2020年01月31日

ホテルニューグランド

  昨年12月、横浜市中区にあるホテルニューグランドに妻と行ってきました。以前からずっと訪れたいと思っていたホテルです。

  ホテルの目の前は山下公園、その先は横浜港です。横浜マリンタワーや横浜港大さん橋国際客船ターミナル、みなとみらい地区、そして中華街や元町にも近く、最も港町横浜らしいロケーションです。横浜らしいと言えば、この日はホテルを訪れる前に、瀟洒な洋館が点在する高台の山手町にあるカトリック山手教会に寄ってきました。すぐ近くにはフェリス女学院や横浜双葉などの名門女学校があります。

  山手教会のお御堂は、現在は工事中で内部を見ることはできませんでしたが、教会の駐車場に車を駐車して、すぐ隣のフェリス女学院と隣接している山手公園を散策してから車に戻り、元町界隈を少しドライブしました。

横浜山手教会の御堂
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  途中、代官坂トンネルを抜けたところで、偶然にも大学生時代に行ったことのある"Cliff Side"を見つけました。その頃は、まだダンスホールなど経験もありませんでしたが、オーナーが大学の先輩であったこともあり、ゼミの先輩に連れて行かれたことを懐かしく思い出しました。当時は生バンドが入っていて大人の社交場として大変な混雑だった記憶がありますが、ネットで見ると創業は1946年、今は横浜でもこうした社交場はここしか残っていないようです。まだ時間が早いので店は閉まっていて中を覗くことはできませんでした。

  それから、ちょっと足を伸ばして根岸旭台のカフェ・レストラン”ドルフィン”で根岸湾の海を遠望しながらお茶とケーキを頂きました。このレストランはかつてユーミンが昭和49年にリリースした「海を見ていた午後」の一節に「♪山手のドルフィンは静かなレストラン」として歌われていたところだそうです。

海の見える丘の上にある”ドルフィン”。すぐ近くには、かつて日本初の洋式競馬場だった横浜競馬場(根岸競馬場)の跡地で,現在は市が運営する総合公園「根岸森林公園」がある。(面積193,102u)
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  ”ドルフィン”を出て、ホテルに到着した頃には、辺りはもう暗くなっていました。5階(その後6階)建ての旧館と平成3(1991)年に開業した地上18階建てのタワー館がありますが、タワー館地下の駐車場に車を停めてエレベーターで1階に上がると、そこは吹き抜けのロビーです。床も柱も椅子やテーブルなどの調度品も、全体がヨーロッパの古いホテルにタイムスリップしたような感じです。12月だからでしょうか、天井から吊り下げられた大きなシャンデリアの下には本物のクリスマスツリーが置かれています。

タワー館1階のロビー
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  そのまま奥の方に進むと、そこは旧館の1階に繋がっていて、廊下には昔のホテルの絵や写真や生花が飾られています。旧館の1階にはコーヒーハウス「ザ・カフェ」とイタリアンレストラン「イル・ジャルデイーノ」がありますが、今日の目的の一つは「ザ・カフェ」での、ホテルニューグランドが発祥と言われる「シーフード ドリア」「スパゲテイ ナポリタン」、「プリン・ア・ラ・モード」の試食です。

旧館1階の入り口
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旧館廊下の設え
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イタリアンレストラン”イル・ジャルディーノ”はホテルの中庭(パティオ)に面している。写真の左側。
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  その前に、山下公園側にある旧館のエントランスから外へ出て公園通りを渡り、通りの反対側から建物全体を見てみます。すっかり暗くなった黒い闇に、そこだけ柔らかい照明を浴びて白く浮かび上がるようなシルエットは、正にクラッシクホテルそのものです。"The Cafe"の小さな赤いネオンが郷愁を誘います。昔、ヨーロッッパ映画で見たことのあるワンシーンのようです。

ホテルニューグランド旧館の夜景
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”The Cafe"のネオンがなぜか懐かしい
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  再び、エントランスを入ると”ニューグランドブルー”と呼ばれる品のよい青い絨毯が敷かれた大階段が出迎えてくれます。階下から見上げるその堂々とした石造りとタイル張りの階段は、威厳の中に永い歴史と伝統を感じさせてくれます。この日はたまたま、宣伝用でしょうか、モデルと思われる美男美女の新郎新婦の写真撮影が行われていました。

  大階段を2階へ上がると、正面にはエレベーターがあり、その上部には火炎のレリーフに嵌めこまれたクラシカルな時計と、アーチ状の壁には京都川島織物の綴織り「天女奏楽之図」が貼られています。このあたりは当初はフロントがあったところだそうです。

  2階にはロビーの他に大食堂と呼ばれた「フェニックスルーム」と宴会場(昔は舞踏室)だった「レインボウルーム」があります。当日は2階には誰もいなかったので、ロビー以外は中には入らずに覗いただけでしたが、ロビーには太いマホガニーの柱や横浜家具製の重厚な椅子やテーブルが配置され、「レインボウルーム」には漆喰塗のアーチ状の天井には優美な石膏のレリーフが施されているのを見ることができました。また、ロビーや「フェニックスルーム」の天井からは、東洋風の伽藍灯籠が吊るされていて、まるで歴史のある神社の伽藍をも思わせる不思議な空間です。

  「ザ・カフェ」は白い壁と木を多用した内装で、明るく暖かい家庭的な感じがする店です。店内はほぼ満席でしたが、年配のカップルや家族連れもいて、それでも騒がしくはなく和やかな空気が流れています。取りあえず「シーフード ドリア」と「スパゲテイ ナポリタン」を注文しました。

"The Cafe"の入り口
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”The Cafe”のメニュー
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  「シーフード ドリア」は、初代総料理長のサリー・ワイルがある時、滞在していた銀行家から「体調がよくないので、何かのど越しのよいものを」という要望を受けて即興で創作したのが始まりとのこと。大きな海老がたくさん使われ、それが上品でコクのあるグラタンソースによく合っていて、とても美味しく頂くことができました。

  「ナポリタン」は、2代目総料理長の入江茂忠が、ホテルがマッカーサー率いるGHQに接収されていた時に
米兵が茹でたスパゲテイに、塩、胡椒、ケチャップをかけて食べるのを見て、ホテルで出せるように工夫を加えたものだそうです。麺がもっちりとして、マッシュルームや大きめに切られたハムを、ケチャップは使わずに自然でコクのあるトマトソースと合せていて、これもとても上品な味でした。

「シーフード ドリア」と「ナポリタン」
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  「プリン・ア・ラ・モード」は、同じくGHQ時代に米軍将校夫人たちのために「華やかでボリュームのあるデザート」ということで考案されたようですが、残念ながらここまでで満腹になってしまい次回のお楽しみということにしました。
                                                   ホテルニューグランドの公式ページや、その他の関連サイトを見ると、「ホテルニューグランド」は、昭和2(1927)年の創業ですが、なぜ「ニュー」が付いているのか、それには理由がありました。

  「ホテルニューグランド」より200mほど離れたところに現在ある「人形の家」(人形博物館)の辺りにあって、明治3(1870)年まで営業していた「グランドホテル」を前身として、明治6(1873)年に外国人居留地にあった社交クラブのマネージャーや写真家などの外国人たちが出資し、外国人のためのホテルとして同名の「グランドホテル」を、建物も建て替え、スタッフや料理長も一新して開業します。

  当時は、東京築地に慶応3(1867)年に開業した国内初の本格的西洋式ホテル「築地ホテル館」がありましたが(明治5年火災により焼失)、「グランドホテル」の建物の設計は、この「築地ホテル館」や、初代横浜駅(現・桜木町駅)、横浜税関などの当時の大きな建築を手がけたブリジェンスだと言われています。
  
  また、日本初のフランス料理店だったといわれる「築地ホテル館」の初代料理長を務めたルイ・ベギューが「グランドホテル」の料理長となり、開業当初からホテルの料理は評判となります。
  当時、ホテルの宿泊代が月決めで2食付58ドル、今の価格だと116万円といいますから、かなりの高級ホテルです。明治23(1890)年には、隣接して新館がオープンし、その後も改修と増築を重ね、最終的には客室数360余に及ぶ国内最大のホテルとなります。当時の写真や絵を見ても相当に立派な建物です。

現在のアメリカ山から見たグランドホテルの全景。アメリカ山公園の案内板から。
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  ところが、大正12(1923)年関東大震災が発生します。東京だけでなく、横浜の街も焼野原となります。「ホテルグランド」を含めて、山下町界隈に軒を連ねていたホテルの殆どが崩壊してしまいました。現在の山下公園は、復興のシンボルとしてその時の瓦礫で海を埋め立てて造成されたといいます。

  その後、当時の横浜市長有吉忠一の提案により、「ホテル建設計画」が市議会に提出され、その可決を受けて三溪園を造った原富太郎ら横浜財界の有力者を集めた「横浜市復興会」が結成されました。そこで決議された議案の中にあったのが「外人ホテル建設の件」で、これが「ホテルニューグランド」建設のきっかけとなりました。外国人向けのホテルは、生糸輸出などが支えていた横浜経済の地盤沈下を防ぐためにはどうしても必要なものだったのです。

  ホテルの名称は公募されましたが、関東大震災で崩壊し廃業した外国人ホテル「グランドホテル」の後継として、「ホテルニューグランド」が選ばれたとも、公募作に適当な名称がなかったため当時、横浜市復興会・計画部長だった井坂孝が命名したとも言われています。

  ホテルの建物は、当時38歳で新進気鋭の建築家、渡辺仁が設計。渡辺はその後、上野の東京国立博物館、日比谷の第一生命館、有楽町の日本劇場などを手がけています。設計書には「細部に東洋的手法を配し、日本の第一印象を付与することに努める」と書かれています。
    
  こうして「ホテルニューグランド」は横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設がすすめられ、土地、建物は市が提供し、経営は民間が担う今日の第三セクターとして出発します。初代会長には、前出の井坂孝が就任します。井坂は東洋汽船出身で、当時同じ東洋汽船のサンフランシスコ支店長だった土井慶吉を補佐役として引き入れます。

  土井は、ホテルの業務(サービス、宿泊、飲食)に明るく、早速、欧米の視察に出かけ、帰国するとパリの一流ホテルから初代の総支配人となるアルフォンゾ・デユナンを引き抜き、当時最新の設備とフレンチ・スタイルの料理をホテルの目玉に据えます。さらに、アルフォンゾ・デユナンの推薦により、当時パリのホテルで一緒に働いていた、既に若干30歳で四つ星ホテルの総料理長だったスイス生まれのサリー・ワイルを呼び寄せ、元帝国ホテルの第4代総料理長の内海藤太郎をその補佐に付けます。

  サリー・ワイルは、料理の腕前は言うまでもなく、指導者としても優秀な人物でした。本格フランス料理の味についてはもちろん、当時は堅苦しいばかりだったホテルのレストランに、パリの下町風の自由な雰囲気を取り入れました。ドレスコードや酒、煙草についても自由にし、コース以外にもアラカルトを用意するなど、一般客でも利用しやすいサービスを工夫し提供しました。

  そして、「どんなにうまい料理ができても、それを客の前に運ぶボーイの態度で客の印象は変わる」、「自分は魚の料理しかできない、肉の料理しかできない、と言うのは恥ずべきことだ」と、スタッフを指導しました。当時の日本の料理界は、まだ徒弟制度の色合いが濃く、料理人も食材ごとに担当して年季を積み、修行するのが一般的でしたのでワイルの考え方はとても革新的でした。

  こうして「ホテルニューグランド」からは、後に広く親しまれることになるドリア、ナポリタン、プリンアラモードなどの料理が生まれました。また、この厨房からは、ホテルオークラやプリンスホテルグループの総料理長、数々の名店の料理長など、多くの名料理人を輩出し、日本の食文化に多大な影響を与えました。後に、「ニューグランド系」と呼ばれるホテル料理人の人脈の創始者となったワイルは日本に20年間滞在し、弟子たちから「スイス・パパ」と呼ばれて慕われ、昭和48(1973)年にはその文化的業績に対して勲5等瑞宝章が送られています。

  ネットサイトtravelbook.co.jp から引用すると、歴史とともに歩んだ「ホテルニューグランド」として、開業当初から、皇族やイギリス王族などの賓客、チャーリー・チャップリンやベーブ・ルース、ジャン・コクトーなどの著名人が数多く来訪し、「外人ホテル」としてのブランドを確立していったとしています。また、日本人では、池波正太郎、石原裕次郎、松田優作なども訪れています。

  ダグラス・マッカーサーは、戦前には新婚旅行で(1937年)、戦後にはGHQ最高司令官として滞在しています。特に、再来日した1945年8月30日には、厚木飛行場に降り立ち、声明文を朗読後すぐさま乗用車に乗り込み、まっすぐホテルニューグランドに直行したそうです。彼が執務室として使用した315号室は「マッカーサーズスイート」として残され、現在も一般客も宿泊できます。

  また、横浜生まれの昭和の文豪、大佛次郎も昭和6(1931)年から約10年にわたり、「ホテルニューグランド」の本館318号室を創作活動の場とし、この部屋から、横浜を舞台にした「霧笛」をはじめとして、代表作「鞍馬天狗」など、数々の名作を生み出しました。大佛は仕事の気分が乗らないと、部屋から横浜港の展望をを眺めたり、バー「シーガーデイアン」(現在の「シーガーデイアンU」)でくつろいだりして過ごしたそうです。昭和48(1973)年、大佛はこの世を去りますが、遺体が東京の病院から鎌倉・雪の下の自宅へ帰る際に、わざわざ車を「ホテルニューグランド」を経由させ、横浜港とイチョウ並木、そしてホテルの従業員たちに見送られていったということです。(同サイトより)
          
  
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posted by ぼたん園々主 at 17:13| Comment(0) | 日記

2020年01月14日

ルノワールとパリに恋した12人の画家たち

  令和2年1月5日(日)、横浜美術館で開かれている「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展を見てきた。

横浜美術館の外観
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横浜美術館ロビー
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「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展
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  展覧会公式解説書の挨拶文には、以下のように書かれている。

  「2019年、横浜美術館開館30周年を記念して、オランジュリー美術館所蔵品による「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」を開催いたします。

  パリのセーヌ川に建つ、チュイルリー公園のオレンジ温室を改修した瀟洒な佇まいのオランジュリー美術館。画商ポール・ギョームが基礎を築いた同館所蔵の印象派とエコール・ド・パリの作品群は、ルノワールの傑作<ピアノを弾く少女たち>をはじめ、マテイス、ピカソ、モデイリアーニらによる名作が揃った、ヨーロッパ屈指の絵画コレクションです。

  ギョームは若き才能が集まる20世紀初頭のパリで画商として活動する一方、自らもコレクターとして作品を収集しました。私邸を美術館にする構想を果たせぬまま若くして世を去った後、そのコレクションは妻のドメニカにより手を加えられていきました。そしてこれらの作品群は、ギョームとドメニカの二番目の夫の名を冠した「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギョーム コレクション」としてフランス国家に譲渡され、同館で展示されるようになりました。

  本展は同館が所蔵する146点のコレクションのうち69点が、21年ぶりにまとまって来日する貴重な機会です。」 以下省略 

  20世紀初頭にパリに集まってきた画家と画商を中心に、さまざまな個性と夫々の人生が織りなす人間模様を、こうして100年以上の時を経て日本の現代の我々が絵を通じて垣間見ることができることに不思議な感慨を憶える。

  ここに登場する画家や画商、あるいは彼らを取り巻く人間の夫々の人生が、絵や解説を通して、まるで夫々のために作られた映画を見るように想像されて面白い。純粋に芸術を追い求めることも、時には生活のために金銭を追い求めることも、あるいは儚い愛を追い求めることも、時には尽きない欲望に翻弄されることもある人間そのものを、これらの絵から想像できることに、絵画を見る面白さがあるように僕には思える。

  海の見える丘の上に建つ明るいアトリエで、日がな一日太陽の光を浴びながら一心に絵を描いている自分を想像する。そんな時が現実になることを夢見ることもある今日、この頃である。

  主な展示作品

  以下の画家と作品に関する説明は、展覧会公式解説書から引用したものであることを予めお断りしておく。

<アルフレッド・シスレー>1839-1899
  印象派の風景画の巨匠として知られる。1862年にモネやルノワールらと知り合い、パリ郊外のフォンテーヌブローの森でともに風景画を描く。生涯にわたりパリ近郊に住み、田舎の村々の風景を繰り返し明るい色調で描いた。

・モンビュイソンからルヴシエンヌへの道 1875
  1871年、パリから西に10キロほどのルヴシエンヌ近郊に転居したシスレーは、セーヌ川の丘陵地帯で葡萄や果樹を栽培するこの農村地帯で、豊かで穏やかな自然をテーマに数々の風景画の傑作を生み出す。

  なだらかな丘の上から遥かにセーヌ川を望み、晴れた空のもとで馬車や人々が道を行き交うのどかな田園の情景が落ち着いた色彩で描かれている。画面を広く占める明るい空、地平線上のほぼ中央の消失点に続く道、画面に生命感を与える点景の小さな人物など、シスレーの風景画の特徴を見ることができる。

クロード・モネ1840-1926
  周知のとおり、「印象派」は1872年に製作されたモネの作品「印象、日の出」に由来する。1883年に、パリからノルマンデイーのジベルニーに移り住む。1890年代終わりから1926年に亡くなるまで「睡蓮」の連作に取り組み、晩年に制作された「睡蓮」大装飾画はオランジュリー美術館に収められている。

・アルジャントウイユ 1875年
  アルジャントウイユはパリから北西に10キロ程のセーヌ川右岸の町。サン=ラザール駅から20分で行ける行楽地。モネは、川面の光の反映を間近で観察するために自ら舟を改造して水上アトリエを造った。この絵はそのアトリエ舟から描いたものといわれている。

<オーギュスト・ルノワール>1841-1919
  最初は磁器の絵付け職人だったが、同じ画家のアトリエでモネやシスレーと出会い、一緒にパリ郊外の屋外で絵を描くようになる。1879年のサロン(官展)で成功してからは印象派とは距離を置くようになる。
  1890年代以降は家族の肖像画を描くようになり、また草木の繁茂する景色のなかの女性を線と色彩を調和させながら描いた。

・桟敷席の花束 1878-18880年頃
  パリのオペラ座の桟敷席の椅子に置かれた薔薇の花束。

・桃 1881-1882年頃
  白いクロスが掛った机の上に置かれた白い磁器に、葉がついたままも桃が盛られている。桃は黄色がかった淡いピンク色から赤へと美しいグラデーションで彩られ、葉の緑や、器やテーブルクロスの白と対照をなして、みずみずしい輝きを放っている。机の上に転がった一つの桃が、画面にリズム感を生み出している。

・手紙を持つ女 1890年頃
  左手に読みかけの手紙を持ち、右手を頬に当てて物思いに耽る女性。明るく描かれている画面の左には窓があって、彼女は窓の外をぼんやりと眺めているようだ。黒目がちなその目は商店が曖昧で、手紙の主のことを夢想しているようである。中略 女性の肌の輝きや夢見るような表情は、ルノワールの絵画に共通する生きる喜びや生命感を伝えている。

・花束 1900年頃
  紺色の暗い背景のなかに緑色の陶器の壺を配し、そこにあふれるように生けられた赤やピンクの鮮やかな色の芥子やバラの花を濃厚な筆遣いで描いている。暗い背景のなかで花びらが生き物のように妖しくうごめいているようであり、画家が花を通して生命力の表現を模索していた様子をうかがうことができる。

・ピアノを弾く少女たち 1892年頃
  政府からリュクサンブール美術館に収蔵する作品の制作を委託されたルノワールは、ピアノの前に座る二人の少女をテーマにした同様の構図の油彩画やパステル画を少なくとも6点制作したといわれる。そのうち国家が買い上げた作品は、現在オルセー美術館に収蔵されている。オランジュリー美術館所蔵の本作は、油彩によるスケッチといった性格のもので、晩年まで画家のアトリエに保管され、画家の没後の1928年にポール・ギョームが収集した。
  
  オルセー美術館所蔵の作品では室内の調度品や楽器が細部まで描きこまれ、人物もやや硬い調子であるが、本作では人物に焦点が当てられ、周囲は筆跡を残して簡略に描かれている。顔を寄せ合い楽譜を覗き込む少女たち。伸びやかで柔らかい筆致によって美しい色彩の調和で満たされた画面から、ピアノの音色と少女たちの声が聞こえてくるようである。

・ピアノを弾くイヴォンヌとクリステイーヌ・ルロル 1897-1898年頃
  描かれているのは、画家でコレクターであったアンリ・ルロルの二人の娘。中略
  (前出の)「ピアノを弾く二人の少女」が華やかな若々しさにあふれているのに対し、本作は、水平線を強調した安定感のある構図、はっきりとした輪郭線や落ち着きのある色彩など、古典的な様式で描かれ、落ち着いたブルジョア的な雰囲気を生み出している。以下略。  

・バラをさしたブロンドの女 1915-1917年頃
  この作品のモデルは当時16,7歳であったアンドレ=マドレーヌ・ウシュリング、愛称をデデといった。ルノワールは、この愛らしい顔立ちとブロンドの髪、輝くような素肌の少女を気に入り、最晩年のモデルとした。デデは、女優となってカトリーヌ・エスランと名乗り、画家の次男で映画監督となったジャン・ルノワールと結婚して彼の映画に出演した。中略

  全体が赤茶のトーンでまとめられ、薄塗の地に鮮やかな色が濃彩で描かれる。対象の形態は空気に溶け込むように曖昧ではあるが、はだけた胸や袖をまくりあげた腕の輝くような素肌の表現には、画家の衰えない創作意欲が垣間見える。以下略。

<ポール・セザンヌ>1839-1906
  1862年頃、生地であるプロヴァンスから友人だったエミール・ゾラのあとを追ってパリへと移住した。ルーブル美術館で過去の絵画を、リュクサンブール美術館では同時代の絵画を模写した。印象主義は放棄したが、パリとプロヴァンスでの制作は続けた。

  1895年に最初の個展が開かれ、以降若い芸術家たちから近代絵画の先駆者として崇拝される。ピカソにも影響を与えた。作品には、静物とプロヴァンス地方の風景画や肖像画、浴女を描いた作品も手がけている。

・りんごとビスケット 1879-1880年頃
  木製の箱の蓋が帯のように画面を横切り、その上に鮮やかな赤やオレンジ色の果物がリズミカルに配置され、右端には青い皿の円形が半分だけ描かれている。箱の手前につけられた縦長の金具が、画面の中央でバランスを取る役目を果たしている。壁紙の花柄は浮き出るように描かれ、すべての要素が緊密に関連づけられ、緊張感のある画面を作っている。
  静物画のお手本のような絵だ。

・セザンヌ夫人の肖像 1890年頃
  オルタンス(セザンヌ夫人)は、簡素な肘掛け椅子に座り、両手を厳かに膝の上に置いている。彼女の顔は表情がなく、何にもこびない様子である。筆遣いは素早く、不規則で一つ一つが際立っている。輝くようなハイライトは、明るい絵具の厚塗りではなく、カンヴァスの地が見えるように塗り残すことでつくられている。このテクニックによって、質素な黒いドレスに量感と生命感が生まれている。背景は筆跡と青と緑の微妙なヴァリエーションだけでいきいきとしている。ここでもまた、絵具を塗らずに地が残された部分がある。正面を向くモデルと少し角度をずらして置かれた椅子がちらりと見えており、それによって構図に不安定さがもたらされている。

・小舟と水浴する人々 1890年頃
  横に細長い形をしており、画面中央には広々とした水面と空が、左右には岸に沿って水浴する人々が描かれる。左眼には小さなボートが係留され、画面中央にはゆったりと停泊する帆船が描かれる。そのマストの垂直線は、やや弧をえがくように空と水をつないでいる。以下略。

・わらひもを巻いた壺、砂糖壺、りんご 1890-1893年頃
  本作は、テーブルの上の果物や器などを通常とは異なる視点で描くという革新的な表現方法を取り入れた、セザンヌの独奏的な静物画の最良の例である。以下略。

<アンリ・ルソー>1844-1910
  フランス西部のラヴァルで生まれ、従軍した後パリの税関で働いていた。余暇に絵を描き始め、1885年頃にはパリのサロンに定期的に出品するようになる。1905年には、サロン・ドートンヌに3枚の絵を出品、前衛的な詩人や芸術家たち、そして批評家にも称賛された。

・人形を持つ子ども 1892年頃
  青空を背景に、水玉模様の赤いワンピースを着た少女が大きく描かれている。上半身は正面を向いているが下半身は斜めから捉えられ、椅子に腰かけるように膝を曲げている。しかしそこに椅子はなく、しかも彼女の足は草原の中に埋まっているようだ。目を見開いてこちらを凝視する少女の顔は、彼女が腕に抱いた人形と同様表情や動きがなく、イコン(聖画像)のような神秘的な印象を与える。以下略。

・婚礼 1905年頃
  木立の中で花嫁を中心に正装をした人々が集う、結婚式の記念写真を思わせる作品である。後列右から二人目がルソー本人と言われる。周囲の木々を斜め方向に次第に小さく書き、前景に大きな黒い犬を置いて奥行きある空間を暗示しているが、人物は切り絵を貼りつけたように平面的に描かれる。奇妙なことに、花嫁は空中に浮かんでいるように見える。以下略。

・ジェニエ爺さんの二輪馬車 1908年頃
  ジュニエ爺さんは、ルソーの家の近くに住む食品雑貨商で、毎朝荷馬車に載って野菜を買い出しに出かけた。ジュニエの妻がルソーの料理人だったこともあり、ルソーはその一家と親しくしていた。ここみはジュニエ爺さんの一家とともに、黄色い帽子を被ったルソーが描きこまれている。以下略。

<アンリ・マテイス>1869-1945
  フォーヴィズム(野獣派)のリーダー的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も、20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し、「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけている。(Wikipediaより)

・三姉妹 1917年
  三姉妹の肖像画である本作は、マテイスによる傑作のひとつである。濃褐色の背景の前に佇む黒髪の三姉妹のうち、二人はこちらを真っすぐ見つめているが、右下の一人は読書に夢中になっているようだ。画家は、衣服や姿勢の異なる三姉妹や首長の強い色彩、異なる視点から描かれたモチーフといった、一見すると相容れない要素をバランスよく配置している。以下略。

・若い娘と花瓶(別名:バラ色の裸婦) 1921年
  本作に描かれている裸婦は、タオルを引きずるように手に持ち、窓際に佇んでいる。頭には白いターバンを巻き、その顔貌ははっきりと描かれていない。彼女の胸も簡単に表され、二つの丸いふくらみを示唆するに止められている。以下略。

・赤いキュロットのオダリスク 1924-1925年頃
  画面右側には大ぶりな花柄のパネル状のものが2枚並んでおり、画面全体の平面性を印象づける。中略。
  女性が身に着けているゆったりとした白いチュニック(丈が長めの上着)と、金の刺繍と宝石が縫いこまれた赤いムーア(イスラム)風のキュロットは、中近東の文化を連想させるに十分だ。以下略。

<パブロ・ピカソ>1881-1973
  言わずと知れた20世紀で最も有名な画家であり、その一生は数々の女性遍歴とともに膨大な数の作品を残した。ここで解説をするまでもなく、これまた膨大な伝記本や解説書、ネットにも分かり易い解説が沢山掲載されている。(例)art-whitecanvas.com/picasso/

・大きな静物画 1917-1918年
  より分かり易く単純な形体を用いた後年のキュビズム作品。瓶やグラス、果物鉢などが複数の視点から捉えられ、一つの画面に再構成されている。

・白い帽子の女 1921年
  女性が赤い椅子に右腕をもたれ、メランコリアのポーズで座っている。無機質な色味のキュビズム作品から一転し、画面には色彩が取り戻された。明部には青や赤、白が、それらの影にあたる暗部には灰色や茶色が柔らかな筆触で描かれることによって、パステル画のように、甘美で繊細な印象を見る者に与える。

・布をまとう裸婦 1921-1923年頃
  ピカソと親しく交流したジャン・コクトーは、この時期のピカソの作風について、「大きな牛の目を持つ、堂々として美しい女性が、巨大な四角い手で、石造りの布を掴んでいる」と表現したように、女性の手は不自然に肥大化されて描かれる。そして彼女は斜め下を向いてうつむき、静かに目を閉じている。灰色とピンクを基調とする色味もまた、この時期のピカソ作品の特徴である。

・タンバリンを持つ女 1925年
  片方の手でタンバリンを持ち、もう片方の腕にもたれて横たわる女性が歪曲されて描かれる。また、画面の随所に、ピカソの本領である挑戦的な表現が見られる。意図的に輪郭線と色面がずらして描かれたり、絵の具を擦り付けることにより、故意に下地を見せたり、さらに藤色や黄土色、ターコイズと深紅といった、捕食に近い色味を並置するという色彩の冒険にも挑んでいる。

<アメデオ・モデイリアーニ>1884-1920
  1906年に美術を学ぶためにイタリアからパリに来て、モンマルトルに住んだ。初めは彫刻家を目指したが、後に絵画に専念した。ポール・ギョームはモデイリアーニが1920年に早世するまで、その作品を数多く購入した。

・新しき水先案内人ポール・ギョームの肖像 1915年
  モデイリアーニは1914年にポール・ギョームに出会った。当時ギョームは、23歳で画廊経営を始めたばかりであったが、まだ無名のこの画家のために、モンマルトルの「選択船」にアトリエを借りた。1915年から翌年にかけて二人は親密に交流し、モデイリアーニはこの若きパトロンの姿を4点の肖像画に描き留めた。

<キース・ヴァン・ドンゲン>1877-1968
  キース・ヴァン・ドンゲンはオランダで生まれ、子どもの時から絵を描いていた。1897年に初めてパリを訪れ、以降何年もモンマルトルで貧しい生活を送った。その間、雑誌や週刊誌の出版に協力し、戯画的な素描によって知られることになる。1904年頃からヴラマンクやマテイスとともに色鮮やかな作品を発表し、「フォーヴ(野獣)」はと呼ばれた。1920年代から30年代にはパリの社交界を象徴する肖像画家として絶頂期を迎え、富と名声を得た。1922年にはレジオン・ド・ヌール勲章を授けられた。

・ポール・ギョームの肖像 1930年頃
  ポール・ギョームは1918年に、ドンゲンの最新作25点による古典を開催した。本作はその古典からおよそ12年後、ギョームは画商として、またヴァン・ドンゲンは画家としてそれぞれ名声を得た頃に描かれた。 ギョームの胸には、レジオン・ド・ヌール勲章の赤いリボンが見える。

<アンドレ・ドラン>1880-1954
  フォーヴ(野獣)派の一人。ポール・ギョームとは、長年にわたり強い結びつきを持った。

・ポール・ギョームの肖像 1919年
  ギョームは多くの画家に自分の肖像画を描かせた。本作では、右手に煙草を、左手に本を開く姿が描かれる。スーツや蝶ネクタイと瞳は、ギョームが最も好んだ青色で統一される。寒色系の色調により、ギョームの威風堂々とした冷静な様子が演出されている。

・台所のテーブル 1922-1925年頃
  フライパンを中心として、その周りに配置されたグリルやバゲットと木製のスプーンは十字架を暗示しており、個々の道具の配置や形体、色味の決定における画家の綿密な計算をうかがわせる。また、画面右側から差し込む強い光は、ありふれた道具にドラマチックな演出を加えている。

・アルルカンとピエロ 1924年頃
  本作では、イタリアの仮面演劇コメデイア・デラルテの登場人物が主題とされる。多色格子模様の服に三日月形の帽子を被るアルルカンと、ひだ模様の白い寛衣に黒い縁なし帽を被るピエロである。16世紀以降、こうした曲芸師の主題は、セザンヌやルノワール、ピカソなど多くの画家により繰り返し取り上げられてきた。

  片膝を上げてギターを演奏する彼らは、永遠に同じダンスを繰り返すマリオネットのようだ。楽しげなダンスや音楽のイメージとは対照的に、彼らは互いに目を合わさず真面目な表情を浮かべており、哀愁が漂う。

・大きな帽子を被るポール・ギョーム夫人の肖像 1928-1929年頃  
  モデルは、ポール・ギョームの妻であり、後に建築家のジャン・ヴァルテルと再婚したジュリエット・ラカーズ(通称ドメニカ)である。大きなつばのある帽子に豊かな襞のストールを見に着け、エレガントな装いだ。背景の赤いカーテンもまた、裕福な住まいを暗示する。

  整えられた眉や白いハイライトで強調された瞳からは、社交に長けた彼女の一面とともに、強い意志や傲慢な性格も感じられる。彼女は、ポール・ギョームが亡くなった後、地位と財産を守るため、手段を選ばずに夫や愛人を操って、数々のスキャンダルを巻き起こした。画家は本作において、晩年になるにつれて明らかになった彼女の本性を描き出すことに成功している。

・黒い背景のバラ 1932年
  漆黒の背景と花瓶によって、鮮やかな花と葉の存在感が際立っている。花瓶が画面の垂直軸に、また花束が画面のほぼ中心部から放射線状に配されることで、堅牢な構図となっている。一方、花を描く軽やかな筆致が、画面に躍動感をもたらす。画面下部に添えられた、一輪の花が浮かぶ透過性の高いガラスのボウルの存在や、光の反射を示す花瓶の白いハイライトも効果的だ。

<モーリス・ユトリロ>1883-1955
  モーリス・ユトリロは、パリのモンマルトル地区に生まれた。父親は不明であり、母親はモデルであり画家でもあったシュザンヌ・ヴァラドンである。若くして患ったアルコール中毒を紛らわすために絵を描き始めたが、絵に喜びを見出して絵を描き続けた。モンマルトル地区を主題にして何百もの絵画を手がけた。クリニャンクール教会のように、インスピレーションを与えてくれる通りや記念物を何度も繰り返し描いた。

・クリニャンクールの教会 1913-1915年
  灰色の空と紅葉した樹木によって、秋の風景であることが示唆される。わずかに人物のシルエットが描きこまれていることでひとの気配が感じられるものの、寒色を基調とした画面には寂寥感が溢れている。

<シャイム・スーテイン>1893-1943年
  リトアニア育ちのフランス人画家シャイム・スーテインは、エコール・ド・パリの代表画家の一人である。  彼はグラジオラスや家禽、接客する店員や聖歌隊の子どもたちを次々に描いた。彼が描く人物像はメランコリックで、風刺のように誇張された特徴を持ち、その身体は激しく歪曲され、鮮やかな色彩のコントラストの衣服を着ている。静物画では殺された動物や川を剥がれた動物の骨格が好んで描かれた。
  
・小さな菓子職人 1922-1923年
  モデルの顔は長く引き伸ばされ、細く華奢な首が白い仕事着からのぞいている。あどけなさが残る顏、大きな耳、肩を張って強張った姿勢から、この少年の人間性を読み取ることができるだろう。手に持った色鮮やかな紅い布は、グレーや緑によって陰影を入れられた白い衣服とコントラストを生んでいる。

  画家を発見したギョームは、手に入れたスーテインの菓子職人を描いた絵について、自身が創刊した「パリの芸術」で絶賛している。そして、ギョームの画廊でこの作品を目にしたアメリカ人美術収集家のアルバート・バーンズが、スーテインの作品を大量に買い上げることとなり、画家の生活は一変した。

横浜美術館前より見るランドマークタワー
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posted by ぼたん園々主 at 14:38| Comment(0) | 日記