今日は8月2日(火)、早いもので、5月10日に北見へ帰宅してから3か月が経とうとしている。関東は連日猛暑、というよりも酷暑というのがピッタリのようだ。今の北見の気温はスマホでは17℃。今日の最高気温は19℃の予想だ。天気は曇りで、恐らく園内の気温は17℃くらいだろう。室内でも少し肌寒いので、さっきから薪ストーブを焚いている。川崎では考えられないことだろう。
さて、7月に続いてもう少し「イタリア郷土料理美味紀行」を続けよう。
<Veneto州。州都はヴェネツィア。 同書26,27ページより>

<アドリア海に面したラグーナ(潟)で獲れた魚介料理は、どれも旨そうだ。 同書28,29ページより>

<一度は行って見たいシチリア島。州都はパレルモ。食材があまりにおいしいので私はたちまち虜になり、シチリア島に3年余り暮らした、と筆者は書いている。 同書68,69ページより>

<まぐろづくしの町トラバニ、パレルモのウニのパスタは垂涎の一皿。これだけでも行く価値はありそうだ。 同書70,71ページより>

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2冊目は「Winart The Magazine for Wine Lovers」。コーチャンフォーのワインコーナーを見ていて、同誌の特集 「ポルトガル 知られざるヴィーニョ・ヴェルデの世界へようこそ!」が目に入った。
ポルトガル。ヴィーニョ・ヴェルデ?2017年(平成29年)の10月22日〜31日までの10日間のポルトガル・スペインを巡るツアーに参加したときのことを思い出した。(2018年1月14日付の記事「中世の遺産と大航海時代の栄華に出会うポルトガル・スペインの旅ー前編参照)
<ワイン&フードマガジン 特集/ポルトガル ヴィーニョ・ヴェルデ 「Winart」No.109>

ツアー4日目、10月25日は朝8時30分にポルト郊外のホテルを出発、この日はバスでの市内観光で石畳の坂道と中世の古い石造り建物が立ち並ぶ市街を見た。ポルトガル伝統の青いタイル(アスレージョ)が印象的なサン・ベント駅の朝の通勤風景を見た後、昼前に訪ねたのがドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋のすぐそばにあるポートワインの老舗、サンデマンワイナリー(1790年創業)だった。
<ユネスコの世界歴史遺産にも登録されているポルト歴史地区。同誌17ページより>

<ドウロ川の上流で収穫されたブドウから造られたポートワインはここから積み出される。ポルト歴史地区からドン・ルイス1世橋を渡った対岸(写真手前)にはサンデマンをはじめワイン貯蔵庫がならぶ。同誌52、53ページより>

サンデマンワイナリーでは、大きなワイン樽がずらりと並ぶ広大なワイン庫や1900年代初めのヴィンテージワインが「VINTAGE1906」、「VINTAGE1909」・・・・と名札がつけられ、ズラリと並んで保存されているところを見学して、最後はポートワインの試飲も体験した。アルコール度が高く、芳醇な香りが特徴だ。
ポルトガルは9月〜11月が秋で、10月〜2月は雨期だそうなので、雨期のはじめになるがツアー中は雨の日はほとんど無く、日中は夏のような陽射しの日も多かった。夜も15℃前後で過ごしやすかった。雪は降らないと言っていたが、それを除けば北海道の気候に似ているなあと思った。
ポルトガルのあとはスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラを経由してマドリッドに向かったが、途中バスの車窓からはブドウ畑がどこでも見られるし、途中立ち寄るレストランでもホテルでもその地で収穫されたブドウから造られたワインが必ず供される。
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3冊目は国内に戻って、「戦国武将が眠る霊峰 高野山 空海が求めた密教の聖地」(三栄ムック 時空旅人 ベストシリーズ)である。コーチャンフォーに限らず、本屋で必ず「高野山」や「空海」「弘法大師」の文字が目に入ると必ず手に取って見てしまう。
河西のルーツが四国讃岐(正確には旧香川県大川郡白鳥(しろとり)町。現、東かがわ市)にあるからである。空海の生地は讃岐国多度津郡屏風浦(現、香川県善通寺市)であり、従って河西家は代々真言宗なのであり、菩提寺は白鳥の千光寺なのである。
<完全保存版 サイエンスムック 時空旅人 ベストシリーズ 「高野山」(三栄)>

白鳥町のホームページには以下のように書かれている。
香川県東讃地区の白鳥、大内、引田町は手袋の町。明治時代から手袋産業が栄え、今では全国で90%
以上の生産量を誇っています。手袋産業の開祖はこの町の千光寺の副住職であった両児舜礼(ふたご
しゅんれい)が、明治の中頃、大阪においてメリヤス手袋製造業を始め、その後舜礼の弟子であった
棚次達吉らがその技術を広め、今では日本だけでなく、世界の手袋産地として有名です。以下省略。
そのようなことで、ぼたん園園内には弘法大師像があり、今は10年以上前に老朽化のために取り壊されたしまったが、現在は河西建設の駐車場となっているところに東西に細長い建物があり、一周すれば四国八十八か所の参拝ができる礼拝所があった。
さらに、祖父の貴一が生前に建立した河西家の墓が高野山の奥の院のすぐ前の霊園にある。5,6年前になるかと思うが、妻と車で墓参りに行ったことがある。伊勢に一泊して伊勢神宮に参拝した後、高野山まで足を延ばし、菩提寺(普賢院)の宿坊に一泊し、翌朝墓参した後、奥の院を訪ねた。
僕がまだ北見にいた小学生か中学生のころに数度、祖父や祖母に連れられて高野山の宿坊に宿泊した記憶がある。そのときの境内や寺院の森閑として幽玄な記憶が蘇った。
<高野山1200年、悠久の時を超えて、今―。同誌18,19ページより>

<空海の生涯にみる 高野山成立と弘法大師伝説の誕生。同誌24,25ページより>

<古地図と古写真で訪ねる高野山 奥の院。同誌40,41ページより>

(令和4年8月3日 夜)
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いくら誠意を持って接しても相手には伝わらないこともある。他人の心だけは自分の思うようにはならないのである。それが明らかに相手の誤解であっても相手がその誤解を解く意思がない場合はどうしようもないのである。こちらが誤解を解こうとすればするほど、さらに頑なになってしまう場合はどうすることもできない。(令和4年8月4日18時27分)
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今日は8月6日、原爆から77回目の「原爆の日」である。一瞬にして亡くなった人はもちろん、その年(1945年、昭和20年)の末までに亡くなった人は14万人と言われている(広島市推定)。一人一人に親があり、子供があり、兄弟があり、夫があり、妻があり、恋人があり、そして過去があり、未来があったはずである。
今、僕はこうして77歳の齢を重ねてなお、これから先のことをあれこれと心配している。人間の運命とは何なのだろう。父は23歳で家族のため、国の為に死ななければならなかった。僕はこの歳にして、子供たちに、あるいは孫たちに何を残せるだろうかを心配している。明日、大地震が起きて、あるいは1か月先に癌が見つかって余命1か月を宣言されるかも知れないのに。
自分が生まれてきた、そして今まで生きてきた意味って何なんだろう。誰かを幸せにしたのだろうか。誰かを不幸にしたことにさえ気づかずに生きてきたのではないだろうか。愛するってどういうことなんだろう。キリストは人間を救うために自ら十字架に架けられた。自分は愛する者のために躊躇なく死ねるのか。言葉ほど頼りないものはあるだろうか。言葉にすればするほど虚しさが増すような気がしてしまう。(令和4年8月7日午前0時18分)
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令和4年8月7日(日)、現在の時間は13時30分。午前中まで曇っていた空が今は晴れてオホーツクブルー(川崎の空とも、九州や沖縄のそらとも違う透明なブルー)の空に薄く白い雲が、水彩画のように時の経過とともに、ゆっくりと形を変えながら浮かんでいる。午前中は23℃だった気温は今は25℃に上がっている。朝方は少し寒く感じられたので薪を焚いたが、今は窓を全部開けて室内のドアも全て開け放している。
午前中にテレビで三浦綾子の生涯を纏めた番組をやっていたので見ていたが、生きるということの意味や最悪の状態のときに彼女に生きる希望をもたらした二人の男性(後に二人とも夫となり支えた)とのこと、小説に込めた思いなど前夜思ったことと重なる内容だったので、途中からではあるが録画した。(8月7日夕方)
三浦綾子は旭川の出身で北見に近いし、クリスチャン(プロテスタント)でもあり、また確か夫の三浦光世氏は牡丹園に来園されたこともあるので、以前から関心は持っていたが、その著作は「塩狩峠」(文庫本)を10年近く前に購入して途中まで(最初の方で、今はほとんど憶えていない)しか読んでいない。
小説よりも彼女の生き方や、二人の男性(夫)との精神的な遣り取りに関心がある。24歳で肺結核を発病してから次々と襲ってくる病魔と闘いながらも1999年(平成11年)に77歳で亡くなるまで、短歌、小説と著作を続けた。こうした経歴を知ると、環境は全く違うが年代や長年の間病苦と戦った一人の女性として、どうしても母のことを想ってしまう。人間の強さとは、そして愛の強さはどこからくるのだろうか。(令和4年8月9日午後4時52分)
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BURUCKNER SYMPHONY No.9
IN D MINOR LOVRO VON MATACIC CZECH PHILHARMONIC ORCHESTRA をBGMに、この記事を書いている。
誰にも邪魔されることなく、誰に気兼ねすることもなく、深く音楽とともに思考を集中することができる。何という幸せなことか! 11日(木)から14日(日)まで、連続4日間の若い演奏家の清新な音楽に浸った後の至福のときである。
今日、15日(月)は77回目の終戦の日である。午前中に園内の観音様と弘法大師様にお参りをして、昭和14年8月29日ノモンハンにて26歳で戦死した伯父、博さんと、我が父、久夫(昭和19年10月25日、フィリピンのルソン島レガスピー沖にて特攻死、享年23歳)に感謝の念を捧げた。朝から晴れて気温は午前中で24℃と爽やかであった。午後になって、2時ころから雨が降り始め今の時間も外は雨が降り続いているようだ。
<77回目の終戦記念日の空。早くも秋の気配>

<爽やかな朝の陽に樹も草も伸び伸びとしているようだ>

<青空に観音像が映える>

<赤子を左手に抱える弘法大師像>

(令和4年8月16日午前0時12分)
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令和4年8月19日(金)午後12時50分になろうとしている。今日の現在の気温と最高気温は19℃、最低気温は15℃の予報だ。昨夜から午前中までは雨がふっていたが、今は雨は止んでさっきまでは陽が射していた。夜中は少し寒く感じたので、灯油ストーブを点けていたが今は薪ストーブを空気を遮断して弱めに焚いている。
SCHUMANN PIANO CONCERTO(PIANO ARGERICH) & VIOLIN CONCERTO(VIOLIN KREMER) CHAMBER ORCHESTRA OF EUROPE conducted by HARNONCOURT を聞きながらこの記事を書いている。
一昨日、17日に東武イーストモールに買い物に行った帰りにコーチャン・フォーに寄って、いつものように店内を一回りしてきた。
今回購入したのは、2冊。1冊目は帯広の株式会社クナウパブリッシングという出版社が発行する季刊(年4回)マガジン「スロウ(SLOW)」。社名の「クナウ」はアイヌ語のクナウ(福寿草)・ノンノ(花)から取った、と書いてある。2冊目は買う積りはなかったが、手に取ってパラパラとページをめくっていると、食いしん坊の自分には堪らない写真が目について、7月31日に記事に書いた「イタリア郷土料理美味紀行」を思い出してしまった。「ブルーガイド わがまま歩き イタリア」(実業之日本社)である。
「スロウ」は、巻頭特集として「花咲く庭のおすそ分け」と題し、(令和4年8月20日午前0時)3軒の手造りの庭を持つカフェを紹介している。いづれも北海道の自然に魅せられて、道外から夫婦または夫婦と娘で移り住み、こよなく愛する地でそれなりに苦労もあったはずの歴史を重ねながらも癒しを求めて訪れる人々との心の触れ合いを大切にしている様子が伝わってくる。(令和4年8月22日午前0時49分)
因みに3軒は、それぞれ海編、森編、山編として、海編では、新冠町(にいかっぷ。サラブレッドのふるさとでもあり、百名山の幌尻岳登山口でもある町)にある小さなガーデンカフェ、「茶菓いっ風」を取材している。
およそ40年前に広島県から移住してきた夫婦と娘がオープンして16年目を迎えたガーデンカフェからは放牧されているサラブレッドと、その向こうには太平洋が見える。
森編は、四季彩の丘や青い池などの観光スポットで知られる美瑛町の人里離れた森の中に建つログハウスの「cafe de La Paix(カフェ・ド・ラぺ)」である。パリやアルジェリアなど、海外で暮らした経験もあり、東京での生活を送る一方で夫婦で「山の中のログハウスで暮らしたい」という夢を求めて20年以上前に辿り着いたのが、美瑛の地であった。春から秋にかけては美瑛、冬の間は店を閉めて暖かい海外や沖縄などの南の国で暮らす。
山編は、道南の駒ケ岳の眺望にひと目惚れした夫婦が、畑と森を挟んだ先に駒ケ岳が一望できる草地を購入し、住まいを建て2014年の春にカフェと1日1組限定の山小屋風の宿「cafe&lodge coco-desse(ココデッセ)」をスタートさせた。カフェの裏側(庭がある反対側)のテラス席からは四季折々の変化を見せる駒ケ岳が悠々とそびえる姿が一望できる。(令和4年8月25日午前1時25分)
その他にも、北海道の定番スポットともいわれる5つの「北のガーデンめぐり」として、2009年に開園し、23ヘクタールの広大な面積に7つのガーデンエリアを持つ帯広市の隣り、幕別町の「十勝ヒルズ」。
そして僕の好きなマウレ山荘からも近い滝上町、昭和59年(1984年)から町が芝桜に続く観光スポットとして、山を切り開いて造った「香りの里ハーブガーデン」。4ヘクタールの敷地内には約300種類のハーブを含む草花が植えられている。
3番目は札幌市郊外にある、畑造りが好きだった父親が残した山を引き継いだ娘姉妹が経営する「エルクの森ガーデン」。山裾から斜面を昇るように造られたパークゴルフコース(ゴルフ場は1989年オープン)とガーデン、さらにその奥には野菜畑やワインブドウ畑があり、ワイナリーも併設する。
4番目は帯広市郊外にある「真鍋庭園」である。ここの最大の特徴は道内はもちろん、道外や海外(主にカナダ、アメリカ、イギリス、ロシア)から導入した針葉樹が中心の森であることである。帯広には河西の親戚(祖父貴一の兄弟・姉妹の系譜)も多いので「真鍋庭園」にはずっと関心があったが、未だ訪れたことはない。今回この記事で、初代の真鍋佐市氏が香川県からの入植者であることを知った。昭和初期に3代目が庭園の原型を造り、現在は5代目とのこと、ぼたん園との歴史の類似性を感じる。
最後は旭川市郊外の「上野ファーム」である。TVドラマ(だったかな?)で話題になった「風のガーデン(富良野町)」のデザイナーとして知られるようになった若くて可愛い女性ガーデナー(上野砂由紀さん)一家が経営するガーデンである。上野家はそもそもは1906年から代々続く米農家だったとのこと。1983年に米の個人販売を始めたことが転機となった。砂由紀さんの母、悦子さんが米を買いに来てくれる人たちに見て貰いたいと敷地内の山の周辺にハーブを、田んぼの畦道にルピナスを植えたのが始まりだったという。2001年には、イギリスでガーデニングを学んでいた砂由紀さんが帰国、家族総出での庭造りが始まる。(令和4年8月27日午後12時24分)
その他にも、道内各地の山野草や高山植物を専門に扱う園芸店(札幌)、1年中花が楽しめるドライフラワー専門店(札幌、富良野、オンラインショップ)、「植物の持つ力を信じる」ガーデンデザイナーとランドスケープデザイナーが母娘の願いを叶えて造った人気カフェ(幕別町)、6月中旬、マーガレットの白い花で埋め尽くされる散策路のある牧場(十勝中札内村八千代地区)などなど、自然好きにはたまらない記事に溢れている。
どの記事にも共通しているのは、北海道の自然に魅せられた人たちの自然に対する愛情の深さである。優しいばかりではない、自然の厳しさを家族やパートナーとともに乗り越えて、ガーデンやカフェを訪れた人たちの喜びを自分たちの喜びとし、明日への活力としていることである。若いうちはそれほどに感じなくても、人間は年齢を重ねるに従い自然に回帰することで初めて安寧と安らぎの生活を取り戻すことができるという事実に本当に気がつくのだと思う。
<コンセプト型通販付きマガジン「スロウ」(クナウマガジン)と「わがまま歩き イタリア」(実業之日本社)>

「ブルーガイド わがまま歩き イタリア」は、パラパラとページを捲るだけでも楽しい。ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ナポリなどの魅力的な都市、イタリア・アルプスでは東のドロミティ街道とコルチナ・ダンぺッツオを起点とするハイキングを、西のヴァッレ・ダオスタの州都アオスタからロープウエイで行けるピラの展望台からモンテ・ビアンコ(モンブラン)、モンテ・チェルヴィーノ(マッターホルン)、モンテ・ローザを一望してみたい。さらには、紺碧の海と急峻な崖に建ち並ぶパステルカラーの家々が美しい「アマルフィ海岸」、そして地中海に浮かぶイタリア最大の島シチリアにも渡ってみたい。
美の国、芸術の国でもあるイタリア。教会建築もさることながら、ローマではヴァチカン美術館システィ―ナ礼拝堂の「最後の審判」(ミケランジェロ)、同じくヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ像」、フィレンツェのウフィツイ美術館では「ヴィーナスの誕生」、「春」(ボッティチェッリ)、「受胎告知」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)、「聖母子と二天使」(フィリッポ・リッピ)を、ミラノのサンタ・マリア・テッレ・グラツィエ協会にある「最後の晩餐」(ダ・ヴィンチ)などは是非見ておきたい。(令和4年8月27日午後11時9分)
その他にイタリアに行ったら是非見たいもの、聞きたいものがある。それは、一つには最近でこそ観る機会がほとんど無くなってしまったが、大好きだったイタリア映画の舞台となったところを訪ねてみたい。そして、もう一つはやはり本場のオペラを観て聴いてみたい。
最後に、食いしん坊の自分としては最大の楽しみであるイタリアの郷土料理を、その地のイタリアンチーズとワインと共に堪能したい。有名レストランの一流料理人が造る料理もいいが、できれば田舎の普通の家庭で映画やテレビでよく見るように近くの家族、親戚が集まって一緒に賑やかにおしゃべりをしながら、おばあちゃんの代から伝わるその家の家庭料理を味わってみたいと思う。
以上のような夢を叶えるには、どうも1週間やそこらのツアーでは無理だろう。やはり、少なくても1か月、できれば3か月くらいはどこかに居を構えて地元のイタリア人と友達になる必要がありそうだ。そして家族ぐるみでの付き合いができるようになれば、毎年1年のうち3か月はそこで暮らし、その地を拠点にして、それこそイタリアを「わがまま歩き」することも夢ではなくなるかも知れない。(令和4年8月29日午後11時4分)
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