2018年11月10日

僕の好きな映画音楽と思い出

  これまでに、「僕の好きな映画」と「僕の好きな音楽」について書いてきたので、この辺りで両方にまたがる「僕の好きな映画音楽と思い出」について書いてみたい。

  映画とその音楽とは一体になっている。そしてそれらはまた、その時の思い出と繋がっている。だから、特にそのころの甘酸っぱい思い出や、あるいはほろ苦い思い出が蘇ってくるような映画音楽は特に印象深い。順不同に、思い出すままに挙げてみる。

  1968年のフランス映画「個人教授」。ミシェル・ポワロン監督、ルノー・ヴェルレー、ナタリー・ドロン主演の青春ラブロマンス映画である。ナタリー・ドロンは当時はアラン・ドロン夫人である。
  映画の内容は高校生の少年が年上の女性に恋をする他愛のないものであまり記憶にもないが、音楽を担当しているのがフランシス・レイである。
  フランシス・レイといえば、1966年に映画「男と女(Un homme et une femme)」の音楽で知られ、映画「個人教授」が製作されたのと同年の1968年には映画「白い恋人たち/グルノーブルの13日」の音楽も担当している。1973年には映画「ある愛の詩」の音楽で洋画映画音楽界を風靡した.
  「個人教授」が日本で公開された1969年(昭和44年)といえば、僕が前年に大学を卒業してサラリーマン2年目で都内の営業店に配属され、初めての営業職となった頃である。ようやくサラリーマン生活にも少しは馴染んでき頃で先輩に連れて行かれて、女性のいるバーにも初めて行くようになった。そのころ、何度目かの初恋?があり、たまたま見た映画が「個人教授」であり今ではこの音楽を聞くことは全くと言っていいほど無いが、何故かこのメロデイーを想い浮かべると当時の思い出が鮮やかに蘇ってくるのである。

  映画「個人教授」と前後して思い出すのが、1968年に日本公開されたスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅(2001:A Space Odyssey)」である。今、改めて公開年を見て気が付いたが、1968年(昭和43年)と言えば大学を卒業して会社に入った年である。そんなはずはない。というのは僕がこの映画を見たのは都内の営業店に配属されて、今から考えると大胆にも真昼間、勤務時間中に有名映画館で確か当時まだ目新しい70mmの大画面で見たからである。もしかしたら、日本公開の翌年くらいにその映画館で見たのかも知れない。とすると、もしかして「個人教授」ももう少し後のことだったのかも知れない。
  とにかく、映画の初めに我々人類の祖先と思しき猿人が初めて道具を使うことを覚える人類の夜明けを暗示する場面で使われていたのが、リヒャルト・シュトラウスの「ツアラトウストラはかく語りき」(カラヤン指揮ウイーン・フィル演奏)であり、当時クラッシクに目覚め始めていたころで我が家の自作ステレオでズービン・メータ指揮、ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団(LONDON SLA 1007)版を聞いていたが、SF映画で使用されるとは思ってもいなかったのでとても新鮮に聞こえたことを想い出す。また、これと並んで宇宙ステーションがゆったりと宇宙空間を移動する場面で使われていたヨハン・シュトラウスUの「美しき青きドナウ」(カラヤン指揮、ベルリンフィル)は、意外なことに広大な宇宙空間を優雅にも漂う宇宙ステーションにぴったりとマッチしていて印象的な場面となっている。

ズービン・メータ、ロサンジェルス版の「ツアラストラはかく語りき」(LONDON SLA 1007)
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  映画「死刑台のエレベーター」は1958年制作のフランス映画。8月14日の記事「僕の心に残る好きな映画」にも書いたように、弱冠25歳のルイ・マル監督の初めての劇映画(1956年にクストーと組んで、海洋ドキュメンタリー映画「沈黙の世界」を監督している)である。当時はヌーヴェル・ヴァーグ(「新しい波」を意味し、1950年代末から1960年代半ばまでフランス映画界にあって若い監督たちが中心となって起こした映画運動。ルイ・マルの他にもトリュフォーの「大人は判ってくれない」、「突然炎のごとく」やゴダールの「勝手にしやがれ」などもある。)の時代であり、日本にもその「新しい波」は玉石混交ではあるが、押し寄せていた。
  今、制作年を調べると1958年となっていて、僕はまだ中学2年生でありこの映画はそれよりずっと後に、VIDEOを借りてかTVで見たのだろう。当時としてはモノクロではあるが、斬新な感じがして何と言っても主演のジャンヌ・モロー(当時27歳)とマイルス・デイヴィスのトランペットがこれほどにしっくりと感じた映画は他にはなかなか無い。僕にとってはモダンジャズもいいものはいいなと思わせてくれた映画だった。
  
  映画「ウエストサイド物語(West Side Story)」は今からすると、とても子供っぽい感じがするが、当時はミュージカルというものを初めて知った映画である。日本公開は1961年(昭和36年)だから僕がまだ高校生のころだ。きっかけは、従姉妹(母の兄の子供)、といっても歳は僕より5,6歳歳年下であるが当時のこれくらいの年代の特に若い女性には大人気となった映画で、彼女達が何十回も見たという話を聞いて確か丸の内ピカデリーに見に行った。
  ご存知のとおり、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を基にした同名のブロードウエイ・ミュージカルの映画化作品である。当時は、若い女性の間では従姉妹もそうであったがジョージ・チャキリスが大変な人気で、いかにもアメリカ作品らしく、確かに若さとダンスと音楽がかっこいいなと思った。
  監督はロバート・ワイズとジェローム・ロビンズ、そして作曲はアメリカ・クラッシック界の大御所レナード・バーンスタインである。出演はロミオとジュリエットにリチャード・ベイマーとナタリー・ウッドが、それにジョージ・チャキリス、リタ・モレノが加わり、アカデミー作品賞、監督賞、助演男優賞(チャキリス)、助演女優賞(リタ・モレノ)など10部門を受賞した。
  それ以降しばらくは従姉妹の彼女たちの影響を受けて、エルビス・プレスリーの徴兵騒動をモデルにしたブロードウエイ・ミュージカル「バイ・バイ・バーデイー」を映画化した同名の映画(アン・マーグレット主演)を見たりした。
  その後も彼女たちの影響もあって、1950年から1960年代にかけて世界中でボサ・ノバ(Bossa Nova)の大流行があり、ハーブ・アルパートのアルバム「SERGIO MENDES & BRASIL'66」や同「HERB ALPERT RISE」を購入したり、その後の1979年、1980年ころの「Sadao Watanabe Morning island」や「DAVE GRUSIN MOUNTAIN DANCE」へと繋がって行くのである。

オリジナル・サウンド・トラック版「ウェストサイド・ストーリー」(COLUMBIA YS-189)
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SERGIO MENDES & BRASIL'66(左)と HERB ALPERT RISE(右)
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  ステイーブ・マックイーンといえば、映画「大脱走」、「砲艦サンパブロ」、「華麗なる掛け」、「ブリット」、「栄光のル・マン」、「ゲッタウエイ」、「パピヨン」など数え上げたら切りがない。その中でも僕が一番好きなのが「ブリット」と「大脱走」である。
  なぜなら、「ブリット(Bullit)」では彼がフォード・マスタングを運転し、「大脱走(THE GREAT ESCAPE)」ではトライアンフのバイクを運転している(実際の撮影は友人が代行したらしい)からである。
  僕は車を運転することが大好きだ。運転すること自体が好きなので、自動運転車など何の興味もない。せっかくの愉しみをどうして自ら放棄するようなことを考えるのか理解できない(もちろん、いろいろな理屈はあるだろうが)。同じ乗り物でも電車や汽車、船舶(クルーザーなども含めて)の運転はあまり興味がない。なぜか考えるに、それらは大きすぎて人間の操作する範囲が狭いからだと気がつく。車やバイクや自転車は殆どの範囲を人間が操作することで成り立っているからだ。
  僕の父は戦時中は戦闘機乗りだった。自慢するわけではないが、海兵では恩賜の銀時計をいただいている。聞くところによると同期(70期)でも1番か2番でないと貰えないものだと聞いているし、学業と運動の両方が秀でていないと貰えないものと思う。祖父の方針で小さいころから男は男らしくと教育された。今では、死語であり時代錯誤といわれそうな、「男子の一言」とか「女子と小人養い難し」などという言葉を聞きながら育った。恐らく僕の車好きは父からの遺伝だと思う。今でも、自分の人生で一つやり残したことを挙げるとすれば、それは飛行機(旅客機やジェット機ではなく、性能のよい双葉機や練習機がいいかな)の操縦ができなかったことだと思っている。
  話が逸れてしまったが、「ブリット」は1968年(昭和43年)日本公開、監督、ピーター・イエーツ、そして音楽はラロ・シフリンが担当している。なんと言っても、この映画のみどころは独特の坂道の多いサンフランシスコの街中と郊外のハイウエイでのマックイーン運転する深いグリーンの1968年型フォード・マスタングGT390とギャングが運転する黒塗りの1968年型ダッジ・チャージャーによる追跡シーンだ。後年、僕は会社の出張で現地を訪れたことがあるが、明るくきれいな街並みと坂と路面電車が印象に残っている。因みにマックイーンは現役のレーサーでもあるが、イエーツ監督も元レーサーだったそうだ。また、ダッジ・チャージャーを運転しているスタントマンは、映画「フレンチ・コネクション」のカーチェイスでも活躍しているようだ。
  そして、追跡シーンに効果的に使われているのがラロ・シフリンの音楽である。軽快ななかにも、これから起こることを予感させるみごとな効果を発揮している。
  1963年(昭和43年)といえば、僕が大学を卒業してY社に入社した年である。そのころ既に、僕は大学時代にデパートの配達や川崎の製紙工場や石油プラントで作業員のアルバイトをして貯めた金で中古のトヨタのパブリカを購入していた。多分、同期入社のなかで入社時に自分の車を所有していたのは自分一人だったと思う。会社の休暇には、同期の友人とパブリカで糸魚川まで日本海を見に行ったり、猪苗代湖の近くのスキー場までスキーに行ったりした。会社に入ってからも、さすがにマスタングは買えなかったが、ライトブルーのトヨタセリカ(発売初年度)や、ダークグリーンのブルーバードSSSや、広島の呉に転勤になったときは黄色のMAZDAロータリー車、RX7(これも発売と同時)などにも乗っていた。最近の若い人は、僕らの時代ほど車には関心が無いようにみえるが、僕はこの歳になってもまだまだ車を運転することが好きだ。
  「ブリット」以外にも僕が見た映画で、車が準主役とも言えるものには「フレンチ・コネクション」(監督ウイリアム・フリードキン、1972年日本公開)や「バニシング・ポイント」(日本公開は1971年)などがある。「フレンチ・コネクション」は音楽については記憶がないが、「バニシング・ポイント」ではロックが物語の伴奏になっている。因みに「フレンチ・コネクション」でポパイが運転している車はポンテイアック・ルマン、「バニシング・ポイント」で主人公のコワルスキーが運転している車は白の1970年型ダッジ・チャレンジャーである。

大脱走のDVD(左)とバニシング・ポイントのLP(右 LONDON SLC 356)
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   映画「黒いオルフェ(Orfeu Negro)」の音楽もブラジルの土の匂いのするルイス・ボンファの純朴なギターの音色とメロデイーとともに、そのころの多感だった自分を思い出す。
   今、確認してみると日本公開は1960年(昭和35年)だから僕は15歳、13歳で東京に出てきたのだから高校1年の時だ。この頃はまだ、田舎から出てきて東京の人間には負けられないと思って、勉強を頑張っていたころだ。その甲斐あってか、青山高校1学年400名超の中で、最初の学力試験で1位を取った。今でも親友として付き合っている友人は、その時に他のクラスから「1番取ったって、どんな奴だ」といってわざわざ逢いにきた奴らである。ところが、それで安心してしまったのか、徐々に順位を下げて高校在学中に二度と1位になることはなかった。やはり、高校生のころは1年、2年、3年と大学受験も近づくにつれ、性にも目覚めてくるし、身体の変調も来すようになり心身ともに不安定な時代でもあった。そんななかで、この映画と音楽は貧しいけれど陽気で、生に対する力強さを感じさせてくれた。
   監督はフランスの映画監督であり脚本家のマルセル・カミユ、生涯に一本の作品。フランス・ブラジル・イタリアの合作である。当時は何も知らずに、ただルイス・ボンファのギターの弾き語りが気に入って45回転ドーナツ盤のレコードを買って聞いていた。その後何年か後になって、懐かしくてDVDを購入している。
   物語はギリシア神話のオルペウス(オルフェ)とエウリュデイケ(ユーリデイス)を題材にしたヴィニシウス・ヂ・モライスの戯曲を映画化したものである。
   リオ・デ・ジャネイロ生まれのモライスは詩人、作詞家、作曲家でもあり、のちにアントニオ・カルロス・ジョビンらとともにヴォサノヴァを生み出す。「黒いオルフェ」(1958年)はもちろん、「想いあふれて(Chega De Saudade)」(1959年)や「イパネマの娘」(1962年)はモライス作詞、ジルベルト作曲である。今の今まで、僕は「黒いオルフェ」はルイス・ボンファの作品だと思っていた。

黒いオルフェのDVD
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   映画「スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)」は、ベン・E・キングが歌うその主題歌を聞くと映画の場面が鮮明に浮かんでくると同時に、僕の場合は北海道の北見で小学校時代と中学時代を過ごした懐かしい田舎町での思い出がよみがえってくる。
   原作はステイーヴン・キングの短編「THE BODY」で、監督はロブ・ライナー、日本公開は1987年(昭和62年)である。「THE BODY」はもちろん死体のことである。昭和62年というと、僕は42歳、映画館で見た記憶はないので、多分ビデオを借りて見たのではないかと思う。その後、自分でDVDを購入している。
   舞台はアメリカ、オレゴン州の小さな田舎町、キャッスルロック、どこか北見の街の郊外にも似たような場所があったような気がする。あのころの友達は今どこにいて、何をしているのだろう。
   この映画で4人の少年たちのリーダー格のクリスを演じているのは、将来を嘱望されながら薬物の過剰摂取による心不全により23歳で他界したリバー・フェニックスである。当時彼は16歳であるが、僕が初めて彼を映画で見たのは「ミッドナイトエキスプレス」や「刑事ジョン・ブック 目撃者」などのピーター・ウイアー監督の「モスキート・コースト」(日本公開はスタンド・バイ・ミーと同じ1987年)でハリソン・フォード演じる主人公の息子役としてである。

   映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のイタリア映画音楽の巨匠、エンリコ・モリコーネの音楽もイタリア映画全盛期復活を思わせる映画とともによい意味で古き良き時代の宝物の一つだと思う。
   監督は、イタリア、シチリア島生まれのジュゼッペ・トルナトーレ。日本公開は1989年(昭和64年・平成元年)、僕は44歳になっていた。それでも、最初にこの映画を見た時は感動した。それまでの人生で経験した幾つかの甘酸っぱい思い出と、ほろ苦い思い出が一緒くたになって蘇ってきて涙が止まらなかったことを憶えている。
   当時、この映画にはいくつかのバージョンがあって、最初に映画館で見たのは124分の国際版だったと思う。その後サルバトーレとその初恋の人エレナのその後を描いた50分を超える、初公開版ではカットされた部分が収録された完全オリジナル版が見たくて、探し探して「シネスイッチ銀座」で見たと記憶している。
   いわゆる世界の古き、良き映画全盛時代の映画好き人間にとっては、堪らない設定の話である。時代は現代から戦後間もないころ、舞台は現代のローマからシチリアの小さな村、そして村で唯一の映画館「パラダイス座」の映写技師アルフレードとトト(サルバトーレの子供時代)との友情、と全てが揃っている。さらに、この映画のもう一つの柱であるサルバトーレと初恋の人エレナとの出会いと別れ、そして人生の皮肉とも言える運命。すべてが誰にでも多かれ少なかれある経験が、この一篇の映画の中にいろいろな「愛」の形として詰まっているのである。   
   当時、僕はジュゼッペ・トルナトーレ監督については全く知らなかった。その後1990年に「みんな元気」、1995年「明日を夢見て」、1999年「海の上のピアニスト」、2000年「マレーナ」などの映画を撮っていて、そのうち何本かは見たが「ニュー・シネマ・パラダイス」ほどの印象に残る作品は知らない。
   蛇足ながら映画の最初と最後に、ローマで映画製作者となったトトを演じているジャック・ペランはパリ出身の俳優でもあり、映画製作者でもある。2002年には良質のドキュメンタリー映画「WATARIDORI」を制作している。
   今、僕の手許には175分のオリジナル完全版のDVDがあり、たまにはホーム・シアターで見ている。また、この映画が好きだった母の葬儀には御棺の中に映画のパンフレットを入れた。現在、ニュー・シネマ・パラダイスのオリジナル・サウンドトラック(完全版)がMP3ダウンロード及びCDにて販売されている。

3時間完全オリジナル版が上映された「シネスイッチ銀座」のカタログ(左)とDVD(右)
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posted by ぼたん園々主 at 18:36| Comment(0) | 日記
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