2018年06月16日

6月8日(金)のぼたん園の様子

 6月8日(金)は前日の天気予報のとおり、朝から雨となってしまいました。牡丹は雨が降るとどうしても葉や花弁が重くなって花は散り易く、また下を向いてしまいます。また花に勢いが感じられなくなります。
 この日はせっかくの牡丹が満開にもかかわらず、止むを得ず休園としました。園内の地面は全て自然のままの土ですので、どうしても雨が降るとぬかるんでしまいます。

牡丹も離れて見ると雨の影響は、あまり目立ちませんが・・・・・(8:41撮影)
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同じく(8:46撮影)
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同じく(8:47撮影)
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近寄って見ると・・・・・・(8:49撮影)
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哀れな姿も・・・・(8:50撮影)
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一日中寒い日でした(8:53撮影)
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2018年06月12日

下重暁子著 「極上の孤独」を読んで

本の題名が気になって読んでみた。
 下重氏は先に「家族という病」、それに続く「家族という病2」を同じ幻冬舎新書より出しているが私はこの2冊は読んでいない。

第1章 なぜ私は孤独を好むのか
 最近座間市で起きた男女9人の殺害事件を引き合いに、「寂しさ」と「孤独」は別物であると説く。
  この事件はネット上の自殺サイトに「死にたい」と書いている主に若い女性を一緒に死のうと誘って自宅アパートで殺害した男が起こしたものである。
  犯人の供述によればネットに「死にたい」と書いていた女性は実際に会ってみると自殺願望ではなくただ寂しくて話を聞いて欲しいだけだったという。

 これに対して著者は他人に認められなくてもいいではないか。自分だけでいいではないか。「孤独」はみじめなんかじゃない、「孤独はみじめ」だと思うことこそが問題であると断じている。
 さらに孤独とは思い切り自由なものであり、誰に気兼ねする必要もなく満足感があるもののその時間をどう過ごすかの全責任は自分にある。誰も助けてくれる人はいない。私は身震いするような厳しさに満ちたその瞬間が好きなのだと言い切っている。

  確かに、現代はネットの時代で若い世代はもちろんのこと、私のような年寄り(因みに私は昭和20年生まれ)でもその気になれば簡単にLINEやFACE BOOKといった、とても気軽で便利な方法で多くの友達(と言えるのかは別として)とつながることができる。
  ただ、私からみると気心の知れあった友達は別として、このような手段だけでつながった友達が果たして本当に友達と言えるのか、大いに疑問に感じざるを得ない。言葉が大事なことは否定しないが、やはり心を伝える手段としては誤解を生じたり、言い足りなかったりすることも多く、空しさを感じてしまう。

  また、筆者は孤独は人を成長させるとも言い、孤独の中での決断を重ねることによって人間は成長するとしている。この点は私も大いに賛成するところであり、若いうちはどうしても経験不足もあり、他人に相談することも止むを得ないかも知れないが、一人前の大人は他人の意見は意見として聞いても、決断するのは自分であり、それは孤独の中でしかできない作業である。
  そして、様々なツールを使って他人とつながることができるようになって、かえって孤独を感じる機会が増えた。友達は大勢いる方が幸せだと思い込んでしまう。だが、友達や知人など少ないにこしたことはない。そのかわり、ほんとうに信頼できる友を持つこと。人間関係はあくまで一対一、それが鉄則である。そうでなければ、心を開かない。孤独を噛みしめながら自分のホンネに向き合い、あれこれ考えるからこそ、人間は成長できる。と述べている。
  これも殆ど共感する。筆者がそうであったように、私も若いころからどちらかというと一人を好んだ。私が不器用なこともあるかも知れないが、歳と共に本当に信頼できる友達は絞られて今は片手に余るほどである。

第2章 極上の孤独を味わう
  ここでは、筆者自身の子供時代のこと、病弱だったために幼くして孤独の中に愉しみを見つけたことが今日の自分につながっていること。
  日常生活の中での孤独の愉しみの見つけ方、永六輔や立川談志、小沢昭一などとの交流を通じて、素敵な人はみな孤独だった、さらに2017年下半期の芥川賞受賞者、若竹千佐子(「おらおらでひとりいぐも」)も孤を見つめることを知っている人と述べている。

第3章 中年からの孤独をどう過ごすか
  ここではNHKに勤務していた時代、そして独立時代を振り返る。
  そして、定年になったら、長い仕事人生のなかで失くしていた自分の顔を取り戻そう。定年後は一人の男に戻ろうとする人の顔は、なんと可能性にみちていることか。これからがほんとうの自分の人生なのだ。と定年退職者にエールを送る。
  「家族がいるから淋しくない」は本当か?とも問いかける。子供が独立して夫婦二人になっても二人とも健在なら、もっと自由になって一人のような暮らしを始めたほうがいい。子供たちが巣立って行けば、部屋も空くだろう。その時こそ、念願の個室を持とうではないか。と勧めている。
  そして軽井沢の愛宕山麓に買い求めた別荘で知った自然界の孤独についても触れている。
 
  そのとおり!私はもう10年以上前から実行している!川崎では一昨年、自宅をリノベーション(全体をリフォーム)したのを機会に念願の書斎(約4畳の個室)を持つことができた。さらに1年のうち約半分は北海道の北見で一人住まいを実行している。
  そして最近特に感じるのは、「自分は孤独ではない、なぜならいつも自然と一緒だと自然が愛おしく感じられるようになる」ということである。

第4章 孤独と品性は切り離せない
  「年をとると品性が顔に出る」とはよく聞く言葉であるが、筆者は品とは恥と裏腹にある。恥とは自分を見つめ、自分に問うてみて恥ずかしいかどうかである。他人と比較して恥ずかしいというのは、ほんとうの恥ずかしさではない。例えば、お金が無い自分を他人と比較して恥ずかしいと思うことなど。としている。
  さらに、自分を省み、恥を知り、自分に恥じない生き方をする中から、誇りが生まれる。それがその人の存在を作って行く。そして冒すことのできない品になる。

  確かにそうかも知れないが、私は少し違和感を感じてしまう。恥とか品(品性)はあくまでも、その人間の主観によるところが大きい。筆者は孤独を知る人は美しい、として具体的な例としてイチロー、中田英寿、野茂英雄、山口百恵、安室奈美恵、美空ひばりなどを挙げて、品とは言葉を換えれば、「凛とした」とか「毅然とした」という意味だろうか。品とは育ちの良さや金の有無とは関係ない。アメリカのトランプ大統領やメラニア夫人には品を感じないが、オバマ前大統領の広島訪問の際の声明には感動した、とする。
  私はこれらの人たちの個人的なことは殆ど知らないが、それこそ私の主観からすると、全く関係がないとは言わないが、一面的な捉え方だと思う。私は「孤独を知らない人に品はない」とまでは思わない。
  そもそも、私のように自分に問うてみて毎日恥ずかしい思いばかりの人間はどうしたらいいのだろうか?

第5章 孤独の中で自分を知る
  筆者自身の若いころの恋人との別れ、81歳で亡くなった母(筆者は現在同じ年齢)との別れ、そしてこの2,3年増えてきた友人、知人との別れ、生きている私はそれらを胸を張って引き受けなければならない。
  ここでは、母親が生前に詠んだ短歌を4首紹介しているが、その中で、
     闇の中覚むれば孤独がしんしんと老いの体を音たてて打つ
 という句を紹介して、孤独とは、しんしんと音をたてるものだ。老いの体を打つ、その音が母には聞こえたのだろう。私も夜中に目覚め、眠れぬ夜など、その音を聞くことがある。と書いている。
  そして、最後に「もっとも孤独で孤高な人生を歩んだ女」として、享年105歳、昭和35年に無形文化財(瞽女唄)伝承者に指定された小林ハルについて紹介している。

  最後の最後で筆者のホンネのような部分が見えたような気がするが、自分自身で書いているように筆者は一人暮らしの経験がない。そして筆者には配偶者がいる。配偶者のことはあまり触れていないが、どのような配偶者であれ配偶者がいると、いないでは孤独の質が違うような気がする。
 
  私の母が生前よく言っていた言葉に「人間は生まれる時も一人、死ぬ時も一人」ということばがある。私の母はいわゆる戦争未亡人である。昭和19年に海軍軍人で戦闘機乗りだった父と結婚して、わずか半年後にフィリッピンで父が戦死、翌昭和20年3月に私が生まれたため、赤子のミルクを求めて父の実家である北海道の北見に単独で渡り、東京生まれ東京育ちの母は当時林業で生計を立て、使用人も2,30人いた祖父母の許で赤子を抱えながら舅に仕え、使用人の食事も作り、極寒のなかある意味地獄をみたのである。
  そのため、1年半で当時は珍しくなかった結核に罹り、また赤子を抱えて頼る者もいない東京に戻され、それから8年半の長きにわたり病院生活を余儀なくされたのであった。

  私は、孤独にもいろいろなレベルがあり、質の違いがあると思う。母の場合は、現代では考えられない時代の流れと、環境と、事情があったにせよ、自分ではどうしようもない耐えられないほどの孤独であったろうと想像される。 幸いにも、母には厚い信仰心が備わっていたためと不肖の息子が存在していたため耐えられたのだと思っている。

  また、孤独と寂しさは別物と言うが、確かに孤独にも孤独のよさはあるが、基本的に人間は寂しい存在だと思う。若山牧水の有名な短歌に「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」とあるが、大勢の人の中にいても、どんなに親しい友人、知人に恵まれていても、配偶者や家族に囲まれていても、果ては恋人と一緒の時でさえ、人間は寂しさから完全に解放されることはないと思う。
  孤独と寂しさはイコールとは言わないが、大事なことは寂しさに、どう向き合うのかということだと思う。

下重暁子著 「極上の孤独」 幻冬舎刊
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2018年06月08日

平成30年の畑

昨年から今年にかけて、例年にないいろいろなことが起きました。
ひとつは「ぼたん園を支援する会」が平成19年の発足以来満10年を迎え、昨年の「平成のぼたんまつり」を最後に解散することになりました。(正式には本年6月9日に開催される総会にて決定する予定→6月12日現在解散は1年間延期されることになりました)
もうひとつは永年ぼたん園の維持管理、特に牡丹や薔薇を初めとする花卉の育成に貢献してきた二人の女性のうちMさんがご家族の介護のため退職し、残るSさんは自宅内での転倒により左手首を骨折するというアクシデントに見舞われました。
そのほかにも園主個人の個人的な事情により例年のような野菜作りの準備ができず、昨年秋に植えたニンニクの他には5月中旬になってやっと玉ねぎとトマトの苗の植え付け、6月に入ってトウモロコシ(北海道ではトウキビ)と自家消費用にキュウリとピーマンの苗を植え付けました。

何でもそうですが、野菜作りも気力が充実していて充分な愛情を注がないとよいものはできません。
これからどこまで挽回できるか分かりませんが頑張るしかありません。

6月6日(水)現在、野菜畑にはニンニク(奥)とタマネギ(手前)しか植えられていません(6月6日 7:20撮影)
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ビニールハウス内に植え付けられたトマト苗(6月6日 6:54撮影)
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園内の畑にトウモロコシ(北海道ではトウキビ)の種を植え、草藁を被せてカラスの食害を防ぎます(6月6日 6:45撮影)
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去年キタキツネに食べられたイチゴには防御網を設置しました(6月6日 6:53撮影)
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2018年06月07日

6月7日(木)現在の牡丹開花報告

 このところの好天と気温の上昇による6月7日現在までの牡丹開花状況を写真にて報告します。

6月6日(水)の開花状況。百花繚乱。
(10:24 撮影)
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(10:25 撮影)
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(10:25 撮影)
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(10:26 撮影)
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(10:27 撮影)
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 6月7日(木)の開花状況。満開と言っていいでしょう。北見地方の天気予報は明日(金)と明後日(土)は「雨」で気温も下がり土曜日は最低気温2℃、最高気温8℃となっています。気温が低いのはいいのですが(気温が低い方が花持ちする)雨は牡丹にとっては困りものです。
(7:25 撮影)
180607平成30年6月7日のぼたん園 002.JPG
(7:26 撮影)
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(7:36 撮影)
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(7:36 撮影)
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(7:38 撮影)
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(11:13 撮影)
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 6月7日(木)の牡丹以外の話題

ブルーベリーの花が咲きましたよ(同日 7:41撮影)
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ハスカップの実がつきましたよ(同日 7:42撮影)
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 どちらもジャム造りが今から楽しみです。去年から身体(血糖値)によくない上白糖やグラニュー糖の代わりに、自然でやさしい甘さの、地元北見では昔から作られている「てんさい糖」を使っています。
 「てんさい糖」は甜菜(砂糖大根ともいいます)から造られる砂糖ですが、「血糖値の上昇を抑える」とも「糖質を制限できる」とも言われています。

 血糖値の上昇を抑えるためには糖質を制限する必要がありますが、この糖質は、糖類(さらに単糖類と二糖類に分けられます)と多糖類に分けることができます。
 糖類(単糖類と二糖類)は消化が早く、すぐに体内に吸収されて一気に血糖値を上昇させてしまいます。これに対して、多糖類は消化されるのに時間がかかるためそれだけ血糖値の上昇が緩やかになります。

 てんさい糖は多糖類に分類されるため、吸収の早い上白糖やグラニュー糖に比べて血糖値の上昇を低く抑えることができるのです。血糖値の上昇が緩やかだと一度の食事での満足感が長く続くため、間食や食べ過ぎを予防することにもなります。
 吸収の早い糖類は血糖値を急激に上昇させるため、血糖値の降下も急激になります。血糖値が乱高下すると低血糖状態に陥りやすくなり、結果的に、さらに糖質を摂取したくなるという悪循環を生み出す原因ともなってしまいます。

 結論として、「てんさい糖」は血糖値の上昇を緩やかにして糖質制限を助けてくれるということが言えると思います。また「てんさい糖」にはオリゴ糖やミネラル分、食物繊維が含まれていて上白糖やグラニュー糖より健康によいとされています。
 ただし、「てんさい糖」は上白糖やグラニュー糖とカロリーの差は殆どなく、むしろ若干高めです。取り過ぎには注意しなければなりません。

*ネットよりcourteous.info を参考にしました。また「血糖値」に関心のある方は下記の図書も参考になると思います。
「医者が教える 食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68」 牧田善二著 ダイアモンド社刊

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2018年06月04日

平成30年の春から牡丹の開花まで

時間が前後しますが、ここで今年の春4月から牡丹の開花までのぼたん園々内の様子を主に写真でご紹介します。今年は4月下旬に27℃と東京より暑い日があった後は殆ど夜はもちろんのこと昼間でも暖房が必要な日が続きました。
桜が本格的に咲き始めたのは5月に入ってからでした。しかしその後も例年に比べて寒い日が続いたため比較的長く咲き続けてくれました。

まだまだ寒い陽射しのなか、満開の桜(5月5日 10:45撮影)
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木々の緑も少なく、牡丹や薔薇はまだ芽吹いておらず寒々としています(5月5日 10:45撮影)
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5月も10日を過ぎると色とりどりの花が咲き始めます。手前はカタクリで紫色の花が咲き終わると黄色い花が咲き始める。うしろの紫はエゾムラサキツツジ、白はコブシ、黄色はレンギョウの花。(5月12日 12:11撮影)
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5月末になると牡丹の蕾も大分大きくなりますがまだ硬く閉じています(5月30日 11:19撮影)
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この頃になると見違えるほどに木々の緑が増えて、草も勢いを増し、草刈りが忙しくなります。(5月30日 11:19撮影)
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ピンク色が艶やかなミツバツツジ(三つ葉ツツジ)が満開になると牡丹の開花ももうすぐです(5月30日 11:20撮影)
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朱い色が目立つレンゲツツジ(5月30日 11:22撮影)
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大姥ユリもグングン成長します(5月30日 11:25撮影)
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園内のあちこちに薄い水色の可憐な花を咲かせる忘れな草。タンポポの黄色とよくマッチしますがタンポポは放っておくと増えすぎるので早めに刈り取ります(5月30日 11:25撮影)
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