2018年06月12日

下重暁子著 「極上の孤独」を読んで

本の題名が気になって読んでみた。
 下重氏は先に「家族という病」、それに続く「家族という病2」を同じ幻冬舎新書より出しているが私はこの2冊は読んでいない。

第1章 なぜ私は孤独を好むのか
 最近座間市で起きた男女9人の殺害事件を引き合いに、「寂しさ」と「孤独」は別物であると説く。
  この事件はネット上の自殺サイトに「死にたい」と書いている主に若い女性を一緒に死のうと誘って自宅アパートで殺害した男が起こしたものである。
  犯人の供述によればネットに「死にたい」と書いていた女性は実際に会ってみると自殺願望ではなくただ寂しくて話を聞いて欲しいだけだったという。

 これに対して著者は他人に認められなくてもいいではないか。自分だけでいいではないか。「孤独」はみじめなんかじゃない、「孤独はみじめ」だと思うことこそが問題であると断じている。
 さらに孤独とは思い切り自由なものであり、誰に気兼ねする必要もなく満足感があるもののその時間をどう過ごすかの全責任は自分にある。誰も助けてくれる人はいない。私は身震いするような厳しさに満ちたその瞬間が好きなのだと言い切っている。

  確かに、現代はネットの時代で若い世代はもちろんのこと、私のような年齢(因みに私は昭和20年生まれ)でもその気になれば簡単にLINEやFACE BOOKといった、とても気軽で便利な方法で多くの友達(と言えるのかは別として)とつながることができる。

  ただ、私からみると気心の知れあった友達は別として、このような手段だけでつながった友達が果たして本当に友達と言えるのか、大いに疑問に感じざるを得ない。言葉が大事なことは否定しないが、NETはやはり心を伝える手段としては誤解を生じたり、言い足りなかったりすることも多く、空しさを感じてしまう。

  何でも相談できる気心の知れた友人たちとLINEやFACE BOOKでつながることはまだしも、不特定多数の他人と自分自身のプライベートなことまで公開して、お互いに「いいね!」などと言ってもらったり、言ったりする心理は、私には理解できない。

  また、筆者は孤独は人を成長させるとも言い、孤独の中での決断を重ねることによって人間は成長するとしている。この点は私も大いに賛成するところであり、若いうちはどうしても経験不足もあり、他人に相談することも止むを得ないかも知れないが、一人前の大人は他人の意見は意見として聞いても、決断するのは自分であり、それは孤独の中でしかできない作業である。

  そして、様々なツールを使って他人とつながることができるようになって、かえって孤独を感じる機会が増えた。友達は大勢いる方が幸せだと思い込んでしまう。だが、友達や知人など少ないにこしたことはない。そのかわり、ほんとうに信頼できる友を持つこと。人間関係はあくまで一対一、それが鉄則である。そうでなければ、心を開かない。孤独を噛みしめながら自分のホンネに向き合い、あれこれ考えるからこそ、人間は成長できる。と述べている。

  これも殆ど共感する。筆者がそうであったように、私も若いころからどちらかというと一人を好んだ。私が不器用なこともあるかも知れないが、歳と共に本当に信頼できる友達は絞られて今は片手に余るほどである。その代り、その友達とは自分の悩みも喜びも本音で語り合える。そんな友達は大勢は要らない。

第2章 極上の孤独を味わう
  ここでは、筆者自身の子供時代のこと、病弱だったために幼くして孤独の中に愉しみを見つけたことが今日の自分につながっていること。日常生活の中での孤独の愉しみの見つけ方、永六輔や立川談志、小沢昭一などとの交流を通じて、素敵な人はみな孤独だった、さらに2017年下半期の芥川賞受賞者、若竹千佐子(「おらおらでひとりいぐも」)も孤を見つめることを知っている人だと述べている。

第3章 中年からの孤独をどう過ごすか
  ここではNHKに勤務していた時代、そして独立時代を振り返る。
  そして、定年になったら、長い仕事人生のなかで失くしていた自分の顔を取り戻そう。定年後は一人の男に戻ろうとする人の顔は、なんと可能性にみちていることか。これからがほんとうの自分の人生なのだ。と定年退職者にエールを送る。

  「家族がいるから淋しくない」は本当か?とも問いかける。子供が独立して夫婦二人になっても二人とも健在なら、もっと自由になって一人のような暮らしを始めたほうがいい。子供たちが巣立って行けば、部屋も空くだろう。その時こそ、念願の個室を持とうではないか。と勧めている。
  そして軽井沢の愛宕山麓に買い求めた別荘で知った自然界の孤独についても触れている。
 
  そのとおり!私はもう10年以上前から実行している!川崎では一昨年、自宅をリノベーション(全面的なリフォーム)したのを機会に念願の書斎(約4畳の個室)を持つことができた。誰にも邪魔されることなく、好きな音楽を聞いたり興味のある本を読んだり、自分だけの時間を持つことができるようになった。
  さらに1年のうち約半分は北海道の北見で一人住まいを実行している。北見にいるあいだは毎日、草刈りや牡丹などの手入れに忙しく、そして僅かながら野菜を作ったりして自然をより身近に感じながら過ごしていると、孤独を感じることは殆ど無い。ただ、強いていえばそれらのことに心から共感して、喜びを分かちあえる人が傍にいればその喜びもより増すだろうと思うことはある。  

第4章 孤独と品性は切り離せない
  「年をとると品性が顔に出る」とはよく聞く言葉であるが、筆者は品とは恥と裏腹にある。恥とは自分を見つめ、自分に問うてみて恥ずかしいかどうかである。他人と比較して恥ずかしいというのは、ほんとうの恥ずかしさではない。例えば、お金が無い自分を他人と比較して恥ずかしいと思うことなど。としている。
  さらに、自分を省み、恥を知り、自分に恥じない生き方をする中から、誇りが生まれる。それがその人の存在を作って行く。そして冒すことのできない品になる。

  確かにそうかも知れないが、私は少し違和感を感じてしまう。恥とか品(品性)はあくまでも、その人間の主観によるところが大きい。筆者は孤独を知る人は美しい、として具体的な例としてイチロー、中田英寿、野茂英雄、山口百恵、安室奈美恵、美空ひばりなどを挙げて、品とは言葉を換えれば、「凛とした」とか「毅然とした」という意味だろうか。品とは育ちの良さや金の有無とは関係ない。アメリカのトランプ大統領やメラニア夫人には品を感じないが、オバマ前大統領の広島訪問の際の声明には感動した、とする。

  私はこれらの人たちの個人的なことについては殆ど知らないが、それこそ私の主観からすると、孤独と品性は全く関係がないとは言わないが、一面的な捉え方だと思う。私は「孤独を知らない人に品はない」とまでは思わないし、人は見た目や言葉だけで「孤独を知る」とか「凛とした」とか判断できるほど単純ではないと思う。 そもそも、私のように自分に問うてみて毎日恥ずかしい思いばかりの人間はどうしたらいいのだろうか?

第5章 孤独の中で自分を知る
  筆者自身の若いころの恋人との別れ、81歳で亡くなった母(筆者は現在同じ年齢)との別れ、そしてこの2,3年増えてきた友人、知人との別れ、生きている私はそれらを胸を張って引き受けなければならない。

  ここでは、母親が生前に詠んだ短歌を4首紹介しているが、その中で、
     闇の中覚むれば孤独がしんしんと老いの体を音たてて打つ
 という句を紹介して、孤独とは、しんしんと音をたてるものだ。老いの体を打つ、その音が母には聞こえたのだろう。私も夜中に目覚め、眠れぬ夜など、その音を聞くことがある。と書いている。
  そして、最後に「もっとも孤独で孤高な人生を歩んだ女」として、享年105歳、昭和35年に無形文化財(瞽女唄)伝承者に指定された小林ハルについて紹介している。

  最後の最後で筆者のホンネのような部分が見えたような気がするが、自分自身で書いているように筆者は一人暮らしの経験がない。そして筆者には配偶者がいる。配偶者のことはあまり触れていないが、配偶者がいると、いないでは孤独の質が違うような気がする。もっとも、世の中にはお互いに全く心が通じ合っていない夫婦もあって、それはそれで孤独なものだと思うけれど。
 
  私の母が生前よく言っていた言葉に「人間は生まれる時も一人、死ぬ時も一人」というのがある。私の母はいわゆる戦争未亡人である。昭和19年に海軍軍人で戦闘機乗りだった父と結婚して、わずか半年後にフィリッピンで父が戦死、翌昭和20年3月に私が生まれたため、赤子のミルクを求めて父の実家である北海道の北見に単独で渡り、東京生まれ東京育ちの母は当時林業で生計を立て、使用人も2,30人いた祖父母の許で赤子を抱えながら舅に仕え、使用人の食事も作り、極寒のなかある意味地獄をみたのである。1年半で当時は珍しくなかった結核に罹り、また赤子を抱えて頼る者もいない東京に戻され、それから8年半の長きにわたり病院生活を余儀なくされたのであった。

  私は、孤独にもいろいろなレベルがあり、質の違いがあると思う。母の場合は、現代では考えられない時代環境と、個人的な事情があったにせよ、自分ではどうしようもない耐えられないほどの孤独であったろうと想像される。幸いにも、母には厚い信仰心を持っていたことと、赤ん坊のために耐えることができたのだと思う。

  また、孤独と寂しさは別物と言うが、確かに孤独にも孤独のよさはあるが、基本的に人間は寂しい存在だと思う。若山牧水の有名な短歌に「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」という詩があるが、大勢の人の中にいても、どんなに親しい友人、知人に恵まれていても、配偶者や家族に囲まれていても、果ては恋人と一緒の時でさえ、人間は寂しさから完全に解放されることはないと思う。
  孤独と寂しさはイコールとは言わないが、大事なことは寂しさに、どう向き合うのかということだと思う。

下重暁子著 「極上の孤独」 幻冬舎刊
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posted by ぼたん園々主 at 16:41| Comment(0) | 日記