2018年09月10日

父のこと

  僕の父親は23歳で戦死した。後の戦死公報では昭和19年10月25日、フィリピンのルソン島南部のレガスピー基地を飛び立って還ることはなかった。わずか6か月足らず前に娶った妻と、この時すでにそのお腹に宿していた小さな生命を残して。

  僕は父が戦死した翌年の昭和20年3月に東京信濃町の慶応病院で生まれた。それから3歳になった時に病に倒れて横浜の病院で入院加療を受けていた母と別れて、父の実家である北海道北見市の祖父母に引き取られた。以来13歳、中学2年の1学期までの10年を「河西牡丹園(当時)」で育った。
  中学2年になって、母がようやく退院して僕を引き取ることになり、それからは東京で母と一緒に暮らすことになった。母は東京生まれ東京育ちで幼少のころからピアノを習い、音楽大学のピアノ科を卒業していたのでピアノを教えることで生計を立てた。今になって思うに8年以上も入院していて、ピアノもなく、その頃の母の頑張りを想うとその度に涙が止まらない。

  僕にとっての父は、少なくとも北見で育った10年間は、最初から父も母もいないことがあたりまえであり、時折祖父母や周りの人から聞く昔話の中に登場する人物でしかなかったような気がする。
  母と暮らすようになって、母から父のことを聞くことが増えてようやく父のことが生身の人間として身近な人になった。

  父は北見で5人兄弟(男3人、女2人)の三男として生まれ、6歳の時に母親(僕にとっては祖母)が33歳の若さで急逝したこともあり、家出同然のように東京へ出て早稲田中学(当時)に入学、そこで生涯尊敬して止まなかった恩師に出会い、苦学しながらも中学3年(現在の高校1年)で子供のころからの憧れだった海軍兵学校を受験し合格した。
  丁度そのころ父の姉(僕にとっては伯母)も音楽教師を目指して上京、母と同じ音楽大学のピアノ科に入学していて母とは同級生(年齢は母が下)だったので、伯母を通じて父と母は出会ったのである。

  父は海兵の70期で、母の話では同級生からは「熊さん」と呼ばれていたらしい。北海道の山奥から出てきて、当時父は飛行訓練中は敢えて太陽に顔を向けて日焼けすることがあった(推測するに、本来は色白の方だったので敢えてそうしていたのではないかと思う。なぜなら僕もそうだから。)ので、見た目にも黒かったからそう呼ばれたのだろう。
  また、父は北見にいたころから音楽、なかでもクラッシクが大好きでベートーベンの交響曲は1番から9番まで全て口笛で吹けたそうである。母から聞いた話では父が帰ってくる時はこの口笛が遠くから聞こえてくるので分かる、私よりも音楽については詳しかったと。今でも父が鉛筆で描いたベートーベンの肖像画が残っているが、絵の才能もあったのではないかと思う。シューベルトの交響曲「未完成」も好きでよく聞いていたそうである。
  父は僕のもう一人の叔母(父の妹)によると子供の頃は相当に暴れん坊だったようで、小学生の時には、喧嘩して机のふたで当時の市長の息子を殴って怪我をさせたり、常呂川に馬に乗って泳ぎに行き、母親から帰りに豆腐を買ってくるように頼まれ、馬に乗ったまま自分の褌に豆腐を入れてぶら下げて持ち帰ってきたり(本人はよく洗ったからいいと思ったのだろう)、その類の逸話にはこと欠かない。しかし反面、弱い立場の人には大変やさしかったそうである。
  母の話によれば、海兵の時には自分の部下(下級生か)に恋人が郷里から面会に来た時には、厳しい規則を破ってでも自分の個室を提供したりする優しい人間だったそうである。

  平成29年2月、僕はやっと父が亡くなった地を訪ねることができた。従妹(父の兄の長女)からフィリピンに来ないかという誘いを受けたからである。 
  従妹は普段はシンガポールに住んでいたが、たまたま仕事の関係でマニラ市に出張していて1か月後にはシンガポールに戻るので、この機会にという配慮である。
  有難く受けることとし、2月2日から2月6日までフィリッピンに渡った。

マニラ市郊外の従妹の滞在するアパルトメントからマニラ湾方向を望む。(2月2日 18:14撮影)
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翌朝、レガスピーまでは飛行機を利用するのでアパルトメントからマニラ空港に向かう。(2月3日 8:02撮影)
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マニラ市中心に近づくにつれて半端じゃない渋滞。車窓から見える川(どぶ川)の両岸には工場の廃屋や墓地に勝手に住みついてしまう人々がいる反面、中心地に高い塀を廻した金持ちの屋敷があったりする。(2月3日 8:17撮影)
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レガスピーまでは1時間20分のフライト。マニラ空港にて。(2月3日 12:34撮影)
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レガスピー港。漁港であると同時に造船所や大きなショッピングセンターもある。(2月3日 16:26撮影)
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レガスピー中心市街、ホテルの近くの路上の電柱。(2月3日 17:00撮影)
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レガスピー空港が見渡せる小高い丘(リグノン・ヒル)の上に旧日本軍の司令部があった場所は、現在は小さな公園になっていた。写真は丘の入り口に掲示された説明板。(2月4日 10:20撮影)
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写真は丘の途中に残っている日本軍の壕の跡。兵隊はレプリカ。(2月4日 10:21撮影)
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岡の上の公園展望台からレガスピー湾方向を見る。左右に延びるのがレガスピー空港の滑走路。(2月4日 10:48撮影)
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公園の反対側からは富士山によく似た火山のマヨン山(2,463m)が見える。この日は雲がかかってその秀麗な姿は半分隠れてしまっている。(2月4日 11:19撮影)
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レガスピーから案内人付のレンタカーで2時間近くかけてダガラという町に向かう。途中のカマリグという所にある小高い丘に立ち寄る。レガスピーから上陸してくるアメリカ軍に抗戦した日本軍の壕の跡などがジャングルの中に残っている。(2月4日 12:06撮影)
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同じくジャングルに残されている階段。(2月4日 12:15撮影)
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同じく丘の上の展望台にて従妹の真理と。後ろに見えるのはマヨン山。(2月4日 12:22撮影)
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ダガラ中心部から3qほど北西にあるカグサワ教会遺構(Cagsawa Church Ruins)にて。1814年2月、マヨン山が大噴火し、火口から噴き出た溶岩流が麓のカグサワ村を襲い、教会に避難していた村人約2,000人とともに村全体がそのまま飲み込まれてしまった。現在、教会の敷地は公園になっていて教会の壁の上部と鐘楼だけが残っている。雲が掛かっていて見えないが、後ろにはマヨン山が近い。(2月4日 13:27撮影)
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ダガラの街の中心部にある小高い丘に建つダガラ教会(Dagara Church)。1773年に建てられ幾度もマヨン山の噴火により損傷を受けたが、現在も多くの信者を集めている。(2月4日 14:44撮影)
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ダガラ教会内部。(2月4日 14:48撮影)
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ダガラ教会の回廊にはキリストや聖人の像が並んでいる。(2月4日 14:53撮影)
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同じ回廊には、1814年のマヨン山の大噴火の際にカグサワ教会からダラガ教会に避難してくる大勢の村人の様子を描いた大きな絵が架けられている。(2月4日 14:56撮影)
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レガスピーのダウンタウン中心地にあるホテルへ戻る途中、近くにあるレガスピー駅に寄ってみた。駅の入り口はシャッターが閉まっているが横からホームに入ってみる。ガランとして近所の子供たちが遊んでいる。運行しているのかどうかは不明。(2月4日 15:45撮影)
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翌日、2月5日はホテルで朝食を済ませて、レガスピー市内観光に出かける。便利な乗合タクシー、ジプニー(jeepney)を利用する。初乗りは8ペソ、160円強。
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街のどこからでもマヨン山が見える。(2月5日 10:03撮影)
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市役所前の広場。(2月5日 10:23撮影)  
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市役所の近くの教会の前で。(2月5日 時間不明)
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久し振りにミサに与かる。(2月5日 10:34撮影)
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市役所広場に近い魚市場。(2月5日 11:30撮影) 
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レガスピーよさようなら。レガスピー空港。(2月5日 16:57撮影)
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空港から見るマヨン山と、手前はリグノン・ヒル。(2月5日 18:55撮影)
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マニラに戻り、夜はタクシーでビジネス街にある日本居酒屋の「相撲茶や 関取」で喉を潤した。(2月5日 21:00撮影)
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「相撲茶や 関取」の店内。日本のビジネスマンが多く、メニューも日本の居酒屋と変わらない。(2月5日 21:00撮影)
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マニラよ、レガスピーよ、フィリピンよ、そして父よ安らかに、さようなら。また来る日まで。(2月5日 11:07撮影)
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2018年08月26日

回想の北海道一周バイクの旅

 2011年7月26日。平成23年7月26日。ちょっと古くてよく憶えちゃいない。写真のデータによるとそうなっている。でも、ファイルを移動したりすると撮影日が移動日に変わったりするらしいからちょっと当てにはならない。
 ともかくこの頃にバイクで北海道の海岸線を時計と反対周りに7日間で1周した、といっても知床半島はさすがにバイクでも通れる道は無いので除いた。最終日は確か野付半島の突先まで行って、標津から中標津、そしてバイカーのメッカ開陽台、最後は摩周湖の伏流水が作った神の子池に寄って美幌経由で北見まで戻ったと記憶している。

 本題に入る前にバイクとの関わりに触れておこう。今、手許の免許証を見ると普通自動二輪の資格取得は平成23年3月30日となっている。平成19年から北見に半移住(定住ではないという意味)してから北海道のことをもっと知りたいと思うようになり、また何となくバイクでどこまでも真っ直ぐな北海道の道を走りたいとも思った。
 
 生まれてこの方、自転車以外には原付も含めて全く二輪を運転したことがない。平成22年、65歳。20代の若者に交じって川崎の自宅近くの教習所通い。免許を取得してすぐに中古バイクを購入した。最初から免許を取得したら川崎から北見まで行くつもりだったので、長距離ツーリングに適したYAMAHAのアメリカン、ドラッグスター・クラッシック(400CC)に決めた。
 
  バイクを購入してすぐ、5月の連休に朝6時に川崎の自宅を出発、初めての路上運転(教習所では路上運転はない)で、初めての高速道路。連休中なので早速首都高から渋滞。盛岡を過ぎて八甲田の辺りで暗くなってしまった。
 これから先は本題と離れてしまうので、機会を改めて。

初乗りで北見へ。行くぞDrugStar!!(平成23年5月3日 5:50撮影)
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 さて、話を平成23年7月26日に戻す。朝、ぼたん園を出発、国道333号を走り遠軽から湧別へオホーツク海を目指す。オホーツク海の直前で左折してオホーツク国道を紋別を目指してひた走る。右手はオホーツク海だ。
 紋別の港を右下に見て、興部(おこっぺ)、雄武(おうむ)、枝幸(えさし)と右にオホーツク海を見ながら北上する。この辺りの道は直線が続くので、そして殆ど対向車もなく気持ちがよい。道の真ん中で大鷲が日向ボッコをしていた。雄武の寿司屋で昼食。さすが、新鮮度が違う。
 やがて浜頓別(はまとんべつ)でクッチャロ湖に立ち寄りしばし休憩。人影も殆ど無く、静かな湖畔だ。
 猿払(さるふつ)から宗谷岬が近づくにつれ海岸線に沿ってオホーツクラインから宗谷国道となり、左手には風力発電の白い風車が建ちならんでいるいる。いかにも強風が年中吹いている感じだ。
 宗谷岬で写真を撮ってから、よく晴れた日には樺太が見えると書いてあるので背伸びして遠く北方を見つめたが、かすかに陸らしきものが見えたような気はしたが確信は持てない。

雄武町(おうむちょう)から見るオホーツク海(平成23年7月26日 12:05撮影)
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源泉100%を謳うオホーツク温泉 ホテル日の出岬。海から昇る朝陽と牧場に沈む夕陽、冬は流氷が一望できる。(同年7月26日 12:08撮影)
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枝幸町から浜頓別に向かう途中にある「北見神威岬(かむいみさき)」。断崖の中腹に灯台がある。岬の手前、枝幸町側には北見神威岬公園がある。上が公園。下が灯台。(同年7月26日 14:46と15:00撮影)
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浜頓別(はまとんべつ)町のクッチャロ湖。クッチャロはアイヌ語で「沼の水が流れ出る口」の意味で屈斜路湖と同じ語源である。サロマ湖と同様に汽水湖である。(同年7月26日 15:26撮影)
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どこまでも、真っ直ぐ続く道。クッチャロ湖の近くか。(同年7月26日 16:07撮影)
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日本最北端の地、宗谷岬。樺太までは43qだそうなので、晴れた日には樺太が見えるのだ。(同年7月26日 17:17撮影)
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 この日は野寒布(ノシャップ)岬のたもとにあるライダーズハウス(主としてバイカーのための簡易宿泊所で1泊2,000円前後で宿泊できる。北海道には多く、シャワー付き食事付のところもある。基本的に寝袋持参で雑魚寝。ライダーハウスが正しいと思うが、以降一般の表示のライダーハウスに従う)の「サガレン」(1泊1,500円)に宿泊した。
 翌日(7月27日)は朝早く食事をしてライダーハウスを出発、稚内市街地を一望できるという「稚内公園」に行ってみた。

 昭和29年に開園した同公園には、かつて日本の領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑である「氷雪の門」がある。Wikiの解説によると、「樺太で亡くなった全ての日本人が対象であり、第二次世界大戦終戦後のソ連軍の侵攻により亡くなった日本人だけを対象としているわけではない」としている。
 さらに近くには、「九人の乙女の像」がある。再びWikiの解説を引用すると、「1945年8月20日、樺太真岡へのソ連軍侵攻に際し、真岡郵便電信局にて連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうちの、9人が青酸カリなどを用い自決した。戦後、彼女らを英霊として顕彰しようとの機運が関係者・遺族の間に起こり、地元の樺太関係者と遺族の手によって氷雪の門と九人の乙女の像が設立され、ともに1963年8月20日に序幕された。」となっている。9名は公務殉職として靖国神社にも合祀されているとも記されている。
 また、昭和43年9月5日、昭和天皇と香淳皇后が稚内市を訪問され、氷雪の門と九人の乙女の像の前で深く頭を垂れた。その時の感銘を歌われた和歌の碑が九人の乙女の像の傍にある。

稚内公園からは稚内港が一望できる(7月27日 8:15撮影)
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樺太師範学校の碑(7月27日 8:16撮影)
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氷雪の門(7月27日 撮影時間不明)
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みなさんこれが最後です、。さようなら。さようなら。(7月27日 8:19撮影)
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九人の乙女の碑、解説文(7月27日 8:30撮影)
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九人の乙女の像の傍にある、昭和天皇と香淳皇后の和歌の碑(7月27日 8:32撮影)
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バイクのツアラーも多く立ち寄るようだ。稚内公園にて。(7月27日 8:35撮影)
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 稚内からは日本海岸沿いの道道106号を右に利尻島(利尻富士)を指呼の間に見ながら、ひたすら南下する。
 真っ直ぐに延びた道の右には日本海、左はサロベツ原野である。30qほど走ったところで道道106号線で唯一の駐車場のある浜勇知展望休憩所がある。「こうほねの家」と呼ばれる木造の休憩所があり、屋上からは日本海に浮かぶ利尻富士が見られる。「こうほね(河骨)」とは休憩所の裏に広がる池塘に浮かぶ睡蓮の一種で黄色い可憐な花を咲かせる。尾瀬ヶ原でお馴染みの方も多いと思う。
 
浜勇知の原生花園には森繁久弥の歌碑もある。碑には「浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の
海に立つ富士」と刻まれている。(7月27日 10:09撮影)
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浜勇知海岸に立つ日本海の標示と利尻島(7月27日 10:17撮影)
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稚内から札幌までの道道106号、国道232号、国道231号、通算330qは「日本海オロロンライン」とも呼ばれ、信号もガードレールも看板も無い、一直線の道が続き痛快な走りが満喫できる。
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 道道106号を真っ直ぐに南下すると、やがてここが日本か?と思わせるような景色が現れる。日本海に向かって30基近い巨大な風車が横一列に並んでいる。そして左側に、あの幻の「イトウ」が住む天塩川が近づいたと思うと橋を渡り、今度は右側に天塩川と並走する。天塩川はこの先で日本海に注いでいるのだ。
 ここで、道道は国道232号と合流してさらに遠別町、苫前町、留萌市、と南下する。留萌港では黄金岬(おうごんみさき)に立ち寄る。かつてニシンの見張り台でもあった岬は、ニシンの群れが夕陽を浴びて黄金色に輝きながら岸をめがけて押し寄せたのが名前の由来と言われている。「日本一の落陽」とも。

黄金岬海浜公園のモニュメント。残念ながら黄金の夕陽は見れなかった。(7月26日 15:14撮影)
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公園の反対側は、浜の食堂が並ぶ。濃厚な生ウニ丼、イクラ丼が食べられる。(7月27日 15:15撮影)
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 留萌からは国道は232号から内陸の深川に向かう233号と日本海沿岸沿いに増毛町に向かう231号に分かれる。分岐点から増毛町までは19q、その歴史的な街並みは2001年第1回の「北海道遺産」に「増毛の歴史的建物群」として登録されている。JR留萌本線の終着駅「ましけ」駅から市街地に向かう通りには、明治時代から営業を続けてきた豪商・旧商家丸一本間家をはじめ、昭和初期建築の駅前旅館・増毛館、昭和56年公開の映画「駅STATION」で使われた「風待食堂」の雑貨屋「多田商店」が、また高台にある増毛小学校は1936年(昭和11年)に建築された戦前の都市木造校舎としては道内唯一の現役校舎である。

増毛駅。平成28年に路線廃止に伴い廃駅となり、廃駅後も旧駅舎・線路とも解体されることなく存置され、平成30年には開業当時の駅舎に近づけるため建物面積を2倍に増築し、まちづくりの核となる観光施設として復元された。この写真は復元前の駅舎。(平成27年7月27日 15:43撮影)
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風待食堂。増毛駅の向いにある建物で、もとは雑貨屋(多田商店、大正2年創業)だったが、昭和56年に公開された映画「駅 STATION」では「風待食堂」として使われた。映画では高倉健扮する警官が追っている容疑者の妹(烏丸せつこ)が働く食堂の設定。現在は外観はそのままに観光案内所になっている。(7月27日 15:44撮影)
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国指定重要文化財 「旧商家丸一本間家」國稀の創業者である本間泰蔵の自宅。(7月27日 15:48撮影)
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 さて、増毛から雄冬岬を越えて札幌を目指して国道231号を南下するが、留萌までの直線的な道とは打って変わって同じ海岸沿いでも岩の断崖をくりぬいたトンネルが多く、くねくねとしたカーブが続くので気が抜けない。

 ところで、今回のバイク旅にはもう一つの目的がある。それはJR札幌駅から北へ向かう学園都市線の石狩月形駅下車7分にある「コテージガーデン」に立ち寄ること。梅木あゆみさんというガーデナーが経営する園芸専門店でクレマチスとバラの苗を育てて、その仕立て方や見せ方を提案している。寒冷地の北海道ではバラとクレマチスは、ほぼ同時期に咲く、なくてはならない植物である。クレマチス(日本では鉄線(テッセン)とも風車(カザグルマ)とも呼ばれている)の花(実は愕)は華やかなものから可憐なものまで、実に多様な表情を持ち、その蔓はいかにも弱々しそうで繊細な印象を受けるが、実際は非常に強い植物である。間違って草刈りの時に刈られてしまっても必ずまた蔓を伸ばして花を咲かせる。僕はいつも理想の女性像をこの花に重ねて見ている。因みにクレマチスの花言葉は「精神の美」だそうだ。ぼたん園にも数年前からバラを導入しているので、是非クレマチスを加えたいと思っていたからである。

 そこで、石狩市の手前、厚田村というところで国道231号と別れ、月形厚田線(厚田山道)の山道を上り月形町を目指す。尾根を越えて下って行くと、月形町に入る。人に道を聞きながら「コテージガーデン」に到着。 梅木さんにお会いして、いろいろと話を伺う。マウレ山荘のガーデンも梅木さんが設計、監理していることを知る。それにしてもクレマチスの苗は想定していたよりも結構値段が高い。

 「コテージガーデン」を辞して今晩の宿、ライダーハウスを探す。幸い道央自動車道の三笠インターの近くに今は廃線となっているが(なに線かは忘れたが、多分近くの桂沢ダム湖か美唄の炭鉱まで行く支線だったのでは)、「旧萱野駅」というライダーハウスがツーリングマップに載っているのでそこを目指す。
 道を尋ねながらやっと「旧萱野駅」に着いた時にはもう陽は沈みかけていたが、声を掛けても返事はない。やっと人を見つけて訪ねると駅前の床屋さんが管理しているとのこと。鍵を貰って誰もいない駅舎で一晩を過ごした。因みに1泊1,000円也。

ライダーハウス「旧萱野駅」。無人駅ならぬ無人ライダーハウス。(7月28日 7:29撮影)
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駅舎とDrugStar(7月28日 7:30撮影)
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 翌日、7月28日朝早くライダーハウス「旧萱野駅」を出発、岩見沢市、江別市、札幌市街を経由して小樽を目指す。今日の目的地は積丹半島の神威岬である。小樽を過ぎると余市町で国道はニセコに向かう5号線と別れて積丹半島の海岸沿いを走る229号を西へ進む。ここから暫くは右手に日本海の石狩湾に突き出た奇岩の数々が続く。途中国道を右折して島武意海岸に立ち寄る。島武意海岸の駐車場から遊歩道の坂道を10分ほど上ると積丹出岬灯台がある。小さな灯台だが、その少し先にある広場からは石狩湾や日本海だけでなく、さらにその先の暑寒別岳まで360度の展望が得られる。
 灯台から島武意海岸駐車場まで戻り、小さなトンネルを抜けると海岸を見下ろすさほど広くはない展望台に出るが、そこから眺める海岸は海中の海草、岩や小石までが透き通るように見える。「積丹ブルー」とは宜なるかなと思わせる見事なブルーである。ここから10分ほど急階段を下ると海岸に立つことができるようだが、残念ながら時間がないので諦めた。

積丹出岬(しゃこたんでみさき)灯台。灯台自体の高さは13mしかないが、海面から灯火までの高さは141mある。(7月28日 15:11撮影)
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積丹出岬灯台前の広場に立つ島武意海岸の案内板(7月28日 15:10撮影)
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大人二人がやっとすれ違えるほどの、真っ暗な島武意海岸トンネル(7月28日 15:22撮影)
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真っ暗なトンネルを抜けると突然、眼下に島武意海岸が飛び込んでくる(7月28日 15:19 撮影)
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再び国道229号に戻り、7.5qほど進み右折すると神威岬に到着する。駐車場から岬の突端まで歩いて30分くらいかかるが、アイヌの娘チャレンカが義経に恋い焦がれたという源義経伝説があるため岬の突端に行く途中に「女人禁制の門」がある。駐車場からこの門までは急坂だが舗装道なので歩きやすい。門を過ぎると譲り合わないと通れないような小道(チャレンカの小道)となり、階段があったりしてアップダウンが続く。ここからは左右に「積丹ブルー」の美しい海岸が見下ろせる。
 岬の先端からは、神秘的な色の海に立つ乙女の化身とも言われる神威岩が目の前に見られる。

女人禁制の門。現在は女性も通れる。ここから先は強風や濃霧のときは閉鎖される場合もあるようだ。(7月28日 16:04撮影)
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「チャレンカの小道」と神威岬。小さく灯台が見える。(7月28日 16:14撮影)
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「チャレンカの小道」から見下ろす「積丹ブルー」の海岸(7月28日 16:21撮影)
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神威岬先端とその先に立ち尽くす神威岩(7月28日 16:24撮影)
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振り返って見れば、神威岬灯台(7月28日 16:25撮影)
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  神威岬を後にすると再び国道229号を海岸沿いに南下する。北海道で唯一の原子力発電所「北海道電力泊発電所」がある泊村を過ぎ、岩内町に入るころには暗くなってきたので近くのライダーハウスを探すが適当なところが見つからず、やむなく小樽の「ライダーハウスやまだ」まで戻ることにする。
 岩内町で229号と別れ、276号から午前中に余市で別れた国道5号線に出て余市へ逆戻り、小樽を目指す。余市に着くころには既に暗くなっていて、夜道を探して「やまだ」に着いた時にはもう真っ暗になっていた。  「やまだ」は札幌と小樽の中間にあり、国道から100mしか離れていないのに川のせせらぎと豊かな緑に包まれたところでご夫婦と黒い大型犬のマローで経営している。

「ライダーハウスやまだ」のオーナーご夫婦とこの日同宿のご親戚(?忘れた)と、稚内から佐多岬を徒歩で目指していると言う若者。稚内からここまで既に1か月が経過したそう。(7月29日 8:47撮影)
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脱サラしてライダーハウスのオーナーになったというご夫妻と。ハウスの施設はすべてご主人の手作り。一泊1,200円、奥さん手作りの朝食付き。(7月29日 8:50撮影)
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  「ライダーハウスやまだ」を辞して昨日来た国道を戻り、再び229号を日本海を右に見ながら寿都町、瀬棚町、枝幸町、松前町、知内町、木古内町、と海岸線を辿る。函館に入り函館山に近い「民宿ライムライト」に到着したのは午後9時を回ってからだった。

そろそろ疲れが出てきていたのか、写真の場所がどこか思い出せない。2枚目は松前あたりか?
(7月29日 11:40撮影)
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(7月29日 15:48撮影)
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(7月29日 16:36撮影)
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4泊目の函館の宿「民宿ライムライト」。1泊1,000円、朝食付き。(7月29日 21:54撮影)
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  翌朝は早めに朝食を済ませて近くの元町へ。函館港に近く函館山の麓に広がる坂の多い町が「元町エリア」である。どこか横浜の元町を連想させる歴史的建造物が建ち並ぶ異国情緒漂う町だ。

ハリトリス正教会。緑の屋根と漆喰の白壁のコントラストが美しい国重要文化財。(7月30日 8:11撮影)
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大三坂。日本の道100選に選ばれている坂道で石畳が元町にマッチしている。(7月30日 8:14撮影)
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カトリック元町教会。六角形の屋根に風見鶏が目印。(7月30日 8:16撮影)
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どこかエキゾチックな街並み(7月30日 8:19撮影)
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二十間(約36m)坂。函館は度重なる大火を経験していて、防火帯として真っ直ぐな幅の広い道が作られた。
(7月30日 8:25撮影)
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  函館の街よさようなら、また来る日まで。昨日走ってきた松前半島をつま先とすれば、かかとに当たる亀田半島の海岸沿いの国道278号を東に向かい、かかとの突端の恵山岬を目指す。恵山岬をぐるっと回って今度は北西に向かい駒ヶ岳の西端に位置する、昔から「森のいかめし」で知られた森町を目指す。
  「森のいかめし」は僕が北見にいた子供のころから森駅の駅弁として知られていた。今回調べてみたら、「いかめし」を開発したのは創業が1903年(明治36年)の「阿部弁当店」(当時)で、第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)に、食糧統制で米が不足していたため、当時豊漁だったスルメイカを使って米を節約して作れる商品として考えられ、駅弁として販売された、とある。
  現在は株式会社いかめし阿部商店が森駅構内のキヨスク、駅ホームでの立ち売り(7月下旬〜8月下旬)または森駅前の柴田商店で販売している。売り上げの殆どを全国のデパートで開催される駅弁大会での出店が占めているそうだ。

JR函館本線、森駅前の柴田商店。店の前にはDrugStar Classic。(7月30日 11:56撮影)
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 森町からは内浦湾(噴火湾)を右に見ながらJR函館本線(長万部からは室蘭までは室蘭本線)と並行して、八雲町、長万部町、豊浦町、洞爺湖のある虻田町、伊達市、室蘭市と、ほぼ内浦湾を一周するように走る。室蘭からは北東に向かって右に太平洋を見て、登別市、白老町、苫小牧市と進み、苫小牧からはJR日高本線と並行するように今度は東南に襟裳岬まで一直線に突っ走る。
  苫小牧は何度か川崎と北見を往復する際に苫小牧と八戸を繋ぐフェリーを利用しているので若干土地勘がある。そこでいつものように道央自動車道の苫小牧東ICから、道東自動車道には向かわず日高自動車道に入り日高富川ICで降りてすぐのライダーハウス「味処西陣」に泊まることとする。
  近くに「味処西陣」のオーナーが経営する寿司店と風呂屋があり、割引券をもらって食事と風呂を済ませて宿に戻ると、二人の若いライダーが同室することになった。二人とも愉快な若者で遅くまで飲みながらお互いのツーリングの体験話に花が咲いた。

ライダーハウスで同室となった愉快な若者二人と(7月30日 23:24撮影)
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  翌朝、二人の若者と別れ国道235号(通称、浦河街道。国道235号は浦河町の幌別でえりも町に向かう336号と日高山脈を越えて広尾町、大樹町に向かう236号に別れる)を襟裳岬を目指して走る。サラブレッドの故郷、日高町から浦河町までの約90qの区間は「優駿浪漫街道」の愛称が付けられている。アポイ岳のある様似町を過ぎて暫く走ると国道は左へ曲がり、直進すれば道道34号となり襟裳岬まで13qの標識がある。
  襟裳岬は風と霧の岬だった。風速10m以上の風が吹く日が年間290日を超えると言われている。この日はおまけに霧が風に舞い体感温度はまるで冬のように感じた。

襟裳岬灯台(7月31日 時間は不明)
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襟裳岬の案内板と雨具着用の僕(7月31日 9:13撮影)
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岬の突端にある展望台は強風と霧雨が吹き付けていた(7月31日 9:15撮影)
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  襟裳岬から再び国道336号に戻り、広尾町に向かい北上する。えりも町庶野から広尾町までの33.5qの区間は急峻な海岸線ギリギリに沿うように道路が続いていて、断崖絶壁での工事は難航を極め「黄金を敷き詰めるぐらいに金がかかった」ことから「黄金道路」と呼ばれている。
  広尾町から、大樹町、豊頃町、浦幌町へ。この辺りは十勝川を初めとする河川が太平洋に注ぐ河口地帯に当たり、336号線は海岸線からは少し離れて走るが道の右側には海岸線との間に湿原が続く。豊頃町と浦幌町の間の吉野共栄という交差点で国道336号は帯広からの国道38号に合流し、再び太平洋の沿岸に沿って釧路市に向かう。
  釧路からは国道38号は44号となり、途中厚岸から国道を離れて海岸沿いに道道123号を走り霧多布岬に寄る予定であったが、この日は雨でそろそろ疲れもあり、そのまま44号を真っ直ぐ突っ走って根室市に向かった。
   
  根室での最大の目当ては本土最東端の納沙布岬灯台のすぐそばにあるライダーハウス「鈴木食堂」に泊まって、「生さんま丼」を食べることだ。根室市街を過ぎて根室半島を一周する道道に入ると霧が段々濃くなり、納沙布岬に近づくにつれて真っ白で前が見えなくなった。やっとのことで「鈴木食堂」に着き、とりあえず今夜の寝床を確保してから別棟の食堂へ。ご飯が全く見えないほどに光輝く新鮮なさんま切り身が敷き詰められていて、真ん中にとびっこがのっている。残念なことにさんま丼の写真を撮るのも忘れてしまうほどの絶品だった。因みにさんま丼・味噌汁(ワカメ)・漬物付で1,300円也。(花咲カニの鉄砲汁付きは1,800円)

「鈴木食堂」の鈴木さん夫妻と家族(?忘れた)と(7月31日 21:38撮影)
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  翌朝(8月1日)は朝食をいただいてからすぐ先の納沙布灯台を見に行く。今朝も相変わらず霧が出ていて本来なら見えるはずの貝殻島や歯舞群島は全く見えず。
  根室から昨日来た国道44号を厚床まで戻り、右折して国道243号、別海町からは244号と辿り、尾岱沼、野付半島を目指す。途中、尾岱沼の少し手前にある別海北方展望台(独立行政法人が運営する北方領土の関する資料を展示する啓発施設で、展望室から国後島が望める)に立ち寄った。

納沙布岬灯台。北海道最古の灯台で、明治5年に完成、現在の灯台は昭和5年に建設された。(8月1日 9:01撮影)
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納沙布岬から北方領土を望む。霧で何も見えない。(8月1日 9:03撮影)
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晴れていれば見えたであろう北方領土(8月1日 9:04撮影)
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別海北方展望台に展示されていた説明文。ソ連軍の侵攻などについて書かれている。(8月1日 11:34撮影)
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  展望台から15qほど走り、右折して野付半島で唯一の一本道に入る。野付半島は別海町と標津町にまたがり、釣り針のように海に長く突き出た砂嘴(さし)で、全長が26qある(日本最大)。砂嘴とは、岸沿いに流れる海水によって運ばれた土砂が堆積してできる地形のこと。砂嘴は幅が狭くて道の両側が海なので、まるで海の上を走っているような錯覚に襲われる。釣り針の先端まではバイクでは行かれないが、途中には「トドワラ」や「ナラワラ」と呼ばれる海水に浸食されて立ち枯れたトドマツやミズナラが荒涼とした景色を出現させている・・・・・・はずだが、今回はどこにもそのような景色は見られず、帰宅してから調べてみたところ立ち枯れの木々も風化により姿を消しつつあることが分かった。

真っ直ぐな砂嘴の道を走る(8月1日 13:27撮影)
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昔見た「トドワラ」、「ナラワラ」の荒涼とした景色はもう殆ど見られない(8月1日 13:58撮影)
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  野付半島のつけ根まで戻り、国道244号を標津町で左折、272号を行く。この辺りからは真っ直ぐな道が格子状に走っていて迷いながらも、バイカーのメッカといわれる「開陽台展望台」を目指す。どの道も直線的に延びていてどこまでも続いているように見える。
  1時間ほど走ってやっと開陽台の入り口に着いた。開陽台は標高271mの小高い丘で展望台までは上りと下りが一方通行になっている。展望台からは視界を遮るものがなく根釧台地の格子状防風林と地平線が見渡せる。今では北海道をツーリングするライダーの聖地として、バイカーの間では広く知られている。

どこまでも続くように見える道を開陽台を目指して走る(8月1日 14:57撮影)
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「開陽台展望館」の屋上展望台からは360度の視界が広がる(8月1日 15:28撮影)
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展望台からは牧場の間を囲む格子状の防風林が見られる(8月1日 15:15撮影)
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地球が丸くみえる 開陽台(8月1日 15:20撮影)
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ツーリングライダーの聖地 開陽台(8月1日 15:30撮影)
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  いよいよ北海道一周バイクの旅も終わりに近づいた。最後に摩周湖の伏流水が湧き出た池という言い伝えがある「神の子池」に立ち寄った。摩周湖が他の湖と大きく違うのは、湖に流れ込む川も流れだす川も無いことだ。それなのに、春にはたくさんの雪解け水が流れ込むのに水位が変わらないのは神の子池のような伏流水が湧き出ているからだとされている。

神の子池の入り口にある案内板(8月1日 16:37撮影)
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神の子池(8月1日 16:39撮影)
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  そして、北見へ戻る前に美幌の焼肉割烹「田村」に寄って、旅の疲れを癒したのであった。めでたし、めでたし。
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                 回想の北海道一周バイクの旅 完

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2018年08月16日

靖国神社参拝

 平成30年8月15日(水)、今日は73回目の敗戦の日。晴れ。午後の最高気温は33℃。
 前日の8月14日、北見より上京。午前11時に九段下の改札口にて、長男夫婦と待ち合わせて靖国神社に向かう。神社までの短い舗道は混雑している。それに増して道の両側には様々な団体が横断幕を張り、チラシを配ったり、署名を求めたりして騒々しい。例年は8月15日を避けて参拝するので静かなものだが、やはり想像したとおり15日当日の参拝は賑やかだ。

 いつものように一礼して鳥居をくぐり、手水舎で手と口をすすぐ。少し行くと右側のテントではなにやら聴衆を前に奥の演壇からマイクを通して話しているが、どこかで聞いたような外国人なまりのある声だ。ケント・ギルバート、そう彼だ。と思えば、左側では旧陸軍のカーキ色の軍服を着た兵隊と白い士官服を着た軍人が大きな掛け声を掛けながら行進している。

ケント・ギルバート氏の講演を聴く聴衆(8月15日 11:24撮影)
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 そして、雑踏を潜り抜け拝殿に近づくと神門から先は50mもあろうか、行列ができている。このかんかん照りにもかかわらず黙々と並んでいる。その両脇にはスキー場の人工降雪機のような機械が設置され水蒸気を吐き出しているが効果なし。
 暫く並んでいたが、こりゃだめだと観念し二人はまだ遊就館を見ていないと言うので、列の外へ出てその場で手を合わせ二礼して遊就館に向かう。

炎天下、参拝のため並ぶ行列(8月15日 12:43撮影)
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拝殿前の混雑(8月15日 12:45撮影)
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 遊就館に入って少しして正午とともに、その場で全員が黙祷。ここも混んでいて映画室も満席。飛ばして明治維新から大東亜戦争までの近代史解説や遺品の展示を見て、最後に英霊の遺影や遺書が展示されているところで久夫(僕の父であり、二人には祖父)と博(久夫の長兄。久夫は三男。ノモンハンで戦死。)の名前を探すが見当たらず。今まで何度か遊就館を訪れているが、「遺族が写真や遺書を提出した英霊だけが展示されていて、それ以外は展示していない」と断りが書いてある。母も祖父も何故か提出しなかったのだろう。

遊就館入口。ここも大混雑。(8月15日 11:54撮影)
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遊就館内部、入り口近くに展示されているゼロ式戦闘機。(8月15日 11:58撮影)
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 遊就館を出て、相変わらず拝殿前に並んでいる行列を横目に二人は神札をいただく列に。僕はここで二人とは別れて、歩いて飯田橋へ出て帰途に就いた。

 
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2018年08月14日

僕の心に残る好きな映画

 最近、映画を見る機会が少なくなった。昔(ビデオやネットが普及する以前)は映画を見るためには映画館に行くしかなかった。今は、ビデオを借りてきて見る時代も終わりに近づいている。
 現在はAMAZONのPRIME会員になっているので、いつでも直接ネットで好きな映画を視聴することができる。 ただし、好きな、と言ってももちろん見たい映画がなんでも見れるわけではない。特に最近の映画には見たいと思うものが少ないし、心に残っているような昔の映画も殆ど見られない。(と勝手に思っている)

 僕は中学2年の1学期までは北海道の北見市で育った。因みに生まれたのは東京、信濃町の慶応病院である。
 昭和20年3月と言えば東京が連日のB29による空襲により甚大な被害を受けていた時である。
 僕が生まれる前年の9月には既に父、久夫は遠くフィリピンのレガスピー空港から戦闘機で飛び立って戻らぬ人となっていた。
 そして、僕は3歳の時に母が病気になり横浜、鶴見の病院に入院したため父の実家である北見市の祖父の許に引き取られた。それから母がようやく退院して何とか普通の生活ができるようになったのを機に僕を取り戻すまで約10年間祖父母の許で暮らした。母の許へ戻ったとき僕は中学2年、13歳になっていた。

 僕の最初の思い出の映画は、小学生のころ毎年12月になると祖父に連れて行かれた「忠臣蔵」である。祖父は昭和の初めまでは道議会議員を務めていたが、昭和2年に最愛の妻を失ってからは政治からは身を引き牡丹園(当時)の創立、整備に全霊を傾けた。そして昭和14年に長男の博をノモンハン事件で、昭和19年には大東亜戦争(太平洋戦争)で三男の久夫(僕の父)を失った。「忠臣蔵」は思い出の映画というよりは祖父の思い出である。

 その後は、中学生の1,2年のころ見た石原裕二郎主演の映画である。当時北見の映画館は北見銀座と言われた繁華街に2軒か3軒あり、2軒は邦画、他の1軒は洋画が専門だったような気がする。邦画は確か東宝会館とか言ったと思うが、誰かと一緒に見に行った記憶は無いので一人で見に行った。「嵐を呼ぶ男」(昭和32年公開)、「風速40メートル」(昭和33年公開)、「錆びたナイフ」(昭和33年公開)、「紅の翼」(昭和33年公開)、「陽のあたる坂道」(昭和33年公開)などが記憶にある。
 中でも「陽のあたる坂道」は田舎町に育った自分にとって、東京の生活は眩しく憧れに近い存在に映った。
そのころの記憶には洋画も何本かあり、他は忘れたがウイリアムホールデンの「慕情」(昭和30年公開)が内容は憶えていないが記憶に残っている。

 中学2年の2学期から(昭和33年か34年だと思う)僕は東京へ出てきて母と一緒に暮らすようになった。母はとても映画好き(といっても洋画だけで邦画は全く見ない)だったので、その影響を受けて僕も見るのは殆ど洋画だった。
 と言っても、当時は映画館で見た記憶は殆どなく専ら当時普及し始めたテレビ、それも我が家ではテレビを買う余裕は無かったので、大家さんの(当時は間借り暮らしだった)テレビを大家さんの留守中にお手伝いさ
んに、内緒で見せてもらった。
また、母からは映画音楽についてもいろいろな名曲を教えてもらった。「エストレリータ」(1913年メキシコのマヌエル・マリア・ポンセ作詞・作曲)をマントヴァーニなどの演奏で聞いていた。「ローマの休日」でも使われていた。ビリーワイルダーの「Love in the Afternoon」の「魅惑のワルツ(Fascination)」などなど、数え上げたらきりがない。これもマントヴァーニの定番だった。

 映画館に映画を見に行く時代からビデオ屋ができてビデオを借りて映画が見れるようになると、片っ端から面白そうな洋画を借りて見た。
 思い出すままに挙げると、母に薦められて見たスペイン映画「汚れなき悪戯」、アラン・パーカーの「Midnight Express」、ピーター・ウイアーの「モスキート・コースト」、「刑事ジョン・ブック/目撃者」。アンリ・ジョルジュ・クルーゾーのイブ・モンタン主演「恐怖の報酬」、デビッド・リーンの「戦場にかける橋」、「ライアンの娘」、「ドクトル・ジバゴ」、ビリー・ワイルダーの「お熱いのがお好き」、ジュゼッペ・トルナトーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」、ピエトロ・ジェルミの「鉄道員」、「刑事」、フェデリコ・・フェリーニの「道」、ルネ・クレマンの「禁じられた遊び」、ビットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」、クロード・ルルーシュの「男と女」、ニール・ジョーダンの「クライング・ゲーム」、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」、シドニー・ルメットの「12人の怒れる男」、スタンリー・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」、マイケル・チミノの「デイア・ハンター」、フランク・キャプラの「素晴らしき哉人生」、チャールズ・チャップリンの「ライムライト」、リチャード・ギア、デブラ・ウインガー主演、テイラー・ハックフォードの「愛と青春の旅立ち(原題はAn Officer and a gentleman
)」、ジャック・タチの「僕の伯父さん」、高峰秀子主演、木下恵介の「二十四の瞳」、同じコンビ+佐田啓二の「喜びも悲しみも幾年月」、小津安二郎の「東京物語」、「晩春」、「秋刀魚の味」、 黒沢明の「蜘蛛の巣城」(これは確か北見で見た)、「七人の侍」、「生きる」、小林正樹の「切腹」、「東京裁判」、「上意討ち 拝領妻始末」、熊井啓の「日本の熱い日々・謀殺下山事件」、「愛する」、監督や映画の内容は全く憶えていないが、主題歌の「Temptation」と主演女優のエレオノラ・ロッシ・ドラーゴは今も鮮明に憶えているイタリア映画「激しい季節」、ジェームスデイーン出演、エリア・カザンの「エデンの東」、ジョージ・ステイーブンス監督の「ジャイアンツ」、ニコラス・レイ監督「理由なき反抗」、マックイーン主演のピーター・イエーツ「ブリット」、マックイーンとダステイン・ホフマン主演のフランクリン・J・シャフナー、「パピオン」、ジーン・ハックマン主演、ウイリアム・フリードキンの「フレンチ・コネクション」・・・・・
 
  10年前のぼたん園でまだまだCOOPも、街灯も、もちろんLAWSONも無かったころ、夜10時頃外出から帰り、真っ暗な参道を歩きながらふと空を見上げると、黒々と天に向かって立つ木々の間から見たあの天の川のように輝く星たち。僕の心は君たちでできている。今でも。

   僕は嘘と虚構は嫌いだ。だから小説や映画もリアリテイーの無いものは興味が無い。一時期は宮崎駿の「風の谷のナウシカ」や高畑勲の「火垂るの墓」などのアニメ映画も新鮮に思えて見たが、僕にとってはやはりアニメは現実感がない。小説であっても所謂「社会派」と呼ばれるものや「ドキュメンタリー」ものが好きだ。
 「事実は小説より奇なり」というが作り物より、事実(真実)が一番面白い。だから映画も現実感の無いものは面白くない。俳優も「演技」を感じさせない俳優がいい。僕はイケメン俳優は映画俳優としてはハンデだと思う。男としていかにも中身が薄っぺらい感じがしてしまう。素人を起用して全く演技を感じさせない映画がたまにあるが新鮮でいい。

 蛇足だが、母が亡くなる2,3年前に我が家に自分で手作りの小さなホームシアターを作った。小さいながらスクリーンだけは100インチのスクリーンを入れた。映画好きだった母への親孝行のつもりだったが、世田谷まで迎えに行って川崎の我が家で映画を見て、また世田谷まで送って行った。最初に見せたのがチャン・イーモウの「初恋の来た道」とジュゼッペ・トルナトーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」だったと記憶している。そのころから母は段々億劫になって見に来る回数も減り、もっといっぱい見せたかったが果たせなかった。
 今は、僕が半年は北見にいるのと、ビデオ屋が無くなったので見る機会が少なくなった。それと最近の新しいオーデイオ・ビジュアルの機器やケーブルは昔の機器には対応しておらず、ついつい面倒になって宝の持ち腐れ状態になっているが、時代はどんどん進んでNetを通じていつでも好きな映画が見られる(on demand)らしいので近いうちにまた復活させようと考えている。
 
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2018年08月10日

新百合内科の高橋先生ご一家来園

 平成30年8月9日(木)朝から雨なので休園とした。
 午後、突然女性の声で電話がかかる。「新百合内科」と聞き取れたが頭の回転が追いつかない。「高橋先生の奥様ですか?」と私。「今、女満別空港に着いたところで、これからレンタカーを借りてぼたん園にお寄りしてもいいですか?」と奥様。

 高橋先生とのお付き合いはもう何年になるだろうか。20年以上前から血糖値は高めだったので最初は近所の長井先生のお世話になっていたが、先生が引退されて同じく近くの「新百合内科」を訪ねたのが最初だ。
 
 私はこの10年来、川崎と北見を大体半年ずつ行き来しているので川崎にいるときは高橋先生、北見にいるときは「うれし野内科クリニック」の岡本先生にお世話になっている。おおよそ1か月に一度、血糖値を初めとする検診と薬を受け取りに行く。
 検診の時の雑談で高橋先生は私が川崎と北海道を、当時はオートバイで行き来していたこと、北見で野菜や花を育てていること、それと山ブドウワインの話に興味を持たれたのかも知れない。
 最近、私がブログを書いていることを話すと早速ご覧になったとみえ、ポルトガル、スペインで美味しいものを食べてきたので血糖値が少し上がっていますね、と言われた。
 また、メールをいただき今年の夏休みには家族で北海道旅行を計画しているのでそのころは北見にいますかと問い合わせをいただいた。ちょうどこのころ夏の間、世田谷の東京農大のワイン講座を受講するために奔走していたので申し訳ないが不在かも知れない旨お伝えした。

 その後、ワイン講座の内容が私が意図していたものと違ったので4月20日過ぎには北見に来た。すっかりそのことは忘れていたが、先生は憶えていてくださったのだ。
 14:00頃、高橋先生ご夫妻、二人のお子さんたち(小4と年長だそう)ご一家がお見えになる。
 とりあえず住宅で一服してから園内を一周、ご案内する。これから網走の方に向かわれるとのことであまり時間がなく、最後に野菜畑の回りに自生している山ブドウの前で写真を撮ってお別れした。

 この次はもっとゆっくり来てくださいね。北見の近くにもいいところがいっぱいありますので。
 ともかくはお立ち寄りいただき、ありがとうございました。

 高橋先生とご家族。園前の野菜畑、山ブドウの前で。(8月9日 15:31撮影)
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