2018年09月15日

父のこと・・・・続編

  前編で父のことを書いていて、果たして当時のまだ20歳前後の若者が一体この戦争をどう受け止めて、どう行動したのか、特に究極の状態に置かれた「特攻」隊員が何を考え、何を守ろうとしたのか。果たして自分がその立場に立っていたらどうしていただろうか。考えてみたいと思った。

  今となっては当時、父と接触のあった方は殆どの方が鬼籍に入られており、ご存命の方もとてもお話を伺うことは憚られる年齢となられている。真実を知りたいと思う気持ちはあっても、それはわずかに母から聞いた話と、父が主に海兵時代に書き残した「自啓録」(海兵では生徒全員が休暇中には日記を書くことが義務付けられていた。休暇中の出来事を記し、それについて「所感」を書く。帰校後、提出して担当官、校長の検閲を受ける。その他に「自啓録」という革表紙のノートがあり、これは生徒の自主性を重んじて閲覧はされなかった)や家族に出した手紙から窺い知るしかない。

  あとは、種々出版されている書籍から当時の時代背景や当時の資料や伝聞、取材による著述から推定するしかない。それでも母に語った言葉や他人が読むことを前提に書かれた文章がどこまで父の心の内面を吐露したものかは分からない。

  父のことを書くにあたって、これまで読んだ本を改めて読み直してみた。それらは以下のとおりである。(順不同)
@敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯 上・下 森史郎著  文春文庫
A失敗の本質 日本軍の組織論的研究  共同研究  中公文庫
B雑誌  正論 2015年9月臨時増刊号 戦後70年 大東亜戦争-民族の記憶として 産経新聞社
C海軍江田島教育を知っているか 強いリーダーはこうしてつくれ 龍岡資明著 アーバンブックス 
D海軍飛行科予備学生よもやま物語 陰山慶一著 光人社
E自啓録 河西久夫 海軍兵学校
F澎湃の青春ー70期の記録ー 海軍兵学校第70期会
 *澎湃(ほうはい)とは1.水がみなぎり逆巻くさま。2.物事が盛んな勢いで沸き起こるさま。「江田島健児の歌」(校歌ではない。海軍兵学校には校歌はない)の歌詞の最初の言葉に「澎湃寄する海原の」とある。
G江田島海軍兵学校 世界最高の教育機関 徳川宗英著  角川新書
H特攻の真実 なぜ、誰も止められなかったのか 大島隆之著 幻冬舎文庫
I特攻 知られざる内幕 「海軍反省会」当事者たちの証言 戸高一成編 PHP新書

  これらのなかから、今回は主として@敷島隊の五人と、E自啓録、F澎湃の青春、G江田島海軍兵学校、及びH特攻の真実 なぜ、誰も止められなかったのか、について取り上げてみたい。

@敷島隊の五人
  先ず、この本を読んでびっくりしたのは、昭和19年10月25日隊長の関行男以下5人の特攻隊員がフィリピン・ルソン島のマバラカット基地を飛び立ち、米空母への体当たりに成功し、一隻撃沈、二隻中小破という大戦果をあげて神風特攻隊の先駆けとなったという事実である。
  僕の父は同年同日、同じフィリピン・ルソン島のレガスピー基地を飛び立って戻らなかったのである。

  次に、隊長の関行男は父と同じ海軍兵学校の第70期であり、しかも戦死した時の年齢は二人とも23歳である。もっとも、他の四人の隊員ー谷暢夫、中野磐雄、永峯肇、大黒繁男たちは二十歳前後の若者である。さらには、隊長の関行男には新婚五か月目の新妻があった。
  僕の父も関と同じ昭和19年5月に結婚し、わずか半年足らずの新婚生活でこの世の別れを迎えた。二人の違う点は、関には子供はなく、僕の父、そして母には僕という子孫ができていたことだ。

  さらに、昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業すると同時に432名の70期生徒は、夫々臨戦準備中の連合艦隊各艦に配属される。関行男は扶桑のち千歳、父は伊勢のち鈴谷に乗艦している。

  そして、昭和18年1月には二人とも第39期飛行学生として霞ヶ浦航空隊に所属、関はその後同年3月には宇佐航空隊にて実用機教程を終え昭和19年1月には霞ヶ浦航空隊付教官となり、同年7月には台湾の台南航空隊付教官として赴任する。その間5月には渡辺満里子と結婚している。

  僕の父は霞ヶ浦航空隊のあとは関より6か月遅れて大分に赴任し、関と同じ昭和19年1月には大分航空隊の教官兼分隊長となり、同年4月には筑波航空隊の分隊長になっている。そして奇しくも関と同じく5月に染山泰子(僕の母)と結婚しているのだ。

  そして、二人とも平成19年10月25日にお互いにわずか数百キロしか離れていない海上で敵艦に突っ込んだのである。
  ただ、関行男の場合は最初の「特攻隊」として大西瀧次郎中将という強烈な指揮官による命令と、直援機(直接援護の略で、特攻隊としての戦闘機は500Kg爆弾を抱えるため速度が落ち、敵の攻撃にさらされるためそれらを守るため一緒に出撃する護衛機であり、各隊からベテラン搭乗員が選りすぐられた。彼らは多くの激戦を勝ち抜き、多くの戦友の死を見届ける役割もあった)による戦果(空母1隻二機命中撃沈、空母1隻一機命中火災停止、軽巡1隻一機命中轟沈)の報告が可能だったこと、それとその戦果が軍により正式に公表され、朝日新聞を初め大々的に新聞報道されたことにより広く国民の知るところとなった。

  この本の下巻、393ページV資料編にはこう書かれている。
  神風特別攻撃隊の誕生は、昭和19年10月28日午後3時付で、海軍省より公表された。第一回目の発表でふれられているのは敷島隊のことのみで、彼らと同時に発信した他の六隊についてはふれられていない。この敷島隊発表の時期については、明らかに政治的意図が感じられる。

同公表内容・・・・・
「神風特別攻撃隊敷島隊員に関し聯合艦隊司令長官は左の通り布告せり。
    布  告 
戦闘〇〇〇飛行分隊長海軍大尉              関 行男
戦闘〇〇〇飛行隊附海軍一等飛行兵曹           中野巌雄
戦闘〇〇〇飛行隊附同                  谷 暢夫
同海軍飛行兵長                     永峯 肇
戦闘〇〇〇飛行隊附                   大黒繁男
  神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和19年10月25日〇〇時スルアン島の〇〇度〇〇海里において中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦隊の一群を補足するや必死必中の体当たり攻撃をもって航空母艦1隻を撃沈、同1隻炎上撃破、巡洋艦1隻轟沈の戦果を収め悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり
  仍つて茲に其の殊勲を認め全軍に布告す
     昭和十九年十月二十八日
                     聯合艦隊司令長官 豊田副武」

  上記の敷島隊と同時に発信した他の六隊及び父の動向についてはFの「澎湃の青春」に記載がある。

  この本を読んで僕が最も関心を持つのは、華々しい戦果よりも個々人の死に至るまでの呻吟や苦悩であり、生い立ちから死に至るまでの人間形成であり、妻、子、両親、兄弟姉妹、家族や友人、そして郷土あるいは国家に対する思いであり、そして残された遺族のその後である。

  その意味で、当時20歳の関行男が横須賀の料亭「小松」での少尉任官の祝いの席で出会った芸者「朝日」(源氏名)19歳との恋もそのひとつである。当然の結末を迎えることになるが、直情肌の関は純粋に一途に彼女を求めようとして世間という厚い壁に弾き飛ばされる。このことが後年彼が見せた虚無感と大きく関わっているようだと著者は書いている。

  そして、全くの偶然が重なって一歳年下の運命の女性、渡辺満里子と出会い、昭和19年5月に結婚する。
  それは、関が海軍兵学校を卒業して水上機母艦千歳に乗艦していた昭和17年初めに始まる。内地から送られてきた慰問袋の山の中から偶然にも関に配られたのが後に妻となる渡辺満里子の妹、恵美子からのものだった。そしてこの年の夏、関は横須賀に帰港した際に感謝の意を伝えるために鎌倉の渡辺家を訪ねるのであった。
  渡部家では不意の訪問にもかかわらず、家族の一員のような歓待を受ける。関は恵美子を妹のようにかわいがり、その後2年にわたり渡辺家を訪問している。

  丁度その頃は横須賀の芸者との恋に破れ失意のどん底にあった時期と重なるが、もう一つの偶然が彼の結婚への決意を後押ししたのである。それは関が霞ヶ浦の教官となり、たまたま同期生の教官たちとの酒盛りの席で20代の若者たちのことでもあり、来る海軍記念日(5月27日)までに合同結婚式を挙げるという誓約書を交わしてしまう。

  昭和19年仲春、関は渡辺家を訪れ二人の姉妹を前にして母親に言った。「お母さん!私に満里子さんをください」そして「こんどの海軍記念日までに、是非結婚させてください!」

  関行男の特攻出撃前の偽らざる心境はどうであったのだろうか?

  同盟通信特派員小野田政は、体当たり攻撃を命じられた関の心境を聞く機会を得た。敷島隊が編成された20日午後、マニラの報道半員宿舎でデング熱で寝ていた小野田は海軍病院からの電話で呼び出された。
  海軍病院では左足を包帯でぐるぐる巻きにした山本栄大佐が横になっていて、小野田の顔を見るなり、「おい、特ダネだぞ!」「君はわしの隊付報道班員だから特別に話す」と言って、前夜、司令部幕僚から聞かされた攻撃隊編成のいきさつを打ち明けた。

  小野田特派員はマバラカット基地に車を飛ばしたが、その日の出撃が中止になった関を夜にバンバン河原に連れ出した。その時のやりとりを戦後の回想録「神風特攻隊出撃の日」にこう記している。

  砂利石の上に腰をおろし、二人きりになったところで関は腹立たしげにこう言った。
  「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に五十番を命中させる自信がある」 五十番とは500キロ爆弾のことである。
  そして、彼はこうも打ち明けた。「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍用語で妻のこと)のために行くんだ。命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」

  201空に着任して以来、艦爆出身のよそ者分隊長で心を打ち明ける同期生もなく、隊員たちとのなじみも薄い。隊ではどこか寂しげで孤立した感が深かっただけに、心の鬱積が一気に解き放たれたようであった。
  胸のポケットにしまいこんである新妻満里子の写真をみせ、その美しさを褒めると、茶目っ気たっぷりにキスしてみせた。海軍報道班員といえば201空で唯一の民間人だから、つい心を許す気持ちになったのだろう。

  関は、自分が率いて共に体当たりする四人の隊員たちのことにふれてこうも言っている。「ぼくは短い生涯だったが、とにかく幸福だった。しかし列機の若い搭乗員はエスプレイ(芸者遊び)もしなければ、女も知らないで死んで行く。インチ(恋人)もいるだろうに・・・・・・・」

  関家の家族についてもふれておきたい。

  関行男は大正10年8月29日に愛媛県新居郡大町村(現在の西条市栄町)で父勝太郎と母サカエの間に生まれた。父勝太郎は骨董商を営み、関が生まれたとき勝太郎は38歳、サカエは23歳という娘盛りであった。大阪に店舗があるため、勝太郎は時折西条に訪ねてくるだけで、幼いころ関は若い母親とほとんどふたりきりで暮らしていた。

  しかし、勝太郎は21歳のときに1歳年下の女性、アサノと結婚していて、二人のあいだに、3人の息子があり、そのことをサカエは知らされていなかった。サカエは関を出産後、子供を連れて一時親戚に身を隠したが、勝太郎の懇願に負けてふたたび栄町にもどる。こうして関は私生児として生まれ、勝太郎が認知して自分の籍に入れたのは大正14年9月17日、関が4歳になってからのことである。そのために、戸籍上は関家の四男ということになる。

  しかし、勝太郎の最初の結婚は不幸続きで、大正12年に生まれた5男は生後すぐに死亡、他の3人の息子たちも病死や事故死で喪い、最後には関一人となる。昭和5年にアサノとの協議離婚が成立し、4年後、勝太郎はサカエとの婚姻届を出す。ここで関は正式の嫡出子となる。関が西条中学に入学する直前のことである。

  そして、昭和16年初春、関行男が海兵の1号生徒になる直前に父勝太郎が病死する。勝太郎の葬式を終えたあと関は江田島に帰り、サカエは栄町に一人残された。勝太郎の病気が長かったので貯えも底をつき、家を処分するしか方法がなかった。従弟の小野勇太郎宅に身を寄せ、戦争が始まってからは草餅の行商で生計を立てた。関が昭和19年5月に満里子と結婚してからは、西条市氷見新町で一人間借り生活をしながら夜は草餅を作り、和裁の賃仕事もこなし、昼間は草餅を売り歩くつつましい暮らしであった。

  その後、近所づきあいをしていた女性教師の世話で小学校の小使いをして暮らしたが、昭和28年11月9日に買い物先で倒れそのまま息を引き取る。行年55歳。敷島隊長関行男の母は、なに一つ花の咲くことのなかった薄幸の人生を閉じたのである。

  折しも同年6月には、旧軍人に対する恩給復活法案が上程されたが、母サカエも妻満里子も結局その恩恵に浴することは一度もなかった。

  関行男の妻、満里子はその後どうなったのであろうか?

  突然の戦死公表のために、鎌倉の実家に帰っていた妻満里子と西条の母それぞれに新聞記者が押しかけた。記事発表の思惑と地元の熱狂ぶりが先行し、妻と母は別々に祭壇を設けさせられる羽目になった。

  そして新妻と母の間柄について、地元では思いがけない不評が立つ。まもなく行われた氷見新町の関の葬儀に、新妻満里子は父と一度姿を見せたきりで、いらい西条と鎌倉とは行き来がなく、敗戦後サカエが物置部屋に寝泊まりし極貧のなかで一人暮らしをつづけるのに対し、満里子は昭和23年4月に戸籍上の旧姓に復し、働きながら女子医大に入り、医師の道を志す。縁あって医者と結婚し、二人の子供を生んだ。

  この陰には、サカエの満里子に対する強い意志があった。「再婚して、新しい人生を歩みなさい。私は一人でちゃんと暮らして行けるから」と新妻を励ましていたのである。幼くして父をなくし一人で生き抜いてきたこの母には、鎌倉女学院を特待生で卒業した都会育ちの才媛と、石臼で粉をひき草餅の行商で生きている田舎の母との共同生活には所詮、無理があることが分かっていたのである。

  戦争中は「軍神の母」「軍神の妻」とあおりたてた世間が、戦後置き去りにされた母と妻に対していかに非情であったかは想像を超える。敗戦直後は、「軍神の母」「軍神の妻」は「戦争協力者の母」「戦争協力者の妻」と批判を浴びる立場に移り変わるのは、他の四人の隊員家族と同様である。米軍の進駐とともに陸海軍は解隊され、それに付随する一切の観念は旧思想として排除された。「軍神」は「戦争犯罪人」とも批判され、「特攻」は「犬死」扱いとなった。

  そして、僕にはもう一つの重大な関心事がある。それはこの本の下巻の385ページ以降、393ページまでのT補遺の部分である。そこには以下のとおりのことが書かれている。長くなるが抜粋する。(一部改変)

  特攻隊決定の経緯についてはすでに多くのことを記したが、今なお解き明かさねばならぬいくつかの疑問がある。その最大のものは、督戦側の指揮官たちが戦後に発表した記録内容と、生き残り隊員たちが語る証言との食い違いである。次に、そのいくつかの点について検証してみたい。

1、関大尉が特攻隊長を引き受けたときの心境について
  参謀井之口力平大佐と201空飛行長中島正少佐の共著「神風特別攻撃隊」に、次のような有名な一節がある。

  昭和19年10月19日夜、大西長官を迎えた201空本部士官室で、副長玉井一中佐から特攻隊長になるように口説かれたときの描写・・・・・・

  「関大尉は唇を結んで、何の返事もしない。両肘を机の上につき、オールバックにしている長髪の頭を両手で支えて、眼をつむったまま俯き、深い考えに沈んでいった。身動きもしない。・・・・・一秒、二秒、三秒、四秒、五秒・・・・・・・。と、彼の手が僅かに動いて、指が髪をかき上げたかと思うと、静かに頭を持ち上げて云った。『是非、私にやらせて下さい』 少しの澱みもなかった。明瞭な口調であった。玉井中佐も、ただ一言、『そうか』と応えて、じっと関大尉の顔を凝視していた。急に重苦しい雰囲気が消えた。雲が散って月が輝き出た様な爽々しい感じだった」

  この文章は、特攻隊長を引き受けた関行男の潔い見事な決断の例として各書で引用され、英訳もされ、防衛庁の戦史叢書にも記録されて、事実として固定している。だが、関の友人、加藤敬氏の証言によれば、玉井中佐自身が加藤氏に洩らした内容は、関大尉が最初に示した反応は、「一晩考えさせてください」という苦渋に満ちたものであった。

  台南空教官から比島に転じてわずか三週間余り、実践体験もなくまた郷里に残してきた母や新妻を想えば、心にとっさの逡巡があったとしても無理はない。むしろ、関の性格からみて、こうした反応を示すことの方がいかにも彼らしいと思われる。加藤氏も「彼の性格からして、自分から特攻を志願していったとは考えられない」と断言する。「最後には、お母さん、お母さんと言って泣きながら飛んで行ったんでしょう。母一人子ひとりでしたからねえ。それを思うと、関の心情が哀れでならんのですよ・・・・」

  前掲の著書「神風特別攻撃隊」は、戦後の「特攻隊神話」を形成するのに大いに役立った。すなわち、特攻隊員は指揮官たちの強制ではなく志願によって選ばれたこと。その証拠に兵学校での士官は、このように見事に最初の隊長を志願したではないか・・・・。そして命令する側の猪口参謀は、わざわざ傍点をふって関の言葉を書く。「是非、私にやらせて下さい

  こうした、特攻命令を下す側が書いた回想録は、生き残った指揮官たちが命令を正当化するために書いたものだから、記述に潤色が多く信頼できない。また、同書には、致命的なミスもある。敷島隊はじめ体当たり攻撃隊の中心となった谷暢夫、中野磐雄たち甲飛十期生を「九期飛行練習生」と誤記していることである。しかも「九期飛行練習生」が特攻隊員として選ばれたのは、201空玉井浅一中佐と「前々から切っても切れない深い縁があったからである」と書き、その由来が念の入ったことに半ページにもわたって紹介されている。

  これは命令する側が、される側の事情に関して極めて無頓着で、無神経であったことの証左のひとつである。体当たり攻撃に関して、命令を下す側はその人選にも編成に当たっても、処理は極めて杜撰で、事務的であった。

2、特攻隊と天皇の関係
  この項は別の機会に譲ることとする。

3、特攻計画者たちの証言
  この項についても、特攻を計画した陸海軍首脳、あるいは軍の中枢にあってその経緯を知り得る立場にいた指導者たちの戦後回想には、事の真相が明確に語られていない。
  そのために、特攻立案者、推進者たちの姿が陰にひそみ、特攻は搭乗員たちの自発的な意志、あるいは一航艦長官大西瀧次郎中将の発意という個人的動機に問題がすり替えられてしまっている。として、これら首脳陣の記した戦史、回想録が掲載されている。それらは、いづれも次第に厳しくなる戦況下で航空隊を中心に醸成しつつあった特攻攻撃の気運がレイテ決戦の危急に直面して、上からの命令ではなく下の方から自然に盛り上がってきて、日本を救う最後の手段はこれしかないという犠牲心から遂行されたとしている。

<「敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯 上・下」>
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   僕は、父とは逢ったこともないし、もちろん父も僕が母のお腹に宿っていることは知っていたが、赤ん坊の僕を見たこともない。父はそのとき何を考え、何を感じ、どうやって自分の死を自分自身に納得させたのだろうか?

  ここからはあくまでも推定になるが、叔母の話では、父は小さいころ(小学生ころか)から毎月「海軍グラフ」を購読していたそうである。僕自身も小学生のころは当時の少年雑誌に載っている戦艦や戦闘機の勇ましい絵(小松崎茂の名は今でも憶えている)に心躍らせたものである。父の父(僕の祖父)は若いころには近衛兵(天皇を警衛する直属の軍人)を務めたこともあり、天皇または国家に、一旦急あれば命を捧げる覚悟だったので、その影響を父が受けていない訳はないと思う。

  しかし、母から聞いた話では父は割合早くから母には、この戦争は日本が負けると言っていたそうである。また、当時はあちこちに「贅沢は敵だ」というスローガンが貼られていたが、父は敵の前に「素」を付け加えて「贅沢は素敵だ」とする悪戯(当時のことだから見つかれば悪戯では済まなかったはずだ)をしたりしたそうである。

  そんな父だから、まして戦闘機乗りを希望して軍人になったからには、恐らく普段から「死」に対する覚悟はできていたであろうと思う。

  そして、後にEの「自啓録」にも出てくる父親、貴一が父の海兵卒業に際して送った手紙にあるように、長兄の博(僕の伯父)の名誉(昭和14年に満州とモンゴルの国境ノモンハンでおきた国境問題に関する日ソの武力衝突、ノモンハン事件で名誉の戦死)を汚さぬように、との厳命も影響があったのかも知れない。

  僕は、この本に書かれていることが全て事実のとおりだと単純には思わない。当事者しか分からない経緯や思いがあっただろうと思う。得てして人間は自分の経験や考え、ときには他人の意見によって当事者の言動を判断、推測してしまうが、事実は小説より奇なりという言葉もあるとおり、当事者にしか分からない事実もあったと思う。
  戦時下の軍隊という特殊な組織のなかで、自分の思いとは違う言動を取らざるを得ない場合もあっただろう。何事も他人を批判することは簡単だが、それはあくまでも客観的な事実に基づいてなされなければならない。

  恐らく父にも関行男が洩らしたと同じように「僕は最愛のKA(海軍用語で妻)と生まれてくる子供のために行くんだ。命令とあれば仕方がない。僕は彼女と子供を護るために死ぬんだ。最愛のもののために死ぬ」という気持ちは当然ながらあったと思う。

  しかし、僕は母からは、父が霞ヶ浦でも(多分大分でも)敵艦の艦橋に体当たりする訓練を毎日行っていたこと、その訓練中に急降下に失敗して死亡する例もあったことを聞いている。また、最後のころには、ネジの1本くらい抜けていても飛んでいたと聞いている。そんな状況で、ある日突然体当たり特攻隊が編成されたということも、にわかには信じがたいと思う。

  母は、父より1歳年下である。だから父が戦死したときは22歳。父と知り合ったときは、まだ音楽学校(現在は音大)の学生であった。父はまだ兵学校の学生である。前編で書いたとおり、父の姉(私の伯母)が同じ音学学校のピアノ科の同級生であったことから二人は出会った。母の話によれば、父は母の校内演奏会で母の弾くリストの「追憶」を聞いて感動し、姉を通じて猛烈にアタックしたようである。父の残したアルバムにはそのときの母の写真が貼ってある。

  叔母の証言では、母は父が戦死してからも是非にという縁談がたくさんあったようであるが、頑として首を縦に振ることはなかった。父ほどの男は一人もいなかった、と言って憚らなかったそうである。
  今頃は天国で二人なかよく、毎日いい音楽を聞きながら、いつまで経っても危なっかしい僕のことを叱っていると思う。

<父のアルバムに貼られている母の写真。「此の写真を見ると、死んだお袋を想い出し、独り涙ぐむ」と書かれている。>
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E自啓録
  海軍兵学校の「自啓録」は、前にも書いたように唯一、上官の検閲を受けない自習帳のようなものである。その最初には「凡例」として、次のように書かれている。曰く、「本記録ニハ自己ノ感シタル格言、自己ノ反省セル事項及講演ノ所感等ヲ記註シ自啓修養ニ資スルヲ目的トス」と。次には「教育勅語」、「軍人勅諭」、「明治天皇御製百首」、「艦船職員服務規程綱領」、そして聯合艦隊司令長官 東郷平八郎が明治38年12月21日に発した、最後に「古人曰ク、勝テ兜ノ緒ヲ締メヨ。ト」で終わる「聯合艦隊 解散の訓示」と続く。

  中身はペンと毛筆により書かれていて、上官あるいは分隊監事の講話や訓話が多いが、禅や茶道、さらにはドイツ人の日常生活や武士道まで多岐にわたる。

  毛筆で書かれたものには、(昭和16年)12月3日 勅語 聯合艦隊司令長官 山本五十六大将ニ給ヘルモノ、そしてそれに対する 奉答文や、(昭和16年)11月14日 海軍兵学校長 海軍中将 草鹿任一 卒業ニ際シ校長訓示、昭和17年4月16日 旗艦 大和 聯合艦隊司令長官 作戦司令、昭和17年8月16日 旗艦 翔鶴
第三艦隊司令長官 南雲忠一 昭和17年8月16日出撃に際し各級司令官に訓示と続く。

  面白いのは、昭和16年11月14日 兵学校卒業に際して父上御教訓と題して、父親、河西貴一からの直筆の手紙が張り付けられている。そこには、

一、学校を卒業したりとて 心ゆるめな 此れからが本統(ママ)の実力を発揮する大切なる時代の第一歩を  ふみ出し国家に盡す 修業時代に這入りしなり 夢 修業をおこたるな
一、君国に身を捧げるは もとよりなるも 祖家の事を常に心に留め 殊に名誉の兄を恥ずかしめざる様 心  得べし
一、上司 友人 親類等の交誼にも 本末の過らざる(ママ)様 心掛るべし

  と、書かれている。

  この後は、昭和17年11月1日 旗艦 大和 聯合艦隊司令長官 山本五十六 南太平洋海戦直後各級指揮官に対し訓示、最後は乃木大将復命書で終わっている。
  途中、2か所ほど破り取られているページがあるが、残念ながら父の心情が窺えるような言葉は見当たらない。

<「自啓録」 表紙>
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<「自啓録」 久夫(父)直筆ペン書き。写真を左クリックして拡大することができます>
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<「自啓録」 久夫(父)直筆筆書き 聯合艦隊司令長官 山本五十六 訓示。拡大できます>
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<「自啓録」 兵学校卒業に当たり 河西貴一(祖父)より久夫(父)に宛てた手紙。拡大できます>
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F澎湃の青春
  この本は、海軍兵学校の第70期会の生存者の方々によって編纂され、平成7年12月に出版された70期の第1章 「兵学校入学まで」、から第7章 「終戦」 までと、追憶編として、「ありし日の級友(とも)」 は、かつての級友をクラスメート、家族、生存者については本人が思い出を寄稿したものである。また、付録として70期生全員の経歴(出身、兵学校在学時の分隊 昭和16年から20年までの足跡)、海兵70期年表、生徒採用試験(学術)問題、別図として大東亜戦争要図、ハワイ作戦部隊行動図、フィリピン沖海戦外見図まで全578ページの労作であるとともに正確な戦史としても貴重な記録である。

  この本の最初の方に、発刊を祝して として70期指導官の飯川尚介氏(62期)がこう述べておられる。
  戦後ご遺族はもとより、生存級友各位のご苦労は筆舌に尽くし難いものでありました。平成5年には最高指導者たる首相や国会議員が「今次戦争は侵略戦争であった」と断言しました。私共は断じて侵略戦争を戦ったのではありません。私は敢えてここに声を大にして叫びたい。
  「吾等当時の海軍将校は祖国の独立と栄光のために戦ったのであって、侵略戦争を戦ったのではない」と。・・・・・・一部を抜粋

  僕も声を大にして叫びたい。「戦争をしたくて戦争をした日本人はいない。戦争に負けたからといって何も卑屈になることはない。なんら恥じることなく正々堂々と戦って負けたのだから」と。

  父が参加したフィリピン沖海戦の経緯については、145ページから165ページに詳しい。父の戦死については156ページから157ページにかけて記載されている。

 昭和19年10月、マッカサー将軍麾下の比島攻略部隊がレイテ島上陸作戦を開始した。これに対し大本営は18日、「捷1号作戦」を発動し戦艦大和、武蔵などを擁する水上部隊の主力である第1及び第2遊撃部隊を25日黎明にレイテ湾に突入させ、この突入作戦に呼応して陸海軍協力して敵攻略部隊に集中攻撃を加え、連合軍上陸部隊を破砕しようとした。
 
  作戦は、第1遊撃部隊を3部隊に分け、第1、第2部隊(栗田部隊)は22日朝ブルネイ湾を出撃してシブヤン海を経由して北から、第3部隊(西村部隊)は22日午後ブルネイを出撃してスルー海、ミンダナオ海を経由して南から、それぞれ25日夜明け前にレイテ湾に突入することになった。また、第2遊撃部隊(志摩部隊)は21日夕刻台湾の馬公を出港し、コロンを経由して25日明け方、西村部隊に約1時間半ほど遅れてレイテ湾に突入することになった。

  一方、機動部隊本体(小澤部隊)は10月20日に本土を出発南下して24日夜明けにはルソン島北東岸のエンガノ岬沖東方に達し、敵機動部隊を比島から北へ誘引する囮作戦を展開し、その間に遊撃部隊のレイテ湾突入を成功させる作戦である。

  この作戦の結末は、西村、志摩部隊は25日夜明け前の栗田部隊の露払い役としてレイテ湾に突入したが、待ち構えていた米第7艦隊の大部隊の集中攻撃を受け、西村部隊はほぼ全滅、志摩部隊はこれを見て撤退せざるを得なかった。

  栗田部隊は途中敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、旗艦を失いながらも24日朝ミンドロ海峡を通ってシブヤン海に入るも、延べ5時間にわたり敵艦載機250機以上の猛攻撃を受ける。
  栗田部隊は味方航空部隊の援護も情報もなく、敵艦戦機の攻撃は激化するばかりの状況に、敵の空襲を一手に引き受けているのではないかという印象を持つにいたる。このままではサンベルナルジノ海峡を予定の日没までに通過することは覚束なく、夕刻になって栗田長官は一時空襲を避けて味方航空部隊の協力を得た後、再進撃することを決断し全部隊を反転させた。

  ところが、反転してから全く不可解なことが起こる。今まで激しかった空襲は嘘のようにピタリと止まる。小澤部隊による囮作戦の成功である。栗田長官はこれを見て反転2時間後に再び進撃を開始するのであるが、この栗田部隊の一時反転は各部隊の連携に混乱を招いた。

  一方、機動部隊本体(小澤部隊)はエンガノ岬沖で空母全滅という多大な犠牲を払いながらも米機動部隊の北方誘引に成功した。しかし、この犠牲的囮作戦の成功も無為に帰することになる。
  いわゆる「栗田艦隊の謎の反転」により栗田部隊がレイテ湾突入を止めてしまったからである。栗田長官には小澤部隊の戦闘状況も、西村部隊との戦闘によりレイテ湾にある米艦隊の弾薬払底の実情も判っていなかったのである。

  かくて、連合軍は初戦の困難を脱して上陸作戦を続行、我が水上部隊は損耗多く、もはや艦隊としての組織的決戦力を失い、基地航空隊もまた兵力を損耗し尽して比島から撤退せざるを得ない状況に追い込まれた。
  
  以上のような状況下で、僕の父はレガスピーを基地とする第6基地航空部隊(2航艦ともいう)に所属し、マニラを基地とする第5基地航空部隊(1航艦)とともにレイテ湾決戦に臨む遊撃部隊と呼応して敵の攻略部隊を攻撃すること(他に陸軍との共同作戦もあり)が任務であった。

  この第5基地航空部隊(1航艦)の指揮官が着任したばかりの大西中将であり、関行男が神風特別攻撃隊敷島隊の隊長として昭和19年10月25日午前、マバラカット基地を発信レイテ沖にて体当たり攻撃に成功して特別攻撃の第1号となった。

  第6基地航空隊(2航艦)に所属していた父の戦死に関する部分を抜粋する。
  25日は遊撃部隊のレイテ湾突入作戦に呼応して総攻撃を実施した。レガスピー沖約100浬及びレイテ沖約150浬の敵機動部隊に対し、午前制空隊75機、攻撃隊艦爆28機からなる1次攻撃を、午後零戦28機、艦爆2機の2次攻撃を実施したが、いづれも敵を発見できず帰投した。さらに、これらの部隊を再編成し、夕刻、夜間にかけ延べ100機に及ぶ攻撃をしたが、敵戦闘機により進撃を阻止され期待ほどの戦果はあがらなかった。

  901空の山之内は97式で東港を発信、敵機動部隊発見報告の後戦死、河西久夫は零戦でレガスピー発信、同地沖敵部隊を攻撃戦死した。

  最後に、母が追憶編、「ありし日の級友(とも)」に寄稿とともに寄せた短歌。
  わが行く道 いついかになるべきかは つゆしらねど
  主はみこころなし給はむ そなえ給う主の道を
  ふみて行かん 一すじに

<「澎湃の青春」の表紙>
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<「澎湃の青春」 生徒館のカラー写真と江田島健児の歌(左頁)、大講堂(上)と教育参考館(下)の写真(右頁)。写真の拡大ができます>
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<「澎湃の青春」 6,7頁。写真の拡大ができます>
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<「澎湃の青春」付録のフィリピン沖海戦概見図。画像をクリックして拡大(二段階の拡大ができます)してご覧ください。>
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G「江田島海軍兵学校」
    副題には「世界最高の教育機関」とある。著者は1929年、ロンドン生まれ。徳川宗英、御三郷・田安徳川家第十一代当主。学習院、江田島海軍兵学校を経て慶応義塾大学工学部卒業。石川島播磨重工業海外事業本部副本部長、IHIエンジニアリングオーストラリア社長などを歴任、95年退社ののち、多くの団体役員を勤める。昭和20年4月に江田島海軍兵学校最後の第77期生として入校、終戦を迎えている。  

<「江田島海軍兵学校」>
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   Hの「特攻の真実 なぜ、誰もとめられなかったのか」を読み直してみた。筆者はNHKエンタープライズのデイレクターとして、入社5年目の2006年(平成18年)から取材を始めて20011年(同23年)に「零戦」を、2013年(同25年)には「戦艦大和」をテーマに元搭乗員や元乗組員の証言によるドキュメンタリー番組を制作した。

   そして、それら二つのテーマを追ううちに「特攻」に関する本や研究が数多くあるなかで、「昭和19年10月に始まった特攻が、何故、どのような経緯で、終戦まで1年近くも続くことになったのか」という、特攻の本質に関わるテーマが抜け落ちていることに気づき、更に取材を進め2015年8月8日に放送したのが、NHKスペシャル「特攻」だった。そして、番組で紹介しきれなかった膨大な資料を書籍にまとめたのがこの本だという。プロローグの最後の方で、次のように語っている。

   「10か月に及んだ特攻作戦によって、4,500柱を超えるとも言われる前途洋々の若者が命を落とした。彼らをおとしめるのでも美化するのでもなく、そこからぼくたちはどんな教訓を学び取っていけるのか。それを後世に伝えることで、命を散らした特攻隊員の御霊やご遺族を慰める一助になればと願っている。」 

                                          この項続く

<「特攻の真実 なぜ、誰も止められなかったのか」>
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posted by ぼたん園々主 at 21:47| Comment(0) | 日記

2018年09月10日

父のこと

  僕の父親は23歳で戦死した。後の戦死公報では昭和19年10月25日、フィリピンのルソン島南部のレガスピー基地を飛び立って還ることはなかった。わずか6か月足らず前に娶った妻と、この時すでにそのお腹に宿していた小さな生命を残して。

  僕は父が戦死した翌年の昭和20年3月に東京信濃町の慶応病院で生まれた。それから3歳になった時に病に倒れて横浜の病院で入院加療を受けていた母と別れて、父の実家である北海道北見市の祖父母に引き取られた。以来13歳、中学2年の1学期までの10年を「河西牡丹園(当時)」で育った。

  中学2年になって、母がようやく退院して僕を引き取ることになり、それからは東京で母と一緒に暮らすことになった。母は東京生まれ東京育ちで幼少のころからピアノを習い、音楽大学のピアノ科を卒業していたのでピアノを教えることで生計を立てた。今になって思うに8年以上も入院していて、ピアノもなく、その頃の母の頑張りを想うとその度に涙が止まらない。

  僕にとっての父は、少なくとも北見で育った10年間は、最初から父も母もいないことがあたりまえであり、時折祖父母や周りの人から聞く昔話の中に登場する人物でしかなかった。
  母と暮らすようになって、母から父のことを聞くことが増えてようやく父のことが生身の人間として身近な人になった。

  父は北見で5人兄弟(男3人、女2人)の三男として生まれ、6歳の時に母親(僕にとっては祖母)が33歳の若さで急逝したこともあり、家出同然のように東京へ出て早稲田中学(当時)に入学、そこで生涯尊敬して止まなかった恩師に出会い、苦学しながらも中学3年(現在の高校1年)で子供のころからの憧れだった海軍兵学校を受験し合格した。

  丁度そのころ父の姉(僕にとっては伯母)も音楽教師を目指して上京、母と同じ音楽大学のピアノ科に入学していて母とは同級生(年齢は母が下)だったので、伯母を通じて父と母は出会ったのである。

<父の兄弟。左から姉の郁子、妹の節子、父(三男)久夫、兄(次男)の二郎。この写真には写っていないが、長兄の博(ノモンハンにて戦死)、の五人兄弟であった。円内は異母妹。>
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  父は海兵の70期で、母の話では同級生からは「クマさん」と呼ばれていたらしい。北海道の山奥から出てきて、当時父は飛行訓練中は敢えて太陽に顔を向けて日焼けすることがあった(推測するに、本来は色白の方だったので敢えてそうしていたのではないかと思う。なぜなら僕もそうだから。)ので、見た目にも黒かったからそう呼ばれたのだろう。

  また、父は北見にいたころから音楽、なかでもクラッシクが大好きでベートーベンの交響曲は1番から9番まで全て口笛で吹けたそうである。母から聞いた話では父が帰ってくる時はこの口笛が遠くから聞こえてくるので分かる、私よりも音楽については詳しかったと。今でも父が鉛筆で描いたベートーベンの肖像画が残っているが、絵の才能もあったのではないかと思う。シューベルトの交響曲「未完成」も好きでよく聞いていたそうである。

  父は僕のもう一人の叔母(父の妹)によると子供の頃は相当に暴れん坊だったようで、小学生の時には、喧嘩して机のふたで当時の市長の息子を殴って怪我をさせたり、常呂川に馬に乗って泳ぎに行き、母親から帰りに豆腐を買ってくるように頼まれ、馬に乗ったまま自分の褌に豆腐を入れてぶら下げて持ち帰ってきたり(本人はよく洗ったからいいと思ったのだろう)、その類の逸話にはこと欠かない。しかし反面、弱い立場の人には大変やさしかったそうである。

  母の話によれば、海兵の時には自分の部下(下級生か)に恋人が郷里から面会に来た時には、厳しい規則を破ってでも自分の個室を提供したりする優しい人間だったそうである。

  平成29年2月、僕はやっと父が亡くなった地を訪ねることができた。従妹(父の兄の長女)からフィリピンに来ないかという誘いを受けたからである。 
  従妹は普段はシンガポールの近くに住んでいるが、たまたま仕事の関係でマニラ市に出張していて1か月後にはシンガポールに戻るので、この機会にという配慮である。
  有難く受けることとし、2月2日から2月6日までフィリッピンに渡った。

<マニラ市郊外の従妹の滞在するアパルトメントからマニラ湾方向を望む。(2月2日 18:14撮影)>
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<翌朝、レガスピーまでは飛行機を利用するのでアパルトメントからマニラ空港に向かう。(2月3日 8:02撮影)>
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<マニラ市中心に近づくにつれて半端じゃない渋滞。車窓から見える川(どぶ川)の両岸には工場の廃屋や墓地に勝手に住みついてしまう人々がいる反面、中心地に高い塀を廻した金持ちの屋敷があったりする。(2月3日 8:17撮影)>
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<レガスピーまでは1時間20分のフライト。マニラ空港にて。(2月3日 12:34撮影)>
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<レガスピー港。漁港であると同時に造船所や大きなショッピングセンターもある。(2月3日 16:26撮影)>
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<レガスピー中心市街、ホテルの近くの路上の電柱。(2月3日 17:00撮影)>
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<レガスピー空港が見渡せる小高い丘(リグノン・ヒル)の上に旧日本軍の司令部があった場所は、現在は小さな公園になっていた。写真は丘の入り口に掲示された説明板。(2月4日 10:20撮影)>
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<写真は丘の途中に残っている日本軍の壕の跡。兵隊はレプリカ。(2月4日 10:21撮影)>
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<岡の上の公園展望台からレガスピー湾方向を見る。左右に延びるのがレガスピー空港の滑走路。(2月4日 10:48撮影)>
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<公園の反対側からは富士山によく似た火山のマヨン山(2,463m)が見える。この日は雲がかかってその秀麗な姿は半分隠れてしまっている。(2月4日 11:19撮影)>
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<レガスピーから案内人付のレンタカーで2時間近くかけてダガラという町に向かう。途中のカマリグという所にある小高い丘に立ち寄る。レガスピーから上陸してくるアメリカ軍に抗戦した日本軍の壕の跡などがジャングルの中に残っている。(2月4日 12:06撮影)>
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<同じくジャングルに残されている階段。(2月4日 12:15撮影)>
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<同じく丘の上の展望台にて従妹の真理と。後ろに見えるのはマヨン山。(2月4日 12:22撮影)>
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<ダガラ中心部から3qほど北西にあるカグサワ教会遺構(Cagsawa Church Ruins)にて。1814年2月、マヨン山が大噴火し、火口から噴き出た溶岩流が麓のカグサワ村を襲い、教会に避難していた村人約2,000人とともに村全体がそのまま飲み込まれてしまった。現在、教会の敷地は公園になっていて教会の壁の上部と鐘楼だけが残っている。雲が掛かっていて見えないが、後ろにはマヨン山が近い。(2月4日 13:27撮影)>
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<ダガラの街の中心部にある小高い丘に建つダガラ教会(Dagara Church)。1773年に建てられ幾度もマヨン山の噴火により損傷を受けたが、現在も多くの信者を集めている。(2月4日 14:44撮影)>
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<ダガラ教会内部。(2月4日 14:48撮影)>
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<ダガラ教会の回廊にはキリストや聖人の像が並んでいる。(2月4日 14:53撮影)>
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<同じ回廊には、1814年のマヨン山の大噴火の際にカグサワ教会からダラガ教会に避難してくる大勢の村人の様子を描いた大きな絵が架けられている。(2月4日 14:56撮影)>
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<レガスピーのダウンタウン中心地にあるホテルへ戻る途中、近くにあるレガスピー駅に寄ってみた。駅の入り口はシャッターが閉まっているが横からホームに入ってみる。ガランとして近所の子供たちが遊んでいる。運行しているのかどうかは不明。(2月4日 15:45撮影)>
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<翌日、2月5日はホテルで朝食を済ませて、レガスピー市内観光に出かける。便利な乗合タクシー、ジプニー(jeepney)を利用する。初乗りは8ペソ、160円強。>
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<街のどこからでもマヨン山が見える。(2月5日 10:03撮影)>
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<市役所前の広場。(2月5日 10:23撮影)>  
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<市役所の近くの教会の前で。(2月5日 時間不明)>
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<久し振りにミサに与かる。(2月5日 10:34撮影)>
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<市役所広場に近い魚市場。(2月5日 11:30撮影)> 
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<レガスピーよさようなら。レガスピー空港。(2月5日 16:57撮影)>
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<空港から見るマヨン山と、手前はリグノン・ヒル。(2月5日 18:55撮影)>
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<マニラに戻り、夜はタクシーでビジネス街にある日本居酒屋の「相撲茶や 関取」で喉を潤した。(2月5日 21:00撮影)>
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<「相撲茶や 関取」の店内。日本のビジネスマンが多く、メニューも日本の居酒屋と変わらない。(2月5日 21:00撮影)>
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<マニラよ、レガスピーよ、フィリピンよ、そして父よ安らかに、さようなら。また来る日まで。(2月5日 11:07撮影)>
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posted by ぼたん園々主 at 12:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記