2018年10月16日

僕の好きな音楽と思い出 その1

  平成30年10月16日火曜日、次男がプレゼントしてくれたVictorが開発中のイヤホンでラフマニノフのピアノ協奏曲2番、ウラジミール・アシュケナージのピアノ、ベルナルド・ハイテインク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を聞きながらこの記事を書いている。この音源はAMAZON Musicから取っている。

  今年8月14日の記事で「僕の心に残る好きな映画」を書いたので、映画と同じくらい、あるいはそれ以上に好きな音楽についても書いておきたい。ただし、とても1回の記事では書ききれないと思うので、折に触れて少しづつ書いて行きたいと思う。今日は僕が初めて音楽の愉しみを知って、徐々に音そのものに興味を持ち始めた高校生のころまでかな。

  僕は3歳から中学2年の1学期までは北海道の北見市の祖父母の許で育った。やっと母と一緒に東京で暮らせるようになって初めて音楽らしいものに触れた。母はピアノを弾き、子供から大人までピアノを教えて生計を立て僕を育ててくれた。今、聞いているアシュケナージも母が日比谷公会堂のリサイタルに連れて行ってくれて、僕がピアノの生演奏をコンサートホール(日比谷公会堂は音楽専用ではないが)で聞いた最初である。
  それまでの北見の暮らしは、祖父母との3人暮らしで、当時はラジオが家庭での唯一の娯楽であった。祖父の聞くラジオは浪花節か義太夫か浪曲、漫才、落語で、唯一僕が聞くことができたのは赤胴鈴乃助のドラマとその主題歌ぐらいであった。

  そんな環境から、東京へ出て母と暮らすようになって生まれて初めて本当の音楽に出会ったような気がする。と言っても中学2年で東京へ出てきても、母も病院暮らしが10年も続いていたのだから、その間はピアノも練習することさえままならなかったであろうし、もちろんピアノも持っていなかったから、とても音楽を楽しむ余裕などなかった。母と最初に住んだのは小田急線の喜多見駅のすぐ前にあったカトリック教会が運営する女子寮であった。それは元は小田急電鉄の創始者の利光謀氏(正確ではないかもしれない)の邸宅であったところで、大きな二階建ての屋敷と広い庭があって芝生の緑が今でも記憶に鮮明に残っている。
  もちろん女子寮であるから男子禁制、僕はまだ中学生だったので特別に許されたのだと思うが、二階の一部屋で他に三人のまだ20代から30代と思われるいづれも独身のOLさんと同室だった。今から考えると教会もよく許可したものと思う。今、考えるに地方から上京して独り立ちしようとする、或いは訳あって独り身の女性の一時的な駆け込み寺であったのであろう。今はそのお屋敷もなくなって、マンションになっている。

  母は女子寮の前にあった幼稚園のピアノを、幼稚園が休みの日に借りて練習をしていた。一日も早くピアノが再び弾けるようになって生計を立てようと頑張っていたのであろう。まだ退院してそう時間も経っていないので、風邪を引いたり無理をするととたんに「血沈濃度」(母はそう言っていた)が上がるので、自分で注射を打ちながら頑張っていた。やがて間もなく女子寮を出て喜多見駅の反対側(南側)の世田谷通りから少し入ったIさんというお宅に間借りすることになった。Iさんは僕の記憶では母よりはずっと年上で、やはり母子家庭で大学生の息子さんが一人いた。田舎から出てきたばかりの僕の眼には大学生は、映画「陽のあたる坂道」に出てくる裕次郎のように映っていたことを想い出す。

  そうこうしているうちに再度、今度は同じ小田急線の成城学園前駅の北側、成城学園の近くのYさんのお宅に引っ越した。Yさんのお宅は結構な広さのお屋敷でわれわれ二人はそのお屋敷の奥座敷とでも言えそうな二間続きの部屋に住んだ。南向きの部屋の縁側からは庭の大きな松が見えた。Yさんも母よりは大分年上だったが、やはり息子さんと母親との三人暮らしだった。この辺りは如何にも落ち着いた立派なお屋敷が建ちならんでいて、近くには三船敏郎の自宅や、駅の南側には石原裕次郎の自宅(実家か?その後近くに新居ができて引っ越した)があった。毎日午後の3時頃になると、決まって台所の方で呼び鈴が鳴り、奥(Y)さんの「どなた?」という甲高い声がして、いつも同じ抑揚の低い声で「成城パン」と返すのが聞こえてくる。いつも母と一緒にその抑揚をまねて、二人で笑い転げていたことを想い出す。

  今考えると、その頃の母はどうやって生活費を稼いでいたのだろうか?呑気な僕はそんなことはお構いなく、喜多見のIさん宅から成城にある世田谷区立砧中学に通い、成城に移ってからは同じ区立の千歳中学に通った。このころはまだピアノは無かったし、ラジオももちろんテレビも持っていなかったから音楽を聞いた記憶は無い。たまに、母に連れられて都心に音楽を聞きに行ったのだろうか?アシュケナージはこのころだったのだろうか?いやいや、もっと後のような気がする。音楽に関する記憶がはっきりするのは、高校生になってからだ。3度目の引っ越しがいつだったかはっきり憶えていないが、成城のY邸から同じ成城の今度は駅の南側歩いても3分ほどのKさんのお宅に間借りした。今度は母方の母の大伯母に当たる野辺地里安(のべちりあ)と同居することになった。野辺地はその時すでに80歳を超えていたと思うが、なかなか偉い人であった。若いころにはフランスに留学していたこともあり、英語とフランス語は宮家や三菱の創始者岩崎家の家庭教師をしていたこともあり、また四谷双葉の創立にも関わり永らく四谷双葉で英語とフランス語を教えていた。この大伯母は躾に厳しくよく喧嘩したが、そのときは田舎育ちの僕のことを「こえたごや!」といって怒った。僕は最初はこの「こえたごや」の意味が分からず口ごたえしたが、普段は僕のことはかわいがってくれて、よく試験前には英語を教えてもらった。

  成城のKさん宅に間借りをしていた時に、いつの日からか記憶はないが、多分野辺地の大伯母が亡くなってからだったと思うが、母がピアノを購入した。そして、母は教会のつてもあり徐々にピアノを教えながら生徒を増やしていった。最も多い時は50人以上の子供からOLまで生徒がいた。毎年、5月には「さつき会ピアノ発表会」と称して区役所の成城支所にあるホールなどを借りて発表会を開いていた。その時期になると会場の手配からプログラムの印刷、司会の依頼まで一人でやっていたが、僕はといえばまだ人前に出るのが、特に若い女性が多いところに出て行くのが恥ずかしくて殆ど手伝いらしいことはしていなかった。今になって母の苦労を想うと悔やんでも仕方がないが、母からすれば本当に不甲斐ない息子であったと思う。
  後から母から聞いた話ではあるが、ピアノの取得については奇跡のようなことがあったのである。ある日これからの生計を立てて行くためにはどうしてもピアノが必要だけどお金が無い。どうしたものかと思い悩みながら知らない街を歩いていて、偶然にも音大時代の同級生Aさんの表札を見つけたことが運命の軌跡を生むことになったのである。「1本違う道を歩いていたらこの奇跡には出合うことはなかった」と、母はいつも言っていた。
  それからは、家にいるときは嫌でも毎日、母がピアノを練習するのと生徒を教えるのを隣の部屋で聞いていた。当時は、聞いていたというよりは聞かされていたというほうが正しいが、今となっては懐かしい。

  話が逸れたが、僕は千歳中学から都立の青山高校に進学した。そのころは、成城のKさん宅に間借りしていて少しづつ家計も余裕がでてきたからか、小さなレコードプレイヤーを買ってラジオに繋いでEP盤(ドーナツ盤ともいっていた)の映画音楽などを聞いていた。そのころよく聞いていたのは母が好きだった「エストレリータ(Estrellita)」と「魅惑のワルツ(Fascination)」だった。「エストレリータ」はメキシコの作詞・作曲家のマヌエル・マリア・ポンセの作品で情熱的なスペイン語の歌詞が付いているが、当時は誰の演奏で聞いていたか記憶がない。因みに「Estrellita」はスペイン語で「小さな星」という意味。美しい曲だ。
  「魅惑のワルツ」はビリー・ワイルダー監督、ゲイリー・クーパー・オードリー・ヘップバーン主演の「昼下がりの情事」(何とセンスのない邦題だろうか。原題はLove in the Afternoon)の主題曲であり、僕はマントヴァーニの演奏で聞いていた。その他に思い出すのは映画「シェーン(Shane)」の主題曲を作曲者のヴィクター・ヤング楽団の演奏で、映画「真昼の決闘(High Noon)」のテックス・リッターが歌う”Do not Forsake Me,Oh My Darlin"で始まる「ハイヌーン」を確かフランキー・レイン盤で聞いていた。作曲はかのデイミトリ・テイオムキンだ。この組み合わせは他に「OK牧場の決闘」や「ローハイド」がある。

  そうした時期を過ぎて、高校何年生の時かは忘れたが文化祭で確か無線部のデモンストレーションでオーデイオの演奏会を聞きに行ってすっかりその「音」そのものに魅せられてしまった。その後同部のW君と親しくなり、W君の自宅で彼が製作したオーデイオ装置で確かそのころ流行っていた「コーヒールンバ」という曲を聞かせてもらった。僅か20cm口径の国産スピーカー(Coral社製の8CX−7だったと思う)から放たれる音を聞いて感動してしまったのである。それからというものはオーデイオ道まっしぐらで、学校の帰りには殆ど毎日秋葉原通いとなった。スピーカーそのものに魅せられ、雑誌を読み漁り電気店を回って試聴して歩いた。ほどなく初めてのスピーカーPioneer PAX-20E を購入した。自作のアンプで初めて音楽を鳴らした瞬間は今でも忘れられない。

  それからは主として、ラテンやタンゴ、シャンソン、ダンスミュージック、映画のサウンド・トラックなどをよく聞いた。エドムンド・ロス、スタンリー・ブラック、マントヴァーニ、フランク・チャックスフィールド、リカルド・サントス(ウエルナー・ミューラー)、アルフレッド・ハウゼ、ベルト・ケンプフェルト、ペレス・プラード、セルジオ・メンデスとブラジル66、などである。なかでもエドムンド・ロスとスタンリー・ブラックはお気に入りであった。特にロスのミュージカルやダンス音楽とブラックの低音ピアノによるシャンソンやラテンやタンゴが好きで、今でも何枚かのLPレコードは持っている。エドムンド・ロスは厚生年金会館でのコンサートにも聴きに行ったりした。

左:STANLEY BLACK AND HIS ORCHESTRA "PLACE PIGALLE" LONDON R. MPL 1006
中奥:EDMUNDO ROS AND HIS ORCHESTRA "KING OF LATIN RYSMS" LONDON R. NAX 023
中前:STANLEY BLACK AND HIS ORCHESTRA ”all time top tangos!" LONDON R. MPL 1018
右:EDMUNDO ROS AND HIS ORCHESTRA "LONDON for DANCING" LONDON R. MPL 1021
181023 001.JPG

  高校時代も3年生になるころには、クラシックにも興味を持ち始める。それまでにもレコードを買うときは下北沢の名前は忘れたがレコード専門店か新宿のコタニへ行っていたが、ある日同級生で親友だった(今でも変わらず親友だが)H君に頼まれてベートベンの第9を買いにコタニへ連れて行った頃から、自分もオーマンデイー、フィラデルフィアの「新世界」やチャイコフスキーの6番「悲愴」(デイミトリー・ミトロプーロス、ニューヨークフィル盤)のレコードを購入したりして、徐々にクラシックに傾倒していった。
posted by ぼたん園々主 at 13:43| Comment(0) | 日記
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