2019年03月18日

松本方哉著「突然、妻が倒れたら」を読んで

  今日は平成31年3月18日(月)、時間は午後20時45分です。
  今日で妻が入院してから2か月と2日が経った。殆ど毎日午後14時から16時までの2時間に限られている面会時間に病院に行っている。1月16日に入院するまでの4か月余りは、一時期は殆ど何も食べられず、かつ飲めなくなった時期もあり本当に困った。毎週金曜日の夜になると、土日に何かあったらどうしよう、月曜まで生きていられるだろうかと不安になった。一度は止む無く、初めて救急車を呼んだこともあった。
  
  今は、妻は不味いと言いながらも病院で出される食事を食べているようだ。「ようだ」というのは面会時間が毎日午後の2時間に限られているから食事をするところを見られないからだ。入院前よりは少しは落ち着いたように感じられるが、相変わらず口にする言葉は後ろ向きな言葉ばかりだ。「病は気から」というが、「回復も気から」だと思う。前向きな言葉が聞けるようになれば安心なのだが。

  ところで、先日新百合ヶ丘駅まで出たついでに駅前のOPAビルにあるBOOK OFFに寄ってみた。文庫本のコーナーで目に止まったのが、この記事のタイトルの本である。
  松本方哉(まつもと まさや)氏はフジテレビ解説委員・キャスターである。表紙には同氏の写真が載っているが、思い出した。そういえば何年か前まで滝川クリステルと一緒にニュースアンカーを務めていたことを思い出した。

「突然、妻が倒れたら」 松本方哉著  新潮文庫
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  2007年11月22日(木)の夕刻、51歳の夫と46歳の妻、そして10歳(小学校5年)の息子の3人の平和な家族に突然の「運命の一撃」(筆者の言葉)が降りかかる。
  自宅の仕事部屋兼寝室で、アンカーを務めていた番組の準備をしていた夫のところに、ふらふらと入ってきた妻が呂律の回らない言葉で「首の後ろが痛いから眠る」と言ったままベッドに倒れ込んでしまう。あわてて救急車を呼び、ストレッチャーに乗せられ呻いている妻に付き添い、そのとき自宅にいた息子とともに救急車に乗る。ところが救急車はなかなか走り出さない。受け入れてくれる病院が見つからないのだ。筆者は怒りを込めて書く。あの日受け入れを拒否した、医大病院を含む六つの病院の院長に尋ねたい。「なぜ、あなた方とあなた方のご大層な病院は私の妻を拒んだのか?」と。
 
  一方で、ようやく受け入れてくれた「私にはまったくなじみのない名前」の病院、「碑文谷病院」で幸運にも、その夜脳外科医が四人も揃っていて院長を始め文字通り手を尽くしてくれたからこそ、妻は命が助かったのだ、と筆者は述懐している。
  診断名は「くも膜下出血」。脳のくも膜の下の血管が破裂して出血し、能全体を血液が覆ってしまう状態で、今回のように血腫を作ってしまうこともある。最初の発症時に四分の一余りが死亡し、辛くも死ななかったとしても、すぐ後には血管攣縮(れんしゅ、血腫の影響で能の動脈が縮んでしまい、最悪の場合血流が途絶える。くも膜下出血の3〜4割で起こる)と水頭症(脳が浮かんでいる脳脊髄液の流れが悪くなり、能の中に過剰な能脊髄液が溜まってしまう)という二つの危険が待ち受けていて、これをクリアできずに死亡することもあり、クリアできても身体に重い障害を負うことが多い。そして、後になって妻の場合は「高次脳機能障害」であることを知る。具体的には、注意力や集中力が低下したり、麻痺を負った側(この場合は左側)の空間を認識できなくなるなど、さまざまな行動上の困難が生じる。

  入院から2週間後、更なる試練がやってくる。脳内の患部の爾後を確認するために足のつけ根からカテーテルを挿入して脳まで到達させ、そこで造影剤を注入し直接患部の血管を診る検査である。その結果分かったことは、手術の時に動脈瘤のこぶに詰めたコイルが、縮んでしまい血液がこぶの中に流れ込み、再び破裂が起こり得る状態であることが判明する。これを避けるためには、コイルを詰め直す必要がある。再手術が必要だということだ。

  入院から25日目、この再手術も何とか乗り越えるも次なる転機が迫ってくる。もちろんその間も最初の手術後の直後から、担当の理学療法士の指導により家族も協力してリハビリが続けられている。
  現在の健康保険法では、病を発症した当初に急性期の病院にいられるのは最大で1か月程度となる。それを超すと、病院が受ける診療報酬がマイナスに転じてしまうため、患者は回復期医療の病院への転院を余儀なくされるのである。この法制度は質の高い医療を迅速に効率的に提供するメリットがある、という建前だ。
  筆者は書く。「私は「効率的」という言葉ほど「胡散臭い」言葉はないと思う。医業はいつから「算術」になってしまったのか。「医は仁術」という言葉を、こうした「効率」をうんぬんする厚生省の官僚の机に一枚一枚貼って、毎朝100回お題目として唱えさせたいくらいだ。この制度化では、患者の家族は苦しい淵にある患者を必死で介護しながら、同時に次に患者を移す病院を考える離れ業を要求されるのだ。そんな時間はないに等しい。この段階では、患者にはケアマネジャーのような人もいないことがほとんどなのだ。幸い、妻の入った病院は、病院事務の方々などが私達家族の先行きを親身に考えて、アドバイスして下さったから助かった。それでも私は、妻の介護の合間に時間を作り、子どもと二人で三か所ほどの病院を歩いて回り、次の病院を決めた。その経験からも、診療報酬で病院を脅し、患者を犠牲にしてでも「効率」を追求するような制度は、即刻変えるべきだと思う。」

  年が明けて2008年1月、1か月以上を過ごした碑文谷病院から、やっとのことで見つけたリハビリ専門病院である渋谷の初台リハビリテーション病院に転院する。ここは、回復期にある患者にリハビリを行うために作られた病院であり、早速に「リハビリ医療」が開始される。作業療法士(Occupational herapist:OP)、理学療法士(Physical Therapist:PT)、言語聴覚士(Speech-Language-Hearing Therapist:ST)、の他にナースも、ケアワーカー(介護福祉士)、管理栄養士、薬剤師がチームとなって、医師の指導の下で、患者のリハビリに取り組んで行く。と同時に家族も患者が自宅に戻ってからの生活に向けて患者と共にリハビリと介護について指導と訓練を受けて行く。
  筆者はこの初台リハビリテーション病院について、この病院を選んだ理由として自ら夜中にネットで調べた中で唯一参考にした情報として「帰宅率」(病院から歩いて退院する患者の割合)を挙げている。この病院が公表しているデータ(平成18年1月から12月まで)では76.4%の患者の退院先が自宅となっている。この回復率を可能にしているのは、職員の若さと「情熱」だと書いている。
  さらには、この「情熱」こそが、いまの日本社会に欠けているものであり、その欠如がいまの日本を駄目にしている大きな要素ではないか。「冷めた国」日本。儲かればよい。偉くなってしまえばよい。ばれなければ何をやってもよい。そうした愚かな考えが、日本の未来を暗くしている。組織が優秀かどうかは、「成果があがっているか」ではなく、「情熱のほとばしりをその組織から感じられるかどうか」にあるように思う。この病院からは、情熱のほとばしりが強く感じられた。妻の貴重な三か月を預けるのに相応しいと、何度も思った。と続ける。

  そして、2008年4月の、そろそろ桜が終わろうとしているころに、初台リハビリテーション病院から帰宅する。帰宅したばかりの夫婦を襲ったのは、心無い遠慮会釈のない視線やレストランの応対だった。もちろん、そうした輩ばかりではなく、近所の住人や近くの花屋ではやさしい言葉をかけられたりもする。
 また、24時間誰かが付き添っていることが必要不可欠な状態を、仕事を持つ夫と小学生の子どもの二人だけで見なければならず、昼間は夫が家にいて妻を見て、子どもが帰宅したらバトンタッチして子どもが妻を見て、夫が働きに行くという生活を続けるしかなかった、という。介護保険については詳しいことが書かれていないが、入院中に要介護の認定を申請したのだろう。それでも、保険を使って妻を見てもらえるのは日に二時間が限度だった。介護保険制度の矛盾や役所の通り一遍の対応についても具体的な疑問を提示している。

  一家には、その後も2009年の3月初めにくも膜下出血の発症前から他の病院で指摘されていた卵巣膿腫の悪性転化や薬による壮絶な治療や後遺症と戦わなければならなかった。それでも親子三人、訪問看護の医師や看護士、リハビリのための作業療法士、理学療法士、ナースやヘルパーに助けられながらも、協力し合って果敢に戦った。そして、今も夫は日々戦いながら「医療と介護」の現場に触れて学んだ経験を社会に返して行きたいという思いから、頼まれて講演活動を続けている。講演を通して超高齢化社会を目前にして、その備えや覚悟が感じられない今の社会に対して、相変わらず街で実際に体験した障害者に対する心ない対応や制度の欠陥に関して警鐘を発信している。

  この本を読んで、率直な感想は「人間の運命とはかくもはかなく脆いものなのか」ということ、そして他人の痛みは自分も実際に体験してみなければ決して分からないというだ。今回のようなことが無ければ、僕はこのような本を読むこともなかっただろうし、自分に降りかかった不幸を恨んで神に毒づいていたかもしれない。そして世の中には、自分の不幸よりももっともっと不幸な境遇に置かれた人々がいることを深く考えることはなかっただろうと思う。
  少し遅きに失した感はなくはないが、このまま平穏無事な人生を過ごしていたなら、忘れかけていた、他人の痛みを自分の痛みと同じように感じることができないままの人間で一生を終わっていたかも知れない。そう考えると神に感謝したい気持ちになる。

  それと、人生にはやはりパートナーが必要だと思った。それも、夫婦というパートナーが最も重要だ。今回のように妻が突然倒れた場合、あるいは逆に夫が突然倒れた場合、最も頼りになるのはパートナーである。
  例外はあるかも知れないが、ある程度の歳になれば親はもちろんのこと、兄弟姉妹、子どもも所帯を持っていれば頼りにはならないし、また頼りにすべきではないと思う。その点、夫婦は運命共同体である。そうではない夫婦もあるかも知れないが、それは例外である。日頃はお互いに空気のような存在であっても、いざとなれば頼りにできるのはパートナーしかいないのである。
  特に歳を取ってくるとその重要性は更に増してくる。若いうちは病気や事故で入院しても誰彼となく気にかけて心配してくれる人もいるだろうが、年寄りが入院してもすぐに忘れ去られるのがオチである。

  人生に、不幸な出来事はないに越したことはないが、誰でも何度かは不幸に巡り合う。そんな時に、愛する人がいれば、それが夫婦であり、恋人であれば、そしてその愛が本物であれば、どんな苦難にも耐えられる。むしろ苦難を乗り越えることによって愛はさらに深まる。そして人間は強くなれる。
  
posted by ぼたん園々主 at 23:52| Comment(0) | 日記

2019年03月11日

「フロムに学ぶ「愛する」ための心理学」を読んで

  エーリッヒ・フロムについては、フロイトと並んで名前は知っているが、その著作を読んだことはない。本屋の立ち読みで、目に止まったのでパラパラと拾い読みをして何となく買って帰った。著者はフロムの「愛するということ」の訳者でもある。

「フロムに学ぶ「愛する」ための心理学」 鈴木 晶 著  NHK出版新書
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  前書きには、この本はフロムの「愛するということ」のガイドブックとして書いたこと、そしてフロムが「愛するということ」を書いたのは今から60年以上も前の1956年であり、1959年に旧約(訳者は別の人間)が出版されたが、読み難かったために1991年に筆者による新訳として出版されたことが書かれている。
  また、原題は「The Art of Loving」であり、日本語に訳すと「愛の技術」であり、フロムは「愛は技術である」と断言しているところがこの本のもっともユニークなところであり、技術だということは、それを習得しなければ、愛することはできないということだとしている。

第1章 愛は技術である
  フロムは現代社会を「愛の本質が見えにくい社会」と捉えている。人々は「愛の本質」を見失い、間違った愛を「本当の愛」と勘違いしていると見る。
  ほとんどの人は、愛の感情は誰もが生まれながらに持っているものであり、誰かを好きになって恋に落ちるのは、人間にとって当たり前のことだと思っている。つまり、愛とか恋愛感情とかを抱く能力は誰もが生まれつき持っているものであって、人を愛することは誰にでもできることであり、したがって、愛についてあらためて学ぶ必要などない、と思っている。
  「そうではない」とフロムは断言する。愛は「成熟した大人」だけが経験できるものであり、本当の愛を体験するためには、愛とはいったい何なのかを深く学び、愛するための技術を習得する必要があるという。
  愛という技術を身につけるには、愛の理論を学び、習練に励む必要があるのだ、と。
  フロムは、人々が「愛については、学ぶ必要なんかはない。愛はうまれつきそなわっているのだから」と思い込む、その根底には三つの誤解があるという。
  
  一つ目の誤解は、ほとんどの人が愛の問題を「愛するという問題」ではなく、「愛されるという問題」として捉えているという点である。
     
    たいていの人は、愛の問題を、愛するという問題、愛する能力
   の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。
   つまり、人々にとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どう
   すれば愛される人間になれるか、ということなのだ。

  もし、愛の本質をそう考えているとしたら、あなたは未熟であり、未熟な愛しか知らない。「愛される」関係の原型は、母性愛に包まれている段階、つまり幼児の段階の愛である。だから、精神的にはあなたはまだ幼児なのだ。

  二つ目の誤解は、愛が「(愛する)能力」の問題ではなく、「対象」の問題になってしまっている点である。

    愛には学ぶべきことなど何一つない、という考え方の底にある
   第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の
   問題ではない、という思い込みである。愛することは簡単だが、
   愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるにふさわしい相手を
   見つけることはむずかしい・・・・・人々はそんなふうに考えて
   いる。

  つまり、自分には人を愛する能力はあるが、相手がいないのだ、という誤解である。資本主義社会にどっぷり浸かって生きている私たちは、愛の対象を選ぶ際も、無意識のうちに市場原理、すなわち「交換」の原則に従いがちである。自分の社会的価値を認識したうえで、自分に見合ったレベルのなかから最良の「お買い得品」を探そうとする。
  でも、人間は商品ではない。自分にとって損か得かで相手を選ぶことが、果たして本当の愛なのか・・・
そうフロムは疑問を投げかけている。
  愛は対象の問題だと考えている人は、関係がうまくいかなくなったとき、必ず相手のせいにする。「あの人は私にふさわしい相手ではなかったのだ」と。原因が自分の未熟さにあったのかもしれないという可能性など考えようともせず、「どこかにもっといい相手がいるはずだ」と、次の相手を探す。でも、そういう人は成長しないので、次の関係もうまくいかず、「どこかに理想の相手がいるはずだ」と考えながら、一生を終える。

  三つ目の誤解は、多くの人が、恋愛は自分の意志とは関係なく「落ちるもの」だと勘違いしていることである。

    第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛して
   いる、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどま
   っている」という持続的な状態とを、混同していることである。

  と、フロムは書いている。「恋に落ちる」という表現は「faii in love」からきているのだろうが、フロムも、

    それまで赤の他人どうしだった二人が、たがいを隔てていた
   壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感をおぼえる瞬間は、
   生涯をつうじてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。

  と、書いている。フロム言わせれば、これは本当の愛ではない。瞬間的に燃え上がった愛は、最初はお互いに夢中になっていても、やがては興奮から冷めてしまう。長続きしない。永続的に「とどまっている」状態こそが本当の愛だというのである。付き合ってすぐにセックスまでに進展し、それを「恋愛」だと信じ込んでしまうような愛を、フロムは「それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎない」と批判している。

第2章 フロムって、いったい誰?
  フロムとは、いったいどんな人物だったのか?

  エーリッヒ・フロム(Erich Seligmann Fromm)は1900年(明治33年)にドイツのフランクッフルトに、ユダヤ人夫婦の一人息子として生まれた。先祖代々ラビ(ユダヤ教の宗教的指導者・法律学者)の家系で曽祖父も祖父も著名なラビだった。フロムの父親もラビとして生きることを望んでいたものの、願いが叶わず、不本意ながらも生活のために小さな果実酒店を営んでいた。フロムは祖父の影響で、幼いころからタルムード(ユダヤ教の経典)学者に憧れを抱くようになり、13歳のときからラビのもとで、タルムード学者になるための本格的勉強をスタートする。

  ちょうどその頃(1914年)、第一次世界大戦が勃発する。まだ十代の若者だったフロムにとって、この戦争は、価値観がひっくり返されるほどの大きな意味をもっていたようで、このときの印象を、後にこう述べている。

     1918年、戦争が終わったとき、すでに青年になって
    いたわたしは、ひどく困惑し、どうして戦争が起こるのか
    という疑問、つまり人間の集団行動の非合理性を理解したい
    という願いと、平和と国際的相互理解に対する熱情的欲求に
    とりつかれていた。そのうえ、すべての公認のイデオロギー
    と公式宣言のたぐいに対して、極度に懐疑的となり、
    「いっさいのことについて疑わねばならぬ」という確信に
    満たされていた。

  このときフロムは、フランクフルト大学で法律を専攻していたが、1年で大学を自主退学し、その後ハイデルベルグ大学で社会学、心理学、哲学を学び、多くの知識人との交流を深めてゆく。そんななかで、フロイトの精神分析学と出会い、人間の心理に強い興味を抱くようになり、やがては、精神分析学の研究に没頭するようになる。そして、フロム30歳のときにフランクフルト社会研究所の社会心理学部長に就任するが、このころのドイツ国内では国家社会主義(ナチズム)を唱えるヒットラーが台頭し始めていた。

  1933年、ナチスが政権を握り、ドイツ国内はファシズム一色に染まってしまう。フランクフルト社会研究所は、国家に敵対する組織と見なされたため、研究所のメンバーはアメリカに亡命することになる。
  当時、フロムは一足先に、シカゴの精神分析研究所に招聘されてアメリカに渡っていたために、その後に起こったナチスによるユダヤ人への弾圧や大虐殺(ホロコースト)に逢うことはなかったが、ドイツ国民が自由を捨てて、ファシズムへと傾斜して行く状況は、肌で感じていたものと思えわれる。

  ファシズムを体験したフロムは、以前にも増して「戦争はなぜ起こるのか、なぜ人間は非合理な行動に向かうのか」と、人間の本質と社会の問題についてさらに深く問いかけるようになってゆく。
  それにつれて、フロムの興味は、フロイト理論からマルクス思想へと移って行く。「心理や精神だけを研究していても社会変革は望めない。社会制度の在り方を改めて見直し、そこから人間の行動原理を探って行くことも必要だ」と考えるようになってゆく。
  その頃のアメリカでは、人間の行動をフロイトのように生物学的見地から考えるだけではなく、行動の要因を社会制度にも求めて行こうという、大きな潮流が起こっていた。「新フロイト派」「フロイト左派」と呼ばれ、フロムもそのなかの一人である。

  第二次世界大戦の只中の1941年、フロムは最初の著書「自由からの逃走」を著し、ファシズムがドイツに出現した理由を、社会学的・心理学的アプローチから解明しようとした。
  「人間は孤独を最も恐れている」ということが、すべての前提であるが、人間は一方では自由への憧れをもっている。しかし、やっかいなことに人間は自由になればなるほど、個人個人はバラバラになり、やがては孤独に苦しむようになる。そうなると、今度は孤独から逃れるために、自由を手放すことを自ら選択し、大きな権威に身をゆだねる方向に向かってゆく。つまり、自由と引き換えに孤独から逃れようという心理から生まれたのがファシズムである、というのがフロムの考える論理である。

  「なぜヒトラーのような独裁者が生まれ、ファシズム国家が生まれたのか」という問いを掘り下げて行くと、結局は国民が自分たちで望んでつくり上げたものだったという事実にたどり着く。つまり、ここに書かれているのは、現代を生きる人びとすべてが抱えている普遍的な心の問題であり、現代の日本にもそのままあてはまるといっても過言ではない。

  1947年に出版された、「人間における自由」も自由をテーマに書かれたもので、人間が自由に生きるためには「生産的性格」を磨くことが大切で、そのためには正しい愛と本質を見抜くための理性を磨き、孤独であることを恐れない姿勢が必要だとして、さらに理論を人道主義的な方向へと展開している。

  そして、1956年に出版されたのが「愛するということ」である。社会変革を考えるうえでは、国家体制や政治の問題に注目することも大切だが、じつは社会のなかで愛がどんどん失われつつあることこそが、最大の問題なのだというのが、「自由からの逃走」、「人間における自由」の論理をさらに先へと進めて行って最終的にたどり着いたフロムの結論なのである。
  ユダヤ人としてこの世に生を受け、二度の戦争を体験するなかで人間の精神と社会の在り方に興味を抱き、すべてのものに「なぜ?」と問いかけ続けたフロムが最後にたどり着いたのは「愛」の問題だった。

第3章 孤独の克服
  フロムは、人間と動物の違いは、動物が本能的なものに従って生きているのに対して、人間は本能的なものもわずかながら残ってはいるが、他の動物とは違い本能的な世界(自然界とも言い換えられる)から抜け出してしまったことことである、とする。
  そのことにより、人間は「一人では生きてゆけない」存在となり、しかももっと重要なことは、心理的・精神的にも「一人では生きてゆけない」存在となった。

     人間は理性を授けられている。人間は自分自身を知って
    いる生命である。人間は自分を、仲間を、自分の過去を、
    そして未来の可能性を意識している。
     人間はたえず意識している。・・・・人は一つの独立し
    た存在であり、人生は短い。人は自分の意志とはかかわり
    なく生まれ、自分の意志に反して死んでゆく。愛する人よ
    りも先に死ぬかもしれないし、愛する人のほうが先に死ぬ
    かもしれない。人間は孤独で、自然や社会の力の前では無
    力だ、と。こうしたすべてのため、人間の統一のない孤立
    した生活は、堪えがたい牢獄と化す。
     この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人々となん
    らかの形で接触しない限り、人は発狂してしまうだろう。
     このように、人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服
    し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この
    目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。
     なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤
    立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるし
    かない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ。

  そこで、人間は原始時代から現代にいたるまで、この「孤独の牢獄」から逃れるために、さまざまな方法を試みてきた、として「祝祭的興奮状態」、「集団への同調」、「創造的活動」の三つを孤独から逃れる手段として挙げている。しかし、孤独から逃れる本当の解決策は、そこには存在しないという。

     生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感では
    ない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。
    集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感に過
    ぎない。完全な答えは、人間どうしの一体感、他者との融合、
    すなわち愛にある。
     自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間の
    最も強い欲望である。それはもっとも根源的な熱情であり、
    この欲望こそが、人類を、部族、家族、社会を結束させる
    力である。融合を達成できないと、発狂するか、破滅する。
     自分が破滅する場合もあるし、ほかの人を破滅させる場合
    もある。この世に愛がなければ人類は一日たりとも生き延
    びることはできない。

  それでは、フロムの考える「本当の愛」とは何か?フロムは「成熟した愛」こそが本当の愛だという。

     成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結
    合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人
    をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と
    人を結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立
    感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分
    の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、
    しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。

  ここで大事なのは、二人が一つになりながらも、それぞれが独立した自分自身であり続けること、どちらか一方の個性を殺すのではなく、それぞれが自分自身を失わないままの合一こそが、成熟した愛の形だという。本当の愛があるならば、お互いに個性を失わずとも合一がはかれるはずだ、とフロムは主張する。

  そして、もう一つ大事なのは、「愛は、人間のなかにある能動的な力である」という部分である。

     愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その
    なかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」もの
    である。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現
    すれば、愛はなによりも与えることであり、もらうことでは
    ない、と言うことができよう。

  フロムは、自分への見返りを期待したものや、ナルシシズムを含んだものは、本当の意味での愛を与える行為とは言えないと否定している。
  フロムは「与える」ことの重要性を繰り返し強調しているが、何を「与える」のか?これに対して、フロムはずばり、「自分の生命」を与えるのだという。ただし、ここで言っている生命とは「命」のことではなく、「自分のなかに息づいているもの」のこと。相手に対して、「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもの」すべてを与えることが愛だ、とフロムはいう。

     自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、
    自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を
    高める。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた
    者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝
    するのだ。とくに愛に限っていえば、こういうことになる。
    ・・・愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛
    を生むことができないということである。

  愛とは、最初から自分のなかにあるものではなく、相手との関係のなかで、あなたが生むものなのだ。

     与えることによって、必ず他人のなかに何かが生まれ、
    その生まれたものは自分に帰ってくる。本当の意味で与え
    れば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えると
    いうことは、他人をも与える者にするということであり、
    たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分
    かちあうのである。

  多くの人が「自分を幸せにしてくれる相手」を探しているのではないか。そういう人は「もらう」ことしか考えていない。相手を幸せにしたいと思ったとき、あなたは必ず何か行動を起こすだろう。何もしないで、相手が幸せになるはずがないのだから。そのように行動を起こすこと、それが「与える」ということなのだ。
  そのためには、自分が「生産的」で「能動的」でなければならない。そして生産的、行動的であるためには、精神的に発達していなくてはならない。「与える」という行為は、誰もが生まれつきできることではないのだから。

  フロムは、愛に必要な四つの能動的性質として、「配慮」、「責任」、「尊重」、「知(理解)」を挙げている。
  まず、いちばんの基本となるのが「配慮」である。配慮とは相手の気持ちや立場を考えること、つまり他人に対する気遣いである。誰かを好きになると、相手のことが気になって「何をすれば喜んでくれて、何をすれば嫌がられるのか」を考える。配慮に必要なのは「相手がいま幸せなのかどうか」という相手に対する想像力であり、相手の気持ちを想像し、それに対して自分がどう行動すればいいのかを考えるのが配慮である。

  二つ目は「責任」である。これは、今の時代で最も欠落しているものかもしれない。結婚とか、生涯続くような関係を築いてゆくためには、どうしても責任というものが発生する。家庭をもつということは、当然ながら我慢しなければならないこともある。それを受け入れるのが本当の愛である。

      ほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。
     責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、
     何かを求めてきたときの、自分の対応である。「責任があ
     る」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意
     がある、という意味である。

  三つ目は「尊重」である。相手を、一人の自立した人間として尊重するということである。言い換えるなら、自分が人間として成長して行きたいと願うと同時に、相手に対しても幸福や成長を願う気持ちをもつことが尊重だといえる。そのためには、自分がまず自立していなければならないことは言うまでもない。

  四つ目の「知(理解)」は、相手を理解するということだけではなく、相手を知ることによって自分自身を知るという意味を含んでいる。一人の他者を深く知れば、自分を知ることにもなり、人間すべてを理解することにもなる。さらにそれは最終的に「人間を発見する」ことにもつながってゆく。

第4章 愛はどこからきたのか
  この章では、愛する能力はどこから得られるのか。いろいろな愛の形や側面について述べている。
  愛のルーツとしての母性愛、条件のつく父性愛、人類全体に対する兄弟愛(人類愛)、恋愛(異性愛)、自己愛そして、神への愛。
  ここでは、それらのうち、恋愛(異性愛)について触れておく。

      異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つに
     なりたいというつよい願望である。
      人間が互いに孤立していることは、肉体的に離れて
     いるという意味に過ぎないので、肉体的に結合するこ
     とによって孤立を克服しようとするのである。

  「恋に落ちる」という経験をしたとき、多くの人はそれを真の恋愛と誤解してしまう。そして、すぐに相手と親密な関係になりたいと思う。それは、孤独の恐怖から逃れたいからである。愛が性欲をかきたてることもある。しかし、多くの人は「二人の人間が肉体的に求め合うときは愛し合っているのだ」と誤解している。 つまり、性欲のせいで愛していると思い込んでいるにすぎないのに、性欲を感じるということは愛しているということだ、と誤解している。セックスによって急速に接近した関係は、多くの場合、しばらくすると冷めてしまう。すると二人は分かれて、また新しい相手を探すことになる。「それで何が悪い」という人もいるが、同じ過ちを繰り返していたら、一生、真の愛に巡り合うことはできない。「理想の相手を見つけるのは難しいから、多くの人を試すしかない」という人もいるが、それは「愛を対象の問題と誤解している」のだ。本当の愛ではない、未熟な愛をいくら繰り返しても、理想の相手に近づくわけではない。

      それ(恋愛)によって彼らは孤独を克服したと感じるが、
     彼らは彼ら以外のすべての人びとから孤立しているので、
     依然として互いに孤立しており、自分自身からも阻害され
     ている。彼らが味わう一体感は錯覚にすぎないのだ。

  フロムは、また、こうも言っている。

      したがって、異性愛とはひとえに個人と個人が引きつけ
     あうことであり、特定の人間どうしの独特のものであると
     いう見解も正しいし、異性愛は意志の行為にほかならない
     という見解も正しい。いや、もっと正確にいえば、どちら
     も正しくない。それゆえ、異性愛はうまくゆかなければ簡
     単に解消できる関係であるという考え方も、どんなことが
     あっても関係を解消してはならないという考え方も、間違
     っているのである。

第5章 現代社会における愛
  フロムは、「愛するということ」の第三章「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」の冒頭で以下のように述べている。

      現代社会における愛について論じるということは、
     すなわち、西洋文明の社会構造とそこから生まれた
     精神が、愛の発達を促すものであるかどうかを問う
     ことである。そして、そのように問うということは、
     すなわち、答えが「否」だということである。
      西洋社会を客観的に見てみれば、兄弟愛、母性愛、
     異性愛を問わず、愛というものが比較的まれにしか
     見られず、さまざまな形の偽りの愛によって取って
     代わられていることは明らかだ。そうした偽りの愛
     こそ、じつは愛の崩壊のあらわれなのである。

  資本主義社会が人間をどのように変えてしまったのか、次のように述べている。

      現代資本主義はどんな人間を必要としているだろ
     うか。それは、大人数で円滑に協力しあう人間、飽
     くことなく消費したがる人間、好みが標準化されて
     いて、ほかからの影響を受けやすく、その行動を予
     測しやすい人間である。また、自分は自由で独立し
     ていると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従
     せず、それでいて命令にはすすんで従い、期待に添
     うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という
     機械に自分を進んではめ込むような人間である。そ
     の結果、どういうことになるか。
      現代人は自分自身からも、仲間からも、自然から
     も疎外されている。現代人は商品と化し、自分の生
     命力をまるで投資のように感じている。投資である
     以上、現在の市場条件のもとで得られる最大限の利
     益をもたらさなければならないということになる。
      人間関係は本質的に、疎外されたロボットどうし
     の関係になっており、個々人は集団に密着している
     ことによって身の安全を確保しようとし、考えも感
     情も行動も周囲とちがわないようにしようと努める。、 
  

  

  



  
  
  
  
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2019年02月04日

フェルメール展

  平成31年2月1日(金)上野の森美術館で開催されているフェルメール展に行ってきた。昨年の10月5日(金)より、明後日の2月3日(日)までの開催で、既に先月24日の時点で来場者が60万人を突破したそうだ。
  今回は国内史上最多の9点(うち2点は期間限定)のフェルメール作品が展示されるとのことで、この日は8点のフェルメール作品が展示されていた。

  本来であれば、もっと早くに見に行くつもりだったが、想定外の出来事があって最終日3日前のギリギリになってしまった。それも、入場日時が指定される前売り券を予約購入しなければならない「日時指定入場制」なのだけれど、いつ行かれるか前もって分からないので当日のチケット販売状況を見て余裕のありそうな時間帯の当日売りチケットを購入するつもりで病院をいつもより少し早く3時半ごろに出た。

  5時半にはJR上野駅公園口から歩いても2,3分の上野の森美術館に着いたが、当日売りのチケットは7時(午後19時)からの最終時間で8時半(午後20時30分)までには退館しなければならないという。
  この日は、そんなこともあろうかと可能であればすぐ近くの国立西洋美術館で開催されている「ルーベンス展」も見て来ようと思っていたので、7時までの1時間半を利用して何とか見れそうだと急ぎ足で国立西洋美術館に向かう。ところが、着いてみると閉まっているではないか。掲示板をよく見ると「ルーベンス展」は1月20日までと書いてある。そうか、もっと早く来るつもりだったので1月20日までとは記憶していなかった。
  仕方なく、隣のレストランで食事をしてから公園口前の東京文化会館に寄ってみた。昔よくリサイタルを聞きに来ていたころを懐かしく思い出した。

JR上野駅公園口。公園口改札を出ると正面が東京文化会館である。(2月1日 18:09撮影)
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東京文化会館内部。この日は大ホールは休み。昔、よく来た頃が懐かしい。(2月1日 17:59撮影)
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  6時半になったので上野の森美術館に戻ると、100メートルくらいの列ができている。仕方なく最後尾に並んだ。そうこうしているうちに、列は後ろに延びて既に300メートルくらいになっている。それでも間もなく少しづつ入場して、やっと7時近くには入場することができた。
  会場内は既に前の時間帯の入場者も残っているためか結構混んでいる。やはり絵の前は人が固まっていて真ん前でゆっくり鑑賞するという訳には行かない。それと2階建ての会場の2階部分はフェルメールと同時代の画家達の、黄金時代と呼ばれる17世紀オランダ絵画約50点が展示されている。
  順路としては、この2階を見てから階段を降りて1階の一部屋にフェルメールの8点が展示されている。

 上野の森美術館。今回はフェルメールの全作品35点のうち9点が展示される(うち2点は期間限定)(2月1日 17:02撮影)
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   やはり一番多くの人だかりができているのは、その部屋の最後に展示されている「牛乳を注ぐ女」である。絵の大きさは縦45.5p×横41pと思っていたより小さい。フェルメール作品のうちでも最もよく知られる1枚である。1658年から1660年頃に描かれたというからフェルメールが26歳から28歳の頃である。
  
  フェルメールは1632年にオランダのデルフトに生まれた。デルフトは醸造業、織物業、陶器産業で栄えた町だが、フェルメールが生まれた頃にはその盛りは終息に向かいつつあった。父親が宿屋を営む傍ら絵の売買もしていたためか、15歳の頃から画家としての修業を始めたようだ。
  「牛乳を注ぐ女」を描いた頃までには、既に1653年、21歳の時にデルフト在住のカタリーナ・ボルネスと結婚し、その年の末には親方画家としてデルフトの聖ルカ組合(画家が中心のギルド)に入会し、名実ともにプロの画家として活動を開始している。結婚の翌年には裕福だった妻の実家に移り住み、この家の二階のアトリエで1950年代末から60年代初めにかけて、今回本邦初公開の「取り持ち女」、そして「窓辺で手紙を読む女」、「士官と笑う女」、「牛乳を注ぐ女」、「デルフト眺望」、「小路」などが描かれている。
   また、この頃からは生涯にわたりフェルメールを支え続けた同じデルフト在住のパトロン、ピーテル・ファン・ライフェン夫妻からの熱い支持のもとに名声を高めて行く。

   会場に戻ろう。1階の1室に展示されている8点は右側の壁に「マリアとマルタの家のキリスト」が、そして左壁の端に「牛乳を注ぐ女」が展示され、正面の大きな壁には中央近くに「取り持ち女」が、両側には「手紙を書く女」、「窓辺でリュートを調弦する女」、「真珠の首飾り」、「手紙を書く女と召使」、「紳士とワインを飲む女」が展示されている。
   8点の中では、右端の「マリアとマルタの家のキリスト」が一番大きく(160×142p)、中央近くの「取り持ち女」が次に大きい(143×130p)くらいで、あとは40〜50p四方の大きさである。

   フェルメール展を見に行く前に2冊の本、朽木ゆり子著 「消えたフェルメール」(集英社インターナショナル新書)と小林頼子著 「フェルメール作品と生涯」(角川ソフィア文庫)を読んで出掛けたので、幾許かの知識を得ることができた。

小林頼子著「フェルメール 作品と生涯」(左)と 朽木より子著「消えたフェルメール」(右)
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   いまフェルメールの作品がなぜ世界中で愛され、ブームのようになっているのだろうか?先ず挙げられる理由は作品数が少ないことである。その作品数も専門家によって32枚から37枚の間で意見が分かれている。
   また、数が少ないだけにブランド性が高く1点の値段が数十億になることも珍しくないため、贋作事件や盗難事件も数多く起きている。今回展示されている作品の中でも「手紙を書く女と召使」はアイルランドの同じ邸宅から二度も盗まれたが、二度とも戻ってきた。今回は期間限定の展示であったため見ることができなかった「赤い帽子の女」は小林頼子氏は後世の模作ではないかと書いている。1990年にボストンの美術館から盗まれたレンブラントの「ガリラヤの海の嵐」と一緒に盗まれたフェルメールの「合奏」は29年経った今も行方が分からない。

   今回展示された8点のうち、「マリアとマルタの家のキリスト」と「取り持ち女」、そしてそれ以外の作品との間には明らかに違いが見て取れる。そこには物語画家(宗教や神話などの物語を主題とする絵画を描く画家)としてスタートしたフェルメールが、「取り持ち女」以降専ら風俗画家(当時のオランダ市民の日常を描く画家)に転身したことがある。その背景には当時のオランダの政治的な変化、すなわち絵画のスポンサーが貴族から市民に変わったことが最大の影響力として存在する。そして、その変化は絵の主題だけではなく絵の描き方も変えて行くのである。

   フェルメールの描いた風俗画は17世紀のオランダの市民の日常生活であり、人物も一人ないしは二人であり、鑑賞のために特別な神話や宗教の知識は必要としない点も人気のひとつかも知れない。画面の構成にしても、独特の光と影の描写や色彩の選択なども、よく見るにつれて緻密に計算されていることが伝わってくる。解説書を読むと、フェルメールは一度描いた絵を自分が納得の行くまで手許に置いて何度でも修正する完全主義者であったという。

   僕は今回の8点のなかでは、やはり一番好きな絵は「牛乳を注ぐ女」だ。題材、構図、光と色彩の描写などのすべてが、この絵全体から静謐さや透明感を感じさせることに成功しているからだと思う。
   今回の展示作品には入っていないが、「真珠の耳飾りの女」(1665−66年)、「天秤を持つ女」(1662−65年)、「天文学者」(1668年)、「地理学者」(1669年)、「少女」(1668−69年)、「小路」(1658−59年)、「デルフト眺望」(1659−60年)なども見てみたい作品だ。

  
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2019年01月24日

血の縁(えにし)

   昨年末から今年の初めにかけて、二つの思いがけないことがあった。ひとつは、昨年末にかけて北海道の遠軽町(北見市からJR石北線で旭川に向かって1時間ほどかかる)に住むIさんと名乗る人から、突然電話を貰った。僕が9月に川崎に戻ってからのぼたん園を訪ねたが留守だったので、遊木民族で僕の携帯番号を聞いて掛けたと言う。昭和39年、まだ子供のころ父親に連れられて牡丹園(当時)に来たことがある、河西久吉(曽祖父)の妻  (曾祖母)の33回忌法要のためで、その時に河西貴一(祖父)に逢ったと言う。これから年末、年始にかけて自分のルーツを訪ねて、親戚縁者を回りながら川崎にも寄って僕に是非逢いたいとのこと。

   その後数回電話があり31日大晦日になるとのこと、こちらも丁度妻が具合が悪い最中だったので、その旨を伝え本来なら家に寄って貰うのだが、難しい状況なので近所の喫茶店かレストランなら逢える旨を伝えた。前日になっても連絡が無いので電話をすると、現在高崎にいて今晩はホテルに宿泊し、明朝川崎に向かうとのこと。聞けば北海道の自宅から自家用車で小樽へ出て、小樽からはフェリーで新潟に渡り、新潟から関越道で高崎まで来たのだそうだ。明日は昼ごろには川崎に着くと思うので着いたら電話をするとのこと。

   午後1時ころ電話が掛かってきたので駅前で待ち合わせをして、車を近くの駐車場に止めて喫茶店に席を取った。歳は聞いたが確か65歳くらいだったと思うが、永く郵便局に勤め現在は旭川で資産運用のアドバイザーとして勤務しているとのこと。さっそく便箋に手書きした家系図を示して、自分は貴一の弟、慶伍(五男?)の孫に当たると言う。そして持参した河西久吉夫婦の写真と慶伍51歳(昭和26年撮影)の時の写真を貰った。河西貴一の写真があれば貰いたいと言われたが、生憎北見に置いて来ているので持ち合わせていないこと、そして手許にあった貴一の略歴を書いたものと昭和12年に貴一が衆議院議員に立候補したときの選挙公報を見せて後からコピーを郵送することを約束した。

祖父貴一の略歴
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同、昭和12年に衆議院議員に立候補したときの選挙公報
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   ここまで途中、親戚を訪ね訪ねてきたが、これから東京の親戚を訪ね、最後は河西久吉一家が居住していた四国香川県の白鳥村を訪ねるとのことなので、僕が会社勤務時代に九州の久留米に赴任していた時に一度訪ねた時のことを伝え、菩提寺の千光寺に立ち寄ることを勧めた。1時間以上が経ったので、そろそろ家で寝ている妻のことが心配なので、またいづれ北見での再会を約して自宅まで送って貰って別れた。

  二つ目は、年も明けて1月21日に従姉(僕の母の兄の子)から宅急便が届いた。開けてみると1冊の本が入っていた。「紅葉館館主 野邊地尚義(のべちたかよし)の生涯 ー明治の民間外交 陰の立役者ー 」となっている。著者は野邊地 えりざ。「えりざ」ってだれ?
  そうか!去年従姉から電話があって、今度本を出すからひろちゃん(僕のこと)の名前も書いていい?
  すっかり忘れてた。「上梓したら1冊贈呈してよ」などと図々しいこと言ったんだっけ。

野邊地えりざ著「紅葉館館主 野邊地尚義の生涯」
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   従姉は僕より5歳くらい下と思っていたが、著者プロフィールを見ると2歳違いだ。「野邊地 えりざ」はペンネームだ。だいぶ以前から母方の特に野邊地家の家系について調べていることは聞いていたが、本にまですることはあまり想像していなかった。
   従姉は東京で生まれ、東京で育ち、東京で結婚し、二人の息子を儲け、今は旦那と二人で世田谷に住んでいる。その間2,3年は旦那の仕事の関係でアムステルダムに住んだ以外は、東京で暮らしているのに対して僕は生まれこそ東京だが、3歳から13歳までは北見で育ったので母方の親戚のことは一部を除いてあまりよく知らない。この本を読んで、初めて野邊地家と自分とのつながりや、晩年を母と僕と三人で暮らした野邊地里安、他の親戚との血縁関係も分かった。呑気な話である。生前、母もあまり詳しい話は殆どしなかった。

   「野邊地尚義(たかよし)」(1825〜1909)はこの本のプロローグによると、「岩手県盛岡市近郊から出て、蘭学者・英学者として江戸・長崎・萩・京都を駆け巡った。明治維新後、官吏として幾つもの府立語学校を創設。そして、日本初の女子公立学校を作り、その校長となった。
   その後、東京に移り、三十年間、外国の高官や明治の政財界、文壇などの会員制クラブ「紅葉館」の館主を務め、館主のまま、八十五歳で没した。」とある。
   幕末から明治にかけての野邊地尚義の活躍についてはこの本の記述に譲るとして、尚義と従姉妹や僕達との間の血の縁について明らかになったことは率直に言って、自分達のルーツを知ることであり、できれば子や孫に伝えて置きたいと思った。
   蛇足になるが、野邊地家の家系図を見ると血の縁は更に拡がって間もなく皇后になられる現皇太子妃、雅子さまにも繋がっていることが分かる。

野邊地家の系譜(右頁)と野邊地尚義の妻の実家、京都の和田家並びに野邊地尚義の子供たち(左頁)。雅子さまは右頁左下。
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そして野邊地尚義と和田浅との子、立子(尾崎栄次と結婚)の子孫(右頁)。左頁は野邊地尚義の年譜。
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   今回、このような偶然にも二つの思いがけないことから、営々と続いてきた人間の営みと歴史の流れについて改めて驚きと感慨を、よりリアルに身近なものとして感じることができた。お二人に感謝したい。


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2018年11月24日

今、思うこと

  妻の様子が夏ごろからおかしくなった。6月には例年のように牡丹の咲く前後に北見に来て10日ほど滞在して川崎に戻った。今から考えると何となく元気がなく、相変わらず脚と腰が痛いと言っていた。
  例年なら、滞在中に1日はマウレ山荘に連れて行って温泉に入り、食事をして帰ってくるのだが、丁度マウレ山荘が7月上旬まで改装中で休業だったので、どこに連れて行くことも無く川崎に帰って行った。

  9月になって、例年なら10月末までは北見にいて11月に入ってから来年の準備もしてから川崎に戻っていたが今年は何となく妻の様子も気になったし、東京の方でやり残したこともあったので9月20日に川崎の自宅に戻った。彼女は帰宅してからは、食欲がないことと不眠を訴えていたが、まだ普通に食事の支度や掃除、洗濯など日常の家事は普通にこなしていた。今年の夏は東京は記録的な暑さが続いていたので、その頃の疲れが残っているためだろうと本人も言っていたし、そんなものかなとあまり気にもしていなかった。

  僕は今年は例年よりも少し早く、4月20日に北見へ行ったが7月に一度と8月にも一度、川崎に戻ってきた。7月に戻ったのは6月に次男のところに初孫(我が家にとっての初めての内孫である。長女のところには既に3人の孫ができているので僕たち夫婦にとっては4人目の孫となる)が生まれたので、その顔も見たかったし東京での用事もあったので7月末の10日間ほどを川崎で過ごした。

  今年は、たまたま川崎の自宅があるマンションの管理組合の役員が順番で回ってきて、4月20日から僕が北海道に行っていて留守のため妻がその役割を担っていた。理事会の役員は持ち回りで、5,6年に一度は回ってくるが、その都度抽選で具体的な役割を担当することになる。時には理事長を引き当てることもあったようだが、その時は何とか他の男性に変わってもらったこともあったようである。
  妻はもともと音大を卒業してからも勤めに出たことはなく、家にいて近所の子供にピアノを教えたりしていたので世間一般の働いている人たちとの付き合いには慣れていないこともあったのだろう。7月末に帰宅した時も8月に仕事のために再び帰宅した時も、妻の変化にはまったく気が付かなかった。

  9月に入って、相変わらず妻の体調がよくないことは本人から聞いていたので、また例年だとヤマブドウや野菜の収穫もあって忙しくなる時期であるが、今年は春先に害虫の発生があったり夏にかけて低温であったためヤマブドウは全滅にちかく、9月には園内に鹿が迷い込みその食害もあったりして野菜も秋に収穫できるものを作らなかったこともあり、早めに川崎に戻ることにした。

  9月20日に川崎に戻ってすぐにはあまり深刻には受け止めていなかったが、10月初めの管理組合の理事会には僕が変わって出席した。我が家のあるマンションは全体の戸数が3,000戸以上ある大きな、言わば一つの町のようなところで、さらに幾つかの街区から成っている。敷地が広いので緑が多く、それが気に入っている部分でもあるが、特に我が家の所属する街区と他の街区の間には里山や池があり、ちょっとした散策もできる小道が通っている。
  それぞれの街区は奥の方から(駅からは遠い方から)数年づつ遅れて開発分譲されており、我が街区は最後に開発分譲されたのでこの町の中では一番新しくかつ一番駅に近い位置にあり、かつこの町では唯一低層のマンションである。それでも、この街区だけで130戸ほどの戸数がある。
  一番新しいといっても平成元年の新築分譲なので、今年で築30年が経過した。そろそろ居住用建物の専有部分はもちろんのこと、ベランダ、エレベーター、階段などの共用部分、さらに居住用の建物以外にも集会所、駐車場、ゴミ集積場、遊び場、敷地内の植栽などの共用部分の維持管理や改修のための工事が必要となってくる。そうした課題のうち専有部分を除く全てのものは管理組合が対応して行かなければならない。

  そうしたなかで、たまたま我が家が居住用建物、敷地内の共用の建物、それらに付属する機械、設備、そして柵や街灯などの外構まで一人で担当することになった。この担当業務の区分については大いに納得の行かないところであるが、従来より続いているものでもあり今すぐに如何ともし難い。
  僕も、そのような仕事を妻一人に任せっ放しにしていたことは大いに反省しなければならない。妻にとっては相当な負担となっていたのではないかと思っている。

  今日は年も明けて1月の20日(日)である。前回は11月24日頃に書いているので、その後2か月近くが過ぎてしまった。妻はとうとうというか、やっと1月16日(水)に我が家から車で15分程にある大学病院に入院した。それ以来、毎日午後には様子を見に面会に行っている。衣類を買って届けたり、洗濯ものを持ち帰ったりしている。
  
  10月より入院までの約4か月は本当に大変だった。彼女は一時は全く食欲が無くなり、眠ることもできなくなった。僕は食事を作ることはそれほど苦にはならないより、むしろ料理を作ることは楽しいと思う方だが、何を食べたいのか、いや、何が食べられるのかが分からないことが、こんなに難しいことだとは、初めて経験した。
  何を食べたいのか、何なら食べられるのかが全く分からないので、買い物に行っても何を買おうか迷ってしまう。結局、自分も食べなくてはならないので自分が食べたいものを買ってしまう。食べていてくれさえすれば安心なのだが、何も食べてくれないと本当に焦ってしまう。

  原因が分からないから、あちこちの病院を連れまわすことになってしまった。今まで二人とも幸か不幸か、僕の4年前の心臓の手術を除けば、そう大きな病気になったことが無いので普段からあまり親しくしているかかりつけの医者も無く、今回の彼女のように時々は診て貰っていた医者から原因が分からないと言われてしまうと本当に窮地に追いやられてしまう。体力が無くなってくると、医者へ行くことも難しくなってくる。一時は本当にこのまま、死を覚悟しなければならないかとも思いつめた。

  ああ、お互いに歳をとるということはこういうことなんだ、とも思った。今回はたまたま妻が具合が悪くなったが、彼女と僕が入れ代わっていていても全くおかしくは無いんだ、彼女はしきりに僕に済まないと謝るけれど、本当は彼女がこんなになるまで気がつかなかった自分の方こそ謝らなければならないと心底思った。
  これまで僕のような我儘な亭主に尽くし、殆ど一人で三人の子供たちを育ててくれた、そして僕は彼女と結婚するときには彼女の父親に「必ず一生彼女を幸せにする」と約束しているんだ、だから何としても彼女を護らなければんらないんだ、と自分に言い聞かせている自分がいる。

  今回、妻を入院させて一人で家に帰ってきて残り物の食材で一人食事をするときに、もしこのまま彼女がいなくなったことを想像した。急に、今まで感じたことのない孤独を感じた。北海道に一人でいるときにも感じたことが無かった孤独感に初めて気がついた。

  以前、孤独について書いたときには、だれでも愛する人が、あるいは人でなくとも神でも自然でもいい、愛する対象があれば孤独ではないと書いたが、やはり愛するものを失うことは悲しい。若いうちは愛するものに本当には気がついていなかった。でも、歳を取るにつれて一人、また一人、一つ、また一つと愛するものを失って行くことは身に沁みて悲しい。いくら強がってみても、愛する人を失うことと愛する人に受け入れられないことは寂しい。
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