2019年01月24日

血の縁(えにし)

   昨年末から今年の初めにかけて、二つの思いがけないことがあった。ひとつは、昨年末にかけて北海道の遠軽町(北見市からJR石北線で旭川に向かって1時間ほどかかる)に住むIさんと名乗る人から、突然電話を貰った。

   僕が9月に川崎に戻ってからのぼたん園を訪ねたが留守だったので、遊木民族で僕の携帯番号を聞いて掛けたと言う。昭和39年、まだ子供のころ父親に連れられて牡丹園(当時)に来たことがある、河西久吉(曽祖父)の妻  (曾祖母)の33回忌法要のためで、その時に河西貴一(祖父)に逢ったと言う。これから年末、年始にかけて自分のルーツを訪ねて、親戚縁者を回りながら川崎にも寄って僕に是非逢いたいとのこと。

   その後数回電話があり31日大晦日になるとのこと、こちらも丁度妻が具合が悪い最中だったので、その旨を伝え本来なら家に寄って貰うのだが、難しい状況なので近所の喫茶店かレストランなら逢える旨を伝えた。

   前日になっても連絡が無いので電話をすると、現在高崎にいて今晩はホテルに宿泊し、明朝川崎に向かうとのこと。聞けば北海道の自宅から自家用車で小樽へ出て、小樽からはフェリーで新潟に渡り、新潟から関越道で高崎まで来たのだそうだ。明日は昼ごろには川崎に着くと思うので着いたら電話をするとのこと。

   午後1時ころ電話が掛かってきたので駅前で待ち合わせをして、車を近くの駐車場に止めて喫茶店に席を取った。年齢は聞いたが確か65歳くらいだったと思うが、永く郵便局に勤め現在は旭川で資産運用のアドバイザーとして勤務しているとのこと。さっそく便箋に手書きした家系図を示して、自分は貴一の弟、慶伍(五男?)の孫に当たると言う。そして持参した河西久吉夫婦の写真と慶伍51歳(昭和26年撮影)の時の写真を貰った。

   河西貴一の写真があれば貰いたいと言われたが、生憎北見に置いて来ているので持ち合わせていないこと、そして手許にあった貴一の略歴を書いたものと昭和12年に貴一が衆議院議員に立候補したときの選挙公報を見せて後からコピーを郵送することを約束した。

<祖父貴一の略歴。写真を左クリックすると拡大されます。以下同じ。>
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<同、昭和12年に衆議院議員に立候補したときの選挙公報。拡大できます>
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   ここまで途中、親戚を訪ね訪ねてきたが、これから東京の親戚を訪ね、最後は河西久吉一家が居住していた四国香川県の白鳥村を訪ねるとのことなので、僕が会社勤務時代に九州の久留米に赴任していた時に一度訪ねた時のことを伝え、菩提寺の千光寺に立ち寄ることを勧めた。

   1時間以上が経ったので、そろそろ家で寝ている妻のことが心配なので、またいづれ北見での再会を約して自宅まで送って貰って別れた。

  二つ目は、年も明けて1月21日に従姉(僕の母の兄の子)から宅急便が届いた。開けてみると1冊の本が入っていた。
   「紅葉館館主 野邊地尚義(のべちたかよし)の生涯 ー明治の民間外交 陰の立役者ー 」となっている。著者は野邊地 えりざ。「えりざ」ってだれ?
   そうか!去年従姉から電話があって、今度本を出すからひろちゃん(僕のこと)の名前も書いていい?
  すっかり忘れてた。「上梓したら1冊贈呈してよ」などと図々しいこと言ったことを思い出した。

<野邊地えりざ著「紅葉館館主 野邊地尚義の生涯」>
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   従姉は僕より5歳くらい下と思っていたが、著者プロフィールを見ると2歳違いだ。「野邊地 えりざ」はペンネームだ。だいぶ以前から母方の特に野邊地家の家系について調べていることは聞いていたが、本にまですることはあまり想像していなかった。

   従姉は東京で生まれ、東京で育ち、東京で結婚し、二人の息子を儲け、今は旦那と二人で世田谷に住んでいる。その間2,3年は旦那の仕事の関係でアムステルダムに住んだ以外は、東京で暮らしているのに対して僕は生まれこそ東京だが、3歳から13歳までは北見で育ったので母方の親戚のことは一部を除いてあまりよく知らない。この本を読んで、初めて野邊地家と自分とのつながりや、晩年を母と僕と三人で暮らした野邊地里安、他の親戚との血縁関係も分かった。呑気な話である。生前、母もあまり詳しい話は殆どしなかった。

   「野邊地尚義(たかよし)」(1825〜1909)はこの本のプロローグによると、「岩手県盛岡市近郊から出て、蘭学者・英学者として江戸・長崎・萩・京都を駆け巡った。明治維新後、官吏として幾つもの府立語学校を創設。そして、日本初の女子公立学校を作り、その校長となった。
   その後、東京に移り、三十年間、外国の高官や明治の政財界、文壇などの会員制クラブ「紅葉館」の館主を務め、館主のまま、八十五歳で没した。」とある。

   幕末から明治にかけての野邊地尚義の活躍についてはこの本の記述に譲るとして、尚義と従姉妹や僕達との間の血の縁について明らかになったことは率直に言って、自分達のルーツを知ることであり、できれば子や孫に伝えて置きたいと思った。

   蛇足になるが、野邊地家の家系図を見ると血の縁は更に拡がって間もなく皇后になられる現皇太子妃、雅子さまにも繋がっていることが分かる。

<野邊地家の系譜(右頁)と野邊地尚義の妻の実家、京都の和田家並びに野邊地尚義の子供たち(左頁)。雅子さまは右頁左下。写真を左クリックすると拡大して読むことができます。以下同じ>
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<そして野邊地尚義と和田浅との子、立子(尾崎栄次と結婚)の子孫(右頁)。左頁は野邊地尚義の年譜。拡大できます>
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   今回、このような偶然にも二つの思いがけないことから、営々と続いてきた人間の営みと歴史の流れについて改めて驚きと感慨を、よりリアルに身近なものとして感じることができた。お二人に感謝したい。


posted by ぼたん園々主 at 00:34| Comment(0) | 日記