2019年11月10日

原節子賛歌

  「原節子の真実 石井妙子」(新潮文庫)を読んだ。

  孫に読ませたい子ども向けの本を買いに若葉台のコーチャンフォーに行った。何気なく文庫本の書棚に目を走らせていたときに、何故かこの本に目が止まった。

<原節子の真実 石井妙子著 新潮文庫>
191111i-phone画像 009.JPG

  今までに、僕は小津安二郎の「東京物語」と「晩春」以外の原節子は知らないし、そのときの印象は古い映画(「東京物語」は昭和28年(1953年)、「晩春」は昭和24年(1949年))にもかかわらず、他の日本の女優とは一線を画する、理知的な雰囲気が印象に残っている。

  特に、「東京物語」では他の出演者と比べてさして出番が多い訳ではないが、最も印象に残っているシーンが、実の子どもたちが尾道から会いにきた笠智衆、東山千栄子が演じる老夫婦を忙しさにかまけて、ないがしろにするにもかかわらず、ただ一人心から歓待したのは、戦死した次男の嫁であり、血の繋がらない原節子演じる紀子であった。舅は紀子に「いい人がいたら再婚したほうがいい」と勧め、紀子がそれを聞いて泣き崩れるシーンである。

  それともうひとつ、紀子の将来を案じる笠智衆の舅に対して紀子が、「私、ずるいんです」と告白するシーンである。亡き夫のことを、しばしば忘れている、そして自分に何かが起こらないかと期待している自分がいる、と告白するのである。

  このシーンは、いま思い出しても笠智衆と原節子の取り合わせでなくてはならないと思わせる。他の俳優では成立しないシーンである。

  平成27年11月26日、原節子死去のニュースを新聞で読んだ。産経新聞によると、25日に死去が判明した鎌倉市内の自宅前には、前夜に続き26日も報道陣が集まったが、時折、リスも見かけるような閑静な住宅街で、50年以上前に女優引退後は表舞台から姿を消したのと同様に、自宅前はひっそりとしたまま、と報じた。

  同日、海外の主要メデイアも大きく取り上げ、伝説の大女優を悼んだ。そのなかでも、ドイツ紙ウエルト電子版が「節子は日本人に対しては西洋的な美を、西洋人には理想の日本人女性を体現した」とたたえたことが、僕には特に印象に残った。

  同じ敷地内の別棟に住む甥(75歳)によると、8月に暑さのため体調を崩して入院、診断は肺炎だった。その後、9月5日に親族5人に看取られて息を引き取った。本人の意向で公表していなかった、とのこと。

  甥によると、10年以上前に入院したことはあったが、その後は元気で料理や洗濯も自分でし、元気で暮らしていた。本や新聞をよく読み、頭はしっかりしていたという。近所付き合いはなく、時折、親族が訪ねてくる程度で、映画館などにも一度も出かけたことはなかった。テレビで放送される映画などはたまに見ていたという。

  80代の頃は散歩にも出かけ、甥の運転する車で外出もしていたが、90歳を超えてから足が弱くなり、庭を散歩する程度で外出しなくなったという。ただ、「本人は100歳まで生きるつもりだった」と甥は話す。

  近所に住む男性(76歳)によると、原さんが家の生け垣の手入れや落葉の掃除をする姿はよく見かけていたといい、「時々は買い物袋を下げて歩いているのも見かけ、挨拶を交わしていた」という。だが、5年くらい前からはあまり姿を見かけることもなくなったという。
  
  彼女の写真を見ると、内面の美しさが気品として溢れている。写真でさえそうなのだから、実物はさぞかし、その立居振舞を含めて美しい女性だったろうと思う。

  一人の人間を見るときに、その人間の生き様が全てを物語る。

  この評伝を読んで、彼女が会田昌江として大正9年(1920年)に生まれてから14歳で女優となり、女優、原節子としてそれからの28年間の女優人生で、120本の作品に出演し、昭和37年(1962年)、42歳で突然、理由も告げずに銀幕から、そして世間からも消えてしまう。そして、それ以来、姿を隠し沈黙を守り続けたこと、その間、彼女が勁(つよ)い女優として、また勁い女性として最期まで生き切ったことを知った。

  会田昌江は大正6年(1920年)6月17日に東海道線の保土ヶ谷駅に近い会田家で、二男五女の五女として生まれた。昌江が映画界に入るきっかけを作ったのも、映画界から身を引いた後も世間から彼女を守ったのも兄と姉たちとその子供であった。

  母親が大正12年(1923年)の関東大震災で負傷し、その結果心身を病むことになったり、昭和4年(1929年)のアメリカに端を発した大恐慌の影響を受けて父親の稼業である生糸の輸出も大きな打撃を受けるなど、昌江の小学校、女学校時代は経済的には恵まれない、というより困窮していた時代を過ごしている。

  小さいころから本が好きで成績も優秀だった美少女が、家庭の経済事情により女学校を中退して意図しない映画女優となり、当時はまだ世間的には評価の低かった映画業界の真っただ中で、健気にも生き抜いていくことになる。
  
  その後、原節子16歳のときに偶然にも、当時の世界情勢を反映して、表向きは映画史上初の「日独合作映画」を作るという名目で、実際にはナチスが出資して日独軍事協定締結を促進するためにドイツ人を納得させるために作られる国策映画「新しき土」(外国では「侍の娘」)の主演女優に抜擢されてしまう。

  これ以降は、いい意味でも、悪い意味でも、美人女優として、当時の映画界と時代の荒波に乗り出して行くことになる。

  原節子に対する評価は、国内外の名匠たちの言葉を借りると、次のようになる。

  山中貞雄(作品名「河内山宗俊」)
    「この役柄に欲しいのは清純そのもの、女学生のような女優」
    「女優にはあんな子は珍しい。素直で、無口で、あどけなくっ
    て・・・一口に云えば、まだ全然子供なんだ。悪く女優ズレし
    たところが一つもない。清楚で、如何にも純真って感じだ」

  アーノルド・ファンク(ドイツ人、作品名「新しき土地」(海外では「侍
  の娘」))
    「いいですか。わざわざ、ドイツの映画監督を用いて、ヨーロッパで
    受けるような映画を作ろうとしているのですよね。だとしたら私の目
    を信じてほしい。彼女こそ、ヨーロッパにおいて日本を代表する女優
    にふさわしい美しさ持っているのです」

  島津保次郎(作品名「光と影」、「緑の大地」、「母の地図」など)
    「節子さんの性格は、女優に珍しい程地味なので、撮影所の中でとき
    どき、人づきあいが悪いなどと言われますが、私がつきあった限りで
    は、別にそんな風にも思えません。無口な人ですから、そう思われる
    のかも知れませんが、変に馴れ馴れしくされる薄気味悪さより、この
    方がずっと私にはつき合い良く思われます」
    「この人が巧くなったら素晴らしいだろうな、と。すると急に、この
    人を大成させるのは自分の義務であるような気がしてきます。聊か思
    い上がった気持ちですが、これもインスピレーションの一種でありま
    しょうか」

  黒沢明(各品名「わが青春に悔いなし」)
    「原節子の美しさは、幾ら讃めすぎても讃めたりない。こういう女が
    吾々の種族のあいだから生まれて来たことが、すでに吾々にとって不
    思議である。奇跡の感を与える」

  吉村公三郎(「安城家の舞踏会」など)
    「こんな立派な顔をした女優が日本にもいたものか」

  新藤兼人(当時、吉村の助監督)
    「原さんはまるでライオンのように見えた。素晴らしい美貌で、王者
    の風格があった。セットで椅子にひとり腰かけていると誰も近づけな
    かった」

  石坂洋二郎(「青い山脈」原作者)
    「原さんの風格ある美しさは日本映画の貴重な財産だと思う。
    (中略)大ていのスタアと云われる女優さんの美しさの中には、どこ
    かミーチャンハーチャンが好む卑俗さが潜んでいるものだが、原さん
    にはその卑俗さが全然感じられない。だからこの美しさは映画の内容
    によってはむしろ邪魔になる美しさなのかも分からない。だが、これ
    からの日本映画は、この原さんのもっている美しさが邪魔にならず、
    むしろ生かして使うような方向へ進んで行くべきではないだろうか」

  小津安二郎(「晩春」、「麦秋」、「東京物語」など)
    「原君を一言にして批評してみると、第一に素晴らしく、”感”のいい
    人だということであり、”素直”であることだ。このことはお世辞では
    なく僕ははっきり言い切れる。
     ”晩春”のシナリオも勿論、紀子の役は、最初から原君を予定して書
    いた。原君自身はあまり乗っていない様だが、僕は彼女を立派に生か
    して見せる自信のもとに仕事を続けている」
     「原節子のよさは内面的な深さのある演技で脚本に提示された役柄
    の理解力と勘は驚くほど鋭敏です、演技指導の場合も、こっちの気持
    ちをすぐ受け取ってくれ、すばらしい演技で回答を与えてくれます。
    (中略)演出家の中には彼女の個性をつかみそこね大根だの、何だの
    と言う人もいますが、その人にないものを求めること自体間違ってい
    るのです」

  原節子は戦後間もなくアメリカ映画「カサブランカ」を観て、イングリット・バーグマンに夢中になる。それ以来、イングリット・バーグマンに憧れ、バーグマンのような演技者になり、バーグマンのような役どころを演じたいと切望するようになった。また、バーグマンが結婚して子どもを得たうえで女優を続けられるのは、アメリカ社会が成熟しているからで、日本では望めないことだと語っている。28歳のときである。

  バーグマンは決して人形のように美しいだけではない。陰影のある豊かな表情は、内面からにじみ出るものだと節子は思った。そして、バーグマンの演技を盗み学ぼうとした。以下のようなエッセイを「映画グラフ」昭和23年8月号)に書き残している。

  「バーグマンさま。あなたの演技の持つ幅の広さ、その深さは、同じおしごとにたずさわるほどの者なら、誰しも深く羨望するものであると存じますけれど、わたくしの最もうたれます点は、あなたの表現なさる人間性のなまなましさ、強烈さなのでございます。わたくしは最近に出演いたしました数本のわたくしの映画で、どうにかしてその女主人公の持っている女らしさ、人間らしさを、生のままで、そして強く、またあなたのそれのように洗練されたかたちで表現したいと努力いたしております。そして、いつもあなたの身のまわりにただよっている一種の温かい雰囲気とかかぐわしい匂いのようなもの、そんなものをも、わたくしは身につけたいと、欲深く願っているのでございます」

  彼女は、これまで小津を含めて、出演してきた作品に決して満足していなかった。「カサブランカ」のバーグマンのように、美しいだけでなく、自我があり、自分で人生を切り開いていくヒロインを演じたいと思い続けている。戦前から、ことあるごとに「意志の強い女性を演じたい」と語ってきたが、そういった役は巡ってこなかった。という以前に、女の「自我」が日本映画に描かれること自体が稀だった。日本社会のなかでそのような女性が好ましく思われていない、現実として存在していない、ということでもあった。

  昭和27年、32歳になった節子は、日本史のなかにそうした人物を探して細川ガラシアならばと考えたのだろう、この後、引退の間際まで、「明智光秀の娘で、気性の強い勝気な夫人、細川ガラシアを演じたい」と言い続けるが、結局実現することはなかった。

  この頃から、節子は長年続けてきた徹夜の多い不規則な仕事や、戦中戦後の食糧不足による栄養失調のせいか、一家を養うために無理を重ねたせいであろう、腸を切除する手術を受けて体調不良を理由に1年近く映画には出演せず、自宅で静養している。この後も、活躍した年の翌年は体調不良で休養を取ることが、ひとつのパターンとなっていく。

  昭和28年には、節子の義兄となる、二番目の姉、光代の夫、映画監督の熊谷久虎の「白魚」に出演中、撮影現場での鉄道事故でキャメラマンとして参加していた二番目の実兄、会田吉男を失う。吉男は節子とは6歳違いで、年も近く、仲がよかった。映画界に入ったのも二人一緒であった。

  翌、昭和29年1月には、突然左眼の視力が衰え、ものが見えなくなる。白内障である。このとき節子は33歳。本来なら白内障を患うような年齢ではない。これも、戦後、食糧事情がわるいなかで無理を重ねたせいか、それともアップを望まれることが多い、美貌の女優の宿命として、至近距離からライトを浴び続けた結果なのか。節子は、アップを撮られる時には、どんなに眼が乾いて辛くとも、まばたきをしない訓練を日頃から積んでいた。他の女優に比べて眼が大きいので、まばたきをすると目立ち過ぎてしまうことを的確に認識していた。医者からは、このまま放置すれば失明すると言われる。最大の魅力と言われる大きな眼にメスを入れるのだ。

  このとき、節子の頭をよぎったのは、引退の2文字であったという。しかし、今はまだ女優をやめるわけにはいかない。やめて暮らしていけるだけの蓄えがなかった。
  彼女には、シベリア抑留中に亡くなった長兄の家族、撮影中に事故死した次兄には遺された妻(実姉)とこども、戦争で銀行員の夫を失った三姉の家族、の生活がその肩にかかっていた。
  そして、何よりも、自分の代表作への未練があった。自分にはまだ納得できる代表作がない。せめて、自分の演じたい役を思いきり演じ、これが自分だというものを残して去りたい、という思いである。
  
  結局、様子を見続けて11月に手術を受ける。幸いにして、手術は無事成功した。

  明けて昭和31年、節子は将来を考えたのだろう、すでに東京都の狛江市に自宅を取得していたにも拘わらず、この頃から少しづつ土地や株を買うようになる。同時に、納得のいく代表作を得て映画界に生きた証を残そうともしている。「細川ガラシア」にこだわり続けたのである。

  もともと節子は質素な暮らしを好んだ。ぜいたくな着物や宝石類にはまったく興味がなく、高価な調度品も嫌った。外食はほとんどせず、食べ物に凝ることもなかった。撮影所ではよく畳鰯を無二の親友だった結髪師と結髪部屋のストーブであぶって食べた。ぜいたくを慎んで手にした金で昭和33年には狛江の自宅周辺の土地を買い増している。そのほか東京都内、あるいは神奈川県下にも少しずつ土地を購入している。

  そして、昭和37年(1962年)11月に公開された、東宝が創立30周年記念映画として、オールスターキャストで挑んだ大作「忠臣蔵」に東宝のトップ女優として松本幸四郎演じる大石蔵助の妻「りく」を演じた。
  登場シーンは長くはないが、八代目幸四郎に一歩も引けを取らない、格調高い演技であった。
  これを最後に、二度とスクリーンに戻ることはなかった。節子42歳のときである。

  この評伝を読んで、最初に思ったことは人間は、その人がいつも心のなかで思ったり、考えているとおりの人間になる、ということです。原節子(会田昌江)の美しさは、彼女の心の美しさそのものだったのだと思う。彼女の気品も、やさしさも、強さも、すべては彼女の心の有りようを映しているものだと思う。だからこそ、それらが、彼女の生き様となって一生を貫いているのだと思う。

  そして、彼女の一生を貫いているものの大きな柱の一つが、家族に対する想いのような気がする。年配の両親のもと、兄2人、姉3人に囲まれて大事に育てられた彼女が、12歳のときに発生した大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で不幸にして母親が大やけどを負い、その結果、母親は心身を病むことになる。

  評伝では、こう書かれている。

  病んだ母親に代わって少女の世話を焼いたのは姉たちだった。遠足に行くと言えば、夜を徹して自分の服を解き、昌江の服に仕立ててくれた。朝早くから台所に立ち、弁当も作ってくれた。
  「母は病弱でした。ですから、私は姉の手で育てられたようなものです」
  昌江は後年、たびたびそう語っている。
  彼女は生涯、姉や兄たちをひたすら想い、幼き日に与えられた恩に報いようとした。

  特に、義兄夫婦(熊谷久虎夫妻)に対する信頼は終生、揺らぐことがなかった。次姉光代とその夫である熊谷久虎は、ふたりとも当時、日活で光代は脚本家を目指し、熊谷は監督になったばかりであった。そもそも、この二人によって昌江は映画界に入ることになるが、熊谷は、節子のお目付け役として節子を守る役割も果たすことになる。

  評伝を読み進むに従い、節子が売れっ子女優になるにつれて立場が逆転して、むしろ、節子が熊谷を立てようとして自分の出演映画の監督に推したりして、逆にその企画が流れてしまったり、節子が20歳前後の頃には、相思相愛になり結婚を強く望んだ男性を熊谷が東宝から追放するという事件もあった。
  
  評伝ではこう書かれている。

  節子に近づこうとする男を熊谷はゆるさなかった。熊谷によって節子の恋愛の機会は、ことごとく摘み取られていた。そして、こうした熊谷の過保護で専横な振る舞いは、やがてひとつの疑惑を生んだ。
  「熊谷自身が、義妹の節子に恋慕しているのではないか」
  すでに洋行(「新しき土」のドイツ特別試写会)の頃から、ふたりの仲を怪しむ声は映画界に上がっていた。映画人は口さがない。当然、節子の耳にも、こうした噂は入ったことだろう。義兄は、いろいろな面で節子の障害となっていたようである。

  だが、それでも節子は、義兄夫婦のもとから離れようとはしなかった。駆け落ちをするような無責任さを節子は持ち合わせていなかった。両親や長姉といった養うべき家族もいた。節子は清島(恋人)の一件から、うかつに恋をしてはならないと、どこまでも義兄ではなく自分を責めたのではないだろうか。

  清島の一件とは、節子が二十歳前後のころ彼女にとって一生に一度の熱烈な恋をしたことが、映画関係者の間で密かに語り継がれていることである。相手は、東宝の同僚で、脚本を書きながら助監督をしていた青年で、名は清島長利といい当時は全く無名で、地位もなく目立たない存在であったようだ。

  当時、既に大スターであった節子が清島の地味だが誠実な人柄に惹かれたということは、彼女が男を見るのに外形ではなく、内面を、人間の本質を見抜く眼を持っていたことの証左と僕は捉えたいと思う。

  僕が、最も感銘を受けるのは、節子が出演を断り、銀幕から姿を消してからの彼女の生き方である。

  東京狛江の自宅を引き払い、鎌倉の義兄夫婦とその息子が住む敷地内の庭先に、離れを改装してこじんまりとした家を建て、終の住処とした。最初のうちこそ、親しい友人を招いて麻雀や食事をすることも稀にはあったようであるが、それもどこからか漏れて活字になったりして、結局、誰が訪ねてきても、電話でさえ本人が出ることはなく、すべて義兄夫婦とその息子が対応した。

  本人は、大半の時間を家にいて一人で読書をし、時おりレコードを聞き、庭を手入れし、家事をした。
  外出はせず、人にも会わなかったが、新聞は二紙を隅々まで読み、社会や政治、経済への関心は持ち続けていたようである。新聞の書評や広告を見て、甥の久昭夫妻に「この本を買ってきて」と頼んだ。

  引退後の節子は、マスコミを遠ざけ50年余の間、一度も取材に応じなかったとされているが、実はたった一度だけ、電話取材に応じたことがあった。
  それは、戦時中に米軍の少佐が中国で拾った一枚の「日の丸」を母国に持ち帰り、その後すっかり忘れていたが、あるとき気がついて、在日米大使に「持ち主を見つけて返してほしい」と送り届けた。ところが、この日の丸には、「きみがよのぎせいとなれよわがしんみん正久君」とあるだけで持ち主の氏名がわからない。

  一同、途方にくれたが、寄せ書きのなかに著名な女優のサインが含まれていることに気づく。
  その二つのサインのうちのひとつが節子のものだった。人を介して電話取材を申し込んだ新聞記者に対して、節子は「私はもう「原節子」という名前を捨てて、いまは本名の会田昌江で暮らしております」とし、取材を受けるに当たり、これが例外であることを、まず念押ししている。

  そのうえで、懸命に思い出そうと義兄たちにも尋ね一緒に考えたものの、「どうしても思い当たる人がいない」と答えた上で、こう続けている。「あのころ戦時下で、この種の国旗には何百回とサインしていますので、ほんとうに申し訳ありませんけど、正久さんというお名前には記憶がありません」(報知新聞 昭和48年2月14日)と。義兄夫婦を通じて「記憶がない」と言えば済むものを、何故、この取材にだけは応じたのか。

  平成6年(1994年)、思いがけない形で、「原節子」の名が話題となった。
  この年の高額納税者番付に「会田昌江」の名が載ったからだ。全国で75位、納税額は3億7,800万円、所得総額は13億円以上と推測された。東京狛江の約800坪の土地を売却したからである。昭和22年(1947年)に購入した当時は、麦畑が広がり人家もまばらで寂しいくらいだった。半世紀近い時を経て、あたりは住宅地と化し、地価は高騰していた。これより8年前には、義兄夫婦が亡くなり、節子は72歳になっていた。

  他にも節子が購入した土地は、長年の保有によって軒並み大きく値を上げていた。一部は親族に贈与している。土地の売却に伴い、かなりの所得があったはずだが、彼女の生活は少しも変わらなかった。自身が暮らす鎌倉の家は、たいして広くもなく、しかも借地である。着る物にも食べるものにもこだわらず、旅行もせず外食もしなかった。ひたすら家に籠り、本を読み、自炊をして質素な生活を送り続けた。
  ただし、世間への関心を失っていたわけではなく、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災の時には、朝一番に自ら郵便局に赴き相当な額の義捐金を送っている。

  僕は、経済観念はその人の人格を表すと思っている。凡人は金に振り回されるが、賢明な人は金とは距離を置くことができる。節子の生き様を見ると、どんな時も、華やかな時にも、落ち込んだ時にも、変わらず質素な生活、堅実な生活を送っている。そして、将来を考え、きちんと打つべき手を打つことができる判断力を持っている。

  そして、何よりもどんな時にも、撮影の合間でも、本を手放していない。あらゆる分野に興味を持ち、自分の視野を広め、見識を高めることを本能的に実行している。だから、大所高所から世間を見ることができ、物事の本質を捉えることができたのだろうと思う。

  いづれにしても僕は、日本にこのような心身ともに美しい女性が存在していたことを誇らしく思うのと同時に、同じように美しい心と、賢い頭脳、健康な肉体を持った女性が、今も、将来も、日本に増えていくことを願っている。

  最後に、この評伝にはこのように書かれている。

  節子は引退後も親しく付き合っていた詩人の慶光院芙紗子に対して、こんな言葉をもらしている。
  「恋愛は一生に一つしかないもの、その1回が永遠で、それがきのうのことのように忘れられない。(中略)自分が恋した人は、たいしてえらくない人なので、会社からいわれて他の方と結婚してしまった」(「女性自身」昭和46年8月7日・14日合併号)

  僕は思う。人は時間とともに変わっていくが、その人の生まれ持った人間性は変わらない、と。

<35歳のときの原節子。原節子の真実 石井妙子著 新潮文庫 見開きより>
191111i-phone画像 010.JPG
 
続きを読む
posted by ぼたん園々主 at 22:58| Comment(0) | 日記