよくなるため、販売する店にも消費者にも歓迎されます。

  ただし、F1品種は孫の代からはハイブリットな特性が現れないので、農家は毎年新しい種子を購入しなければなりません。また、F1品種の種子は値段が固定種に比べると桁が一つ違うほどに高額になります。
  アメリカでは米、トウモロコシ、大豆などは遺伝子組み換えやF1品種が増えて、アグリ企業の種子の寡占状態が進んでおり、種子の価格が20年前の数倍にまで上昇しています。

  日本の農家が購入しているF1品種の種子のほとんどは、海外で生産された輸入品であり、世界の種子市場では5社ほどの多国籍企業が全体の70%弱を長く占めてきました。モンサントはF1品種の種子の売り上げでトップに君臨、一方でともにアメリカに本社を置く、シェア2位のデユポンと4位のダウ・ケミカルが対等合併してダウ・デユポンが誕生しました。スイスに本社を置くシェア3位のシンジェンタも中国の中国化工集団に買収されるなど、M&Aによって、多国籍企業による寡占状態に拍車がかかっている、として、種子法廃止の行き着く先は、米、麦、大豆の巨大企業による一代限りの品種が大勢を占めることになり、価格も格段に高騰するのではないかと筆者は憂慮しています。

  現在、日本の米市場では、民間企業による品種のシェアーは1%に満たない状況ですが、モンサントや三井化学、住友化学、三菱化成などの大企業と農家との契約では、収穫した米を全量買い取るなどのメリットと引き換えに、農薬や化学肥料の購入・使用を義務付けられたり、収穫米の買い取り価格は企業側の言い値にならざるを得ない状況が生じています。

  さらには、契約書の内容を精査してみると、種子は毎年購入することが義務付けられ、自家採取はもちろん、たとえ研究などの目的であっても分析や改良、複製などは固く禁じられていて、違反した場合は企業側に生じた損害を弁償しなければなりません。

  また、理由の如何を問わず、風などで他の品種の花粉が飛んできて受粉してしまった場合でも、発覚すれば、農家は企業に裁判を起こされて莫大な賠償金を請求される可能性もあります。
  さらに、酷暑や、ゲリラ豪雨、台風などの自然災害で予定していた収量を出荷できない場合や、さらには企業側が実施する検査で、不合格となった収穫米についても農家が負担することになるなど、大企業の論理が最優先されています。

  現在アメリカの農家が直面している大企業に隷属せざるを得ない状況と同様に、日本でも農薬や化学肥料の選択を含めて、種子法のもとで確立されてきた自主的かつ自律的な農業活動が失われていくことを筆者は警告しています。

3.自分の畑で取れた種を使ってはいけない
  遺伝子組み換え作物で世界のトップシェアを誇るモンサントは、カナダに独自の巨大な警察組織を持つと言われています。契約農家が契約を遵守しているかを逐次チェックしたり、契約農家の近くでモンサントの種子を無断で栽培している農家がいないか監視していて、違反農家を見つけると巨額な損害賠償金を請求すると言われています。

  F1品種や遺伝子組み換えの特許をもとに、カナダやメキシコでは1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)発効以来、アメリカの多国籍アグリ企業と農民団体の間で争いが頻発するようになります。
  2012年には、メキシコでそれまでの伝統的な自家採種を禁止し、政府が指定するアグリ企業の種子を毎年購入することを義務づける法案(通称モンサント法案とよばれた)が制定されそうになりましたが、農民の猛反対で廃案となります。

  このモンサント法案が拠りどころとしているのが、ユポフ(UPOF)条約と呼ばれる国際条約です。「植物の新品種の保護に関する国際条約」であるユポフ条約は、1961年に成立し、何度か改定が重ねられましたが、1991年の改定で、「植物の新品種を、育成者権と呼ぶ知的財産権として保護する」ことを決定しました。
  つまり、新しい種子を開発した民間企業の知的財産権をまもり、同時に農家から自家採種(その年に取れた種を翌年使うこと)する権利を奪う国際的な取り決めとなったのです。
  改定を主導したのは、モンサントをはじめとする多国籍アグリ企業が名を連ねる国際種子連盟(ISF)です。しかも、1991年の条約を批准した国々は、新品種を育てた者の権利を守る国内法を整備する義務を負います。日本は、1982年にアジアで初めて批准しています。

  モンサント法案は、メキシコでは農民を中心とする国民の反対で廃案となりましたが、同法案はラテンアメリカ諸国でも議会に上程されていきますが、大部分の国では国民の反対に逢い廃案が相次ぎましたが、コロンビアとグアテマラでは可決・成立してしまいます。

  次にモンサント法案が向かったのはアフリカですが、ここでも民間からF1品種の種子を購入することや、農薬と化学肥料をセットで栽培するモンサント方式に対して、強烈な拒絶反応が起こりました。しかし、その後も多国籍アグリ企業だけでなく、世界最大の慈善基金団体である「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」や国際的知的財産機関なども巻き込みながら、アフリカ諸国に対してさまざまな圧力をかけ、堤防は決壊寸前の状態にあるといいます。

  モンサント法案の標的はアジアにも向けられています。日本国内でモンサント法案を機能させるためには、種子法廃止と農業競争力強化支援法の制定の他に、もうひとつセットにしなければならないものがあります。自家採種の原則禁止です。自分の畑で取れた種を翌年使ってはいけない、とする法律です。

  日本では、種苗法という法律によって、農産物や園芸植物を新たに開発した人および企業の知的財産権が保護されています。品種登録されると、25年間にわたって育成者以外が無断で販売や譲渡、増殖することはできません。

  一方で例外も設けられていて、1998年の改正では、育成者権の効力が及ばない範囲が次のように定められました。「登録された育成者の権利は、特性により明確に区分されない品種についても、収穫物からさらに種苗として用いること、その収穫物を販売・加工に回すことに育成者権利は及ばない。ただし、契約で別段の定めをした場合は、この限りではない」(種苗法21条)と。
  つまり、登録された品種であっても、その種子を購入し栽培した農家は、自家採種を続けても、さらに翌年、種子として撒いて利用しても法に触れることはない、ということです。

  ただし、種苗法第21条第3項では、「農林水産省令で定める栄養繁殖をする植物に属する品種の種苗を用いる場合は、適用しない」となっています。栄養繁殖とは、種子からではなく、根や茎、葉などから繁殖させることを指します。挿し木によって増殖させているミカンやリンゴなどの果樹、枝芽を挿しているトマト、蔓から増殖させているサツマイモやイチゴなどは、自家採種が認められないことになります。

  筆者は続けます。何よりもこの法律の恐ろしいところは、禁止とする品種を農水省令で決められることだ。国会の審議を通す必要がなく、農水省内の決定だけでOKなのだ、と。
  現に、1998年にはバラやカーネーションなど23種類の植物が、2006年には59種類が、2017年には209種類が追加されました。そのなかにはキャベツやブロッコリー、ナス、トマト、スイカ、メロン、キュウリ、ニンジン、大根といった、私たちが日常よく口にする野菜が含まれています。
  これらの種を取って使えば種苗法違反となり、10年以下の懲役と、1,000万円以下の罰金刑が併科(どちらか一方ではない)が科されるのです。

  種苗法が廃止されてから1か月半後の2018年5月15日、日本農業新聞が種苗の自家採種に対する従来の方針を原則容認から「原則禁止へ転換」させる方向で、種苗法の改正を含めて農林水産省が検討に入った、という特ダネ報道をしました。
  種子法廃止のときには農水省は自民党議員に、「種子法が廃止されても、米、麦、大豆の種子は種苗法できちんと守ります」と説明していたのに、舌の根も乾かないうちに、国家はこうも簡単に嘘をつくのか、と筆者は怒ります。

  種子法廃止で公的な予算措置を廃止し、農業競争力強化支援法で米の300近い品種数を民間の数種類に集約させ、外資を含めた民間企業へ長く蓄積されてきた種子の育種知見を提供させる。そして、種苗法改正で自家採種を全面禁止することで、民間企業やこれから進出してくるであろう多国籍アグリ企業から、農家は高価格の種子を買わざるを得ない状況を作り出していく。日本版のモンサント法案を成立させるうえで、種苗法の改正はその総仕上げになる、と怒りを込めて書いています。
  
  「農林水産省に新しい品種を登録するには、どのくらいのお金がかかるのですか?」。筆者の質問に対し、知的財産課長から返ってきた答えは、「数百万円から数千万円はかかります」という驚くべきものだったといいます。これでは、企業からの申請しかできなくなるのでは、と筆者は危惧しています。

4.市場を狙う遺伝子組み換え、ゲノム編集の米
  いまもむかしも、農家や園芸を営む者にとって、草刈りや草取りは逃れられない作業です。除草がなくなるだけで、どれほど農作業が楽になるでしょうか。

  米作りに携わる者の重労働をなくす除草剤の開発に成功したのがモンサントでした。ラウンドアップという商品で1974年から販売が開始されました。そして、1996年には、遺伝子を組み替えてラウンドアップに耐性を持つ新しい大豆の種子の開発に成功します。つまり、ラウンドアップの強い除草効果で雑草は枯れ、遺伝子組み換え技術を施された大豆だけが育つことになります。

  モンサントはすぐに遺伝子組み換え大豆の特許を取得して、自家採種を禁じます。そのうえで、ラウンドアップと化学肥料をセットにして、雑草の駆逐作業が不要で、収穫量が飛躍的に増える夢の農作物として世界中で販売を開始、瞬く間にドル箱商品となり、、モンサントの急成長を後押しします。
  現在、世界で栽培されている大豆やトウモロコシのうち、前者は8割を、後者は約3分の1を遺伝子組み換え品種が占めていると考えられています。
  さらに、モンサントは90年代の半ばから、国内外の種苗企業を次々と買収、世界の種苗市場を牛耳る巨大な多国籍アグリ企業へと変貌を遂げていきます。2008年には、売上高110億ドル(約1兆2,100億円)、世界に流通する遺伝子組み換え作物の種子の実に90%を占めるまでになっています。

  交配や品種改良は自然界で起こり得ることですが、遺伝子組み換えは目的に適した遺伝子を見つけて取り出し、まったく別の生物の遺伝子を人為的に組み込む作業であり、自然界では決して起こらないことです。
  例えば、除草剤への体制を持つモンサントの遺伝子組み換え大豆は、同社の看板商品である除草剤ラウンドアップの生産工場の排水口から偶然発見された、ラウンドアップに耐性を持つ微生物の遺伝子を大豆に組み込むことにより作り出されたものなのです。

  当初から、遺伝子が組み換えられた作物や食品の是非については、大きな論争となっています。第1に、人間の身体に被害をもたらさないのか、第2に、環境や生態系を崩さないか、第3に一部の大企業による食糧支配が広まるのではないか、の3点です。

  特に健康への影響に関しては、本来ならば自然界に存在しないものを、食品として直接摂取することへの不安があります。2009年には、アメリカ環境医学会(AAEM)が、遺伝子組み換え食品の即時出荷停止を求める緊急声明を発表しています。
  それは、数多くの動物実験の結果から「遺伝子組み換え食品と健康被害の間には、偶然を超えた関連性が示されている。特にアレルギーや免疫機能、妊娠や出産に関する生理学的、遺伝学的な分野で深刻な健康への脅威に至るものである」との理由からでした。

  動物の健康に与える影響については、すでに2002年の段階でアメリカの農場でBtコーンと呼ばれる害虫抵抗性の遺伝子組み換えトウモロコシを餌として与えられていた雌豚の妊娠率が低下し、子豚の出生率が急落したり、2012年にはフランスで、ラウンドアップへの耐性を持つモンサントの遺伝子組み換えトウモロコシを2年間、餌として与えられ続けたラットに乳がんや重度の腎臓障害ができ、除草剤耐性の遺伝子組み換えトウモロコシに発がん性があるとの報告がなされています。

  BtコーンのBtとは、細菌の一種で、Bt毒素と呼ばれる殺虫性のタンパク質を生成する強い毒性をもつ遺伝子が組み込まれたトウモロコシがBtコーンなのです。
  ほかにも、ジャガイモや綿などで実用化されています。害虫がBtコーンを食べただけで死んでしまうため、殺虫剤をまかずに済む、コストがかからない、という宣伝とともに売り出されたのです。

  こんなトウモロコシを人間が食べて、影響がないはずはありません。最近の研究で、アレルギー症状、自己免疫疾患、化学物質過敏症、あるいは糖尿病などの慢性疾患など万病のもとになるとされる、リーキーガット症候群との関連性が指摘されています。

さらに、Btコーンに代表される害虫抵抗性の遺伝子組み換え作物は害虫だけでなく、ミツバチやテントウムシなどの農業にとって欠かせない益虫も殺してしまいます。害虫抵抗性ではなく、殺虫性だと揶揄する声もあります。
  リーキーガット症候群とは、日本名は腸管壁浸漏症候群といい、超の粘膜に穴が開いてしまい、本来ならば排除されるはずの有害物質が体内に取り込まれてしまう状態をいいます。

  遺伝子組み換え作物とセットで販売される除草剤が環境を汚染し、生態系を破壊していると見られる事態も2000年の段階ですでに確認されています。
  同年、アメリカのデラウエア州の大豆畑で、ラウンドアップを散布しても枯れない雑草が発見されました。ラウンドアップがほとんど効かない雑草はいつしかスーパー雑草と呼ばれ、自然の適応力には改めて思い知らされます。

  また、まかれた除草剤は雑草を枯らすだけではなく、土壌に染み込んで地下水に、あるいは雨で流されて川の水に混じることで深刻な土壌汚染を引き起こし、野生の生物だけでなく、汚染された地下水を生活用水として周辺の住民が飲料水として飲み続けた結果はどうなるのでしょうか。

  スーパー雑草だけでなく、スーパー昆虫も出現しています。トウモロコシの天敵として、蛾の仲間であるアワノメイガの幼虫を駆逐することを最大の目的として、Btコーンが造り出された経緯がありますが、Btコーンを食べても死滅せず、急速に繁殖しているアワノメイガの幼虫が2013年にアメリカ中西部で確認されました。

  さらに、遺伝子組み換え作物も植物である以上、自然界で自己増殖していき、従来の生態系に対して看過できない影響を与えます。もともと病気や害虫に強く、なおかつ収穫量が多いため、伝統的な在来種を駆逐して増殖していきます。風で飛ばされた遺伝子組み換え作物の種子を人間の手で食い止めることはは不可能に近いからです。

  遺伝子組み換え作物に対しては、当初は寛容だったアメリカも、全米にその表示義務を求める運動が大きなうねりとなりましたが、モンサントをはじめとする多国籍アグリ企業の巻き返しがあったりで、一進一退の状況となっています。
  
  遺伝子組み換え大豆やトウモロコシを介して世界支配を進めていたモンサントは、一方で米を主食とするアジアへも虎視眈々とターゲットを定めていました。

  日本に対しても、1996年にはアメリカのベンチャー企業で、除草剤耐性をもった遺伝子組み換えコシヒカリの開発に成功したアグラシータス社を、特許権を含めて買収したり、愛知県農業総合試験場が開発した新品種の遺伝子を組み換え、ラウンドアップへの除草剤耐性をもたせるための共同研究を進めていました。
  2002年には、日本国内で初めて栽培された遺伝子組み換え米として発売される寸前に、辛くも消費者による反対運動と、全国の有機農作物生産者団体の反対によりストップされたのです。

  遺伝子を操作する技術には、遺伝子組み換えの他にゲノム編集があります。ゲノムとは、細胞中のDNAに記録された、すべての遺伝情報のことです。ゲノム編集とは、特定の遺伝子をピンポイントで切断することで、生物の特徴を変える技術の総称のことです。ゲノム編集をわかりやすくイメージすると、らせん状の紐のような形状をしているDNAのなかで、ターゲットとする遺伝子の部分をハサミで切り取る作業から始まります。

  遺伝子組み換えもゲノム編集も、まだまだ未知の領域が多い遺伝子の操作については、ヨーロッパ(特に、フランス)、アメリカも慎重なスタンスを取っているなかで、日本だけが規制するどころか、前のめりの姿勢を加速させ、世界に逆行するかたちで、これらを積極的に進めようとしている、と筆者は危惧しています。

5.世界を変えたモンサント裁判
  2018年8月10日、我が世の春を謳歌し続けてきたモンサントに対して、世界の流れを一変させた歴史的な判決が出ました。

  末期の悪性リンパ腫と診断されていたカリフォルニアの男性が、がんを発病した原因は除草剤ラウンドアップにあるとしてモンサントを訴えた裁判で、サンフランシスコの陪審がモンサントに、損害賠償金と懲罰的損害賠償金の合計2億8,920万ドル(約320億円)の支払いを命じる評決を全員一致で決定しました。
  裁判のなかで、モンサントの社員による内部告発で、モンサントがラウンドアップががんを引き起こす可能性があることを、十数年前から認識していたことを示すモンサント内部の機密文書が暴露され、そのほかにも数々の不正(虚偽や隠蔽)が明らかになったのです。

  この裁判の結果は、世界中を驚かせましたが、日本だけはなぜか一部のメデイアを除いてほとんど報道されませんでした。日本では現在もラウンドアップや、その主成分であるグリホサートを使った商品が、ホームセンターや100円ショップでごく普通に、しかも安全安心の宣伝文句のもとで販売されています。

  今や世界中で、ラウンドアップやグリホサートを禁止しているか、数年のうちに禁止する動きを見せているにもかかわらず、日本では野放し状態になっているのです。小学校や中学校の校庭、子どもたちが遊ぶ公園などの公共施設、家庭用の菜園や個人宅の庭でも雑草駆除に便利だという理由で、危険に対して何の疑いもなく使われています。

  グリサホートについては、日本では2002年にラウンドアップの商標権および生産・販売権を日産化学がモンサントから取得、全国の農業協同組合(JA)職員も「散布してもすぐに分解されてアミノ酸に変わるので、安心して使える安全な除草剤です」と言って農家を回っていて、除草効果の高いラウンドアップを始め、グリホサートを使用している農薬の需要は衰えていません。

  ぼたん園のある北見でも、私が草刈りに汗を流していると、除草剤の使用を勧めるボランテイアの方もいます。また、普通の家庭でも何とも気軽に除草剤を使っている方が多く居られます。でも、全国の野菜農家やお茶農家の現場からは、すでに発芽障害や土壌の劣化などの被害の声が聞こえてきています。

  モンサントは2018年にバイエルに買収されましたが、その後業績は悪化の一途をたどり、株価は2018年の年初に比べて5割も下落しました。さらに、追い打ちをかけるように、アメリカ、フランス、オーストラリアでも同様の裁判が起こされ、2019年5月現在、訴訟件数が1万3,000件を超えていて、まだまだ収束する気配を見せていません。

  苦境に立たされている多国籍アグリ企業は、モンサントを買収したバイエルだけではなく、アメリカ軍がベトナム戦争で散布した悪名高い枯葉剤の成分でもある除草剤ジカンバと、それに耐性をもつ遺伝子組み換え作物の種子をセットで販売していたダウ・デュポンも、またスイスに本社を置く世界最大の農薬販売会社シンジェンタは2017年に、中国の中国化工集団に4兆7,000億円(規模と業績からすれば安い金額といえる)で買収され、多国籍アグリ企業はまさに四面楚歌の状態に置かれることになりました。

6.世界で加速する有機栽培
  ここでは、世界の食の安全に対する最近の取り組みの現状を、筆者自身がアメリカ、イタリアと韓国の現地のスーパーや家庭、学校などを訪問して報告しています。さらに、ロシアや中国の遺伝子組み換え食品への対応や有機栽培の広がりについて触れています。

  2018年9月、筆者はカリフォルニア在住の主婦、ゼン・ハニーカットさん宅を訪ねます。彼女は、自身の3人の子どもたちの食物アレルギーの原因が遺伝子組み換え食品に含まれている農薬であることを突き止め、市民団体マムズ・アクロス・アメリカを立ち上げ、モンサントに代表される巨大企業に対して一歩も怯むことなく、毎年の独立記念日に全米各地で開催されるパレードへの参加を会員に呼び掛けたり、会のフェイスブックで情報を共有しあうなどして、その意見と主張をぶつけています。

  さらに、ゼンさんは次男が発症した腸の粘膜に小さな穴が開くリーキーガット症候群の原因が、パンやパスタなどの小麦を原料とした食品に含まれるグリホサートであることを突き止め、治療を進めると同時に農薬や化学肥料を使わない、有機栽培で育てられたオーガニック食品だけを食卓に出すことにしたところ、わずか6週間後には完治した経験から、オーガニック食品や非遺伝子組み換え食品を毎月100ドル購入するキャンペーンを会員に呼びかけます。
  さらには、自らキャンピングカーのハンドルを握り、アメリカ中を2度も回り、100ドル運動を浸透させていったのです。加えて、行く先々のスーパーマーケットなどで、「オーガニック食品や非遺伝子組み換え食品に対する需要が高まっている」ことを気づいてもらうよう働きかけました。
  こうした、一人の主婦の思いが全米の母親たちの間に共感の輪を広げ、会員数は150万人を超えるまでになりました。

  筆者は、ゼンさんに案内されてロサンゼルスの、1978年創業のスーパーマーケット、マザーズ・マーケット&キッチンでカルチャーショックを受けます。
  店内を歩きながら見ていくと野菜や果物をはじめとして、食パンやケーキ類、牛乳やチーズなどの乳製品や、さまざまな種類のジュース、ビールやワインなどのアルコール類、ドレッシングやオリーブ油、マヨネーズやマスタードといった調味料、さまざまなサプリメント類、さらに洗剤までが「NON GMO」や「ORGANIC」と表示されています。「GMO」は「Genetically Modified Organisms」(遺伝子組み換え作物の略です)
  牛や豚、鶏などの精肉類やベーコン、ソーセージなどの食肉加工品には、2つのラベルに加えて「Animal Welfare」と表示されたラベルも貼られています。飼育過程でストレスをできるだけ少なくした飼育方法で育てられた証明です。

  案内された店舗は、いわゆる富裕層が住む地域にありましたが、ゼンさんによれば、一般の市民や黒人が多く暮らす街にあるスーパーマーケットでも同じような光景が見られるようになっているそうです。
  確かに、私も数年前にハワイやスペインに行ったことがありますが、同じような光景が見られました。日本ではまだ、そのような表示がされている食品は少なく、ちょっと先進的なスーパーマーケットでも、せいぜい有機野菜や食品のコーナーなるものがわずかながらある程度です。ほとんどは、有機野菜や食品の表示はなく、いまだに化学調味料や有毒な酸化防止剤や合成着色料を使用していることが目立たないところに、小さく表示されている食品が、堂々と並んでいます。

  イタリアでは、ローマやフィレンツエ市内のスーパーマーケットを見て回りますが、どこでも陳列されていた商品のほとんどがオーガニック食品、非遺伝子組み換え食品だった、と報告しています。
  そして、最大のハイライトがトスカーナ地方の農家民宿に泊まったときに訪れたと告白しています。それは朝食の席で、女将から告げられた「トスカーナ地方ではいま、福岡正信さんが提唱した自然農法が盛んに行われています」という言葉です。「日本で福岡さんの自然農法を勉強していた者が戻ってきて、この地方で始めたのです。いま出している野菜も、すべて自然農法で栽培したものですよ」
  あらためて、福岡さんの偉大さを理解するとともに、感動で心が震えた、と書いています。
  私も、何度か自然農法については書いていますので、ここでは重複を避けます。(2015年8月22日「自然農法」、2017年8月3日「有機農法と自然農法」)

<福岡正信著 自然農法 春秋社>
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  その他、EUでもイタリア、ドイツ、フランス、スウエーデン、スペインなど多くの国が有機農業の取り組みを増やしていて、遺伝子組み換え作物の栽培を全面禁止や制限している国が増えています。
  ロシアと中国も国民の多くが、遺伝子組み換え作物に対しては拒絶反応を示したり、反対または慎重な態度を示しています。有機栽培については、メドベージェフ首相が一大転換を表明し、有機栽培された小麦や大豆を、日本へ輸出する考えを表明しています。中国では有機農業が急成長をしていて、取組み面積は約228万ヘクタールと、アメリカの約203万ヘクタールを既に追い抜いています。

  お隣の韓国でも、学校給食の無償化とオーガニック食材化が進んでいます。韓国の憲法では教育の無償化は、学校給食の無償化も保障されているからだといいます。さらに、未就学児や妊婦まで、あと数年でオーガニック食材を用いた安全安心な食事が提供されるといいます。韓国の大型スーパーチェーン、ロッテマートでもオーガニック食品が多数売られていて、アメリカと同様に「ORGANIC」や「NON GMO」、さらには「nimal Welfare」のラベルが貼られた卵が並んでいるといいます。

  ここまで読んできて、どうしてこうも日本人は勤勉で、真面目で、賢く、感性も優れているのに、自分自身や将来の子孫にとって最も大事な健康に対するリスクに鈍感なのか、不思議でなりません。
  日本では行政府の長が率先して遺伝子組み換え食品の安全性を謳い、ゲノム編集食品も無条件で解放しようとしています。有機栽培に対する国会議員の意識も、メデイアの意識も低く、国民にも理解されていません。
  世界から離されている、というよりも世界の流れに嬉々として逆行している、と筆者は述べています。

  下の写真は、この本の173ページに掲載されている世界の有機農業に取り組んでいる面積に関して農水省が作成した資料です。これを見ても、世界では有機栽培を実施している耕地が急速に増えているのに対して、日本の全耕地面積に対する有機農業実行面積の割合は、広大な耕地を持つ中国を除けば、先進国のなかで最低の0.5%しかありません。この資料には韓国が載っていませんが、国を挙げて取り組んでいる結果、現在では日本の10倍の5%になっています。(2017年8月3日の記事では日本の割合は0.22%となっています)

<世界の主な国別の全耕地面積に対する有機農業取組面積と割合 同書173ページより 画面を左クリックすると拡大できます>
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  日本で有機農業が増えない理由のひとつは、2017年8月3日の記事にも書きましたが、有機栽培の認証(JASマーク)を取得するためには、手数とコスト(検査を受けるだけで4〜5万円)がかかること、毎年調査を受けて更新しなければならないことです。有機JASマークのシール代、パッケージ代もすべて農家の負担になります。さらに、農薬の使用が制限されるため、大きな病害虫が発生すれば収穫が半分以下になるリスクも負わなければなりません。

  それと、有機先進国と日本の大きな違いは、有機農業を国策と定めているヨーロッパの一部の国では、有機農産物には「安全」や「安心」以外の価値があるとして、有機農業を行う農家には補助金を出すなどの制度があります。また、韓国では、土壌だけでも日本の10倍となる3,000種類もの検査があり、しかも基準は年々厳しくなっていますが、高額な検査費用は市町村が負担し、認定されなかった場合のみ自己負担となります。

7.逆走する日本の食
  2017年12月、厚生労働省は、突然グリホサートの残留基準を緩和しました。小麦は5ppm→30ppmへ、蕎麦は0.2ppm→30ppmへ、ひまわりの種は0.1ppm→40ppmへそれぞれ緩和されたのです。
  厚生労働省は、グリホサートには発がん性など認められず、一生涯にわたって毎日摂取し続けても健康への悪影響が無いと推定される一日当たりの摂取量として設定したといいます。

  EUをはじめ、世界はグリホサートの使用を禁止する方向へ舵を切っています。アメリカの裁判では、モンサントが発がん性を認識しながらも隠蔽を続けていたことが明らかになり、巨額の賠償金を命じられている、というのに全く世界の動きに逆行する行動としか言えません。

  もう一つの例は、世界中の100か国以上で販売されるなど、もっとも広い範囲で使われている殺虫剤として知られる、ネオニコチノイド系農薬についても、日本は2015年5月に厚生労働省が、食品残留基準を緩和しました。たとえば、ほうれん草では、従来の13倍となる40ppmに引き上げたのです。
  世界各国でネオニコチノイド農薬使用が広がっていくにつれて、益虫であるミツバチの大量死や大量失踪が相次いで報告されるようになり、2007年までに、北半球で生息していたミツバチの4分の1が消えたという報告もあります。

  確かに、私が北見で自然農法を始めた、いまから10年以上前には夏にはまだミツバチもチョウチョもトンボも飛んでいましたが、年々その数は減って、最近ではほとんど見かけなくなりました。特に日本ミツバチは全く見かけなくなりました。(その代り、外来種のハチはよく見かけます)
  受粉がなくなれば、野菜も果物も実をつけることができません。牡丹やバラなどの花も咲くことはできません。植物は全て花が咲くことはなく、従って実をつけることも種を残すこともできなくなります。
  植物が繁殖しなくなれば、牛も馬も、鶏も豚も、あらゆる家畜は生存できません。草食動物がいなくなれば、あらゆる肉食動物も生存できません。もちろん、人間も生きてゆくことはできません。人間を含めて、全ての動物は植物に寄生して、初めて生かされているのです。あたりまえのことですが。

  ところで、日本は遺伝子組み換え作物を年間数千万トン輸入する、世界でも有数の遺伝子組み換え作物の消費国です。では、この輸入された遺伝子組み換え作物は一体どこに行ってしまうのでしょうか。
  日本の豆腐などの原料となる食品用大豆の国内自給率は、わずか7%で残り93%はアメリカなどからの輸入に頼っています。その輸入大豆のうち実に94%が遺伝子組み換え大豆です。

  では、なぜ、私たちは「遺伝子組み換え大豆を使用」と表示された豆腐を普段、目にすることがないのでしょうか。

  現在、日本への輸入が許可され、販売および流通が認められている遺伝子組み換え作物は大豆、トウモロコシ、ナタネ、綿、ジャガイモ、甜菜、アルファルファ、パパイアの8種類で、このうち大豆、トウモロコシ、ナタネ、綿が主に流通しています。
  これら8つの農産物を主な原料とする加工食品群のなかで、食品衛生法の安全性審査をクリアした食品は320種類あり(2019年5月現在)、アメリカの197種類を大きく上回っています。(下の写真参照)

<日本は、遺伝子組み換え農産物を原料とする加工食品を320種類承認しているが、その表示を義務付けているのは33種類だけ 同書195ページより 画面を左クリックすると拡大できます>
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  ところが、遺伝子組み換えの表示が義務づけられているのは、320種類のうち33種類だけです。大豆を例にあげると、豆腐や油揚げ、納豆、豆乳類、味噌などには表示義務がありますが、しょうゆや食物油などには表示義務がありません。
  厚生省が認めた遺伝子組み換え加工食品320種のリストのなかには、「ラウンドアップ・レデイー大豆」と「除草剤ジカンバ耐性大豆」(除草剤耐性/ニホンモンサント)、「ニューリーフ・ジャガイモ BT」(害虫抵抗性/日本モンサント)、チョウ目害虫抵抗性及び除草剤グルホシネート耐性大豆」(害虫抵抗性・除草剤耐性/ダウ・ケミカル日本)、「B-11スイートコーン」(害虫抵抗性、除草剤耐性/シンジェンタシード)などの記載があります。
  つまり、私たちは遺伝子組み換え作物が含まれているとは知らずに、日常生活のなかで摂取していることになります。

  モンサントがラウンドアップに耐性を持つ遺伝子組み換え大豆を作り出し、ラウンドアップとのセットで販売を開始したのは、1996年ですが、当時は主成分であるグリホサートの健康被害が指摘されていなかったこともあり、その輸入を承認した日本政府は特別な表示は必要ないと判断していました。
  その後、こうした対応に危機感を募らせた消費者を中心に、遺伝子組み換え食品の表示を求める運動が広がり、2001年4月から表示制度が導入されました。

  遺伝子組み換え作物が5%以上使用されている場合は、「遺伝子組み換え」と、生産・流通・加工の段階で遺伝子組み換え作物が混ざっている可能性がある場合は「遺伝子組み換え不分別」と表示することを義務付けました。一方で、使用や混入している可能性がないものには表示なしとするか、「遺伝子組み換えでない」と任意で表示できるように定めました。

  しかし、この表示制度には、次の3点の抜け穴がありました。
  (1)遺伝子が組み替えられたDNAおよびそれによって生成されたタンパ
    ク質が残らないものには5%以上の混入があっても表示義務がない。
  (2)重量順で原材料の上位3品目に入り、なおかつ原材料の全重量に占め
    る割合が5%以上のものにしか表示義務がない。
  (3)5%以下の意図しない混入には表示義務がない。

  醤油や植物油は製造過程で高度に精製されるので、遺伝子が組み換えられた大豆のDNAとそれによって生成されたタンパク質を、最終的な製品から原材料として検出することはできない、として(1)により表示義務は生じないとされました。
  後になって、加工された後であっても、DNAとタンパク質は検出できることが確認されましたが、「安全性には問題がないので表示は必要ない」とされました。
  
  (1)によって遺伝子組み換え作物が原材料になっていても表示義務がないものには、醤油や植物油以外にもマーガリンやマヨネーズ、コーンシロップやコーンフレーク、みりん風調味料、スナック菓子などの身近な食品があります。

  また、遺伝子組み換えトウモロコシは家畜の飼料となるケースが多いのですが、それを餌とした牛や豚、鶏の精肉だけでなく、卵や牛乳などの乳製品を含めた畜産品も表示義務を負いません。遺伝子組み換えトウモロコシを食べて育った家畜には、何らかの影響があると思うのは自分だけだろうか、と筆者は疑問を投げかけています。

  2017年4月、第二次安倍政権は遺伝子組み換え表示制度に関する検討会を消費者庁に設置し、1年後に(3)の意図しない混入率を、5%以下から「不検出」(=0%)へ一気に引き下げる報告案をまとめました。
  不検出、つまり0%ならばいいのではないかと思われるかも知れませんが、だからといって不検出となると、状況は全く変わってしまいます。

  遺伝子組み換え作物が偶発的に混入してしまう事態は、日本だけでなくアメリカやEUでも避けることはできません。だからこそ、諸外国では0.9%未満という許容範囲を設けています。しかし、不検出(=0%)ということになれば、どんなに細心の注意を払っても「遺伝子組み換えでない」と表示することができなくなってしまいます。

  これでは、表示を免れる抜け道となってきた(1)と(2)は変更なしなので、醤油や植物油、その他の身近な食品も、遺伝子組み換え作物が原材料として使われていても、これからも表示義務を負いません。
  しかも、諸外国のように遺伝子組み換え作物の混入率が0.9%未満しか含まれていなくても、「遺伝子組み換えでない」と表示できません。

  アメリカ国内で「NON GMO」の表示に屈し、市場をオーガニックに奪われたモンサント(現バイエル)は、日本ではまたとないチャンスを得ることになり、「遺伝子組み換えでない」という表示が事実上、不可能になった日本に、行き場を失った世界中の遺伝子組み換え作物が大量に流入してきてしまうのではないか。日本が、多国籍アグリ企業が扱いに困った作物の最終的な廃棄場に思えてしまう、と筆者は憂慮しています。

8.日本の食は地方から守る
  これまで述べてきたような、日本の食の安全に関する危機に対して、地方自治体からは種子法に変わる、また、種苗法の改定にも対抗する種子条例を制定する動きが広がっていて、すでに11の同県で条例が成立しています。この勢いで2019年中には少なくとも20の同県で種子条例が成立する見込みです。

  条例は、日本国憲法第94条で都道府県や市町村、地方公共団体などが、自主法となる条例を制定する権利を保障しています、しかも2000年4月に施行された地方分権一括法により、国が地方自治体を指揮命令することは禁止されていて、過去の通達はすべて効力を失っています。地方自治体は法律による委託事務以外はすべて、何でも自由に決めることができるのです。

  地方から地道に、正しいと信じることをあきらめずに続けていけば、必ず日本を変えることはできる。世界の潮流はすでに変わっているのだから、と筆者は最後を締め括っています。

9.この本を読んで、私が想ったこと
  この本を読み終えて、改めていまから40年以上前に今日の世界に於ける自然に対する科学の混迷を喝破していた、福岡正信著 「わら一本の革命」と、いまから60年近く前に、アメリカから、化学薬品が一面で人間の生活に計り知れない便宜をもたらしたが、一面では自然の均衡を破壊する恐るべき因子となることを、初めて世界に向けて訴えた、レイチェル・カーソン著 「沈黙の春」を、今一度読み直しています。

<レイチェル・カーソン著 沈黙の春 新潮文庫>
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  ふたたび繰り返しますが、日本人はなぜ「遺伝子組み換え」や「ゲノム編集」などの未だ安全が確認されているとは言えない、むしろ、世界中で危険が危惧されていることについてこうも鈍感なのでしょうか?

  「沈黙の春」で、レイチェル・カーソンが化学薬品の恐ろしさを最初に告発したのは、いまから57年前の1962年(昭和32年)です。第二次世界大戦の化学戦で人間を殺戮するために作られた化学薬品は、戦後は合成殺虫剤や除草剤として世界中で使用され、さらにいまでも毎年毎年より危険な新しい化学薬品がつくり出され、自然を汚染し人体を蝕み続けています。

  これらの化学薬品は、生命の源である炭素分子を操作することで、原子を置換し、原子の順列を変えることにより人為的につくられるのです。人為的に遺伝子を操作することによりつくり出される「遺伝子組み換え」や「ゲノム編集」とは、何が違うのでしょうか?

  これらの有害な化学薬品が恐ろしいのは、その中毒症状が多くは人体に長い間に毒が蓄積されていき、肝臓や腎臓などの内臓器官が破壊されたり、慢性中毒の症状が表れてくるまでに相当な時間がかかることです。
  また、この毒は母親のからだを通って子孫へと及んでいくことです。化学薬品の残留物を含む母乳で育つ幼児にとっては、少量といえども大きな影響を与えかねません。
  さらに、これらの化学物質の恐ろしいところは、食物や餌の連鎖によって生物から生物へと移動していくことです。そして、移動していくうちに、ごく少量だった化学物質が大幅に濃縮されていくことです。

  厚生労働省は2017年に、世界の流れに逆行して、突然グリホサートの残留基準を緩和し、小麦で6倍、ソバは150倍などに引き上げました。厚生労働省は「グリホサートに発がん性などが認められず、一生涯にわたって毎日摂取し続けても健康への悪影響がないと推定される一日当たりの摂取量として設定した」と、言っているようですが、何を根拠にしているのでしょうか?

  スーパーなどで売られているほとんどのハム、ソーセージ、ベーコンなどの加工肉食品や、明太子、タラコなどには、鮮やかに見せるための発色剤として「亜硝酸Na」が、ソース、清涼飲料、炭酸飲料、菓子、ラーメン、コンビニ弁当などには、褐色をつけるために天然着色料の「カラメル色素」が、多くのカロリーオフ飲料には合成甘味料のアスパルテーッム、スクラロース、アセスルファムKが、パンをふっくら焼き上げるために膨張剤として「臭素酸カリウム」が、福神漬け、紅ショウガ、柴漬け、たくあんなどの漬物に多く使われる「タール色素」、オレンジやグレープフルーツに使われる防かび剤、居酒屋や回転寿司、スペイン料理店、さらにはコンビニやスーパーで売られているカット野菜、野菜サラダで消毒臭い臭いや味がするものには急性毒性が強い「次亜塩素酸ナトリウム」が、ワインにも酸化防止剤として有毒ガスの「亜硫酸塩」が、栄養ドリンクには、白血病を起こすといわれる合成保存料の「安息酸Na」が、スーパーで売られている握り寿司(ショウガ)や酢だこ、そして歯磨き剤には合成甘味料の「サッカリンNa」が・・・、など数え上げれば切りがないほどの食品に発がん性のある添加剤が使用されています。

  これらの添加物は、現在では必ず原材料として、小さな字ではありますがラベル表示が義務付けられています。なぜ、人間にとって有害で、しかも少量であっても癌やアレルギー、先天性障害の原因になることが分かっていても使用するのでしょうか?また、厚生労働省は使用を認めているのでしょうか?
  サルやラットなどの動物実験で、人間が長期間(生まれてから成人するまでとか)、毎日摂取し続けても健康に、或いは生命に影響がない量なんて、どうして分かるのでしょうか?誰がそんなことを信用できるというのでしょうか?

  わたしが野菜を作りながら考えることは、まだ幼い孫たちに朝露のついた採りたての野菜を、生のまま食べさせたいという願いです。あなたはスーパーで買ってきた野菜を、そのままジュースにして、赤ん坊に飲ませられますか?それができないような野菜は作りたくないと思うのです。

  それは、私が農業者ではなく、あくまでも消費者の目線だから言えることかも知れません。農をとするかぎり、自然が多様性と循環を摂理とするのに対して広大な農地に一種類だけの作物を植えるという農業形態をとるかぎり、程度の差はあっても農薬や化学肥料を使わざるを得なくなるだろうと思います。

  それでも、福岡正信先生が提唱した「自然農法」の正しさは、なによりも、できた野菜や果実を味わってみれば分かることであり、わたしが理想とする赤ん坊にも安心して食べさせられる作物を作るという目標を達成できる、唯一の方法であると思うのです。

  「有機栽培」は「一般農法」に比べれば、「自然農法」に近いとは思いますが、一定の条件がありますし、一部の無機農薬(石灰硫黄合剤、ボルドー液など30種類)や有機肥料(動物の糞などを含む)や無機肥料のうち、天然物を原料とする生石灰、炭酸カルシウムなどは使用を認められています。
  これに対して、「自然農法」は、「無農薬」、「無肥料」、「不起耕(耕さない)」、「無除草」を4原則とします。  

posted by ぼたん園々主 at 06:47| Comment(0) | 日記