2023年04月29日

人を愛するとはどういうことなのか? ?

 Erich Fromm(1900〜1980)は著書「The Art of Loving」の中で愛はArtだと言っている。ここでいうArtはSkillのことである。愛は「技術」だと言っているのである。決して愛は「恋に落ちる」などと表現されるように、ある日突然誰もが経験することができるものではないとする。愛とは永続するものであり、art(技術)を磨くように努力しなければ習熟できないものだと言う。

 そして、現代人は「愛すること」を「愛されること」と勘違いしていること、あるいは愛は対象の問題だと、すなはち自分は人を愛する能力は充分に持っているが、それに相応しい相手がいないのだという思い込みである。要は自分自身の未熟さなどには思い至らず、相手のせいにしていることに気がついていない。確かに世の中をよく注意して観察すると、老若にかかわらず「愛されること」にしか関心がない人、いつまでも背が高いとか、収入が高いとか、見た目がいいとか、外見ばかりにこだわって人間そのものを見ることができない人は多い。

 さらに今の若い人は僕らの時代とは大分違うようだ。第一に結婚年齢が随分遅くなっている。昔は女は25を超えたら「12月26日のクリスマスケーキ」などと言われ、男も30を超えるとあたかも心身に欠陥があるようなことを言われた。そもそも生涯に一度も結婚しない男女が増えているそうだ。また、最近は本屋の店頭には生涯独身だったり、肉親と離別して一人暮らしをしているような年配者が、あたかも一人が最高の幸せであり、孤独こそ最高の贅沢、のようなことを書いた本が並んでいる。(令和5年5月4日 木曜日 午後5時)

 Frommは人間が他人(自分以外)を愛するのは、根底に「孤立」や「孤独」に対する不安があるからだという。人間は動物と違って、全く一人では生きてゆけない。人間は自然や社会の力の前では一人では無力であり、孤立した生活は耐え難い牢獄と化し、この牢獄から抜け出してほかの人と接触しなければ生きてゆけない、という。

 しかし、僕が考えている「愛するということ」はFrommとも、世間でよく言われていることとも少し違うような気がする。まず第一の違いは、人間は「孤立」や「孤独」に対する不安があるから人を愛するのだろうか?「孤独」という「牢獄」から抜け出したいからひとを愛するのだろうか?確かに愛するひとがいれば、例えば配偶者や家族、または恋人がいれば、孤独や寂しさからは解放されるかもしれない。ただし、それは本当に彼らを「愛している」場合である。例え配偶者、家族、恋人であっても本当に愛していなければ意味がない。毎日のように夫婦、恋人、家族間での刃傷沙汰が報道されていることを見ても明らかである。

 僕は「孤独」とか「寂しさ」は、あくまでも自分自身あるいは各個人が一人でいることをどう受け止めるかという問題であって、ひとを「愛するということ」とは別のことだと思う。あるいはこうも言えるかと思う。すなはち、「孤独」だったり、「寂しい」からひとを愛するのではなく、ひとを「愛している」から「孤独」や「寂しさ」にも耐えられるのだと思う。

 私事で恐縮だが、僕は毎年数か月から半年を北見で過ごしている。その間は物理的には一人暮らし(独居)である。そのような一人暮らしも既に15年以上になる。最初の5年くらいまでは寂しいと感じることもあったが、今では孤独だとか寂しいと思うことはない。それよりも、春には野菜を植えたり牡丹を見に来るお客さんを受け入れる準備をしたり、夏にはどんどん伸びる草との草刈り競争、前年の間に風や雪で倒れた樹々の処分、秋には薪作りなどなどで、そんなことを考えている余裕もない。

 それと、確かに一人暮らしのよさはある。毎日何時に寝ようが、起きようが、何を食べようが全く自由である。だれも文句をいったり、あれこれ注意されることもない(ただし、一人だけ時々苦情をいうひとがいるけれど)。そして、特に夜は好きな音楽を聴いたり(しかも、大音響でも誰にも迷惑をかけることはない)、本を読んだり、U=TUBEのセミナーを受講したり、ブログを書いたり、ともかく与えられた時間は100%自由に使えるのである。人間の想像力(創造力)は自由のもとでしか最大限に発揮されることはない、と実感する。(令和5年5月5日 金曜日 晴れ 午後10時39分)
 
 以下5月に続く。

  
posted by ひろちゃん at 17:38| Comment(0) | 日記
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