2020年01月31日

ホテルニューグランド

  昨年12月、横浜市中区にあるホテルニューグランドに妻と行ってきました。以前からずっと訪れたいと思っていたホテルです。

  ホテルの目の前は山下公園、その先は横浜港です。横浜マリンタワーや横浜港大さん橋国際客船ターミナル、みなとみらい地区、そして中華街や元町にも近く、最も港町横浜らしいロケーションです。横浜らしいと言えば、この日はホテルを訪れる前に、瀟洒な洋館が点在する高台の山手町にあるカトリック山手教会に寄ってきました。すぐ近くにはフェリス女学院や横浜双葉などの名門女学校があります。

  山手教会のお御堂は、現在は工事中で内部を見ることはできませんでしたが、教会の駐車場に車を駐車して、すぐ隣のフェリス女学院と隣接している山手公園を散策してから車に戻り、代官坂トンネルを抜けてニューグランドホテルへ向かいました。

横浜山手教会の御堂


  トンネルを抜けたところで、偶然にも大学生時代に行ったことのある"Cliff Side"を見つけました。その頃は、まだダンスホールなど経験もありませんでしたが、オーナーが大学の先輩であったこともあり、ゼミの先輩に連れて行かれたことを懐かしく思い出しました。当時は生バンドが入っていて大人の社交場として大変な混雑だった記憶がありますが、ネットで見ると創業は1946年、今は横浜でもこうした社交場はここしか残っていないようです。まだ時間が早いので店は閉まっていて中を覗くことはできませんでした。

  代官坂を下って、ホテルに到着した頃には、辺りはもう暗くなっていました。5階(その後6階)建ての旧館と平成3(1991)年に開業した地上18階建てのタワー館がありますが、タワー館地下の駐車場に車を停めてエレベーターで1階に上がると、そこは吹き抜けのロビーです。床も柱も椅子やテーブルなどの調度品も、全体がヨーロッパの古いホテルにタイムスリップしたような感じです。12月だからでしょうか、天井から吊り下げられた大きなシャンデリアの下には本物のクリスマスツリーが置かれています。

タワー館1階のロビー


  そのまま奥の方に進むと、そこは旧館の1階に繋がっていて、廊下には昔のホテルの絵や写真や生花が飾られています。旧館の1階にはコーヒーハウス「ザ・カフェ」とイタリアンレストラン「イル・ジャルデイーノ」がありますが、今日の目的の一つは「ザ・カフェ」での、ホテルニューグランドが発祥と言われる「シーフード ドリア」「スパゲテイ ナポリタン」、「プリン・ア・ラ・モード」の試食です。

  その前に、山下公園側にある旧館のエントランスから外へ出て公園通りを渡り、通りの反対側から建物全体を見てみます。すっかり暗くなった黒い闇に、そこだけ柔らかい照明を浴びて白く浮かび上がるようなシルエットは、正にクラッシクホテルそのものです。"The Cafe"の小さな赤いネオンが郷愁を誘います。昔、ヨーロッッパ映画で見たことのあるワンシーンのようです。

ホテルニューグランド夜景

  再び、エントランスを入ると”ニューグランドブルー”と呼ばれる品のよい青い絨毯が敷かれた大階段が出迎えてくれます。階下から見上げるその堂々とした石造りとタイル張りの階段は、威厳の中に永い歴史と伝統を感じさせてくれます。この日はたまたま、宣伝用でしょうか、モデルと思われる美男美女の新郎新婦の写真撮影が行われていました。

  大階段を2階へ上がると、正面にはエレベーターがあり、その上部には火炎のレリーフに嵌めこまれたクラシカルな時計と、アーチ状の壁には京都川島織物の綴織り「天女奏楽之図」が貼られています。このあたりは当初はフロントがあったところだそうです。

  2階にはロビーの他に大食堂と呼ばれた「フェニックスルーム」と宴会場(昔は舞踏室)だった「レインボウルーム」があります。当日は2階には誰もいなかったので、ロビー以外は中には入らずに覗いただけでしたが、ロビーには太いマホガニーの柱や横浜家具製の重厚な椅子やテーブルが配置され、「レインボウルーム」には漆喰塗のアーチ状の天井には優美な石膏のレリーフが施されているのを見ることができました。また、ロビーや「フェニックスルーム」の天井からは、東洋風の伽藍灯籠が吊るされていて、まるで歴史のある神社の伽藍をも思わせる不思議な空間です。

  「ザ・カフェ」は白い壁と木を多用した内装で、明るく暖かい家庭的な感じがする店です。店内はほぼ満席でしたが、年配のカップルや家族連れもいて、それでも騒がしくはなく和やかな空気が流れています。取りあえず「シーフード ドリア」と「スパゲテイ ナポリタン」を注文しました。

「ザ・カフェ」入口


  「シーフード ドリア」は、初代総料理長のサリー・ワイルがある時、滞在していた銀行家から「体調がよくないので、何かのど越しのよいものを」という要望を受けて即興で創作したのが始まりとのこと。大きな海老がたくさん使われ、それが上品でコクのあるグラタンソースによく合っていて、とても美味しく頂くことができました。

  「ナポリタン」は、2代目総料理長の入江茂忠が、ホテルがマッカーサー率いるGHQに接収されていた時に
米兵が茹でたスパゲテイに、塩、胡椒、ケチャップをかけて食べるのを見て、ホテルで出せるように工夫を加えたものだそうです。麺がもっちりとして、マッシュルームや大きめに切られたハムを、ケチャップは使わずに自然でコクのあるトマトソースと合せていて、これもとても上品な味でした。

「シーフード ドリア」と「ナポリタン」


  「プリン・ア・ラ・モード」は、同じくGHQ時代に米軍将校夫人たちのために「華やかでボリュームのあるデザート」ということで考案されたようですが、残念ながらここまでで満腹になってしまい次回のお楽しみということにしました。
                                                   ホテルニューグランドの公式ページや、その他の関連サイトを見ると、「ホテルニューグランド」は、昭和2(1927)年の創業ですが、なぜ「ニュー」が付いているのか、それには理由がありました。

  「ホテルニューグランド」より200mほど離れたところに現在ある「人形の家」(人形博物館)の辺りにあって、明治3(1870)年まで営業していた「グランドホテル」を前身として、明治6(1873)年に外国人居留地にあった社交クラブのマネージャーや写真家などの外国人たちが出資し、外国人のためのホテルとして同名の「グランドホテル」を、建物も建て替え、スタッフや料理長も一新して開業します。

  当時は、東京築地に慶応3(1867)年に開業した国内初の本格的西洋式ホテル「築地ホテル館」がありましたが(明治5年火災により焼失)、「グランドホテル」の建物の設計は、この「築地ホテル館」や、初代横浜駅(現・桜木町駅)、横浜税関などの当時の大きな建築を手がけたブリジェンスだと言われています。
  
  また、日本初のフランス料理店だったといわれる「築地ホテル館」の初代料理長を務めたルイ・ベギューが「グランドホテル」の料理長となり、開業当初からホテルの料理は評判となります。
  当時、ホテルの宿泊代が月決めで2食付58ドル、今の価格だと116万円といいますから、かなりの高級ホテルです。明治23(1890)年には、隣接して新館がオープンし、その後も改修と増築を重ね、最終的には客室数360余に及ぶ国内最大のホテルとなります。当時の写真や絵を見ても相当に立派な建物です。

  ところが、大正12(1923)年関東大震災が発生します。東京だけでなく、横浜の街も焼野原となります。「ホテルグランド」を含めて、山下町界隈に軒を連ねていたホテルの殆どが崩壊してしまいました。現在の山下公園は、復興のシンボルとしてその時の瓦礫で海を埋め立てて造成されたといいます。

  その後、当時の横浜市長有吉忠一の提案により、「ホテル建設計画」が市議会に提出され、その可決を受けて三溪園を造った原富太郎ら横浜財界の有力者を集めた「横浜市復興会」が結成されました。そこで決議された議案の中にあったのが「外人ホテル建設の件」で、これが「ホテルニューグランド」建設のきっかけとなりました。外国人向けのホテルは、生糸輸出などが支えていた横浜経済の地盤沈下を防ぐためにはどうしても必要なものだったのです。

  ホテルの名称は公募されましたが、関東大震災で崩壊し廃業した外国人ホテル「グランドホテル」の後継として、「ホテルニューグランド」が選ばれたとも、公募作に適当な名称がなかったため当時、横浜市復興会・計画部長だった井坂孝が命名したとも言われています。

  ホテルの建物は、当時38歳で新進気鋭の建築家、渡辺仁が設計。渡辺はその後、上野の東京国立博物館、日比谷の第一生命館、有楽町の日本劇場などを手がけています。設計書には「細部に東洋的手法を配し、日本の第一印象を付与することに務める」と書かれています。
    
  こうして「ホテルニューグランド」は横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設がすすめられ、土地、建物は市が提供し、経営は民間が担う今日の第三セクターとして出発します。初代会長には、前出の井坂孝が就任します。井坂は東洋汽船出身で、当時同じ東洋汽船のサンフランシスコ支店長だった土井慶吉を補佐役として引き入れます。

  土井は、ホテルの業務(サービス、宿泊、飲食)に明るく、早速、欧米の視察に出かけ、帰国するとパリの一流ホテルから初代の総支配人となるアルフォンゾ・デユナンを引き抜き、当時最新の設備とフレンチ・スタイルの料理をホテルの目玉に据えます。さらに、アルフォンゾ・デユナンの推薦により、当時パリのホテルで一緒に働いていた、既に若干30歳で四つ星ホテルの総料理長だったスイス生まれのサリー・ワイルを呼び寄せ、元帝国ホテルの第4代総料理長の内海藤太郎をその補佐に付けます。

  サリー・ワイルは、料理の腕前は言うまでもなく、指導者としても優秀な人物でした。本格フランス料理の味についてはもちろん、当時は堅苦しいばかりだったホテルのレストランに、パリの下町風の自由な雰囲気を取り入れました。ドレスコードや酒、煙草についても自由にし、コース以外にもアラカルトを用意するなど、一般客でも利用しやすいサービスを工夫し提供しました。

  そして、「どんなにうまい料理ができても、それを客の前に運ぶボーイの態度で客の印象は変わる」、「自分は魚の料理しかできない、肉の料理しかできない、と言うのは恥ずべきことだ」と、スタッフを指導しました。当時の日本の料理界は、まだ徒弟制度の色合いが濃く、料理人も食材ごとに担当して年季を積み、修行するのが一般的でしたのでワイルの考え方はとても革新的でした。

  こうして「ホテルニューグランド」からは、後に広く親しまれることになるドリア、ナポリタン、プリンアラモードなどの料理が生まれました。また、この厨房からは、ホテルオークラやプリンスホテルグループの総料理長、数々の名店の料理長など、多くの名料理人を輩出し、日本の食文化に多大な影響を与えました。後に、「ニューグランド系」と呼ばれるホテル料理人の人脈の創始者となったワイルは日本に20年間滞在し、弟子たちから「スイス・パパ」と呼ばれて慕われ、昭和48(1973)年にはその文化的業績に対して勲5等瑞宝章が送られています。

  ネットサイトtravelbook.co.jp から引用すると、歴史とともに歩んだ「ホテルニューグランド」として、開業当初から、皇族やイギリス王族などの賓客、チャーリー・チャップリンやベーブ・ルース、ジャン・コクトーなどの著名人が数多く来訪し、「外人ホテル」としてのブランドを確立していったとしています。また、日本人では、池波正太郎、石原裕次郎、松田優作なども訪れています。

  ダグラス・マッカーサーは、戦前には新婚旅行で(1937年)、戦後にはGHQ最高司令官として滞在しています。特に、再来日した1945年8月30日には、厚木飛行場に降り立ち、声明文を朗読後すぐさま乗用車に乗り込み、まっすぐホテルニューグランドに直行したそうです。彼が執務室として使用した315号室は「マッカーサーズスイート」として残され、現在も一般客も宿泊できます。

  また、横浜生まれの昭和の文豪、大佛次郎も昭和6(1931)年から約10年にわたり、「ホテルニューグランド」の本館318号室を創作活動の場とし、この部屋から、横浜を舞台にした「霧笛」をはじめとして、代表作「鞍馬天狗」など、数々の名作を生み出しました。大佛は仕事の気分が乗らないと、部屋から横浜港の展望をを眺めたり、バー「シーガーデイアン」(現在の「シーガーデイアンU」)でくつろいだりして過ごしたそうです。昭和48(1973)年、大佛はこの世を去りますが、遺体が東京の病院から鎌倉・雪の下の自宅へ帰る際に、わざわざ車を「ホテルニューグランド」を経由させ、横浜港とイチョウ並木、そしてホテルの従業員たちに見送られていったということです。(同サイトより)
          
  
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posted by ぼたん園々主 at 17:13| Comment(0) | 日記

2020年01月14日

ルノワールとパリに恋した12人の画家たち

  令和2年1月5日(日)、横浜美術館で開かれている「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展を見てきた。

  展覧会公式解説書の挨拶文には、以下のように書かれている。

  「2019年、横浜美術館開館30周年を記念して、オランジュリー美術館所蔵品による「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」を開催いたします。

  パリのセーヌ川に建つ、チュイルリー公園のオレンジ温室を改修した瀟洒な佇まいのオランジュリー美術館。画商ポール・ギョームが基礎を築いた同館所蔵の印象派とエコール・ド・パリの作品群は、ルノワールの傑作<ピアノを弾く少女たち>をはじめ、マテイス、ピカソ、モデイリアーニらによる名作が揃った、ヨーロッパ屈指の絵画コレクションです。

  ギョームは若き才能が集まる20世紀初頭のパリで画商として活動する一方、自らもコレクターとして作品を収集しました。私邸を美術館にする構想を果たせぬまま若くして世を去った後、そのコレクションは妻のドメニカにより手を加えられていきました。そしてこれらの作品群は、ギョームとドメニカの二番目の夫の名を冠した「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギョーム コレクション」としてフランス国家に譲渡され、同館で展示されるようになりました。

  本展は同館が所蔵する146点のコレクションのうち69点が、21年ぶりにまとまって来日する貴重な機会です。」 以下省略 

  20世紀初頭にパリに集まってきた画家と画商を中心に、さまざまな個性と夫々の人生が織りなす人間模様を、こうして100年以上の時を経て日本の現代の我々が絵を通じて垣間見ることができることに不思議な感慨を憶える。

  ここに登場する画家や画商、あるいは彼らを取り巻く人間の夫々の人生が、絵や解説を通して、まるで夫々のために作られた映画を見るように想像されて面白い。純粋に芸術を追い求めることも、時には生活のために金銭を追い求めることも、あるいは儚い愛を追い求めることも、時には尽きない欲望に翻弄されることもある人間そのものを、これらの絵から想像できることに、絵画を見る面白さがあるように僕には思える。

  海の見える丘の上に建つ明るいアトリエで、日がな一日太陽の光を浴びながら一心に絵を描いている自分を想像する。そんな時が現実になることを夢見ることもある今日、この頃である。

  主な展示作品

  以下の画家と作品に関する説明は、展覧会公式解説書から引用したものであることを予めお断りしておく。

<アルフレッド・シスレー>1839-1899
  印象派の風景画の巨匠として知られる。1862年にモネやルノワールらと知り合い、パリ郊外のフォンテーヌブローの森でともに風景画を描く。生涯にわたりパリ近郊に住み、田舎の村々の風景を繰り返し明るい色調で描いた。

・モンビュイソンからルヴシエンヌへの道 1875
  1871年、パリから西に10キロほどのルヴシエンヌ近郊に転居したシスレーは、セーヌ川の丘陵地帯で葡萄や果樹を栽培するこの農村地帯で、豊かで穏やかな自然をテーマに数々の風景画の傑作を生み出す。

  なだらかな丘の上から遥かにセーヌ川を望み、晴れた空のもとで馬車や人々が道を行き交うのどかな田園の情景が落ち着いた色彩で描かれている。画面を広く占める明るい空、地平線上のほぼ中央の消失点に続く道、画面に生命感を与える点景の小さな人物など、シスレーの風景画の特徴を見ることができる。

クロード・モネ1840-1926
  周知のとおり、「印象派」は1872年に製作されたモネの作品「印象、日の出」に由来する。1883年に、パリからノルマンデイーのジベルニーに移り住む。1890年代終わりから1926年に亡くなるまで「睡蓮」の連作に取り組み、晩年に制作された「睡蓮」大装飾画はオランジュリー美術館に収められている。

・アルジャントウイユ 1875年
  アルジャントウイユはパリから北西に10キロ程のセーヌ川右岸の町。サン=ラザール駅から20分で行ける行楽地。モネは、川面の光の反映を間近で観察するために自ら舟を改造して水上アトリエを造った。この絵はそのアトリエ舟から描いたものといわれている。

<オーギュスト・ルノワール>1841-1919
  最初は磁器の絵付け職人だったが、同じ画家のアトリエでモネやシスレーと出会い、一緒にパリ郊外の屋外で絵を描くようになる。1879年のサロン(官展)で成功してからは印象派とは距離を置くようになる。
  1890年代以降は家族の肖像画を描くようになり、また草木の繁茂する景色のなかの女性を線と色彩を調和させながら描いた。

・桟敷席の花束 1878-18880年頃
  パリのオペラ座の桟敷席の椅子に置かれた薔薇の花束。

・桃 1881-1882年頃
  白いクロスが掛った机の上に置かれた白い磁器に、葉がついたままも桃が盛られている。桃は黄色がかった淡いピンク色から赤へと美しいグラデーションで彩られ、葉の緑や、器やテーブルクロスの白と対照をなして、みずみずしい輝きを放っている。机の上に転がった一つの桃が、画面にリズム感を生み出している。

・手紙を持つ女 1890年頃
  左手に読みかけの手紙を持ち、右手を頬に当てて物思いに耽る女性。明るく描かれている画面の左には窓があって、彼女は窓の外をぼんやりと眺めているようだ。黒目がちなその目は商店が曖昧で、手紙の主のことを夢想しているようである。中略 女性の肌の輝きや夢見るような表情は、ルノワールの絵画に共通する生きる喜びや生命感を伝えている。

・花束 1900年頃
  紺色の暗い背景のなかに緑色の陶器の壺を配し、そこにあふれるように生けられた赤やピンクの鮮やかな色の芥子やバラの花を濃厚な筆遣いで描いている。暗い背景のなかで花びらが生き物のように妖しくうごめいているようであり、画家が花を通して生命力の表現を模索していた様子をうかがうことができる。

・ピアノを弾く少女たち 1892年頃
  政府からリュクサンブール美術館に収蔵する作品の制作を委託されたルノワールは、ピアノの前に座る二人の少女をテーマにした同様の構図の油彩画やパステル画を少なくとも6点制作したといわれる。そのうち国家が買い上げた作品は、現在オルセー美術館に収蔵されている。オランジュリー美術館所蔵の本作は、油彩によるスケッチといった性格のもので、晩年まで画家のアトリエに保管され、画家の没後の1928年にポール・ギョームが収集した。
  
  オルセー美術館所蔵の作品では室内の調度品や楽器が細部まで描きこまれ、人物もやや硬い調子であるが、本作では人物に焦点が当てられ、周囲は筆跡を残して簡略に描かれている。顔を寄せ合い楽譜を覗き込む少女たち。伸びやかで柔らかい筆致によって美しい色彩の調和で満たされた画面から、ピアノの音色と少女たちの声が聞こえてくるようである。

・ピアノを弾くイヴォンヌとクリステイーヌ・ルロル 1897-1898年頃
  描かれているのは、画家でコレクターであったアンリ・ルロルの二人の娘。中略
  (前出の)「ピアノを弾く二人の少女」が華やかな若々しさにあふれているのに対し、本作は、水平線を強調した安定感のある構図、はっきりとした輪郭線や落ち着きのある色彩など、古典的な様式で描かれ、落ち着いたブルジョア的な雰囲気を生み出している。以下略。  

・バラをさしたブロンドの女 1915-1917年頃
  この作品のモデルは当時16,7歳であったアンドレ=マドレーヌ・ウシュリング、愛称をデデといった。ルノワールは、この愛らしい顔立ちとブロンドの髪、輝くような素肌の少女を気に入り、最晩年のモデルとした。デデは、女優となってカトリーヌ・エスランと名乗り、画家の次男で映画監督となったジャン・ルノワールと結婚して彼の映画に出演した。中略

  全体が赤茶のトーンでまとめられ、薄塗の地に鮮やかな色が濃彩で描かれる。対象の形態は空気に溶け込むように曖昧ではあるが、はだけた胸や袖をまくりあげた腕の輝くような素肌の表現には、画家の衰えない創作意欲が垣間見える。以下略。

<ポール・セザンヌ>1839-1906
  1862年頃、生地であるプロヴァンスから友人だったエミール・ゾラのあとを追ってパリへと移住した。ルーブル美術館で過去の絵画を、リュクサンブール美術館では同時代の絵画を模写した。印象主義は放棄したが、パリとプロヴァンスでの制作は続けた。

  1895年に最初の個展が開かれ、以降若い芸術家たちから近代絵画の先駆者として崇拝される。ピカソにも影響を与えた。作品には、静物とプロヴァンス地方の風景画や肖像画、浴女を描いた作品も手がけている。

・りんごとビスケット 1879-1880年頃
  木製の箱の蓋が帯のように画面を横切り、その上に鮮やかな赤やオレンジ色の果物がリズミカルに配置され、右端には青い皿の円形が半分だけ描かれている。箱の手前につけられた縦長の金具が、画面の中央でバランスを取る役目を果たしている。壁紙の花柄は浮き出るように描かれ、すべての要素が緊密に関連づけられ、緊張感のある画面を作っている。
  静物画のお手本のような絵だ。

・セザンヌ夫人の肖像 1890年頃
  オルタンス(セザンヌ夫人)は、簡素な肘掛け椅子に座り、両手を厳かに膝の上に置いている。彼女の顔は表情がなく、何にもこびない様子である。筆遣いは素早く、不規則で一つ一つが際立っている。輝くようなハイライトは、明るい絵具の厚塗りではなく、カンヴァスの地が見えるように塗り残すことでつくられている。このテクニックによって、質素な黒いドレスに量感と生命感が生まれている。背景は筆跡と青と緑の微妙なヴァリエーションだけでいきいきとしている。ここでもまた、絵具を塗らずに地が残された部分がある。正面を向くモデルと少し角度をずらして置かれた椅子がちらりと見えており、それによって構図に不安定さがもたらされている。

・小舟と水浴する人々 1890年頃
  横に細長い形をしており、画面中央には広々とした水面と空が、左右には岸に沿って水浴する人々が描かれる。左眼には小さなボートが係留され、画面中央にはゆったりと停泊する帆船が描かれる。そのマストの垂直線は、やや弧をえがくように空と水をつないでいる。以下略。

・わらひもを巻いた壺、砂糖壺、りんご 1890-1893年頃
  本作は、テーブルの上の果物や器などを通常とは異なる視点で描くという革新的な表現方法を取り入れた、セザンヌの独奏的な静物画の最良の例である。以下略。

<アンリ・ルソー>1844-1910
  フランス西部のラヴァルで生まれ、従軍した後パリの税関で働いていた。余暇に絵を描き始め、1885年頃にはパリのサロンに定期的に出品するようになる。1905年には、サロン・ドートンヌに3枚の絵を出品、前衛的な詩人や芸術家たち、そして批評家にも称賛された。

・人形を持つ子ども 1892年頃
  青空を背景に、水玉模様の赤いワンピースを着た少女が大きく描かれている。上半身は正面を向いているが下半身は斜めから捉えられ、椅子に腰かけるように膝を曲げている。しかしそこに椅子はなく、しかも彼女の足は草原の中に埋まっているようだ。目を見開いてこちらを凝視する少女の顔は、彼女が腕に抱いた人形と同様表情や動きがなく、イコン(聖画像)のような神秘的な印象を与える。以下略。

・婚礼 1905年頃
  木立の中で花嫁を中心に正装をした人々が集う、結婚式の記念写真を思わせる作品である。後列右から二人目がルソー本人と言われる。周囲の木々を斜め方向に次第に小さく書き、前景に大きな黒い犬を置いて奥行きある空間を暗示しているが、人物は切り絵を貼りつけたように平面的に描かれる。奇妙なことに、花嫁は空中に浮かんでいるように見える。以下略。

・ジェニエ爺さんの二輪馬車 1908年頃
  ジュニエ爺さんは、ルソーの家の近くに住む食品雑貨商で、毎朝荷馬車に載って野菜を買い出しに出かけた。ジュニエの妻がルソーの料理人だったこともあり、ルソーはその一家と親しくしていた。ここみはジュニエ爺さんの一家とともに、黄色い帽子を被ったルソーが描きこまれている。以下略。

<アンリ・マテイス>1869-1945
  フォーヴィズム(野獣派)のリーダー的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も、20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し、「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけている。(Wikipediaより)

・三姉妹 1917年
  三姉妹の肖像画である本作は、マテイスによる傑作のひとつである。濃褐色の背景の前に佇む黒髪の三姉妹のうち、二人はこちらを真っすぐ見つめているが、右下の一人は読書に夢中になっているようだ。画家は、衣服や姿勢の異なる三姉妹や首長の強い色彩、異なる視点から描かれたモチーフといった、一見すると相容れない要素をバランスよく配置している。以下略。

・若い娘と花瓶(別名:バラ色の裸婦) 1921年
  本作に描かれている裸婦は、タオルを引きずるように手に持ち、窓際に佇んでいる。頭には白いターバンを巻き、その顔貌ははっきりと描かれていない。彼女の胸も簡単に表され、二つの丸いふくらみを示唆するに止められている。以下略。

・赤いキュロットのオダリスク 1924-1925年頃
  画面右側には大ぶりな花柄のパネル状のものが2枚並んでおり、画面全体の平面性を印象づける。中略。
  女性が身に着けているゆったりとした白いチュニック(丈が長めの上着)と、金の刺繍と宝石が縫いこまれた赤いムーア(イスラム)風のキュロットは、中近東の文化を連想させるに十分だ。以下略。

<パブロ・ピカソ>1881-1973
  言わずと知れた20世紀で最も有名な画家であり、その一生は数々の女性遍歴とともに膨大な数の作品を残した。ここで解説をするまでもなく、これまた膨大な伝記本や解説書、ネットにも分かり易い解説が沢山掲載されている。(例)art-whitecanvas.com/picasso/

・大きな静物画 1917-1918年
  より分かり易く単純な形体を用いた後年のキュビズム作品。瓶やグラス、果物鉢などが複数の視点から捉えられ、一つの画面に再構成されている。

・白い帽子の女 1921年
  女性が赤い椅子に右腕をもたれ、メランコリアのポーズで座っている。無機質な色味のキュビズム作品から一転し、画面には色彩が取り戻された。明部には青や赤、白が、それらの影にあたる暗部には灰色や茶色が柔らかな筆触で描かれることによって、パステル画のように、甘美で繊細な印象を見る者に与える。

・布をまとう裸婦 1921-1923年頃
  ピカソと親しく交流したジャン・コクトーは、この時期のピカソの作風について、「大きな牛の目を持つ、堂々として美しい女性が、巨大な四角い手で、石造りの布を掴んでいる」と表現したように、女性の手は不自然に肥大化されて描かれる。そして彼女は斜め下を向いてうつむき、静かに目を閉じている。灰色とピンクを基調とする色味もまた、この時期のピカソ作品の特徴である。

・タンバリンを持つ女 1925年
  片方の手でタンバリンを持ち、もう片方の腕にもたれて横たわる女性が歪曲されて描かれる。また、画面の随所に、ピカソの本領である挑戦的な表現が見られる。意図的に輪郭線と色面がずらして描かれたり、絵の具を擦り付けることにより、故意に下地を見せたり、さらに藤色や黄土色、ターコイズと深紅といった、捕食に近い色味を並置するという色彩の冒険にも挑んでいる。

<アメデオ・モデイリアーニ>1884-1920
  1906年に美術を学ぶためにイタリアからパリに来て、モンマルトルに住んだ。初めは彫刻家を目指したが、後に絵画に専念した。ポール・ギョームはモデイリアーニが1920年に早世するまで、その作品を数多く購入した。

・新しき水先案内人ポール・ギョームの肖像 1915年
  モデイリアーニは1914年にポール・ギョームに出会った。当時ギョームは、23歳で画廊経営を始めたばかりであったが、まだ無名のこの画家のために、モンマルトルの「選択船」にアトリエを借りた。1915年から翌年にかけて二人は親密に交流し、モデイリアーニはこの若きパトロンの姿を4点の肖像画に描き留めた。

<キース・ヴァン・ドンゲン>1877-1968
  キース・ヴァン・ドンゲンはオランダで生まれ、子どもの時から絵を描いていた。1897年に初めてパリを訪れ、以降何年もモンマルトルで貧しい生活を送った。その間、雑誌や週刊誌の出版に協力し、戯画的な素描によって知られることになる。1904年頃からヴラマンクやマテイスとともに色鮮やかな作品を発表し、「フォーヴ(野獣)」はと呼ばれた。1920年代から30年代にはパリの社交界を象徴する肖像画家として絶頂期を迎え、富と名声を得た。1922年にはレジオン・ド・ヌール勲章を授けられた。

・ポール・ギョームの肖像 1930年頃
  ポール・ギョームは1918年に、ドンゲンの最新作25点による古典を開催した。本作はその古典からおよそ12年後、ギョームは画商として、またヴァン・ドンゲンは画家としてそれぞれ名声を得た頃に描かれた。 ギョームの胸には、レジオン・ド・ヌール勲章の赤いリボンが見える。

<アンドレ・ドラン>1880-1954
  フォーヴ(野獣)派の一人。ポール・ギョームとは、長年にわたり強い結びつきを持った。

・ポール・ギョームの肖像 1919年
  ギョームは多くの画家に自分の肖像画を描かせた。本作では、右手に煙草を、左手に本を開く姿が描かれる。スーツや蝶ネクタイと瞳は、ギョームが最も好んだ青色で統一される。寒色系の色調により、ギョームの威風堂々とした冷静な様子が演出されている。

・台所のテーブル 1922-1925年頃
  フライパンを中心として、その周りに配置されたグリルやバゲットと木製のスプーンは十字架を暗示しており、個々の道具の配置や形体、色味の決定における画家の綿密な計算をうかがわせる。また、画面右側から差し込む強い光は、ありふれた道具にドラマチックな演出を加えている。

・アルルカンとピエロ 1924年頃
  本作では、イタリアの仮面演劇コメデイア・デラルテの登場人物が主題とされる。多色格子模様の服に三日月形の帽子を被るアルルカンと、ひだ模様の白い寛衣に黒い縁なし帽を被るピエロである。16世紀以降、こうした曲芸師の主題は、セザンヌやルノワール、ピカソなど多くの画家により繰り返し取り上げられてきた。

  片膝を上げてギターを演奏する彼らは、永遠に同じダンスを繰り返すマリオネットのようだ。楽しげなダンスや音楽のイメージとは対照的に、彼らは互いに目を合わさず真面目な表情を浮かべており、哀愁が漂う。

・大きな帽子を被るポール・ギョーム夫人の肖像 1928-1929年頃  
  モデルは、ポール・ギョームの妻であり、後に建築家のジャン・ヴァルテルと再婚したジュリエット・ラカーズ(通称ドメニカ)である。大きなつばのある帽子に豊かな襞のストールを見に着け、エレガントな装いだ。背景の赤いカーテンもまた、裕福な住まいを暗示する。

  整えられた眉や白いハイライトで強調された瞳からは、社交に長けた彼女の一面とともに、強い意志や傲慢な性格も感じられる。彼女は、ポール・ギョームが亡くなった後、地位と財産を守るため、手段を選ばずに夫や愛人を操って、数々のスキャンダルを巻き起こした。画家は本作において、晩年になるにつれて明らかになった彼女の本性を描き出すことに成功している。

・黒い背景のバラ 1932年
  漆黒の背景と花瓶によって、鮮やかな花と葉の存在感が際立っている。花瓶が画面の垂直軸に、また花束が画面のほぼ中心部から放射線状に配されることで、堅牢な構図となっている。一方、花を描く軽やかな筆致が、画面に躍動感をもたらす。画面下部に添えられた、一輪の花が浮かぶ透過性の高いガラスのボウルの存在や、光の反射を示す花瓶の白いハイライトも効果的だ。

<モーリス・ユトリロ>1883-1955
  モーリス・ユトリロは、パリのモンマルトル地区に生まれた。父親は不明であり、母親はモデルであり画家でもあったシュザンヌ・ヴァラドンである。若くして患ったアルコール中毒を紛らわすために絵を描き始めたが、絵に喜びを見出して絵を描き続けた。モンマルトル地区を主題にして何百もの絵画を手がけた。クリニャンクール教会のように、インスピレーションを与えてくれる通りや記念物を何度も繰り返し描いた。

・クリニャンクールの教会 1913-1915年
  灰色の空と紅葉した樹木によって、秋の風景であることが示唆される。わずかに人物のシルエットが描きこまれていることでひとの気配が感じられるものの、寒色を基調とした画面には寂寥感が溢れている。

<シャイム・スーテイン>1893-1943年
  リトアニア育ちのフランス人画家シャイム・スーテインは、エコール・ド・パリの代表画家の一人である。  彼はグラジオラスや家禽、接客する店員や聖歌隊の子どもたちを次々に描いた。彼が描く人物像はメランコリックで、風刺のように誇張された特徴を持ち、その身体は激しく歪曲され、鮮やかな色彩のコントラストの衣服を着ている。静物画では殺された動物や川を剥がれた動物の骨格が好んで描かれた。
  
・小さな菓子職人 1922-1923年
  モデルの顔は長く引き伸ばされ、細く華奢な首が白い仕事着からのぞいている。あどけなさが残る顏、大きな耳、肩を張って強張った姿勢から、この少年の人間性を読み取ることができるだろう。手に持った色鮮やかな紅い布は、グレーや緑によって陰影を入れられた白い衣服とコントラストを生んでいる。

  画家を発見したギョームは、手に入れたスーテインの菓子職人を描いた絵について、自身が創刊した「パリの芸術」で絶賛している。そして、ギョームの画廊でこの作品を目にしたアメリカ人美術収集家のアルバート・バーンズが、スーテインの作品を大量に買い上げることとなり、画家の生活は一変した。

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2019年12月21日

Vincent van Gogh 展

  令和元年12月21日(土)16:30。窓からは、今にも冷たい雨が降ってきそうな黒灰色の空と、ゴルフ場の照明灯が枯草色の芝生を煌々と照らしているのが見える。今日は、朝から8℃前後の気温が続いていて、これから夜にかけて冷え込み、最低気温は3℃の見込みだ。明日は雨の予報で、山沿いでは雪が降るとの予想だ。

  昨日は、午前中に上野の森美術館で開催されている「ゴッホ展」を見てきた。10月11日(金)から来年1月13日(月)まで上野の森美術館で開催され、来年1月25日から3月29日までは兵庫県立美術館(神戸市)に巡回開催されることになっている。

  今年の2月1日(金)、すなはち平成31年2月1日には、同じ上野の森美術館にて開催された「フェルメール展」を見に行っているので、今年は「フェルメール」と「ゴッホ」を同じ美術館で続けて見ることになった。

  午前10時に家を出て、11時半ごろに美術館に着く。「フェルメール」のときのように並ぶこともなく、スムーズに入場券を購入して、館内に入ることができた。ところが、館内は「フェルメール」ほどではないにしても結構混んでいて、やはり人ごみの後ろから絵を見るか、のろのろと人の流れに従ってゆっくりしか進めない。

  この日は、午後2時半までには新百合ヶ丘駅に戻らなければならない約束があるため、途中からは「ハーグ派」と「印象派」のゴッホ以外の作品はサッと見る程度にして、最後の部屋に集中して展示されているゴッホの作品を重点的に見ることにした。

  フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜90年)は、37年の短い生涯のうち、画家として活動したのは27歳からのわずか10年に過ぎない。しかし、その10年のあいだに約850点もの油彩画と、素描(デッサン)約1000点を残している。

  今回の「ゴッホ展」では、傑作「糸杉」、「薔薇」をはじめ、初期から晩年まで、世界10か国27か所から重要作品約40点が集結され、ゴッホの画風に大きな影響を与えたオランダのハーグ派とフランスの印象派を代表する画家の作品約30点とともに展示される。

  僕は、これまでゴッホの作品は「ひまわり」しか見たことがない。「ひまわり」は、1987年(昭和62年)に当時の安田火災(現損保ジャパン日本興亜)が53億円で購入し、新宿本社の42階にあった「東郷青児美術館」に展示された。当時、僕は同じビルの32階に勤務していたので、その頃に何回か見に行く機会があった。

  そのときは、ゴッホについてほとんど知識もなく、「これが53億円か」と思った程度で、それほど感動した記憶はない。でも、今回は素直に「いいな!」と思った。なによりも、一途な気持ちがそのままストレートに伝わってくるところが、いいなと思う。一人の男がその不器用で一途な性格の故、社会には馴染めずたったひとつ残された「画家として生きる」ことに己の生命をかけ、凄まじいまでの執念をその作品の中に残している。それが見る者に伝わってくる。

  それと同時に、できればこれから自分も絵を描いてみたいなと思った。これほどに、ひとつのことに没頭できることが羨ましいと思った。これからの自分に、そのような機会があるのかどうか分からないけれど、永年の夢でもある、チェロを弾くことと、絵を描くことがこれから先の時間にあればいいなと強く思った。

  今回の「ゴッホ展」の意味については、作品を出品し監修もしているオランダ・ハーグ美術館のベンノ・テンペル館長の寄稿から抜粋しておく。

  「本展覧会と図録は、ファン・ゴッホが画家として歩み始めてから亡くなるまでの人生、すなわち画家としてのキャリアを開始したオランダに始まり、パリ時代、アルル時代、そしてサン=レミ時代を経て、亡くなるまでを過ごしたオーヴェール=シュル=オワーズまでの最期の時期までを辿る。同時に、彼に影響を与えた画家たちの作品を通して、ファン・ゴッホの成長にも焦点を当てる。ファン・ゴッホに影響を与えたのは、ハーグ派とフランス印象派の画家たちであるが、とりわけ彼の成長におけるハーグ派の重要性は、世間にはほとんど知られていない。ファン・ゴッホと他の画家たちの作品から約70点が精選され、彼の人生と画業について物語ってくれる。中略

  本展では、ファン・ゴッホがハーグ派の影響を受けていた初期の時代から、フランス印象派に魅了され画家として成熟するまでの軌跡を辿る。彼はクロード・モネやカミーユ・ピサロをはじめとする印象派画家の作品から色彩がもつ表現の可能性を学び、ハーグ派特有の色調からの移行を果たした。そして最終的に、彼ははっきりとした輪郭線と大胆な色遣いを特徴とする日本の浮世絵から受けた影響を、印象派や新印象派の技法と融合させてゆく。」

  帰りに、以下の2冊の本を買い求めた。
  1.「ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家」 圀府寺 司(こでら つかさ) 角川ソフィア文庫
  2.「Vincent van Gogh」 産経新聞社発行

ハーグ派の画家たちとの出会い
  ハーグ派は、19世紀後半にオランダの都市ハーグを拠点に活動した画家たちのグループを指す。17世紀オランダ絵画の黄金時代より続くレアリスムの流れに属し、街の周辺に広がる田園地帯や海岸に出向いては風景画を描いた。豊かな自然とそこで営まれる素朴な暮らしを詩情豊かにとらえた彼らの作品は、画廊勤務時代からファン・ゴッホを強く魅了していた。

  グループは1870年代に最盛期を迎え、ヤコブ、マテイス、ウイレムのマリス三兄弟やマウフェ、ウエイセンブルフらが中心になり、ファン・ラッパルトら若い世代がそれに続いた。ファン・ゴッホはハーグを訪れると画家たちに教えを請い、ともにスケッチに出かけ、また芸術について熱い議論を交わした。彼らとの交流は1885年頃までにほぼ途絶えてしまうが、この時期に教わった画材の扱い方や目の前のモテイーフをひたむきに観察する姿勢は、画家としての土台を形作ることになった。(2.「Vincent van Gogh」 産経新聞社発行より)

ハーグ派の画家たち
<ヤン・ヘンドリック・ウエイセンブルフ>
・黄褐色の帆の船ca.1875
  今回のゴッホ展で、初めてオランダ・ハーグ派の画家たちについて知ったが、どれも素晴らしい絵だと思った。特にこの絵は、上空に流れる雲の合間から降ってくる光が、悠然と流れる川面とそこに浮かぶ船に映える様子が、なんとも自然で暖かい気持ちにさせてくれる。

<ヨゼフ・イスラエルス>
・縫い物をする若い女ca.1880
  質素な造りの薄暗い室内で、窓から差し込む光のもと、まだ初々しい若い女性が黙々と針を運んでいる。縫い物は自身の嫁入り支度なのかもしれない。実物を見て感じたことは、フェルメールやルノワールの描いた少女やあのイレーヌよりも、もしかしたらもっと精神的に深いものを感じたのかもしれない。

<アントン・マウフェ>
・雪の中の羊飼いと羊の群れ1887-88
  マウフェ最晩年の作品。寒々とした雪の中に固まって群れる羊と一人の羊飼い、そして遠くに小さく群れ飛ぶカラス。寒さがひしひしと伝わってくる。

・収穫Undated
  一面の枯野で腰を曲げて枯草を刈る農夫と、傍らで腰を屈めて刈った草を集める妻、遠くに協会の尖塔と街並みが小さく見える。僕には理想の夫婦に見える。
  ゴッホは弟テオとその妻ハンナへの手紙に、マウフェはいつも「自然は良い、人々が感じているよりも遥かに良いものだ」と言っていた。と書いている。

<マテイス・マリス>
・出会い(仔ヤギ)ca.1865-66
  若い母親がまだ一人歩きできない幼児を支え、子どもは飼い葉を恐る恐る仔ヤギに差し出している。子どもの目線と同じに、低く対象に接近した視点で描かれており、見る者もまるで自分がすぐ近くでこの場面に立ち会っているような親密な感覚を覚える。(2.の解説より)

  農家の庭先の明るい陽射しのもと、くっきりとした光と影の中に微笑ましい場面が描かれ、どこか懐かしい既視感がある。

<ベルナデユス・ブロンメルス>
・室内1872
  農家の暗い粗末な室内であろう、小さなテーブルを挟んで夫が赤ん坊を抱え、妻がテーブルの上の茶碗にお茶を注ごうとしている。大きな窓からは光が差し込んでいるが、テーブルの上には二人の茶碗と赤ん坊に食べさせているジャガイモ?のかけらしかない。暗い室内には家具らしきものは何もない。

  これから農作業にかかる前なのか、あるいは農作業の合間の休憩なのかは分からないが、いつかどこかで確かに見たことのある光景である。

<オランダ時代のフィンセント・ファン・ゴッホ> 
・疲れ果てて Etten,September-October 1881
  炉辺の椅子に座る病気の老人で、膝に肘をついてうなだれるように頭を抱えている。質素な衣服や生活用品がその境遇を物語るようだ。

・永遠の入り口にて 1882
  同じく、炉辺の椅子に座り、両手の拳で顔を覆うようにしている老人。人生の苦悩や悲哀が老人の身体全体から滲み出ているようだ。

・ジャガイモの皮を剥くシーン 1883
  1882年1月からハーグで暮らし始めたゴッホは、クラシナ・マリア・ホールニク、通称シーンまたはクリステインという子連れの娼婦と出会い、同棲するようになる。当時シーンは30過ぎで、未婚ながらすでに3人の子供を出産し、うち2人を生後間もなく亡くしている。ひとり生き残った5歳になる女の子を養い、さらに4人目の子を身ごもっていた。ゴッホは二人を自分の家に住まわせ、弟テオからの仕送りを分け与えることになる。
  ゴッホはこの年に、彼女をモデルにして「悲しみ(Sorrow)」と題したデッサンを描いている。

  この素描からは、ゴッホの人間、特に社会的に恵まれない人間に対する共感と、的確な表現力が見事に融合している。彼女の薄幸な人生と強さがひしひしと伝わってくる。ゴッホは友人に送った手紙で、次のように書いている。「この不器用で、やせっぽちの女性ほど良い助手をもったことはない。僕には彼女は美しく見えるし、彼女の中にはまさに僕が求めているものがある」

・ジャガイモを食べる人々Nuenen,April-May 1885
  小さなランプの光でジャガイモを食べているこの家族が、皿に手を伸ばしているその手で自分たちの土地を耕したということ、つまりそれは「手の労働」であり、彼らがいかに自らの食糧を誠実に得たのかということを、僕はどうしても示したかった。いずれこれが「真の農民の絵」だと言われることになるだろう。僕にはわかっている。

  もし、農民の絵にベーコンや、煙やジャガイモの湯気のにおいがしたら申し分ない。それは不健全じゃない。厩にこやしのにおいがしたら、結構、それこそ厩らしい。畑に熟れた麦やジャガイモや堆肥やこやしのにおいがしたら、それこそ健全だ。だが、「何てきたない絵だ」と言われるかもしれない。その心づもりでいてくれ。ぼくもその心づもりでいる。それでも「真実なもの、正直なもの」を表現しつづけるだけだ。

  ふたたび両親の住む、田舎町ニューネンに戻ったゴッホは、弟テオや妹ウイルへの手紙にこう書いている。

・器と洋梨のある静物Nuenen,1885
  この絵は、写真で見るよりも実物のほうがずっといい。土の匂いがする。樹からもいできた感がする。

・鳥の巣のある静物Nuenen,Octover 1885
  暗い画面は、目を凝らさないとちょっと何が描いてあるのかわからない。よく目を凝らして見ると徐々に自然の芸術作品が見えてくる。

パリでの印象派の画家達との出会い
  1886年2月末、ファン・ゴッホは突然パリに出てきた。到着した後で急な来訪を謝罪する走り書きをテオに送っていることから、やや衝動的な行動だったようだ。モンマルトルのラヴァル通りにある弟の部屋に転がり込むと、さっそく「パリの屋根」や「ブリュット=ファンの風車」のように周囲の風景を描きとめている。ファン・ゴッホは、約2年のパリ滞在中に大きな出会いをいくつも果たした。

  孤高の画家モンテイセリ、日本の浮世絵、タンギーやタッセといった画材屋、そして印象派の画家たち。印象派についてはすでにテオから手紙で知らされていたが、ファン・ゴッホはどちらかと言えば懐疑的なままだった。しかし、パリで初めて目にした彼らの作品は大きな衝撃となり、後に明るい色調の作品を描き始めることになる。1886年の間はこれまでのように茶やグレーを基調にした写実的な作品を手がけていたが、一方で「花瓶の花」のように、いくつもの異なる原色の間に調和をとろうと色彩研究を行っていた。(2.解説より)

印象派の画家たち
<アドルフ・モンテイセリ>
・庭園の宴Undated
  この他にも、「陶器壺の花」「ガナゴビーの岩の上の樹木」「猫と貴婦人(猫の食事)」が展示されていたようだが、僕は混んでいたので見ずに飛ばしてしまった。

<カミーユ・ピサロ>
・ライ麦畑、グラット=コックの丘、ポントワーズ

<パリ時代のヴィンセント・ファン・ゴッホ>
・タンギー爺さんの肖像Paris,January 1887
  モンマルトルのテオとゴッホの住まいの近くにタンギーの画材店はあった。店主のタンギーは売れない画家たちの面倒をよく看ていて、「タンギー爺さん」として彼らから慕われていた。

<南仏アルル時代のヴィンセント・ファン・ゴッホ>
・麦畑とポピーArles,1888
  この絵も、写真でみるより実物のほうがずっといい。色彩が生き生きと見える。色彩の躍動感は写真では伝わってこない。アルルの空はオホーツクの空を連想させる。

・麦畑Arles,June 1888
  この絵を見ていると、北海道の大空町の麦畑やひまわり畑にいるような気持ちになる。オホーツクの透明な空気の中を青い空から降り注いでくる太陽の光と、あらゆる植物と土の匂いと、あらゆる昆虫のざわめきが聞こえてくる。麦畑やひまわり畑の中を走り回っていた北見のこどものころが蘇ってくる。

<サン・レミ療養院時代のゴッホ>
・糸杉Saint Remy,June 1889
  緑の炎が燃え上がり、うねりながら天を目指して登っていくような糸杉である。1889年5月にサン=レミの療養院に入院してから2か月程後に描かれた絵である。

・薔薇Saint Remy,May 1890
  翌年の1890年、サン=レミの療養院を退院する前には体調が安定し、多くの作品を描いている。花の静物画も複数描いている。その中のひとつ。

<終焉の地、パリ郊外オーヴェール・シュル・オワーズでのヴィンセント・ファン・ゴッホ>
・ガシェ博士の肖像 1890

・オーヴェールの教会 1890

・鴉の群れ飛ぶ麦畑 1890

  これらの作品は、今回の展覧会には含まれてはいないが、ゴッホ最晩年の作品である。この年の7月27日には、ファン・ゴッホは腹部に銃弾をかかえたまま帰宅した。翌日、パリから弟テオがかけつけたが、医師も銃弾を取り除くことはできず、29日息をひきとる。享年37歳。自ら銃弾を打ったのか否かは現在も分かっていない。 
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2019年11月10日

原節子賛歌

  「原節子の真実 石井妙子」(新潮文庫)を読んだ。

  孫に読ませたい子ども向けの本を買いに若葉台のコーチャンフォーに行った。何気なく文庫本の書棚に目を走らせていたときに、何故かこの本に目が止まった。

<原節子の真実 石井妙子著 新潮文庫>
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  今までに、僕は小津安二郎の「東京物語」と「晩春」以外の原節子は知らないし、そのときの印象は古い映画(「東京物語」は昭和28年(1953年)、「晩春」は昭和24年(1949年))にもかかわらず、他の日本の女優とは一線を画する、理知的な雰囲気が印象に残っている。

  特に、「東京物語」では他の出演者と比べてさして出番が多い訳ではないが、最も印象に残っているシーンが、実の子どもたちが尾道から会いにきた笠智衆、東山千栄子が演じる老夫婦を忙しさにかまけて、ないがしろにするにもかかわらず、ただ一人心から歓待したのは、戦死した次男の嫁であり、血の繋がらない原節子演じる紀子であった。舅は紀子に「いい人がいたら再婚したほうがいい」と勧め、紀子がそれを聞いて泣き崩れるシーンである。

  それともうひとつ、紀子の将来を案じる笠智衆の舅に対して紀子が、「私、ずるいんです」と告白するシーンである。亡き夫のことを、しばしば忘れている、そして自分に何かが起こらないかと期待している自分がいる、と告白するのである。

  このシーンは、いま思い出しても笠智衆と原節子の取り合わせでなくてはならないと思わせる。他の俳優では成立しないシーンである。

  平成27年11月26日、原節子死去のニュースを新聞で読んだ。産経新聞によると、25日に死去が判明した鎌倉市内の自宅前には、前夜に続き26日も報道陣が集まったが、時折、リスも見かけるような閑静な住宅街で、50年以上前に女優引退後は表舞台から姿を消したのと同様に、自宅前はひっそりとしたまま、と報じた。

  同日、海外の主要メデイアも大きく取り上げ、伝説の大女優を悼んだ。そのなかでも、ドイツ紙ウエルト電子版が「節子は日本人に対しては西洋的な美を、西洋人には理想の日本人女性を体現した」とたたえたことが、僕には特に印象に残った。

  同じ敷地内の別棟に住む甥(75歳)によると、8月に暑さのため体調を崩して入院、診断は肺炎だった。その後、9月5日に親族5人に看取られて息を引き取った。本人の意向で公表していなかった、とのこと。

  甥によると、10年以上前に入院したことはあったが、その後は元気で料理や洗濯も自分でし、元気で暮らしていた。本や新聞をよく読み、頭はしっかりしていたという。近所付き合いはなく、時折、親族が訪ねてくる程度で、映画館などにも一度も出かけたことはなかった。テレビで放送される映画などはたまに見ていたという。

  80代の頃は散歩にも出かけ、甥の運転する車で外出もしていたが、90歳を超えてから足が弱くなり、庭を散歩する程度で外出しなくなったという。ただ、「本人は100歳まで生きるつもりだった」と甥は話す。

  近所に住む男性(76歳)によると、原さんが家の生け垣の手入れや落葉の掃除をする姿はよく見かけていたといい、「時々は買い物袋を下げて歩いているのも見かけ、挨拶を交わしていた」という。だが、5年くらい前からはあまり姿を見かけることもなくなったという。
  
  彼女の写真を見ると、内面の美しさが気品として溢れている。写真でさえそうなのだから、実物はさぞかし、その立居振舞を含めて美しい女性だったろうと思う。

  一人の人間を見るときに、その人間の生き様が全てを物語る。

  この評伝を読んで、彼女が会田昌江として大正9年(1920年)に生まれてから14歳で女優となり、女優、原節子としてそれからの28年間の女優人生で、120本の作品に出演し、昭和37年(1962年)、42歳で突然、理由も告げずに銀幕から、そして世間からも消えてしまう。そして、それ以来、姿を隠し沈黙を守り続けたこと、その間、彼女が勁(つよ)い女優として、また勁い女性として最期まで生き切ったことを知った。

  会田昌江は大正6年(1920年)6月17日に東海道線の保土ヶ谷駅に近い会田家で、二男五女の五女として生まれた。昌江が映画界に入るきっかけを作ったのも、映画界から身を引いた後も世間から彼女を守ったのも兄と姉たちとその子供であった。

  母親が大正12年(1923年)の関東大震災で負傷し、その結果心身を病むことになったり、昭和4年(1929年)のアメリカに端を発した大恐慌の影響を受けて父親の稼業である生糸の輸出も大きな打撃を受けるなど、昌江の小学校、女学校時代は経済的には恵まれない、というより困窮していた時代を過ごしている。

  小さいころから本が好きで成績も優秀だった美少女が、家庭の経済事情により女学校を中退して意図しない映画女優となり、当時はまだ世間的には評価の低かった映画業界の真っただ中で、健気にも生き抜いていくことになる。
  
  その後、原節子16歳のときに偶然にも、当時の世界情勢を反映して、表向きは映画史上初の「日独合作映画」を作るという名目で、実際にはナチスが出資して日独軍事協定締結を促進するためにドイツ人を納得させるために作られる国策映画「新しき土」(外国では「侍の娘」)の主演女優に抜擢されてしまう。

  これ以降は、いい意味でも、悪い意味でも、美人女優として、当時の映画界と時代の荒波に乗り出して行くことになる。

  原節子に対する評価は、国内外の名匠たちの言葉を借りると、次のようになる。

  山中貞雄(作品名「河内山宗俊」)
   「この役柄に欲しいのは清純そのもの、女学生のような女優」「女優にはあんな子は珍しい。素直で、無口で、あどけなくって・・・一口に云えば、まだ全然子供なんだ。悪く女優ズレしたところが一つもない。清楚で、如何にも純真って感じだ」

  アーノルド・ファンク(ドイツ人、作品名「新しき土地」(海外では「侍の娘」))
   「いいですか。わざわざ、ドイツの映画監督を用いて、ヨーロッパで受けるような映画を作ろうとしているのですよね。だとしたら私の目を信じてほしい。彼女こそ、ヨーロッパにおいて日本を代表する女優にふさわしい美しさ持っているのです」

  島津保次郎(作品名「光と影」、「緑の大地」、「母の地図」など)
   「節子さんの性格は、女優に珍しい程地味なので、撮影所の中でときどき、人づきあいが悪いなどと言われますが、私がつきあった限りでは、別にそんな風にも思えません。無口な人ですから、そう思われるのかも知れませんが、変に馴れ馴れしくされる薄気味悪さより、この方がずっと私にはつき合い良く思われます」
   「この人が巧くなったら素晴らしいだろうな、と。すると急に、この人を大成させるのは自分の義務であるような気がしてきます。聊か思い上がった気持ちですが、これもインスピレーションの一種でありましょうか」

  黒沢明(各品名「わが青春に悔いなし」)
   「原節子の美しさは、幾ら讃めすぎても讃めたりない。こういう女が吾々の種族のあいだから生まれて来たことが、すでに吾々にとって不思議である。奇跡の感を与える」

  吉村公三郎(「安城家の舞踏会」など)
   「こんな立派な顔をした女優が日本にもいたものか」

  新藤兼人(当時、吉村の助監督)
   「原さんはまるでライオンのように見えた。素晴らしい美貌で、王者の風格があった。セットで椅子にひとり腰かけていると誰も近づけなかった」

  石坂洋二郎(「青い山脈」原作者)
   「原さんの風格ある美しさは日本映画の貴重な財産だと思う。(中略)大ていのスタアと云われる女優さんの美しさの中には、どこかミーチャンハーチャンが好む卑俗さが潜んでいるものだが、原さんにはその卑俗さが全然感じられない。だからこの美しさは映画の内容によってはむしろ邪魔になる美しさなのかも分からない。だが、これからの日本映画は、この原さんのもっている美しさが邪魔にならず、むしろ生かして使うような方向へ進んで行くべきではないだろうか」

  小津安二郎(「晩春」、「麦秋」、「東京物語」など)
   「原君を一言にして批評してみると、第一に素晴らしく、”感”のいい人だということであり、”素直”であることだ。このことはお世辞ではなく僕ははっきり言い切れる。
    ”晩春”のシナリオも勿論、紀子の役は、最初から原君を予定して書いた。原君自身はあまり乗っていない様だが、僕は彼女を立派に生かして見せる自信のもとに仕事を続けている」
    「原節子のよさは内面的な深さのある演技で脚本に提示された役柄の理解力と勘は驚くほど鋭敏です、演技指導の場合も、こっちの気持ちをすぐ受け取ってくれ、すばらしい演技で回答を与えてくれます。
   (中略)演出家の中には彼女の個性をつかみそこね大根だの、何だのと言う人もいますが、その人にないものを求めること自体間違っているのです」

  原節子は戦後間もなくアメリカ映画「カサブランカ」を観て、イングリット・バーグマンに夢中になる。それ以来、イングリット・バーグマンに憧れ、バーグマンのような演技者になり、バーグマンのような役どころを演じたいと切望するようになった。また、バーグマンが結婚して子どもを得たうえで女優を続けられるのは、アメリカ社会が成熟しているからで、日本では望めないことだと語っている。28歳のときである。

  バーグマンは決して人形のように美しいだけではない。陰影のある豊かな表情は、内面からにじみ出るものだと節子は思った。そして、バーグマンの演技を盗み学ぼうとした。以下のようなエッセイを「映画グラフ」昭和23年8月号)に書き残している。

  「バーグマンさま。あなたの演技の持つ幅の広さ、その深さは、同じおしごとにたずさわるほどの者なら、誰しも深く羨望するものであると存じますけれど、わたくしの最もうたれます点は、あなたの表現なさる人間性のなまなましさ、強烈さなのでございます。わたくしは最近に出演いたしました数本のわたくしの映画で、どうにかしてその女主人公の持っている女らしさ、人間らしさを、生のままで、そして強く、またあなたのそれのように洗練されたかたちで表現したいと努力いたしております。そして、いつもあなたの身のまわりにただよっている一種の温かい雰囲気とかかぐわしい匂いのようなもの、そんなものをも、わたくしは身につけたいと、欲深く願っているのでございます」

  彼女は、これまで小津を含めて、出演してきた作品に決して満足していなかった。「カサブランカ」のバーグマンのように、美しいだけでなく、自我があり、自分で人生を切り開いていくヒロインを演じたいと思い続けている。戦前から、ことあるごとに「意志の強い女性を演じたい」と語ってきたが、そういった役は巡ってこなかった。という以前に、女の「自我」が日本映画に描かれること自体が稀だった。日本社会のなかでそのような女性が好ましく思われていない、現実として存在していない、ということでもあった。

  昭和27年、32歳になった節子は、日本史のなかにそうした人物を探して細川ガラシアならばと考えたのだろう、この後、引退の間際まで、「明智光秀の娘で、気性の強い勝気な夫人、細川ガラシアを演じたい」と言い続けるが、結局実現することはなかった。

  この頃から、節子は長年続けてきた徹夜の多い不規則な仕事や、戦中戦後の食糧不足による栄養失調のせいか、一家を養うために無理を重ねたせいであろう、腸を切除する手術を受けて体調不良を理由に1年近く映画には出演せず、自宅で静養している。この後も、活躍した年の翌年は体調不良で休養を取ることが、ひとつのパターンとなっていく。

  昭和28年には、節子の義兄となる、二番目の姉、光代の夫、映画監督の熊谷久虎の「白魚」に出演中、撮影現場での鉄道事故でキャメラマンとして参加していた二番目の実兄、会田吉男を失う。吉男は節子とは6歳違いで、年も近く、仲がよかった。映画界に入ったのも二人一緒であった。

  翌、昭和29年1月には、突然左眼の視力が衰え、ものが見えなくなる。白内障である。このとき節子は33歳。本来なら白内障を患うような年齢ではない。これも、戦後、食糧事情がわるいなかで無理を重ねたせいか、それともアップを望まれることが多い、美貌の女優の宿命として、至近距離からライトを浴び続けた結果なのか。節子は、アップを撮られる時には、どんなに眼が乾いて辛くとも、まばたきをしない訓練を日頃から積んでいた。他の女優に比べて眼が大きいので、まばたきをすると目立ち過ぎてしまうことを的確に認識していた。医者からは、このまま放置すれば失明すると言われる。最大の魅力と言われる大きな眼にメスを入れるのだ。

  このとき、節子の頭をよぎったのは、引退の2文字であったという。しかし、今はまだ女優をやめるわけにはいかない。やめて暮らしていけるだけの蓄えがなかった。
  彼女には、シベリア抑留中に亡くなった長兄の家族、撮影中に事故死した次兄には遺された妻(実姉)とこども、戦争で銀行員の夫を失った三姉の家族、の生活がその肩にかかっていた。
  そして、何よりも、自分の代表作への未練があった。自分にはまだ納得できる代表作がない。せめて、自分の演じたい役を思いきり演じ、これが自分だというものを残して去りたい、という思いである。
  
  結局、様子を見続けて11月に手術を受ける。幸いにして、手術は無事成功した。

  明けて昭和31年、節子は将来を考えたのだろう、すでに東京都の狛江市に自宅を取得していたにも拘わらず、この頃から少しづつ土地や株を買うようになる。同時に、納得のいく代表作を得て映画界に生きた証を残そうともしている。「細川ガラシア」にこだわり続けたのである。

  もともと節子は質素な暮らしを好んだ。ぜいたくな着物や宝石類にはまったく興味がなく、高価な調度品も嫌った。外食はほとんどせず、食べ物に凝ることもなかった。撮影所ではよく畳鰯を無二の親友だった結髪師と結髪部屋のストーブであぶって食べた。ぜいたくを慎んで手にした金で昭和33年には狛江の自宅周辺の土地を買い増している。そのほか東京都内、あるいは神奈川県下にも少しずつ土地を購入している。

  そして、昭和37年(1962年)11月に公開された、東宝が創立30周年記念映画として、オールスターキャストで挑んだ大作「忠臣蔵」に東宝のトップ女優として松本幸四郎演じる大石蔵助の妻「りく」を演じた。
  登場シーンは長くはないが、八代目幸四郎に一歩も引けを取らない、格調高い演技であった。
  これを最後に、二度とスクリーンに戻ることはなかった。節子42歳のときである。

  この評伝を読んで、最初に思ったことは人間は、その人がいつも心のなかで思ったり、考えているとおりの人間になる、ということです。原節子(会田昌江)の美しさは、彼女の心の美しさそのものだったのだと思う。彼女の気品も、やさしさも、強さも、すべては彼女の心の有りようを映しているものだと思う。だからこそ、それらが、彼女の生き様となって一生を貫いているのだと思う。

  そして、彼女の一生を貫いているものの大きな柱の一つが、家族に対する想いのような気がする。年配の両親のもと、兄2人、姉3人に囲まれて大事に育てられた彼女が、12歳のときに発生した大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で不幸にして母親が大やけどを負い、その結果、母親は心身を病むことになる。

  評伝では、こう書かれている。

  病んだ母親に代わって少女の世話を焼いたのは姉たちだった。遠足に行くと言えば、夜を徹して自分の服を解き、昌江の服に仕立ててくれた。朝早くから台所に立ち、弁当も作ってくれた。
  「母は病弱でした。ですから、私は姉の手で育てられたようなものです」昌江は後年、たびたびそう語っている。彼女は生涯、姉や兄たちをひたすら想い、幼き日に与えられた恩に報いようとした。

  特に、義兄夫婦(熊谷久虎夫妻)に対する信頼は終生、揺らぐことがなかった。
  次姉光代とその夫である熊谷久虎は、ふたりとも当時、日活で光代は脚本家を目指し、熊谷は監督になったばかりであった。そもそも、この二人によって昌江は映画界に入ることになるが、熊谷は、節子のお目付け役として節子を守る役割も果たすことになる。

  評伝を読み進むに従い、節子が売れっ子女優になるにつれて立場が逆転して、むしろ、節子が熊谷を立てようとして自分の出演映画の監督に推したりして、逆にその企画が流れてしまったり、節子が20歳前後の頃には、相思相愛になり結婚を強く望んだ男性を熊谷が東宝から追放するという事件もあった。
  
  評伝ではこう書かれている。

  節子に近づこうとする男を熊谷はゆるさなかった。熊谷によって節子の恋愛の機会は、ことごとく摘み取られていた。そして、こうした熊谷の過保護で専横な振る舞いは、やがてひとつの疑惑を生んだ。

  「熊谷自身が、義妹の節子に恋慕しているのではないか」
すでに洋行(「新しき土」のドイツ特別試写会)の頃から、ふたりの仲を怪しむ声は映画界に上がっていた。映画人は口さがない。当然、節子の耳にも、こうした噂は入ったことだろう。義兄は、いろいろな面で節子の障害となっていたようである。

  だが、それでも節子は、義兄夫婦のもとから離れようとはしなかった。駆け落ちをするような無責任さを節子は持ち合わせていなかった。両親や長姉といった養うべき家族もいた。節子は清島(恋人)の一件から、うかつに恋をしてはならないと、どこまでも義兄ではなく自分を責めたのではないだろうか。

  清島の一件とは、節子が二十歳前後のころ彼女にとって一生に一度の熱烈な恋をしたことが、映画関係者の間で密かに語り継がれていることである。相手は、東宝の同僚で、脚本を書きながら助監督をしていた青年で、名は清島長利といい当時は全く無名で、地位もなく目立たない存在であったようだ。

  当時、既に大スターであった節子が清島の地味だが誠実な人柄に惹かれたということは、彼女が男を見るのに外形ではなく、内面を、人間の本質を見抜く眼を持っていたことの証左と僕は捉えたいと思う。

  僕が、最も感銘を受けるのは、節子が出演を断り、銀幕から姿を消してからの彼女の生き方である。

  東京狛江の自宅を引き払い、鎌倉の義兄夫婦とその息子が住む敷地内の庭先に、離れを改装してこじんまりとした家を建て、終の住処とした。最初のうちこそ、親しい友人を招いて麻雀や食事をすることも稀にはあったようであるが、それもどこからか漏れて活字になったりして、結局、誰が訪ねてきても、電話でさえ本人が出ることはなく、すべて義兄夫婦とその息子が対応した。

  本人は、大半の時間を家にいて一人で読書をし、時おりレコードを聞き、庭を手入れし、家事をした。
  外出はせず、人にも会わなかったが、新聞は二紙を隅々まで読み、社会や政治、経済への関心は持ち続けていたようである。新聞の書評や広告を見て、甥の久昭夫妻に「この本を買ってきて」と頼んだ。

  引退後の節子は、マスコミを遠ざけ50年余の間、一度も取材に応じなかったとされているが、実はたった一度だけ、電話取材に応じたことがあった。

  それは、戦時中に米軍の少佐が中国で拾った一枚の「日の丸」を母国に持ち帰り、その後すっかり忘れていたが、あるとき気がついて、在日米大使に「持ち主を見つけて返してほしい」と送り届けた。ところが、この日の丸には、「きみがよのぎせいとなれよわがしんみん正久君」とあるだけで持ち主の氏名がわからない。

  一同、途方にくれたが、寄せ書きのなかに著名な女優のサインが含まれていることに気づく。その二つのサインのうちのひとつが節子のものだった。

  人を介して電話取材を申し込んだ新聞記者に対して、節子は「私はもう「原節子」という名前を捨てて、いまは本名の会田昌江で暮らしております」とし、取材を受けるに当たり、これが例外であることを、まず念押ししている。

  そのうえで、懸命に思い出そうと義兄たちにも尋ね一緒に考えたものの、「どうしても思い当たる人がいない」と答えた上で、こう続けている。「あのころ戦時下で、この種の国旗には何百回とサインしていますので、ほんとうに申し訳ありませんけど、正久さんというお名前には記憶がありません」(報知新聞 昭和48年2月14日)と。
  義兄夫婦を通じて「記憶がない」と言えば済むものを、何故、この取材にだけは応じたのか。

  平成6年(1994年)、思いがけない形で、「原節子」の名が話題となった。
  この年の高額納税者番付に「会田昌江」の名が載ったからだ。全国で75位、納税額は3億7,800万円、所得総額は13億円以上と推測された。東京狛江の約800坪の土地を売却したからである。昭和22年(1947年)に購入した当時は、麦畑が広がり人家もまばらで寂しいくらいだった。半世紀近い時を経て、あたりは住宅地と化し、地価は高騰していた。これより8年前には、義兄夫婦が亡くなり、節子は72歳になっていた。

  他にも節子が購入した土地は、長年の保有によって軒並み大きく値を上げていた。一部は親族に贈与している。土地の売却に伴い、かなりの所得があったはずだが、彼女の生活は少しも変わらなかった。自身が暮らす鎌倉の家は、たいして広くもなく、しかも借地である。着る物にも食べるものにもこだわらず、旅行もせず外食もしなかった。ひたすら家に籠り、本を読み、自炊をして質素な生活を送り続けた。
  ただし、世間への関心を失っていたわけではなく、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災の時には、朝一番に自ら郵便局に赴き相当な額の義捐金を送っている。

  僕は、経済観念はその人の人格を表すと思っている。凡人は金に振り回されるが、賢明な人は金とは距離を置くことができる。節子の生き様を見ると、どんな時も、華やかな時にも、落ち込んだ時にも、変わらず質素な生活、堅実な生活を送っている。そして、将来を考え、きちんと打つべき手を打つことができる判断力を持っている。

  そして、何よりもどんな時にも、撮影の合間でも、本を手放していない。あらゆる分野に興味を持ち、自分の視野を広め、見識を高めることを本能的に実行している。だから、大所高所から世間を見ることができ、物事の本質を捉えることができたのだろうと思う。

  いづれにしても僕は、日本にこのような心身ともに美しい女性が存在していたことを誇らしく思うのと同時に、同じように美しい心と、賢い頭脳、健康な肉体を持った女性が、今も、将来も、日本に増えていくことを願っている。

  最後に、この評伝にはこのように書かれている。

  節子は引退後も親しく付き合っていた詩人の慶光院芙紗子に対して、こんな言葉をもらしている。
  「恋愛は一生に一つしかないもの、その1回が永遠で、それがきのうのことのように忘れられない。(中略)自分が恋した人は、たいしてえらくない人なので、会社からいわれて他の方と結婚してしまった」(「女性自身」昭和46年8月7日・14日合併号)

  僕は思う。人は時間とともに変わっていくが、その人の生まれ持った人間性は変わらない、と。

<35歳のときの原節子。原節子の真実 石井妙子著 新潮文庫 見開きより>
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2019年11月09日

近況報告

  今日は11月9日(土)です。時刻は午後15時40分です。

  この1週間程は連日、爽やかな晴天が続いています。風も無く家に籠っているのは勿体ない気がして、例によって自転車を車に積んで、連日多摩川土手のサイクリングコースに出かけています。
  今日も1時間程前に、多摩川から戻ってきて遅い昼飯を食べてこの原稿を書き始めたところです。

  いつも自宅からは、小田急線を越えて津久井道へ出て、そこから抜け道を通って千代ヶ丘、読売カントリー、よみうりランドを越え、稲城大橋により多摩川を渡れば、そこからは目的地である府中市の小柳公園までは5分とかかりません。ここまで、家から約20分くらい。公園内にあるテニスコート脇の駐車場に車をとめて、自転車を車から降ろし、駐車場入り口すぐの土手を登れば、そこはもうサイクリングロードです。

<多摩川土手のサイクリングロード 右側の木立が府中市 小柳町 小柳公園>
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  多摩川サイクリングロード(左岸、東京都側)は多摩川河口(羽田)から玉川上水の取水口がある羽村堰堤(東京都羽村市、福生市の先)まで、およそ55qあります(実際は、さらに700mほど未舗装道路を走り阿蘇神社が終点となります)。小柳公園は、サイクリングロードの丁度中間点近くになります。

<たまリバー50キロの道路標識では、下流の川崎大師橋から28q、上流の羽村取水堰まで25qとなっている>
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  いつもは、そこから上流に向かって国立まで、丁度片道10qを往復したり、下流に向かって和泉多摩川まで片道約8qを往復します。以前は羽村まで往復したり、羽田までも往復したりしたこともありますが、今は無理はしないことにしています。それでも、往復で約1時間ほどかかり、丁度よい運動になります。

  10月12日の朝方、伊豆半島に上陸して13日朝に福島県付近から太平洋に抜けた大型で強い台風19号は、各地に記録的な強風と大雨をもたらしましたが、ここ多摩川も各地で氾濫し、両岸の東京都世田谷区や大田区、川崎市高津区の住宅街が多大な被害を受けました。
  それから、すでに1か月近くになりますが、まだ河川敷には流木がそのまま残されていたり泥が放置されています。サイクリングロードがある土手のすぐ下まで濁流がきていた痕跡が残っています。

<台風の痕跡が残る多摩川 11月8日夕方撮影>
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<同じく11月19日 午後撮影>
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  ところで、いつも自転車を運んでくれる愛車のTOYOTA VISTA ARDEOは、すでに20年近くになり走行距離も10万qを超えました。私はこの車が大好きで愛着があるのですが、そろそろ買い替えを考えなければなりません。モデルチェンジしていれば、すぐにでも購入していましたが、何故か残念ながらいまではもう製造されていません。本当によくできた車だと思います。

<もうすぐ、別れなければならないと思うと愛し子を手放す心境です。永い間、ありがとう。>
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<Vista Ardeoは発売と同時に購入しましたが、当時は5ナンバーにもかかわらず、室内空間はセルシオと同じ、というのが宣伝文句でした>
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posted by ぼたん園々主 at 20:41| Comment(0) | 日記