2021年10月28日

独居老人の独り言 近頃思うこと

  今日は令和3年10月28日、今の時間は午後12時20分、天気は快晴、雲一つない。スマホ予報では、現在の気温22℃、最高気温も同じで夜も快晴、最低気温10℃の見込みだ。

  いよいよ習近平中共は強気である。来年2月の冬季オリンピックを控えて、何がなんでも成功させて資本主義、自由主義国家に対する共産主義、絶対的権威主義国家の優位性を誇示したいのだろう。いったい中国国民は本当のとろ、こういう国家に対してどういう思いを持っているのか知りたいところだ。

  私は絶対に嫌だ。自由の無い世界など考えただけで窒息しそうだ。人類の近代の歴史は自由を獲得するための戦いの歴史である。人類は自由を獲得するために、絶対的な抑圧と闘い、何百万、何千万の命を犠牲として支払ってきた。しかし、共産主義のために犠牲になった人々は優に1億人を超えている。先の大戦の犠牲者の数は軍人(2,200万〜3,000万)と民間人(3,800万〜5,500万)を合わせて6,000万〜8,500万といわれている。(Wikipedia) 因みに日本は軍人(212万)と民間人(50万〜100万)合わせて262万〜312万人といわれる。(同)

  私が高校、大学生の頃は学生運動が盛んだった。特に私が通った都立青山や横浜国大は活動家が多く、高校の時はメーデー事件、大学時代は安保闘争、東大闘争、など学内外で活躍?する学生もいた。

  私は全くのノンポリで、他人事のように彼らを見ていたし政治には殆ど興味がなかった。それでも高校の時は、当時国会デモで亡くなった樺美智子や「青春の墓標」を書いた青山高校の先輩(当時)、奥浩平などに関心は抱いていた。しかし、それよりも当時の私の関心は音楽(オーディオ)や外国映画であり、受験勉強もありで政治や社会問題に関する関心は優先順位が低かった。

  大学へ入ると、より身近で学生活動家を見ることが多くなった。授業の前には必ずと言っていいほど、活動家が教室に来てアジ演説をする。教授も演説が終わるまでは何も言わずに待っている。学内では学生の集まるところで活動家の演説が始まる。特に学生寮では活動家がたむろしていて、所謂内ゲバによる暴力沙汰の噂が聞こえてくる。後にマスコミにも載るような有名?活動家もいたようだ。

  幸か不幸か私の周りにいた親しい友人たちは、高校時代も大学時代も学生運動に関わるような者はおらず、むしろ政治や思想に関する話題は無意識のうちに避けていたような気がする。それでも、大学時代は誰に勧められた訳でもなく、「朝日ジャーナル」や「世界」などを読まなくては知識人ではないような雰囲気が社会一般にあり、自分も学生、しかも経済学を学ぶ徒としては「資本論」くらいは読まなくては、などと今から考えると滑稽なことを真面目にやっていた。

  話が逸れてしまったが、歴史の真実が明らかになるにつれ、ロシア革命やソ連の崩壊、そして現在に至る中華人民共和国(中国共産党独裁国家)の歴史と現状を考えれば、社会主義あるいは共産主義が人間を真の幸せに導くことはあり得ないことは明らかである。マルクスに発する共産思想(そしてマルクス自身)は起源を辿ればユダヤ思想であり、近年のグローバリズムもその流れである。(令和3年10月28日)

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  本日(令和3年11月3日)、立憲民主党の枝野幸男代表が先月31日に投開票が行われた第49回衆院選で公示前の議席数を14下回る96議席に終わった責任を取り、代表を辞任する考えを表明した。立憲民主党は今回の選挙で政権交代を目指して、全国289選挙区の約7割に当たる213選挙区で共産党などと候補者を1本化したが、失敗に終わった。

  そもそも、共産党は「日米安保条約の廃棄」、「自衛隊は違憲につき解消」、「皇室の廃止」などを主張しており、基本政策において一致していないにもかかわらず、ただただ政権奪取のために共闘を組むという節操の無さである。国民はそこまで馬鹿ではない。いま、国際社会は自由、民主主義を信奉する国々と専制独裁、共産主義を信奉する国々が鋭く対立している。我が国の隣国である中国、北朝鮮、韓国は日々我が国の国民の命と領土、主権を脅かしている。

  政権を奪取した場合には「限定的な閣外協力」などというごまかしにまんまと乗るような政党に誰がこの国の経営を任せられようか。未だに共産主義を実現するためには暴力革命を辞さないような勢力に、我が家族、同胞、国土を侵させてはならない。残念ながら国際社会は歴史に学ぶなら、強者の論理と権謀術策が渦巻く世界である。女子を誑かす卑劣な男は、乱暴な男ばかりではない。むしろ、優しい顔をして耳障りのよい言葉を囁いて近づく男の方が何倍も恐ろしい。
  
  近頃よく聞く弱者やマイノリティに優しい話は、先ず眉に唾して聞いた方が間違いが少ない。嘘や偽善に簡単に騙されないためには、日頃から他人の話によく耳を傾け、自ら納得が行くまで調べ、勉強し、自己の信念に基づいて確固たる判断ができるように切磋琢磨しておかなければならない。(令和3年11月3日)

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  最近、考えれば考えるほど解らなくなることがある。人を愛するということは、どういうことなのだろうか?人間にとって最も大事なことであることは間違いがないと思うが、ではその真実は何なのか?ひょっとしたら、これが愛だと思っていることが、本当にそうなのか考えてしまう。

  E.フロム(1900ー1980)は「The Art of Loving」で現代人は「愛すること」を誤解していると述べている。曰く、愛することを愛されることと取り違えていること、愛をその対象の問題だと勘違いしていること、特に恋愛の場合は恋に落ちることと愛を持続することは同じだという誤解。

  そして、愛は受動的なものではなく能動的な力だと言う。それは分かりやすく言えば、何よりも与えることであり、受けることではない。愛されることではなく、愛することこそが大事だと言う。与えること、それは自分への見返りを期待することや自己犠牲的なナルシズムを含んだものではないとする。

  それでは、一体何を与えるのか?フロムはずばり、「自分の生命」を与えるのだと言う。ただし、ここで言っている生命とは命のことではなく、相手に対して「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもの」すべてを与えることが愛なのだと言う。(令和3年11月12日)

  フロムはさらにこうも言っている。「成熟した愛」こそが本当の「愛」であり、自分の生命(自分のすべて)を与えることによって何かが生まれ、与えた者も与えられた者も互いのために生まれた生命に感謝するようになる。その何かが愛であり、愛とは愛を生む力なのだと言う。

  相手を幸せにしたいと思ったとき、必ず行動を起こすだろう。何もしないで相手が幸せになるはずはないのだから。そのように行動を起こすこと、それが「与える」ということなのだと言う。そのためには自分が「生産的」で「能動的」でなければならず、生産的・能動的であるためには精神的に成熟した人間になっていなくてはならない、とする。(令和3年11月13日)

  人を愛する、と言っても相手によっていろいろな愛がある。夫婦間の愛、家族に対する愛、母性愛、恋愛に関する愛、友人間での愛、同胞に対する愛、故郷に対する愛、日本に対する愛、人類に対する愛、そして自分自身に対する愛等々。しかし、ここでは自分に取って最も濃密で対等な関係であるはずの夫婦と男女の恋愛について考えてみたい。

  フロムは人間が他の人(特に異性)を愛する根底には、孤立や孤独に対する不安があると言う。人間の最も強い欲求は、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求であると言う。確かに人間は失意の底にあるとき、あるいは喜びの絶頂にあるときは愛する人とこの苦しみや幸せを分かち合いたいと思うのが普通だ。本当にお互いに愛しているのなら、苦しみは半分になり、喜びは倍になるからだ。

  ところが、人間は完全ではないから時にはややこしいことが生じる。動物なら本能に従って行動するだけだから、他の動物との関係も究極は子孫を残して種を絶やさないように本能の命ずるままに生きるだけでよいが人間はそうは行かない。人間には意志があるからである。しかも、本能からも完全に解き放たれている訳でもないからややこしくなる。

  1990年に公開された中国映画「初恋のきた道」(チャン・イーモウ監督)は、都会で暮らす娘が父親の訃報を聞いて、母親の暮らす遠く離れた小さな村へ帰郷するところから始まる。母親は18歳のときに、村で初めて建った小学校に町から赴任してきた20歳の青年教師に一目惚れする。青年も娘のことが忘れられず、文化大革命で町へ戻されるが娘の病気を伝え聞いて、掟を破り村へ帰ってくる。四季の花々が咲く美しい村の景色が、二人の初恋とともに回想シーンとして続く。

  父親は40年以上教師として一人で村の小学校を支えたが、校舎の建て替えの陳情に町へ出かけた際に心臓病で急死したのだ。母親は父の遺体をどうしても村の伝統のとおり、棺を担いで村まで戻ることに拘る。娘は最後には、町から村に続く道が母親にとって特別の意味を持つことに気が付く。

  今では、こんな物語はお伽話の世界かもしれない。でも、いくら時代が変わってもここで描かれる愛は理想である。(令和3年11月14日)

現実にはフロムが言うような理屈どおりに運ぶことも、「初恋のきた道」のような理想的な愛のかたちが実現することも、むしろ稀なことのような気がする。多くの人間、特に女性は「愛すること」よりも「愛されること」に最大の関心があるように見えるし、自分のことはさておいて相手に対しては自分の理想ばかりを求めている。先ずは自分の内面が成熟していなければ、相手が成熟した人間かも分からないはずだ。

  最近思うことは、人間には男女とか老若に関わらず愛情の深い人間とそうでもない人間がいることを特に感じている。愛情の深い人間は誰に対しても思いやりがあり、他人の痛みを自分の痛みとして敏感に感じることができる。他人の不幸を黙って見過ごせない人間である。それは、自分が同じような不幸や痛みを経験しているからで、そういう経験のない人間には残念ながら本当には分からないことだ。(令和3年11月17日)

  



  
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2021年10月25日

独居老人の独り言 明るいカヤトの台地から瑞牆山、金峰山、富士山、南アルプス、八ヶ岳、北アルプスまでも。

  令和3年10月24日(日)午前5時、スマホの目覚ましが鳴った。昨夜は珍しく11時に就寝したので午前3時に目が醒めた。用を足してうとうとしていたところだった。東の窓から朝陽が射し込んでいる。2,3日前からの天気予報は、23日、24日の土曜と日曜日の二日間だけの晴れを予報していた。その前もその後もどちらも1週間ずっと雨か曇りの予報で、しかも前日の23日まではその予報のとおりであった。

  山の天気は必ずしも平地の天気とは違うことは承知しているが、22日金曜日の時点では長野地方は23日の土曜日は雨で、24日の日曜日は晴れとなっていたので、同日の夜にI氏に電話して24日に決めたことを知らせた。前回の石割山の時と同様、ブルーガイドのハイカーシリーズ「続東京・首都圏 クルマで出かける山歩き」から、奥秩父・大菩薩の山「横尾山」と決めたのは、こう書かれていたからである。

「東西にのびやかな頂稜は、美しいカヤトの原ときれいな自然林が交錯しており、展望にめぐまれた尾根歩きが実に楽しい。車を使って登山口の信州峠まで上がってしまうと、横尾山頂までの標高差は350m、行程も短くやや物足りないが、途中のカヤトの原でのんびり過ごすのもよい。」

  午前6時少し前に家を出る。日曜日で久し振りの晴天なのに道は空いている。たまたま、我が愛車のGOLF VARIANTは車検のため、今日はデイ―ラー代車のPOLOである。我が家からI氏宅まではこのPOLOのナビを活用したこともあり、予定の7時よりも30分も早くI氏宅に到着してしまった。奥さんが出てきて挨拶をするが、間もなく本人が慌ただしく現れた。大分急がせてしまったようで申し訳なし。

  いつものように、中央高速八王子インター入口手前のコンビニで弁当とお茶を買う。八王子から須玉インターまではさしたる渋滞もなく、インターを降りてからもナビのお陰で迷うことなく増冨温泉・黒森鉱泉方面に向かって、塩川に沿って北を目指す。いつの間にか、こんなに広くて快適な道ができたのだろうか。途中、増冨温泉方面への道と別れ、塩川ダムの堰堤を渡りのどかな黒森集落を過ぎると信州峠の登りにかかる。

  信州峠に着くと、それまでほとんど対向車も追い越す車もなかったのに、道の両脇に20台くらもあろうかという車が既に駐車していて、やっと端の方になんとか車を停めることができた。早速用意してきた登山靴に履き替え、標識に従い車道からカラマツ林の中を登ってゆく。展望はないが、落葉した樹々の間から射し込む陽の光が行く先を明るく照らす。風もなく、空気はひんやりとしているが、登るにつれてわずかに汗ばんでくる。

<車道の脇にわずかな駐車スペースを見つけて。赤い色がやけに目立つPOLO。24日、9:49撮影>
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<最初のカラマツ林は緩やかな登りだが、徐々に岩が露出した急斜面となる。それでも、それほど長い距離ではないのでゆっくり登ればそんなにきつくはない。24日、10:25撮影>
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  やがて樹林帯を抜けると、明るいカヤトの台地に出る。展望が一気に開けて、東に険しい岩峰の瑞牆山、その向こうにはうっすらと雪が残る頂上の五丈岩が特徴的な金峰山、左にゆったりと続く尾根の先には小川山、南にはニセヤツとも呼ばれる金ヶ岳と茅ヶ岳、その左遠くには富士山が、右には南アルプスの雄、鳳凰三山、北岳、甲斐駒が、そして目指す横尾山の稜線の向こうには八ヶ岳が鎮座している。

<カヤトの台地から東に見る瑞牆山(中央手前)、金峰山(そのすぐ右奥)、小川山(左の奥)。24日、11:24撮影。>
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<その右手、遠くに見える富士山と手前右には金ヶ岳と茅が岳。11:24撮影。>
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<南には南アルプスの鳳凰三山、北岳、甲斐駒などの雄姿が見える。11:27撮影。>
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<西を見れば横尾山山頂の向こうに八ヶ岳が見える。11:27撮影。>
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  カヤトの原で景色を堪能したら、ふたたび山頂をめざして西へ向かう。所々に段差のある岩が露出した登りが続くコナラや針葉樹の混交する樹林と、展望の開けたカヤトの鞍部の小さな上下をいくつか繰り返すと標高1,818m、山梨百名山の標識も立つ横尾山頂上に到着する。既に数組のパーティーがランチを広げている。

<明るいカヤトの原と樹林の中の岩が露出した登りを繰返す。11:37撮影。>
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<横尾山山頂。奥に見えるのは八ヶ岳。12:17撮影。>
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  帰りは往路を戻るが、途中のカヤトの鞍部からは再び富士山を初め奥秩父や南アルプスの山々を見ながらの下山となる。今日は一日中好天に恵まれ、風も吹かず初冬の済んだ青空をバックに遠くの山々まで見通すことができた。

  信州峠のPOLOまで戻ると既に大部分の車は無く、朝方同じ頃に峠に着いた車が数台残っているだけだった。さて、これからどうするか?温泉に入ってから、かねての計画どおり北斗市大泉町の藤乃家で蕎麦と鶏もつ煮を食うか?生憎ここでスマホの電源が切れてしまい(I氏はスマホを忘れてきた)、黒森鉱泉も増冨温泉にも連絡できない。腹が減っては戦はできぬ。空腹には勝てず、藤乃屋を優先することにする。

  再びナビのお世話になり迷わずに藤乃屋に着いたが、暖簾の代わりに「準備中」の札が下がっているではないか!ベルを押して何時から開店するか尋ねると、5時からとのこと。さて、どうするか?外に出てきた小母さんに「山から下りてきたんだけど5時にまた来るので、それまでどこか近くにいい温泉はありませんか?」と尋ねると、すぐ近くにあるという。

  ホントに2,3分のところにありました。町営の「泉」と名乗る温泉です。お年寄りのリハビリ施設が併設されていて、地元の人たちで結構混んでいます。サウナもあるが、故障で休止中。広い宴会場(普段は休憩室)もあって、ひらたくいえば、町営の公衆浴場。しかし、温泉は広くゆとりもあって泉質もまあまあです。入浴料は地元の人以外は何故か端数がついて、830円也。

  スッキリして5時少し前に店に戻ると、若い家族らしき大型のバンが1台。5時丁度に店が開き、家族に続いて入店。早速、二人とも定番の「盛り蕎麦(大盛り)」と「もつ煮込み」を注文、私は持ち帰りとして、蕎麦ともつ煮込み各1人前を併せて注文した。やっぱり、ここのもつ煮込みは放し飼いの地鶏らしい、しっかり歯ごたえのある「もつ」と、甘めだがコクのある醤油ダレが私は好きだ。蕎麦も堅めの蕎麦とあっさりした味のタレもいい。気が付けば、店内はいつの間にか家族ずれやペアで満席になっていた。

  店を出たときには、外はもう真っ暗になっていた。ナビを頼りに帰途に就いたが案の定、中央高速は笹子トンネル手前から渋滞。高速を降りて一般道を行く。ほとんど渋滞は無く順調に笹子トンネル、大月まで夜道を走るが、上野原で渋滞が始まったので再び上野原インターから高速に乗る。八王子インターまでノロノロ走行が続く。I氏宅に着いたときには9時を回っていた。川崎の自宅に着いたのは10時半近くであった。

  朝から好天に恵まれ、期待以上のよい山であった。それにしても、日本の自然の素晴らしさは変わらないが、少し前までは考えられなかったほどに車の性能にしても、ナビにしても、整備された道路にしても、天気予報にしても、格段の進歩を遂げていることに改めて感心する。これらの恩恵を今現在、自分たちが受けられることに感謝するとともに、先人が築いてきた日本の伝統や心が変わらずに後世に受け継がれてゆくことを願わずにはいられない。日本人に生まれてきた幸運に感謝!
 
   
posted by ひろちゃん at 23:03| Comment(0) | 日記

2021年10月19日

独居老人の独り言 雪虫の飛ぶ北見を後にして

  令和3年10月19日(火)午後15時20分。本日の天気は曇り、現在の気温は15℃。最高気温は16℃、最低気温は10℃の予報。

  令和3年10月8日(金)、この日は朝から晴れていたが、既に空気はひんやりとして今年初めて雪虫が飛ぶのを見た。
  午前10時30分、我が愛車のVitzに一週間ほど前に収穫したばかりの男爵(ジャガイモ)と、7月と8月に収穫して冷凍しておいたハスカップとブルーベリー(一部はビート糖を加えてジャムにして冷凍)を段ボールと保冷剤入りの発砲スチロール製の箱に詰め、その他先日常呂まで出かけた時に魚市場で仕入れておいた土産物、さらには北見にいる間に購入した本や食料品の残りなどを積んで、ぼたん園を後にした。

<葉が真っ赤になり、実が黒くなってきた園内の山ぶどう。10月6日午後撮影。>
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  今回は、5月17日に川崎から飛行機で北見に来たので、帰りも飛行機にするかどうか迷ったが、荷物も結構な量になるし、久し振りに車を運転しながら時間に縛られずに、途中寄り道をしながらのんびり行くことにした。平成28年(2016年)5月に川崎から北見まで、Vitzを運転して震災後5年の東北地方太平洋沿岸を見ながら行ったので、今回は震災後丁度10年を経た同じところを今度は逆に北から南へと復興の様子を見てみたいという思いもあった。

  因みに、前年の平成27年(2015年)10月30日には北見から川崎まで、今回と同じように高速道路を通らずに八戸からは十和田湖、弘前を経由して日本海側の鯵ヶ沢へ出て、そこから日本海沿岸を男鹿半島、秋田と南下し、秋田から田沢湖、乳頭温泉、国見温泉へ立ち寄り、盛岡を経由して、1週間以上かけて車旅をしている。

<北見を出発して小一時間、常呂郡訓子府町ー開盛辺りの風景。一部分開通の自動車専用道路でヴィッツを止めて撮影。一部開通のため通行料金は無料で通行する車は殆どなし。10月8日11:17AM撮影。>
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10月8日11:23AM、撮影場所は上記と同じ。
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<足寄郡陸別町ー川上辺り。日本一寒くなる町、陸別町の少し手前にて。10月8日11:36AM撮影。>
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<陸別から足寄に向かう。足寄町の、今は廃線となっているふるさと銀河線足寄駅。あしょろ銀河ホールというらしい。空気が澄んでいるので、銀河を観測する天文台があるらしい。行ったことないけど。
10月8日12:26PM撮影。>
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<足寄から帯広に向かい、まっ平らな十勝平野を突っ走る。帯広の手前で道の駅「かみしほろ」に立ち寄る。10月8日13:20PM撮影。この後15分くらい走ったところで、だだっ広い十勝平野の北に見える十勝岳・大雪山連峰をスマホのヴィデオモードで撮影したが、容量オーバーでアップできない。>
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  帯広から日勝峠(十勝ー日高線)を超えて夕方5時半過ぎに苫小牧に到着、フェリー乗り場近くのファミレスで食事。21時15分発のシルバープリンセス号に乗船、翌9日午前4時45分に八戸港に入港。

<苫小牧出航前の午後21時、甲板より苫小牧港フェリーターミナルを写す。>
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<苫小牧ー八戸は7時間半を要するので、その間に船内の風呂に入ってゆっくり寛ぐことができる。>
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<今回は2等寝台A(1名個室)を予約したので、ぐっすり寝られた。広さは2畳あるかなしかで、ベッドは通常のシングルを縦半分にしたくらいだが、他人のいびきに悩まされることはなかった。料金は車(4m未満)とドライバー1名で23,800円。>
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<令和3年10月9日(土)午前4時45分、定刻どおり八戸港に接岸、八戸港は夜明け前で町は黒く眠っている。5:08AMフェリーターミナルにて撮影。>
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  令和3年10月9日(土)午前5時30分、ヴィッツを運転してフェリー埠頭を出ると、何と10メートル先も見えない霧で真っ白。フェリーが接岸するころの海上は晴れていたのに八戸の町は白一色。ナビも無く道路標識も読めないので、暫くはまだ寝静まった街中をウロウロしてしまう。やっとコンビニを見つけて市場への道を尋ねるが、アルバイトのお兄ちゃんらしき店員は地元の人間ではないのか、全くチンプンカンプン。仕方なく店を出てたまたま通りがかったおじさんに聞くと、ようやく市場の方向を教えてくれたが、朝市は日曜日しかやってないとの返事。

  後で気がついたが、朝市は八戸港(舘鼻岸壁朝市というらしい)だけではなく港から少し内陸に入ったJR陸奥湊駅前朝市もあって、岸壁朝市は3月中旬から12月の毎週日曜日、日の出から9:00頃まで、駅前朝市は日曜を除く通年、3:00から12:00までとなっている。2015年11月に北見から川崎に戻る際(この時は日本海側を南下した)に陸奥湊朝市で知り合った椎茸の製造販売をしているおじさんや、翌年の2016年5月に川崎から北見に行く際(この時は震災後間もない太平洋沿岸を北上した)に同じ陸奥湊朝市で親切にしてもらった老夫婦の魚屋さんに会えることを楽しみにしていたのだが、残念ながら自分の勘違いでその時間を失くしてしまった。

  諦めて八戸の街中を抜け、以前立ち寄ったことのある種差海岸へ向かう。すっかり霧が晴れ、未だ醒めやらぬ街中を抜け15分ほど走ると左に蕪島(かぶしま)神社が見えてくる。

<蕪島。昔は島だったが、昭和17年(1942年)に旧海軍により埋め立て工事が行われ、陸続きとなった。(Wikipedia)>
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<蕪島神社。永仁4年(1269年)に江の島弁財天を勧進(寄付を集めて建立すること)したのが始まりだという。2015年に火災により焼失したが、2020年に再建された。(Wikipedia)>
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<蕪島には毎年3月から8月頃にかけて、3〜4万羽のウミネコが繁殖のため飛来する。その間は島全体がウミネコに覆いつくされ、神社境内は足の踏み場も無くなるという。空から降ってくる糞を避けるため、無料貸し出しのビニール傘が用意されている。(Wikipedia)>
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  蕪島を後にして15分ほど走ると種差海岸だ。青森県八戸市から宮城県石巻市までの3県にまたがる三陸復興国立公園の北の端になるのが「種差海岸」である。ここから国道45号線と、久慈市まではJR八戸線、久慈から宮古市までは三陸鉄道北リアス線、宮古から釜石市まではJR山田線、釜石から大船渡までは三陸鉄道南リアス線、そして大船渡から気仙沼市までは大船渡線と並行して付きつ離れつ三陸海岸沿いに南下した。

  八戸市の蕪島から福島県相馬市までの約1,000キロを結ぶ「みちのく潮風トレイル」(トレイルは「歩くための道」「遊歩道」)のうち種差海岸はJR八戸線の駅でいうと蕪島のある「鮫駅」から「大久喜駅」近くの浜小屋までの総距離12q、総時間4時間21分に当たる。途中、太平洋を一望する「葦毛崎展望台」、初夏には遊歩道の海側には海浜植物、陸側には高山植物の競演が楽しめる「中須賀」、鳴砂が体験できる美しい砂浜の「大須賀海岸」、岩礁の連なる波打ち際まで広がる、かつては馬の放牧が行われていたという緑の絨毯「種差天然芝生地」などの変化に富んだ海岸が続く。是非、一度歩いてみたい。(大人のための北東北エリアマガジン ra kura×八戸 八戸満喫旅 より)

<種差海岸・葦毛崎展望台から北を望む。戦時中、海軍の監視台として建設されたと現地の案内板に書かれていた。10月9日 6:40AM撮影。>
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<同じく、南を望む。同時刻に撮影。>
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  種差海岸を過ぎて、しばらく海岸沿いに走るとJR八戸線の階上(はしかみ)駅の手前で国道45号線と合流、そのまま南下するとやがて久慈市に入る。久慈からはJR八戸線に変わって三陸鉄道北リアス線と並走。宮古市を目指してさらに南下を続ける。普代村で国道45号線と別れて、海岸寄りの地方道44号線(岩泉平井賀普代線)を南下する。午前8時40分頃には田野畑村を通過し、5年前の2016年5月に川崎〜北見へ向かう途中に立ち寄った岩泉町の龍泉洞の手前で再び国道45号線と合流、2011年の震災津波で大きな被害を受けた田老町を通過、左に浄土が浜案内板を見て宮古市街に入る。

<田野畑村で地方道44号線(岩泉平井賀普代線)から松前川渓谷に掛かる国道45号線、思惟大橋を望む。10月9日8:49AM撮影。>
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  早速、宮古湾に面した魚市場に行ってみるが、既に時間は午前10時を回っているせいか広い埠頭と建物の中は作業車と青い魚籠が整然と並んでいるだけで人っ子一人いない。前面の宮古湾をぐるっと見渡しても動いている船は1艘も見当たらず、ただ津波防止のために造られたコンクリートの防波堤が白い塀のように横一直線に湾を取り囲むように、対岸の先の方まで伸びているのが目立つだけだ。仕方がないので、市場の裏手にある土産物ショッピングセンター「シートピア なあど」で岩手産山ブドウの無添加100%ストレートジュースを購入した。(実は山ブドウワインと勘違い)

<*宮古の魚市場の様子をスマホのヴィデオ動画で撮影したが、容量オーバーのためか写真をアップできない。>

<岩手産山ブドウ無添加100%ストレートジュース>
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  宮古を出発して程なく、宮古湾最奥の津軽石から再び国道45号線と別れて太平洋沿岸を南下する地方道41号線(重茂半島線)を辿る。しばらく走ると山田湾に面した山田町で再び国道と合流、さらに下ると震災報道で有名になった大槌町、そして釜石市へと続く。この辺りになると、三陸の典型的なリアス海岸が続き、大小様々な湾が連続して現れ、どれも津波による復興の跡がコンクリートの防波堤や盛り土や高台に新築された住宅などに見て取れる。

<津軽石から重茂半島の山中を横断すると太平洋岸の重茂に出る。重茂半島線から見下ろすと小さな漁港が見える。宮古市重茂にて。10月9日11:07AM撮影。>
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<同じく、重茂の千鶏(「ちどり」と読むのか?)バス停留所と・・・・>
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<・・・バス停の脇に建てられた「東日本大震災大津波記念碑」。どちらも10月9日 11:10AM撮影。>
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<山田湾に面する陸中山田町のコンクリート製防波堤。山田湾が全く見えない。>
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  釜石市を過ぎると、同じように三陸町、大船渡市、陸前高田市と、大震災大津波の被害を受けた港町が続き、気仙沼市から宮城県に入る。さらに国道45号線を太平洋岸沿いに南下し、歌津町、志津川町、北上町、雄勝町、女川町、石巻市、そして松島町、塩竃市を経て仙台市へと進む。

  仙台市に着いたところで、既に辺りは暗くなってしまったので、夜間視力の衰えを配慮してここからは高速道路を利用することとする。ヴィッツにはナビの装備が無いので少し道に迷ったが、何とか東北自動車道の泉インターから高速道に乗ることができた。
  結構、長い一日ではあったが、川崎の自宅に着いたのはシンデレラではないが、深夜12時の30分前であった。長時間の運転にもかかわらず、車好きの身には心地よい疲れが僅かに残っただけだった。  

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2021年10月17日

独居老人の独り言 体重目標達成!!

  令和3年9月25日(土)午前9時20分。今日の天気は晴れ。現在の気温は14℃、最高気温予報では17℃。桜の葉や菩提樹が紅葉し始めた。冬の気配が感じられる。10月に入れば中頃には雪虫が飛び、雪が舞い降りてくるだろう。

  朝から薪ストーブを焚いている。そんななか、今朝の血圧、体重の測定で体重の目標だった80sを達成した!!79.95s、やったぜ!!12sの減量だ。因みに血圧は左腕が125/71、脈拍71拍/分。右腕が124/75、脈拍70拍/分となっている。6月初めから1日1.5食をスタートしてから3か月弱で目標を達成することができた。ズボンのベルトが最短の穴で締めてもズボンが自然と落ちてしまう。新しい穴を開けなくちゃー。

昨日の朝の体重は81.30sだった。昨日は午後から常呂まで車で出かけ、夕方ぼたん園に戻ってすぐ、また車で近くまで出かけ、そのまま6時頃には遊木に寄って食事(赤ワイン、遊木特製特大ハンバーガー、コーヒー)を摂る。その間マスター、おたかさん(スイーツ担当の女性)と世間話をして過ごす。(平成3年9月25日)

  その後の体重の推移は80〜82sの間を行ったり来たり。本日(令和3年10月17日)朝の体重は82.7sだった。因みに、血圧は左腕が123/67、脈拍59拍/分、右腕は121/74、脈拍は60拍/分だった。
  今年は5月17日に北見へ来てから、6月18日、7月26日、8月26日、9月30日、10月4日、と計5回、愛し野内科クリニック・岡本先生の検診を受けた。いづれの検診でも、岡本先生からは血圧、血糖値、腎臓機能、肝臓機能のいづれも問題なしとのことで、お褒めの言葉をいただいた。

  令和3年10月9日(土)午前10時30分、愛車ヴィッツにて北見を出発、川崎を目指す。朝から晴天に恵まれ、置戸町、陸別町、足寄町、と南下し、帯広市まで快適なドライブを楽しむ。帯広市の十勝清水から日勝峠を超えて、丁度10年前の2011年の夏にオートバイで北海道一周をしたときにライダーハウスで愉快な若者二人と一泊した噴火湾に面した富川町(2018年8月26日の記事「回想の北海道一周バイクの旅」7月30日参照)を通過して、苫小牧に着いたのは夕闇が迫る午後の5時30分ころだった。以下は次の記事にて。(令和3年10月17日 午後22時)
  
posted by ひろちゃん at 21:59| Comment(0) | 日記