2020年01月31日

ホテルニューグランド

  昨年12月、横浜市中区にあるホテルニューグランドに妻と行ってきました。以前からずっと訪れたいと思っていたホテルです。

  ホテルの目の前は山下公園、その先は横浜港です。横浜マリンタワーや横浜港大さん橋国際客船ターミナル、みなとみらい地区、そして中華街や元町にも近く、最も港町横浜らしいロケーションです。横浜らしいと言えば、この日はホテルを訪れる前に、瀟洒な洋館が点在する高台の山手町にあるカトリック山手教会に寄ってきました。すぐ近くにはフェリス女学院や横浜双葉などの名門女学校があります。

  山手教会のお御堂は、現在は工事中で内部を見ることはできませんでしたが、教会の駐車場に車を駐車して、すぐ隣のフェリス女学院と隣接している山手公園を散策してから車に戻り、元町界隈を少しドライブしました。

横浜山手教会の御堂
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  途中、代官坂トンネルを抜けたところで、偶然にも大学生時代に行ったことのある"Cliff Side"を見つけました。その頃は、まだダンスホールなど経験もありませんでしたが、オーナーが大学の先輩であったこともあり、ゼミの先輩に連れて行かれたことを懐かしく思い出しました。当時は生バンドが入っていて大人の社交場として大変な混雑だった記憶がありますが、ネットで見ると創業は1946年、今は横浜でもこうした社交場はここしか残っていないようです。まだ時間が早いので店は閉まっていて中を覗くことはできませんでした。

  それから、ちょっと足を伸ばして根岸旭台のカフェ・レストラン”ドルフィン”で根岸湾の海を遠望しながらお茶とケーキを頂きました。このレストランはかつてユーミンが昭和49年にリリースした「海を見ていた午後」の一節に「♪山手のドルフィンは静かなレストラン」として歌われていたところだそうです。

海の見える丘の上にある”ドルフィン”。すぐ近くには、かつて日本初の洋式競馬場だった横浜競馬場(根岸競馬場)の跡地で,現在は市が運営する総合公園「根岸森林公園」がある。(面積193,102u)
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  ”ドルフィン”を出て、ホテルに到着した頃には、辺りはもう暗くなっていました。5階(その後6階)建ての旧館と平成3(1991)年に開業した地上18階建てのタワー館がありますが、タワー館地下の駐車場に車を停めてエレベーターで1階に上がると、そこは吹き抜けのロビーです。床も柱も椅子やテーブルなどの調度品も、全体がヨーロッパの古いホテルにタイムスリップしたような感じです。12月だからでしょうか、天井から吊り下げられた大きなシャンデリアの下には本物のクリスマスツリーが置かれています。

タワー館1階のロビー
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  そのまま奥の方に進むと、そこは旧館の1階に繋がっていて、廊下には昔のホテルの絵や写真や生花が飾られています。旧館の1階にはコーヒーハウス「ザ・カフェ」とイタリアンレストラン「イル・ジャルデイーノ」がありますが、今日の目的の一つは「ザ・カフェ」での、ホテルニューグランドが発祥と言われる「シーフード ドリア」「スパゲテイ ナポリタン」、「プリン・ア・ラ・モード」の試食です。

旧館1階の入り口
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旧館廊下の設え
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イタリアンレストラン”イル・ジャルディーノ”はホテルの中庭(パティオ)に面している。写真の左側。
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  その前に、山下公園側にある旧館のエントランスから外へ出て公園通りを渡り、通りの反対側から建物全体を見てみます。すっかり暗くなった黒い闇に、そこだけ柔らかい照明を浴びて白く浮かび上がるようなシルエットは、正にクラッシクホテルそのものです。"The Cafe"の小さな赤いネオンが郷愁を誘います。昔、ヨーロッッパ映画で見たことのあるワンシーンのようです。

ホテルニューグランド旧館の夜景
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”The Cafe"のネオンがなぜか懐かしい
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  再び、エントランスを入ると”ニューグランドブルー”と呼ばれる品のよい青い絨毯が敷かれた大階段が出迎えてくれます。階下から見上げるその堂々とした石造りとタイル張りの階段は、威厳の中に永い歴史と伝統を感じさせてくれます。この日はたまたま、宣伝用でしょうか、モデルと思われる美男美女の新郎新婦の写真撮影が行われていました。

  大階段を2階へ上がると、正面にはエレベーターがあり、その上部には火炎のレリーフに嵌めこまれたクラシカルな時計と、アーチ状の壁には京都川島織物の綴織り「天女奏楽之図」が貼られています。このあたりは当初はフロントがあったところだそうです。

  2階にはロビーの他に大食堂と呼ばれた「フェニックスルーム」と宴会場(昔は舞踏室)だった「レインボウルーム」があります。当日は2階には誰もいなかったので、ロビー以外は中には入らずに覗いただけでしたが、ロビーには太いマホガニーの柱や横浜家具製の重厚な椅子やテーブルが配置され、「レインボウルーム」には漆喰塗のアーチ状の天井には優美な石膏のレリーフが施されているのを見ることができました。また、ロビーや「フェニックスルーム」の天井からは、東洋風の伽藍灯籠が吊るされていて、まるで歴史のある神社の伽藍をも思わせる不思議な空間です。

  「ザ・カフェ」は白い壁と木を多用した内装で、明るく暖かい家庭的な感じがする店です。店内はほぼ満席でしたが、年配のカップルや家族連れもいて、それでも騒がしくはなく和やかな空気が流れています。取りあえず「シーフード ドリア」と「スパゲテイ ナポリタン」を注文しました。

"The Cafe"の入り口
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”The Cafe”のメニュー
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  「シーフード ドリア」は、初代総料理長のサリー・ワイルがある時、滞在していた銀行家から「体調がよくないので、何かのど越しのよいものを」という要望を受けて即興で創作したのが始まりとのこと。大きな海老がたくさん使われ、それが上品でコクのあるグラタンソースによく合っていて、とても美味しく頂くことができました。

  「ナポリタン」は、2代目総料理長の入江茂忠が、ホテルがマッカーサー率いるGHQに接収されていた時に
米兵が茹でたスパゲテイに、塩、胡椒、ケチャップをかけて食べるのを見て、ホテルで出せるように工夫を加えたものだそうです。麺がもっちりとして、マッシュルームや大きめに切られたハムを、ケチャップは使わずに自然でコクのあるトマトソースと合せていて、これもとても上品な味でした。

「シーフード ドリア」と「ナポリタン」
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  「プリン・ア・ラ・モード」は、同じくGHQ時代に米軍将校夫人たちのために「華やかでボリュームのあるデザート」ということで考案されたようですが、残念ながらここまでで満腹になってしまい次回のお楽しみということにしました。
                                                   ホテルニューグランドの公式ページや、その他の関連サイトを見ると、「ホテルニューグランド」は、昭和2(1927)年の創業ですが、なぜ「ニュー」が付いているのか、それには理由がありました。

  「ホテルニューグランド」より200mほど離れたところに現在ある「人形の家」(人形博物館)の辺りにあって、明治3(1870)年まで営業していた「グランドホテル」を前身として、明治6(1873)年に外国人居留地にあった社交クラブのマネージャーや写真家などの外国人たちが出資し、外国人のためのホテルとして同名の「グランドホテル」を、建物も建て替え、スタッフや料理長も一新して開業します。

  当時は、東京築地に慶応3(1867)年に開業した国内初の本格的西洋式ホテル「築地ホテル館」がありましたが(明治5年火災により焼失)、「グランドホテル」の建物の設計は、この「築地ホテル館」や、初代横浜駅(現・桜木町駅)、横浜税関などの当時の大きな建築を手がけたブリジェンスだと言われています。
  
  また、日本初のフランス料理店だったといわれる「築地ホテル館」の初代料理長を務めたルイ・ベギューが「グランドホテル」の料理長となり、開業当初からホテルの料理は評判となります。
  当時、ホテルの宿泊代が月決めで2食付58ドル、今の価格だと116万円といいますから、かなりの高級ホテルです。明治23(1890)年には、隣接して新館がオープンし、その後も改修と増築を重ね、最終的には客室数360余に及ぶ国内最大のホテルとなります。当時の写真や絵を見ても相当に立派な建物です。

現在のアメリカ山から見たグランドホテルの全景。アメリカ山公園の案内板から。
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  ところが、大正12(1923)年関東大震災が発生します。東京だけでなく、横浜の街も焼野原となります。「ホテルグランド」を含めて、山下町界隈に軒を連ねていたホテルの殆どが崩壊してしまいました。現在の山下公園は、復興のシンボルとしてその時の瓦礫で海を埋め立てて造成されたといいます。

  その後、当時の横浜市長有吉忠一の提案により、「ホテル建設計画」が市議会に提出され、その可決を受けて三溪園を造った原富太郎ら横浜財界の有力者を集めた「横浜市復興会」が結成されました。そこで決議された議案の中にあったのが「外人ホテル建設の件」で、これが「ホテルニューグランド」建設のきっかけとなりました。外国人向けのホテルは、生糸輸出などが支えていた横浜経済の地盤沈下を防ぐためにはどうしても必要なものだったのです。

  ホテルの名称は公募されましたが、関東大震災で崩壊し廃業した外国人ホテル「グランドホテル」の後継として、「ホテルニューグランド」が選ばれたとも、公募作に適当な名称がなかったため当時、横浜市復興会・計画部長だった井坂孝が命名したとも言われています。

  ホテルの建物は、当時38歳で新進気鋭の建築家、渡辺仁が設計。渡辺はその後、上野の東京国立博物館、日比谷の第一生命館、有楽町の日本劇場などを手がけています。設計書には「細部に東洋的手法を配し、日本の第一印象を付与することに努める」と書かれています。
    
  こうして「ホテルニューグランド」は横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設がすすめられ、土地、建物は市が提供し、経営は民間が担う今日の第三セクターとして出発します。初代会長には、前出の井坂孝が就任します。井坂は東洋汽船出身で、当時同じ東洋汽船のサンフランシスコ支店長だった土井慶吉を補佐役として引き入れます。

  土井は、ホテルの業務(サービス、宿泊、飲食)に明るく、早速、欧米の視察に出かけ、帰国するとパリの一流ホテルから初代の総支配人となるアルフォンゾ・デユナンを引き抜き、当時最新の設備とフレンチ・スタイルの料理をホテルの目玉に据えます。さらに、アルフォンゾ・デユナンの推薦により、当時パリのホテルで一緒に働いていた、既に若干30歳で四つ星ホテルの総料理長だったスイス生まれのサリー・ワイルを呼び寄せ、元帝国ホテルの第4代総料理長の内海藤太郎をその補佐に付けます。

  サリー・ワイルは、料理の腕前は言うまでもなく、指導者としても優秀な人物でした。本格フランス料理の味についてはもちろん、当時は堅苦しいばかりだったホテルのレストランに、パリの下町風の自由な雰囲気を取り入れました。ドレスコードや酒、煙草についても自由にし、コース以外にもアラカルトを用意するなど、一般客でも利用しやすいサービスを工夫し提供しました。

  そして、「どんなにうまい料理ができても、それを客の前に運ぶボーイの態度で客の印象は変わる」、「自分は魚の料理しかできない、肉の料理しかできない、と言うのは恥ずべきことだ」と、スタッフを指導しました。当時の日本の料理界は、まだ徒弟制度の色合いが濃く、料理人も食材ごとに担当して年季を積み、修行するのが一般的でしたのでワイルの考え方はとても革新的でした。

  こうして「ホテルニューグランド」からは、後に広く親しまれることになるドリア、ナポリタン、プリンアラモードなどの料理が生まれました。また、この厨房からは、ホテルオークラやプリンスホテルグループの総料理長、数々の名店の料理長など、多くの名料理人を輩出し、日本の食文化に多大な影響を与えました。後に、「ニューグランド系」と呼ばれるホテル料理人の人脈の創始者となったワイルは日本に20年間滞在し、弟子たちから「スイス・パパ」と呼ばれて慕われ、昭和48(1973)年にはその文化的業績に対して勲5等瑞宝章が送られています。

  ネットサイトtravelbook.co.jp から引用すると、歴史とともに歩んだ「ホテルニューグランド」として、開業当初から、皇族やイギリス王族などの賓客、チャーリー・チャップリンやベーブ・ルース、ジャン・コクトーなどの著名人が数多く来訪し、「外人ホテル」としてのブランドを確立していったとしています。また、日本人では、池波正太郎、石原裕次郎、松田優作なども訪れています。

  ダグラス・マッカーサーは、戦前には新婚旅行で(1937年)、戦後にはGHQ最高司令官として滞在しています。特に、再来日した1945年8月30日には、厚木飛行場に降り立ち、声明文を朗読後すぐさま乗用車に乗り込み、まっすぐホテルニューグランドに直行したそうです。彼が執務室として使用した315号室は「マッカーサーズスイート」として残され、現在も一般客も宿泊できます。

  また、横浜生まれの昭和の文豪、大佛次郎も昭和6(1931)年から約10年にわたり、「ホテルニューグランド」の本館318号室を創作活動の場とし、この部屋から、横浜を舞台にした「霧笛」をはじめとして、代表作「鞍馬天狗」など、数々の名作を生み出しました。大佛は仕事の気分が乗らないと、部屋から横浜港の展望をを眺めたり、バー「シーガーデイアン」(現在の「シーガーデイアンU」)でくつろいだりして過ごしたそうです。昭和48(1973)年、大佛はこの世を去りますが、遺体が東京の病院から鎌倉・雪の下の自宅へ帰る際に、わざわざ車を「ホテルニューグランド」を経由させ、横浜港とイチョウ並木、そしてホテルの従業員たちに見送られていったということです。(同サイトより)
          
  
<追記>
  今、手許に2枚の古い写真があります。1枚は、西洋風の2階建て、いや屋根の上に回りが手摺で囲まれた鐘楼のような四角い建物があり、全体では3階建ての建物が写っています。よく見ると建物の四隅には太い柱、というか夫々の柱は屋根の上まで突き抜けていて、その頭にはまるでロシアや中東に見られるような丸い尖塔が乗っかっています。先ほどの鐘楼の屋根の上にも、尖塔の上にも避雷針のようなものがついています。

  建物は木造ではなく、石造りかコンクリート造りのように頑丈にみえます。そして、中央の太い柱の左側の2階には等間隔で縦に細長い窓が4か所あり、窓の間隔から推定するとおよそ6間、同じく右側の2階には窓が9か所ありますが、窓がないところもあるので、推定するところおよそ12間くらいはあるでしょうか。

  そして、1階の左右に夫々全体の三分の一くらいを閉める出入り口があり、左側の出入り口の庇の上には、大きく右から「洋食」と書かれた看板があります。また、よく見ると右側の2階には、左から3番目の窓に当たるところに縦に「河」「西」「軒」と、黒地に白い枠の中に黒い文字で書かれています。

  左側の出入り口の前には2台の人力車のようなものが、そして右側の出入り口の近くには子供連れの大人と、さらにその右には大人が一人、そしてそのすぐ傍にはジープのような自動車が1台写っています。人物は全て着物を着ています。

  この写真には、後から筆で書いたと思われる大きな付箋が貼ってあります。そこには、「河西軒 昭和4年5月4日写 北見市北3条西2丁目」と書かれています。

「洋食 河西軒」、1枚目の写真

  もう1枚の写真には、同じ建物の左右の出入り口の前に18人ほどの人物が、記念写真のように並んで写っています。前列中央の髭を蓄え背広にチョッキ、ネクタイ、革靴姿の人物を除くと、後列の左右の端の二人以外は全員胸に「中央」と書かれた黒いランニングシャツと白い半ズボン、運動靴姿の大学の運動部員のようです。左側の出入り口の上には、1枚目の写真ではよく見えなかった看板には、「洋食 河西軒」の文字がはっきりと読めます。この前列の真ん中に写っているのが、若かりし頃の祖父の貴一です。

「洋食 河西軒」、2枚目の写真

  さて、ここで本文の最初に「(ホテルニューグランドは)以前からずっと訪れてみたいホテルだった。」と書きましたが、その理由について述べたいと思います。

  以下の文章は、平成17年に亡くなった叔母の節子が書き残したものです。地元のミニコミ紙から依頼されて牡丹園の歴史について書き遺した原稿です。

  − 牡丹園の歴史を残して欲しいと言われたが、牡丹園の前に西洋料理店「河西軒」(カサイケン)を語らなければならない。昭和2年に六千円と言う、土地取得の資金源だから。この金額は、銀行金利で一生暮らせたらしい。かつての野付牛(のっけうし。北見市の市制施行前の名称)は、薄荷と木材と網走の網元等一部の成功者が贅沢をした異様な町だった。

  父は、北海道の山ばかりでなく樺太の山の木も切り、本州送りの木材で成功しているうえに、母は西洋料理店をやっていた。父の考えでは水商売は下品なものだから、するのなら一流でなければならないというものだった。

  コックは横浜に今でも一番の老舗で格式のあるホテルニュウグランド(まま)から代々来て、本当のフランス料理と季節ものとして牛なべを献立にしていた。食材、調味料は全て輸入品で、唯一日本製は「味の素」の金色の大缶だった。冬でも凍らさず、鮮度のいい和洋野菜を届けていたのが一条2丁目の多田野菜、何でも本物だったものが、中国との戦争から物の不足が始まり代用品になり偽物ばかりになった。 −

  祖父貴一の略歴には、職業の項に「大正10年より洋食業、河西軒経営」と記載されていて(2019年1月24日 「血の縁」の記事参照)、昭和2年には祖母(節子叔母の母、私からすれば祖母)が、それまでに河西軒の売り上げから貯めた金(早く言えば「ヘソクリ」)で牡丹園の土地を買っているので、横浜のホテルニューグランドが昭和2年に営業を開始した時には、既に10年が経過していたことになります。

  そして、昭和3年に祖母が急死します。その後叔母(昭和元年生まれ)が女学校に入った頃はまだ河西軒は営業していたので、昭和12,3年頃にはまだあったことになります。その後、残念なことに貰い火によって焼失したことは分かっていますが、まだそれがいつだったのかは確認できていません。

  現在のホテルニューグランドが、震災の復興計画として昭和2年に開業していること、そして叔母の文章にあるように、「コックは横浜に今でも一番の老舗で格式のあるホテルニュウグランド(まま)から代々来て本当のフランス料理と季節ものとして牛なべを献立にしていた。」とありますから、これが正しければ昭和2年以降、河西軒が貰い火により焼失するまでの間の話であることが分かります。

  ホテルニューグランドの初代総料理長として、サリー・ワイルは昭和2(1927)年10月29日、ニューグランドの開業1か月ほど前に横浜港より入港し、以降第二次大戦中の外国人疎開のため軽井沢に移住させられた後、戦後解放されるもホテルがGHQに接収されたため職場復帰は叶わずスイスに帰国するまで、約20年間にわたり、日本に本場ヨーロッパのレシピや技術を伝え、日本の西洋料理の発展に貢献しました。

  その間に、ワイルの下から先進的で優秀なコックが数多く育ち、昭和初期から戦後にかけて、「ニューグランド系」と呼ばれるニューグランド出身のコックが、全国のホテルや街場のレストランで活躍するようになります。昭和3(1928)年には早くも飯田進三郎が大阪「レストラン・アラスカ」に料理長として招かれて腕を振るい、昭和8年(1933)年には近藤茂晴が東京・人形町に「仏蘭西料理店・芳味亭」を開業し、昭和13(1938)年には荒田勇作が不二家のレストラン部の料理長として招かれます。

  戦後も、「日活国際ホテル」、東京オリンピックの選手村、プリンスホテルグループ、「ホテルオークラ」、「日航ホテル」などの総料理長として西洋料理界を牽引した錚々たる名コック達が、ワイルが指揮するニューグランドの厨房で育ちました。(「日本の西洋料理の歴史」20.横浜ニューグランドとサリーワイルより)

  これらのワイルの下で働いていた日本人料理人の中には、札幌パークホテルの料理長となった木沢武男という人もいます。可能性としては、恐らく料理人の中にはこのほかにも全国から大勢の若い料理人が殺到していたようなので、その中の一人、あるいは何人かが交代で北の果ての西洋料理店「河西軒」に修業を兼ねて派遣されていたのかも知れません。

  また、余談になりますが、我が家の近くで現在も繁盛している新百合ヶ丘の洋菓子店「リリエンベルグ」の店主、横溝春雄も、ワイルの下で働いていた大谷長吉という料理人が、文京区春日に開いたフランス菓子専門店「エスワイル(S.Weil)」の出身なのだそうです。(Wikipedia)

  こうやって調べて行くと、調べれば調べるほどに興味は尽きません。今度は、いつかゆっくりホテルに泊まって当時の事を憶えている人を辿ってみたいと思います。ホテルでは昔の写真や資料を、今でも廊下などに展示しているようですし、時々回顧展のようなこともやっているようなので、何かしら分かるかも知れません。これからも、機会を見てホテルニューグランドを訪ねてみたいと思っています。                   未完

   PCが満杯になったため写真が掲載できません。只今調整中です。
posted by ぼたん園々主 at 17:13| Comment(0) | 日記
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