2022年04月03日

独居老人の独り言 令和4年4月

 今日は4月3日(日)。朝から気温は8℃と低く、小雨が降ったり止んだりしている。

 新聞は、連日ウクライナの状況を報じているが、今日の産経新聞一面ではロシアによる侵攻で激戦が続く東部のマリウポリでは1日、民間人を退避させる「人道回廊」が設置され市民約3千人が退避した。マリウポリにはまだ市民10万人以上が水や食料無しで取り残されており、人道回廊は露軍の妨害などで十分に機能していない、と報じている。

 同じ産経新聞の五面には「マリウポリは何度死ぬのか」と題して、同紙論説顧問の齊藤勉氏の記事が掲載されている。それによると、

 ロシア軍の侵略で壊滅状態となったウクライナ東部のアゾフ海沿岸最大の港湾都市、マリウポリは帝政ロシア・ロマノフ王朝の領土をウクライナやポーランドまで拡大した18世紀後半の女帝、エカテリーナ2世の命名で、子の皇太子(後の皇帝、バーベル1世)の妻の名を取って「マリアの町」を意味する(「ポリ」はギリシャ語の「ポリス(都市)」)。
 領土拡張に伴い、クリミア半島に居住していた多数のギリシャ正教徒がマリウポリに強制移住させられ、約50万人のうちギリシャ人が今も数万人いる。

 
最近まで現地にいたギリシャの外交官は、産院や「子供たち」と書いた避難所、学校などへの残忍極まる無差別攻撃でマリウポリの犠牲者はすでに5千人にものぼる、その惨状をスペイン内戦下の1937年春のフランコ将軍側に立つナチス・ドイツの無差別爆撃で徹底破壊された「ゲルニカ」(スペイン・バスク地方)になぞらえた。

 無辜の人々の殺戮と並行して、女性と子どもも含む6千人もの市民がロシア国内に強制連行されたという。「移送後にロシア人を移住させてロシア化する魂胆だ」、「人質として停戦交渉の材料や人道上のプロパガンダ(政治宣伝)に利用される」、「移住先では強制労働が待っている」などのおぞましい情報が飛び交う。77年前の終戦時にスターリンが日本人60万人を拉致し、6万人超が非業の死を遂げたシベリア抑留を彷彿させる。

 マリウポリは過去に何度か戦火により瀕死の状態に陥る悲劇の歴史を刻んできた。1853年からのクリミア戦争ではマリウポリも戦闘に巻き込まれ、港の倉庫がすべて英仏部隊に破壊された。1917年から3年間は、ロシア革命と第一次大戦が重なる大混乱の中で赤軍、反革命の白軍(ボルシェビキによる「十月革命」に反対した)、ドイツ軍が入り乱れて激しい戦闘を繰り広げた。さらに、第二次大戦では約2年間、ナチス・ドイツに占領され、少年少女を含む5万人もの市民がドイツに連行され強制労働させられた。

 第二次大戦後の1948年から米ソ冷戦が終結する89年までの約40年間、マリウポリは「ジダーノフ」と改名されていた。スターリンの大粛清に加担した最側近で、詩人のアフアトーマら著名な文化人や前衛芸術家を批判(いわゆる「ジダーノフ批判」)、弾圧したアンドレイ・ジダーノフの生地であることに因む。
 ジダーノフは1948年8月8月に謎の急死を遂げるが、スターリンによる謀殺説も根強い反面、数々の残酷非情な「辣腕」ぶりが独裁者に評価されて死後、故郷の町の名前となった。

 ジダーノフ批判は1953年のスターリンの死後も続くが、市民の多くはこの市名に嫌悪感を抱いていたが、粛清を恐れて口には出せず苦悩は深かった。ゴルバチョフ時代の改革・ペレストロイカでグラスノスチ(情報公開)機運が高揚した1989年1月、党中央委員会は全国の町や学校、公共施設からジダーノフの名前を全て消し去る決定を下し、いの一番に「マリアポリ」は復活した。

 中略

 マリウポリは伝統的に反ロシア機運が強く、ここで誕生した国家親衛隊所属の愛国的軍事組織「アゾフ連隊」が祖国の命運を懸けた抗戦を続けている。ロシア軍は死の淵に立たされたマリウポリの近々の「完全掌握」を宣言している。(一部省略ならびに編集、令和4年4月3日 午後3時)

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 マリウポリの歴史を見ても分かるとおり、ウクライナに対するロシアの侵略は今に始まったことではない。概略ながらウクライナの歴史を調べてみて分かったことは以下のとおりである。

1.9世紀末、ノルマン人の一派であるヴァイキングがノヴゴロド国を建設した。自らをルーシ(ロシアの語源?)と称し、その他の東スラブ人と同化していった。その後次第に南下して、ドニェプル川中流のキエフを占領しキエフ公国(キエフ=ルーシ公国)を作り、黒海やバルカン半島に領土を広げていった。
2.キエフ公国は兄弟の分割相続が行われていたため、12世紀には10〜15の公国が分立して争うようになり、ロシア(大ロシア)、ウクライナ(小ロシア)、ベラルーシ(白ロシア)に分化してゆく。
3.13世紀中頃にはモンゴル帝国の侵攻によりこれらの公国は次々と支配下におかれ、1240年キエフ公国もモンゴルに占領されて滅亡した。
4.キエフ公国の衰退以降、モンゴルの支配を受けながらもウクライナの東北地方ではモスクワ大公国が次第に国力を増強しウクライナ全土の領有権を主張するも、14世紀中頃には北と西から進出してきたリトアニアとポーランド(後に君主が同じリトアニア=ポーランド王国となる)に併合されてしまう。
5.15世紀には、コサック(南ロシアの草原で半農半牧生活を送る人々で勇敢な武装騎馬民族として結束しながら特権を与えられロシアの辺境警備に当たるようになった軍事集団)が登場し、ドニエプル川中流域を拠点としてリトアニア=ポーランド王国に対し反乱を起こしたことをきっかけに、ウクライナを巡ってロシアとポーランドは戦争となる。その結果、1667年には講和となり、ウクライナの東半分とキエフはロシア領となった。(令和4年4月5日午後6時)
6.その後、16世紀から17世紀にはロシア帝国は南下政策を進め1696年にはアゾフ海に進出、1774年には当時オスマン帝国の支配下にあったクリミア半島のクリム=ハン国(タタール人)を独立させ黒海沿岸地帯を獲得した。1783年にはクリム=ハン国を滅ぼし、一方でウクライナをロシア帝国の一部としたため、コサック国家は消滅し、ウクライナは「小ロシア」と称されるようになった。(令和4年4月26日午後10時)
7.そして、ポーランド領として残っていたウクライナの西半分も、18世紀末にはロシア、プロイセン、オーストリア三国によって分割され、最終的にはウクライナはその8割がロシア帝国領(小ロシア)とされ、残りの2割がオーストリア帝国に支配されることになった。
8.第一次世界大戦末期の1917年に第2次ロシア革命が勃発し、ロシア帝国が滅亡する。これによって、ウクライナには独立のチャンスが訪れ、同年11月には「ウクライナ国民共和国」として独立を宣言する。
 しかし、その後は短期間とは言えロシアの革命政権やドイツ、ポーランドなどが入り乱れて内戦状態となり、1921年にはロシア共産党政権(ソヴィエト社会主義共和国連邦=以降ソ連邦)に併合される。
9.ソ連邦では当初は民族の自主性が尊重され、それぞれの言語、習慣、文化が積極的に保護されていたが、レーニンの死後、スターリンが権力を握ると中央集権化と民族文化の抑圧に転じたため、ウクライナ文化は30年代には全く姿を消してしまった。
10.1930年から31年にはウクライナでも農業集団化が強行され、農民はコルホーズ(集団農場)とソホーズ(国営農場)に組織され、オデッサなどでは工業化が進められ、労働力として農民の都市移住が強制された。その結果、天候不順もあり穀物生産量は激減し深刻な飢饉に襲われることになった。
11.1931年から33年に起きた大飢饉は「ホロドモール」と称され、独裁者スターリンによるジェノサイド(大量虐殺)とも言われている。飢餓の原因は広範な凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連政府が工業化の推進に必要な外貨を獲得するために国内の農作物を「飢餓輸出」したことにあり、人為的に引き起こされたものであることは否定できない。
 飢餓による死者は400万とも1000万とも言われ、共産主義特有の「富農」の追放(強制収容所送り)や若者による集団監視体制など、中国の文化大革命と同じようなことがおこなわれ、街頭には餓死した農民の死骸が多数放置され、浮浪児が溢れ、ついには病死した人間の死体を掘り起こして食べたり赤ん坊を食べた例さえあったという。
12.1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、11月にはウクライナ全土がドイツ軍により占領される。スターリンはドイツ軍をくい止めるために、ウクライナの焦土化を図り、東ウクライナの住民380万と850の工場設備をウラル以西に移転、工場施設、炭鉱は破壊した。
 しかし、1943年1月のスターリングラード戦で形勢が逆転し、ドイツ軍が後退し同年9月にはソ連軍がウクライナを占領した。第二次大戦でウクライナは国民の6分の1、530万人が犠牲となった。(因みに日本は310万人)
13.1954年、フルシチョフがそれまでロシアの一部であったクリミア半島をウクライナ共和国に移管した。兄弟国であるウクライナにロシア人が多く定住するクリミア半島を移管させることで、ウクライナを懐柔すると同時にウクライナのロシア人の比率を高めることが目的であった。まさか、将来ウクライナが独立するとは考えていなかった。
14.1970年代のブレジネフ時代はソ連の停滞がウクライナにも及び、経済成長率の低下が続いた。それでもソ連の他地域よりは恵まれていたため、ロシア人の移住が増え、1926年の300万人から1979年には1000万人となり、ウクライナ総人口の20%を超える状態になった。その間、1975年のヘルシンキ宣言(国境尊重、人権尊重)の影響もあり、東欧諸国にソ連共産党政権の言論弾圧に対する反体制運動が活発化した。
15.1985年、ゴルバチョフ政権が誕生、ソ連の停滞打破、社会主義体制の再建を目指してグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げた。しかし、情報公開の広がりは過去の大飢饉や人権抑圧を明るみに出すことになり、ウクライナにおいてもソ連社会主義の硬直した抑圧体制に対する批判が高まっていった。
16.そのようななか、1986年4月ウクライナ西部のチェルノブイリ原発事故が発生し、10万人以上が避難を余儀なくされた。事故は3日間隠蔽され、被害は全ヨーロッパに及びソ連の体制の構造的欠陥が明らかになった。また、東ウクライナでは工業化による深刻な汚染問題が起こっていた。(令和4年4月27日午後5時47分)
17.1991年8月、保守派クーデターによりゴルバチョフが失墜し、クーデターを収束させたエリツィンが主導権を握ると、ウクライナ最高議会は全員一致で独立宣言を発し12月には国民投票により90%以上の圧倒的多数の支持により独立を達成する。(ソ連の崩壊)
18.こうして1991年に、ソ連邦解体とともにウクライナは独立を達成したが、歴史的にロシアの勢力下にあった期間が長い東部や南部は現在でもロシアとは経済的に強く結びついている一方、かつてオーストリアやポーランドの支配を受けた西部や中部は欧米との関係を重視する傾向がある。
 文化や産業も東西では異なり、東部や南部はロシア語を話す人が多く、ロシア向けの軍需産業・宇宙産業や精密機械・鉄鋼業が盛んな工業地帯で、ウクライナの輸出額の6割を稼いでいる。これに対して、西部はウクライナ語を話す人が多数を占め、産業の中心は農業であり、政治的志向は前者が親ロシア派、後者は親西欧派が基盤とする地域である。特に南部のクリミア半島は18世紀以降、1954年のフルシチョフによる移管までロシア領であり、現在もロシアの黒海艦隊が駐留する戦略的要衝となっている。(令和4年4月27日午後11時25分)
19.1994年12月、ブタペストで開催された全欧安全保障協力機構(OSCE)にてウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの三国が旧ソ連から引き継いだ核兵器を放棄してロシアに移管することを認める代わりに、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の核兵器保有国は三国を攻撃しないことを約束した。(ブタペスト宣言)
20.2000年5月にはロシアでプーチンが大統領となり、旧ソ連の国々の連携強化を主張。
 ウクライナでは2004年11月に大統領選挙が行われ、東部を基盤とする親ロシア派の与党ヤヌコーヴィチと、西部を基盤としてEUとの連携を掲げた野党ユシチェンコが戦った。選挙の結果はヤヌコーヴィチが勝利したが、野党は大規模な選挙違反があったとして選挙のやり直しを訴え、広範囲なデモや集会を繰返した。ヤヌコーヴィチとロシアは反発したが、結局デモに押されて再選挙が行われユシチェンコが勝ち、大統領に就任した。この時の様子はTVを通して世界中に報道され、野党側はシンボルカラーのオレンジ色のマフラーを首に巻いていたので、民衆が不正選挙を覆して大統領を選び直すという民主化を実現したとして、「オレンジ革命」と言われた。(ただし、U-TUBUなどを見ると一部の保守派、例えば元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏や中国情報に詳しい河添恵子氏、自民党の西田昌一参議院議員などによると、これらのデモはアメリカのネオコン(国債金融資本家)や民主党が仕組んだもので具体的な証拠を挙げて解説している)
21.オレンジ革命後も政情は安定せず、親ロシア派と反ロシア(=親西欧)派の対立が続き、2010年の大統領選挙で再びヤヌーコヴィチが復活する。その後も、親西欧派はEUとNATO加盟を主張し、親ロシア派のヤヌーコヴィチ政権及びその背後のロシアが親西欧派の弾圧を続けるという対立が続いた。
 2013年、ヤヌーコヴィチ政権はEUとの連合協定の交渉を停止、親西欧派の反発が強まった。2014年2月には大規模な反政府暴動に発展し、政権の汚職や金権体質への反発も重なり、首都キーウ(キエフ)ではデモ隊と警察が衝突、双方に犠牲者が出た。議会が混乱の責任は大統領にあるとして解任決議をしたため、ヤヌーコヴィチはロシアに亡命した。(ウクライナでは「マイダン革命」(マイダン=広場)といわれるが、ロシアは民族主義者、右翼が起こした暴力的クーデターとして政権交代を認めていない)
22.2014年3月、プーチンはクリミア半島のロシア系住民の保護を理由に軍隊を派遣、住民はロシア編入を希望しているとして住民投票を行い、圧倒的多数の賛成を得たとしてロシア編入を強行した。さらに4月にはウクライナ東部の、ロシア系住民の多いルガンスクとドネツク州の一部がウクライナからの分離を表明、ウクライナ政府はそれを認めず、親ロシア派は直接的にロシアの軍事支援を受けているとして激しい内戦に突入した。同年夏には、親ロシア派支配地区上空を飛行中のマレーシア航空機がミサイルで撃墜されるという悲劇も起こっている。国際社会はロシアに批判的で、先進国首脳会議(G8サミット)から除外された。
23.2014年9月、ベラルーシのミンスクにて全欧安全保障協力機構(OSCE)、ドイツ、フランスの仲介により、ロシアのプーチン、ウクライナのポロシェンコ(2014年6月に大統領就任)両大統領による停戦合意が成立した(ミンスク合意)。停戦とともにウクライナからの分離を宣言した地域に対しては特別の自治を認めるという合意だったが、東部では依然としてロシア系住民とウクライナの民族主義グループとの衝突が続き、事実上の戦争状態が続いており(ドンバス戦争)、2020年現在戦闘による死者は1万4千人に達している。
 2018年11月には、黒海でロシア艦がウクライナ艦を砲撃、さらに3隻を拿捕するという事件が起き、緊張が高まった。また、ロシアは併合したクリミア半島と本土の間のケルチ海峡に巨大な橋を建設、黒海とアゾフ海の船の出入りをコントロールしている。
24.2019年5月、大統領選挙で現職のポロシェンコが汚職疑惑などで票が伸びず、コメディアン出身のゼレンスキーが70%以上の得票を獲得し当選した。ゼレンスキーはNATO加盟を公約に掲げる一方、東部紛争の解決に乗り出すことを表明、2020年7月にはメルケル、マクロン、の仲介により、ウクライナ、ロシア、欧州安全協力機構(OSCE)3者協議による完全停戦の合意を発表したが、未だ停戦は実現していない。
25.ここからは、ウクライナをめぐる米ソ対立は緊張の度合いを増してゆく。
 2021年7月、プーチンが「統一論文」(ロシアとウクライナは一つ)を発表。
 2021年9月、ロシア、ベラルーシ軍がウクライナ国境付近で合同演習。
 2121年12月ロシア、ウクライナのNATO非加盟を求める条約草案を発表。
 2022年1月、アメリカは上記条約草案に対して書面にて拒否を回答。
 2022年2月10日〜 ロシア・ベラルーシ軍、再び合同演習。
 2022年2月21日、ロシア、一方的にウクライナ東部2州を国家承認。(ドネツク州とルガンスク州)
 2022年2月24日、ロシア軍がウクライナ侵攻を開始。(令和4年4月28日午前0時12分)

 ウクライナの歴史について、2022年2月24日のプーチンロシアのウクライナ侵攻までをざっと見てきたが、想像していた以上に複雑な経緯を辿ってきたことが分かる。元を辿れば同じ民族であるにもかかわらず、数々の侵略や弾圧と虐殺を受け続けてきて、今もなおそれが続いていることに驚く。

 いろいろなことを知れば知るほど、より複雑になってくる。ただ間違いなく言えることは現に日々犠牲になっているのは無辜の人たちだということだ。

そして、人類にとって最もリスクが高いのは特定の個人や一族、あるいは少数または一部のグループや組織に権力が集中する国家の存在である。今の世界で典型的な例を挙げれば、金一族が支配する北朝鮮であり、共産党一党支配の中国などの独裁国家である。そして、それらは全て民主主義ではなく、権威主義の国なのである。では、プーチンのロシアは?(令和4年4月30日午後6時)
posted by ひろちゃん at 15:25| Comment(0) | 日記