2018年09月10日

父のこと

  僕の父親は23歳で戦死した。後の戦死公報では昭和19年10月25日、フィリピンのルソン島南部のレガスピー基地を飛び立って還ることはなかった。わずか6か月足らず前に娶った妻と、この時すでにそのお腹に宿していた小さな生命を残して。

  僕は父が戦死した翌年の昭和20年3月に東京信濃町の慶応病院で生まれた。それから3歳になった時に病に倒れて横浜の病院で入院加療を受けていた母と別れて、父の実家である北海道北見市の祖父母に引き取られた。以来13歳、中学2年の1学期までの10年を「河西牡丹園(当時)」で育った。
  中学2年になって、母がようやく退院して僕を引き取ることになり、それからは東京で母と一緒に暮らすことになった。母は東京生まれ東京育ちで幼少のころからピアノを習い、音楽大学のピアノ科を卒業していたのでピアノを教えることで生計を立てた。今になって思うに8年以上も入院していて、ピアノもなく、その頃の母の頑張りを想うとその度に涙が止まらない。

  僕にとっての父は、少なくとも北見で育った10年間は、最初から父も母もいないことがあたりまえであり、時折祖父母や周りの人から聞く昔話の中に登場する人物でしかなかったような気がする。
  母と暮らすようになって、母から父のことを聞くことが増えてようやく父のことが生身の人間として身近な人になった。

  父は北見で5人兄弟(男3人、女2人)の三男として生まれ、6歳の時に母親(僕にとっては祖母)が33歳の若さで急逝したこともあり、家出同然のように東京へ出て早稲田中学(当時)に入学、そこで生涯尊敬して止まなかった恩師に出会い、苦学しながらも中学3年(現在の高校1年)で子供のころからの憧れだった海軍兵学校を受験し合格した。
  丁度そのころ父の姉(僕にとっては伯母)も音楽教師を目指して上京、母と同じ音楽大学のピアノ科に入学していて母とは同級生(年齢は母が下)だったので、伯母を通じて父と母は出会ったのである。

  父は海兵の70期で、母の話では同級生からは「クマさん」と呼ばれていたらしい。北海道の山奥から出てきて、当時父は飛行訓練中は敢えて太陽に顔を向けて日焼けすることがあった(推測するに、本来は色白の方だったので敢えてそうしていたのではないかと思う。なぜなら僕もそうだから。)ので、見た目にも黒かったからそう呼ばれたのだろう。
  また、父は北見にいたころから音楽、なかでもクラッシクが大好きでベートーベンの交響曲は1番から9番まで全て口笛で吹けたそうである。母から聞いた話では父が帰ってくる時はこの口笛が遠くから聞こえてくるので分かる、私よりも音楽については詳しかったと。今でも父が鉛筆で描いたベートーベンの肖像画が残っているが、絵の才能もあったのではないかと思う。シューベルトの交響曲「未完成」も好きでよく聞いていたそうである。
  父は僕のもう一人の叔母(父の妹)によると子供の頃は相当に暴れん坊だったようで、小学生の時には、喧嘩して机のふたで当時の市長の息子を殴って怪我をさせたり、常呂川に馬に乗って泳ぎに行き、母親から帰りに豆腐を買ってくるように頼まれ、馬に乗ったまま自分の褌に豆腐を入れてぶら下げて持ち帰ってきたり(本人はよく洗ったからいいと思ったのだろう)、その類の逸話にはこと欠かない。しかし反面、弱い立場の人には大変やさしかったそうである。
  母の話によれば、海兵の時には自分の部下(下級生か)に恋人が郷里から面会に来た時には、厳しい規則を破ってでも自分の個室を提供したりする優しい人間だったそうである。

  平成29年2月、僕はやっと父が亡くなった地を訪ねることができた。従妹(父の兄の長女)からフィリピンに来ないかという誘いを受けたからである。 
  従妹は普段はシンガポールに住んでいたが、たまたま仕事の関係でマニラ市に出張していて1か月後にはシンガポールに戻るので、この機会にという配慮である。
  有難く受けることとし、2月2日から2月6日までフィリッピンに渡った。

マニラ市郊外の従妹の滞在するアパルトメントからマニラ湾方向を望む。(2月2日 18:14撮影)
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翌朝、レガスピーまでは飛行機を利用するのでアパルトメントからマニラ空港に向かう。(2月3日 8:02撮影)
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マニラ市中心に近づくにつれて半端じゃない渋滞。車窓から見える川(どぶ川)の両岸には工場の廃屋や墓地に勝手に住みついてしまう人々がいる反面、中心地に高い塀を廻した金持ちの屋敷があったりする。(2月3日 8:17撮影)
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レガスピーまでは1時間20分のフライト。マニラ空港にて。(2月3日 12:34撮影)
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レガスピー港。漁港であると同時に造船所や大きなショッピングセンターもある。(2月3日 16:26撮影)
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レガスピー中心市街、ホテルの近くの路上の電柱。(2月3日 17:00撮影)
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レガスピー空港が見渡せる小高い丘(リグノン・ヒル)の上に旧日本軍の司令部があった場所は、現在は小さな公園になっていた。写真は丘の入り口に掲示された説明板。(2月4日 10:20撮影)
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写真は丘の途中に残っている日本軍の壕の跡。兵隊はレプリカ。(2月4日 10:21撮影)
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岡の上の公園展望台からレガスピー湾方向を見る。左右に延びるのがレガスピー空港の滑走路。(2月4日 10:48撮影)
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公園の反対側からは富士山によく似た火山のマヨン山(2,463m)が見える。この日は雲がかかってその秀麗な姿は半分隠れてしまっている。(2月4日 11:19撮影)
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レガスピーから案内人付のレンタカーで2時間近くかけてダガラという町に向かう。途中のカマリグという所にある小高い丘に立ち寄る。レガスピーから上陸してくるアメリカ軍に抗戦した日本軍の壕の跡などがジャングルの中に残っている。(2月4日 12:06撮影)
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同じくジャングルに残されている階段。(2月4日 12:15撮影)
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同じく丘の上の展望台にて従妹の真理と。後ろに見えるのはマヨン山。(2月4日 12:22撮影)
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ダガラ中心部から3qほど北西にあるカグサワ教会遺構(Cagsawa Church Ruins)にて。1814年2月、マヨン山が大噴火し、火口から噴き出た溶岩流が麓のカグサワ村を襲い、教会に避難していた村人約2,000人とともに村全体がそのまま飲み込まれてしまった。現在、教会の敷地は公園になっていて教会の壁の上部と鐘楼だけが残っている。雲が掛かっていて見えないが、後ろにはマヨン山が近い。(2月4日 13:27撮影)
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ダガラの街の中心部にある小高い丘に建つダガラ教会(Dagara Church)。1773年に建てられ幾度もマヨン山の噴火により損傷を受けたが、現在も多くの信者を集めている。(2月4日 14:44撮影)
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ダガラ教会内部。(2月4日 14:48撮影)
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ダガラ教会の回廊にはキリストや聖人の像が並んでいる。(2月4日 14:53撮影)
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同じ回廊には、1814年のマヨン山の大噴火の際にカグサワ教会からダラガ教会に避難してくる大勢の村人の様子を描いた大きな絵が架けられている。(2月4日 14:56撮影)
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レガスピーのダウンタウン中心地にあるホテルへ戻る途中、近くにあるレガスピー駅に寄ってみた。駅の入り口はシャッターが閉まっているが横からホームに入ってみる。ガランとして近所の子供たちが遊んでいる。運行しているのかどうかは不明。(2月4日 15:45撮影)
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翌日、2月5日はホテルで朝食を済ませて、レガスピー市内観光に出かける。便利な乗合タクシー、ジプニー(jeepney)を利用する。初乗りは8ペソ、160円強。
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街のどこからでもマヨン山が見える。(2月5日 10:03撮影)
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市役所前の広場。(2月5日 10:23撮影)  
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市役所の近くの教会の前で。(2月5日 時間不明)
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久し振りにミサに与かる。(2月5日 10:34撮影)
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市役所広場に近い魚市場。(2月5日 11:30撮影) 
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レガスピーよさようなら。レガスピー空港。(2月5日 16:57撮影)
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空港から見るマヨン山と、手前はリグノン・ヒル。(2月5日 18:55撮影)
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マニラに戻り、夜はタクシーでビジネス街にある日本居酒屋の「相撲茶や 関取」で喉を潤した。(2月5日 21:00撮影)
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「相撲茶や 関取」の店内。日本のビジネスマンが多く、メニューも日本の居酒屋と変わらない。(2月5日 21:00撮影)
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マニラよ、レガスピーよ、フィリピンよ、そして父よ安らかに、さようなら。また来る日まで。(2月5日 11:07撮影)
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(追記)
平成30年1月、マヨン山が噴火した。平成30年1月25日発信の産経ニュースより転載する。

比マヨン山の火山活発化で7万人避難 大規模噴火に警戒


  今月中旬から断続的に噴火が続くフィリピン・ルソン島南部のマヨン山(2462メートル)の火山活動が活発化し、24日までに約7満2千人が避難を余儀なくされた。溶岩の流出や噴煙が収まらず、周辺は立入が規制され大規模噴火への警戒が続く。

  フィリピン当局によると、13日に小規模な噴火が発生。その後も継続的に噴火があり、噴煙の高さが5千メートルに達した22日、警戒レベルを上から2番目の「4」に引き上げた。周辺住民は順次、離れた学校などに避難している。

  マヨン山は首都マニラの南東約330キロにあるフィリピン有数の活火山。これまでも噴火を繰り返しており、最も古い噴火の記録は1616年という。1814年には火砕流などで約1200人が死亡、1993年の大噴火では70人以上が犠牲になった。

  マヨン山は「完璧な円すい形」と言われる地元のシンボル。登山ツアーも催される観光スポットだが、噴火の影響で最寄りのレガスピ空港では発着便の欠航が相次ぎ、経済活動への影響が懸念される。(共同)

                               以上
posted by ぼたん園々主 at 12:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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