2018年07月22日

孤独についてー再考

  今日は平成30年7月22日(日)。午前中は曇り、時々小雨が降り気温は17℃と肌寒い。園内の体感温度は15℃くらいか。午後からも陽が射すことはなく、一日中曇りで、この記事を書いている現在の午後11時過ぎの気温は14℃である。

  さっきからAMAZON MUSICで「旅先で読書しながら聴くクラシック・ピアノ」と題したアルバムを聴いている。家の中は自分一人であり、近隣の家まで恐らく50m以上の距離があるので、気兼ねなくボリュームを上げることも可能だ。でも、深夜のピアノは小さ目の音量がいい。

  6月12日の記事、下重暁子著 「極上の孤独」を読んで、にも書いたように僕は人間は元来、孤独な生き物だと思う。どこまで行っても真に他人を理解することはできないし、従って他人から真に理解されることもあり得ない。そもそも理解を求めることに無理があると思うからである。自分自身が自分のことさえ理解できないこともあるのに、ましてやである。

  孤独と寂しさは違うと言うけれど、確かに孤独イコール、あるいは即寂しさではないが、この人だけには自分を理解して欲しいと思うことはある。そうした時に、全くその人に理解されない時には深い寂しさを感じる。それが誤解にもとづく場合はなおさらである。

  誰でも歳をとる。徐々に友人、知人、そして一番身近な肉親との別離がやってくる。いつかは自分一人になるかも知れない。歳を重ねても最後にお互いに少しは理解しあえる可能性があるとすれば、僅かにそれは夫婦であり、男女の関係であると思う。しかし、夫婦であっても、そうでなくても二人の間に本物の愛が無ければそれは他人と変わらない。年老いた夫婦がお互いにいたわり、助け合いながら暮らしているのを見ると素直にいいなと思う。そういう夫婦を見ていると本当の”愛”とは、お互いに相手を思いやり、尊敬し、慈しむ心のことだと思う。

  古今東西、無数の小説、映画が愛をテーマに作られてきた。映画や小説では圧倒的に若者から中年くらいまでの恋愛をテーマにしたものが多かったが、最近は老年の恋(といっても昔、若いころに恋をした相手に再会したなどという設定が多い)や老夫婦の愛情をテーマにしたものも増えている。

  チャン・イーモウの「初恋の来た道」、ジュゼッペ・トルナトーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」の恋物語はもうすでに昔の夢物語になってしまったが、寡聞にして最近の老年や老夫婦をテーマにした映画で記憶に残っているものは少ない。
 
  話が逸れてしまったが、映画については別の機会に譲るとして孤独とは、逆説的に言えばどんな環境にあっても愛する対象があればそれは孤独とは言えないと思う。その対象は配偶者であり、家族であり、恋人であり、友人であり、想いを寄せる人であり、信仰のある人にとっての神であり、あるいは人間ではないかも知れない。

  歳とともにそれらの対象は失うこともあり、または距離は遠くなって最後には自分一人と感じるかも知れない。しかし、一番大事なことはその愛が本物かどうかということだと思う。本物の愛には必ず犠牲が伴う。どんな犠牲も厭わない心、行為が愛だと僕は思う。

  寂しいから他人と繋がりたい、一人では不安だからできるだけ多くの他人と繋がりたいというのは孤独とは何の関係もないし、そこに本当の愛が存在していないのならば空しいだけだ。そこにあるのはお互いの孤独感と、自分自身の利害や見栄や自己顕示欲、そして自分自身の承認欲求だけであると言っていい。
  ましてや個人的な情報が不特定多数の眼に常時、晒されているような環境で本当の愛が存在するはずがないし、人間と人間の結びつきは、そんな上辺だけのきれいごとによって成熟するはずもないと思う。

 僕は、このブログを自分自身に向かって書いているような気がしている。不特定多数の人に向けて書いているというよりは、特定の人(読んでもらいたい人)もしくは自分自身のために書いている気持ちが強い。だから大勢の人に読んでもらいたいという気持ちは全く無い。
  
  読む人に媚びる必要も感じないし、ましてや「いいね!」などと言ってもらいたい気持ちはさらさら無い。僕は、「いいね!」などと、お互いに遣り取りすることは何故か気持ち悪く感じてしまう。

 
posted by ぼたん園々主 at 23:26| Comment(0) | 日記