2022年02月09日

独居老人の独り言 令和4年2月

 あっという間に令和4年も2月になってしまった。今日は2月9日(水)、時間はもうすぐ23時になろうとしている。明日は天気予報では雪になるようである。

 武漢ウイルスは変異して「オミクロン」となり、毒性は弱まるも感染力は増している。感染の中心は若者や子供たちに移ってきているようだが、彼らが家庭を介して重症率や死亡率の高い高齢者や基礎疾患のある大人に感染を広げているようで、相変わらず自宅待機者が増えており医療機関は検査と3回目のワクチン接種に追われ、その分一般外来にしわ寄せが生じている状況になっている。

 そんな中で毎日のようにテレビや新聞で報道される事件は、世の中に鬱積しているマグマがふつふつと地表に噴出してくるようなものばかりである。このところ続いている「拡大自殺」や家族間の殺人など明らかにウイルス禍の影響によるものと言わざるを得ない。これら報道される事件は氷山の一角に過ぎないのではないかと思う。表面に出てこないところで理不尽なことが毎日あちこちで起きているのではないだろうか。

     ************

 令和3年2月11日午前10時30分。天気は晴れ。昨夜は雪の予報だったが、自宅近くでは細かい雪が昨日の午後から夜中まで降っていたようだが、積るようなことはなかった。テレビのニュースでは昨夜は箱根辺りでは雪が積もり、坂道で車が何台も立ち往生している様子が報道されている。

 一昨年の12月から駅近くの歯科医に通うようになって、北見にいる間は除いて定期的に歯の治療とオーラル・ケア(口腔ケアに力を入れる予防歯科)の指導を受けている。
 今まで歯がこんなに全身の健康と疾患に密接な関係があることは、知っているつもりになっていたようで実は何も分かっていなかったことを改めて認識させられた。食後は3分以内に歯を磨くこと、デンタルフロスの有効な使い方、適切なケアグッズや消毒薬の選択、等々勉強になることばかりである。

 それと最近はこの歯科医に通うことにひとつの楽しみを見つけている。それは、最近この歯科医の名前の前に新しく「LIFE STYLE ORAL HEALTH」という文字が加わったのであるが、この言葉が表すように患者が待機するところに、ところ狭しと口腔ケアはもちろん、健康、人生、ビジネス、海外など幅広い分野に関する本が置かれているのである。いつでも貸し出しOKなので、必ず1冊は借りて帰ることにしている。

 これらの本を読んでの率直な感想は、やっぱりアメリカって凄いなと思う。GAFAMを連想してしまうように何かが日本とは根本的に違う。それはつまるところ幼児から始まる教育の違いではないだろうか。

 日本の教育は相も変わらず知識偏重、小さい時から自分の頭で考えさせることをやらないからだと思う。出された問題に対して要求されるとおりの回答ができる子ども、従順でよい子ばかりを育てようとしているからだ。そもそも世の中は正解のある問題の方が少ないし、自ら問題を見つけて、あるいは自ら問題を作成して回答を導き出さなければならないことの方が多いのだ。

 日本のノーベル賞受賞者、特に科学分野での受賞者たちは殆んどがアメリカで学び、研究をしていることにもそれは現れていることは明らかだろう。日本も江戸時代には、鎖国にも拘わらず世界に先駆けた創意、工夫、発明がなされていたし、近年も現在の科学技術の端緒を開いた江崎ダイオードやLED、リチウム電池などの発明で世界に貢献している。

 日本人に能力がないわけではないことははっきりしているのに、なぜアメリカのように社会に力強さや突破力が感じられないのだろうか。僕にはどうしても、元を辿れば日本の戦後教育に大きな原因があるとしか思えない。

 いつも国会中継を見ていて思うことがある。なぜ総理大臣も大臣をはじめ、国会議員が手許の原稿を読むような質疑や議論しかできないのだろうか。誰でも言い間違いはあるし、言葉や数字を正確には憶えていないことは当たり前のことではないか。野党もくだらない揚げ足取りに地道を上げ、些細な間違いにもまるで鬼の首を取ったかのように振る舞う。原稿を読み上げるようなやりとりでは本当の想いは伝わらない。。

 自分の言葉で議論するから議論になるのであって、役人の用意した答弁書を読み上げることは議論ではない。自分の言葉で発言するからこそ、その人間の頭の中にある思考が吐き出されるのである。その人間の真の思想や人間までもが表に現れるのである。それを恐れているようでは、代議士の資格などないと思う。また、社会もそうした時に例え言い間違いや勘違いがあってもその真意を汲み取る度量を持たなければならない。
 
 それにしても、なぜ日本とアメリカではこうも国家としての勢いが違ってしまったのだろうか。

<最近借りた本>
IMG_6702.JPG

IMG_6703.JPG

IMG_6704.JPG

          ********

 ロコ・ソラーレがオリンピックで銀メダルを獲得した。今朝からテレビでも新聞でも大きく報道されている。北見(正確には常呂)の人間がスポーツとはいえ、こんなに大きく全国の話題になることはこれまではなかったことだし、これからもそう度々あることではないだろう。その意味では彼女たちが郷里に果たした貢献は計り知れないものがある。これを受けて北見市と市民が彼女たちの偉業を町の発展にどう繋げ、また彼女たちの切り開いた道をどう伸ばし、更に育てて行くのかが問われる。

 それにしても、詳しい経緯は知らないが常呂に生まれ、12歳で本格的にカーリングを始めた少女がチーム青森のメンバーとして2006年のトリノ、2010年のバンクーバーのオリンピックに出場し、24,5歳の時に自ら新たにチーム、ロコ・ソラーレを立ち上げ、2018年の平昌オリンピックに出場し銅メダルを獲得した。現在、一般社団法人ロコ・ソラーレの代表理事としてチームの強化、そしてセカンドチーム「ロコ・ステラ」(ソラーレの太陽に対してステラは星)の立ち上げと指導、さらには地域貢献に力を注ぐ本橋麻里である。

  かねてより女性の偉大さについては畏敬の念を抱いている自分としては目を見張るものがある。振り返ってわが身を顧みれば、牡丹園という偉大な遺産を引き継ぎながら何らその発展に貢献することなくいづれこのまま消滅させてしまうのかと思うと忸怩たる思いに堪えない。

 そもそもこの牡丹園は祖母のミセが当時道会議員から国政に出ようとしていた祖父貴一がいつ選挙に落ちてもいいように5人の子供たちのために、当時のしかも北の外れの田舎町で本格的な洋食店を経営しながら蓄えた金を亭主に内緒で投じて購入した5町歩(約1万五千坪)の林野が基である。

 また、私の母は東京の麹町小学校から四谷双葉、武蔵野音大と典型的な東京のお嬢様育ちであったが、戦時中のこととは言えたまたま縁あって北海道の果ての田舎に育ち、小学生の頃からあこがれであった海軍兵学校に進み、大好きだった飛行機、それも戦闘機乗りだった父と知り合い、周囲の反対にもかかわらず、お国のために死にゆく若者を一人で逝かせる訳にはいかないと結婚、赤ん坊ができたことを知りながら南海に散った夫の形見を己を犠牲にして病身に鞭打ちながら育てた。

 この二人のことを想う時、そして女手一つで立派に子供を育てている女性に出会う時、女性の、そして母の偉大さに涙が止まらなくなるのである。
 本橋麻里さんとはお会いしたことはない(一度だけ北見市が主催した壮行会かなにかで舞台上のご本人を見たことがあるだけ)が、なんとなく母への思いと重なってしまうのである。

 2019年の4月6日の記事にも書いたが、このロコ・ソラーレが前年の2018年の平昌オリンピックで同メタルを獲得した。(この時のメンバーは5thの石崎琴美以外は今回と同じく、鈴木夕美、吉田知那美、吉田夕梨花、藤沢五月であり、5thは本橋麻里であった)

 この間、2013年(平成25年)には新しく国内最大6シートを備えたカーリング専用屋内施設「アドヴィックス常呂カーリングホール」がオープンした。しかし、北見市街から常呂までは車で40分から50分はかかり、国際試合を開催するには、常呂町にはそれだけの宿泊施設がない。

 そこで、2019年(平成31年、令和元年)に北見市の一部財界人から北見市の中心部に通年でカーリング、フィギュアスケート、アイスホッケー、ショートトラックスピードスケートなどの国際競技ができる総合的なアイススポーツの屋内競技施設(仮称「北見アイスアリーナ建設計画」)を作ろうという声が上がり、候補地としてぼたん園が挙がったのである。(詳細は2019年4月6日付けのブログ記事参照)

<北見アイスアリーナ(仮称)計画>
IMG_6710.JPG

 しかし、残念なことにこの計画は当時は北見市の人口13万人程度では採算が取れないとして実現には至らなかった。(令和4年2月21日午後10時10分)

 そもそも今はぼたん園の敷地ではないが、園の北東部分にある河西建設株式会社(本社)には現在でも小規模ながら当時は北見市街唯一だった2シートのカーリングホールがある。(詳しくは2015年9月28日付けの記事「河西建設カーリングホール」を参照)河西建設については先の大戦の後から説明しなければならないが、話が長くなるので結論だけにすると、同社の先々代のオーナーが私の祖父、河西貴一の弟に当たり、先代(先々代の長男)のときに社員の福利厚生のために造ったのが始まりのようである。

 本橋は中学時代を常呂で陸上とカーリングで過ごし、中学3年生(15歳)の時に日本ジュニア選手権で優勝し、世界ジュニア選手権に出場するために初めての海外(カナダ)渡航を経験する。中学を卒業して高校に進学すると同時にそれまでチームを組んでいたメンバーも多くはまだ中学生だったため自然消滅してしまう。

 そんなときに北見の(当時はまだ常呂は北見市ではなかった)河西建設から声がかかる。河西建設のカーリング部はそのころ既に日本選手権を何度も制していて、本橋はそこで一緒に練習することになる。
 高校を卒業してチーム青森に加入するまで河西建設で過ごし、その間に日本選手権やアジア選手権にでることにより経験を積んでゆく。(令和4年2月22日午後11時)

<本橋麻里の著書「0から1をつくる 地元で見つけた、世界での勝ち方」講談社現代新書」
IMG_6709.JPG
  
posted by ひろちゃん at 23:44| Comment(0) | 日記