2021年01月22日

独居老人の独り言 アメリカの大統領選挙について

  令和3年1月21日(木)午後6時20分。快晴、現在の気温は8℃。

  今日の午前2時(現地時間20日正午)、民主党のジョー・バイデンが第46代の米国大統領に就任した。一方、トランプ大統領(当時)は19日、国民に向けて「お別れのメッセージ」をビデオで発表した。約20分間の演説のなかで、「私たちが起こした運動は始まったばかりだ」と述べた。

  今回の大統領選挙については、間違いなく不正はあったと思う。4年前の大統領選挙ではアメリカの大手マスコミはもちろんのこと、日本のマスコミもヒラリーの当選を疑う者は殆どいなかった。ところが、大方の予想に反してトランプが当選した。当時の民主党やメインのマスコミに油断があったことは否定できない。だから、トランプの就任後、ロシア疑惑を捏造(結果的には何ら確たる証拠を提示することはできなかった)し巻き返しを図ったが後の祭りであった。

  アメリカの大統領選挙は、日本の選挙とは大きく異なり各州によって選挙制度も違うようである。
  トランプが当初からツイッターなどで郵便による投票は不正が生じる可能性が高いと反対していたが、現に最近の情報では、投票数の半分は郵便投票によるものであり、四分の一が期日前投票、そして残りの四分の一が投票日当日の投票場での投票であったようである。そして、これは民主党が4年前の教訓から水面下で郵便投票拡大によるトランプの逆転を画策した結果であるという情報もある。

  日本人はアメリカの選挙戦の状況はテレビやネットの映像でしか見ることができないが、それでもトランプの集会の熱気と、コロナ対策のためとはいえバイデンの集会のそれとは明らかな格差が見て取れた。そして、CNN、ワシントンポスト、ニューヨーク・タイムズといったいわゆるメインストリーム・メディアはもちろんのこと、いまや国論までもまでも支配しかねないような力を持ってしまったGAFAまでもがいっせいにトランプの再選を阻止しようとして、あからさまな言論妨害をしている。

  バイデン親子(バイデン本人とハンター・バイデン)のスキャンダルについては、具体的な証拠や証言があるにもかかわらず大手マスコミは全く取り上げようとはしない。このスキャンダルが事実とすれば(その確率は高い)米国及び世界にとって深刻な問題である。クリントン、オバマまでの民主党政権の対中共政策の失敗が今日の中国共産党の傲慢を許してきたことを考えると、バイデン政権の行く末については全く信用ができない。

  幸いにも、武漢ウイルスの蔓延に対する一連の中国共産党の言動によって、大方の西側諸国にもその正体が徐々に知られつつある。国内では香港における一国二制度の蹂躙、チベットやウイグルにおけるジェノサイドともいわれる人権弾圧、そして軍事力や経済力による領土や主権の拡張に対する飽くなき追及。一帯一路戦略、南シナ海、東シナ海における現状変更、中印国境紛争、尖閣における日本に対する明らかな主権侵害、歴史的に見ても理不尽な台湾への恫喝など、その覇権振りは今や見過ごせない存在となっている。

  「中華民族の偉大なる復興」をスローガンとして掲げる習近平率いる中国共産党は、今や建国100周年となる2049年までに世界一の覇権国家となる野望を隠そうとしない。そして、確実に「超限戦」(目的のためには手段を選ばない戦争)や「ステルス戦」(20世紀型の兵器戦ではなく、経済、外交、情報、金融などの「見えざる手段」による21世紀型の戦争)などといわれる巧妙な戦略を世界に浸透させようとしている。

  ようやく、中国共産党の脅威(最終的には世界を共産化することを目指す全体主義国家)に気づき始めた民主主義、人権、法の支配を共通の価値観とする国々が、安倍前首相が提起した「自由で開かれたインド太平洋」のもとに、クアッド(日・米・豪・印)やファイブアイズ(米・英・カナダ・豪・ニュージーランドの軍事情報共有を主な目的とするとする協定で、英国ジョンソン首相は日本の参加を提案している)などの中国包囲網の構築に動き始めている。

  また、トランプ前大統領によって米国が離脱したあとのTPPを安倍前首相が中心となってまとめたCPTPP(=TPP11)には、EUを離脱した英国が正式に加盟申請をしている。もっとも、バイデン大統領に変わった米国と、トランプの米国が離脱した直後からCPTPPへの参加に意欲を表明している中国との間にはこれからも駆け引きが続きそうだ。

  いづれにしても、日本としては同盟国である米国や、価値観を共有する友邦と協調しつつも自主独立かつ世界を主導する気概を持って、間違っても超限戦やステルス戦に篭絡されることなく毅然とした道を進んで欲しい。
  
  
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2020年12月26日

独居老人の独り言 岡本先生の著書について

  今日は令和2年12月26日(土)である。現在の時刻は22時22分。今日は快晴で、現在の外気温は5℃、明朝は2℃まで下がる予報だ。

  昨日まで、第2信として愛し野内科クリニックの岡本卓先生との出会い、そして先生の指導によって自分自身が九死に一生を得た経験を書いた。
  ここでは、岡本先生と出会う最初のきっかけとなった先生の著書2冊、「インスリ注射も食事制限もいらない糖尿病最新療法」(角川SSC新書)と「薬が減らせて血糖値にもしばられない糖尿病最新治療法2」(角川SSC新書)について紹介したい。

  現在、武漢ウイルス(新型コロナウイルス)の感染者は世界全体では7940万人、死者数は174万人になっている(12月25日現在)。日本の感染者数は21万人、死者は3200人である(同日現在)。
  これに対して日本の糖尿病患者数は糖尿病の可能性のある人を含めると、なんと2210万人といわれている。これはもう完全にパンデミックと呼んでもおかしくない状況である。

  岡本先生がこの2冊の本で警鐘を鳴らしているのは、次のようなことについてである。

1.血糖値はとにかく厳しく下げればよいのか?
  現在の日本の糖尿病治療が厳格な血糖値コントロールを要求するものが主流であり、血糖値は低ければ低いほどよいといわれている。ところが世界の流れはすでに、血糖値は緩やかにコントロールする方向に変わってきているというのである。日本では依然として厳しい食事制限(カロリー制限)やインスリンを中心とする薬物治療が主流となっている。現在日本で常識とされている糖尿病治療がいかに時代遅れになっているのか警鐘を鳴らしているのである。

  それは、以下のようなエビデンスに基づいている。
  2008年2月6日、アメリカで「アコード試験」と呼ばれる糖尿病治療研究の成果が報告された。この検査はそもそも、糖尿病患者の血糖値を厳格に正常化しようとしたほうが、そうでない場合に比べて生存率がよくなることを証明するために2001年にスタートした試験であった。

  試験の対象はアメリカとカナダの糖尿病の患者1万人以上で、ヘモグロビンA1c(注)を6.0%未満に厳格にコントロールして血糖値を正常化させるグループと、ヘモグロビンA1cを7.0%から7.9%の比較的緩やかにコントロールするグループとに分け、追跡して比較した。

  結果は、まったく予想外なものとなった。血糖値を厳格にコントロールしたグループのほうが、死亡率が22%も死亡率が高かったのである。
 *(注)ヘモグロビンA1c:赤血球中のヘモグロビンにぶどう糖が付着した度合いを示す数値で、過去1
〜2か月間の血糖値が反映されている。

  そもそも日本での血糖値コントロールの評価は、ヘモグロビンA1c5.8%未満が「優」、6.5%未満が「良」、とされ、とりあえずは6.5%未満を目指すことになっている。これは1995年に発表された「クマモト・スタディ」という研究のデータがもとになっている。これは日本人の糖尿病患者110人を対象に、6年間治療と追跡調査をしたもので、強化療法といって1日に3,4回インスリン注射をしてできるだけ血糖値を正常化しようとしたグループと、従来のインスリン注射をしたグループとを比較したものだという。
  その結果、糖尿病網膜症と糖尿病腎症について強化インスリン療法を行ったグループによい成績が出たというもので、その数値がヘモグロビンA1c6.5%であったということが根拠となっている。

  これについて、岡本先生は@インスリン治療では必ず低血糖が起こるが、患者たちに重症の低血糖がほとんど起きていないこと、Aインスリン強化療法では必ず見られるはずの体重増加がほとんど起きていないこと、B研究に参加したのが熊本大学と二つの関連病院だけで対象110人という限られた人数であり、追跡期間も短いこと、などの疑問を呈している。

  以上のような日本の血糖値コントロールの評価に対して、欧米で採用されている血糖値コントロールの目安はヘモグロビンA1c7.0%が採用されている。これは1998年に発表された「UKPDS」と呼ばれる、イギリスの糖尿病合併症予防に関する研究で、3867人の糖尿病患者の治療と10年間の追跡調査の結果に基づくものである。

  この研究では、血糖値と血圧を下げると合併症(糖尿病網膜症、糖尿病腎症、糖尿病神経障害を糖尿病の三大合併症という)が減るという結果がでたが、そのとき合併症のリスクが減少するのがヘモグロビンA1c7.0%だったので、以降欧米では血糖値コントロールの目安としてヘモグロビンA1c7.0%が採用されることになったのである。

2.糖尿病治療で本当に大切なことは何か?
  糖尿病の治療では先ずは生活習慣の改善による血糖値のコントロールが求められる。日本ではその目標としてヘモグロビンA1c6.5%という厳しい数値が与えられることになる。
  それは糖尿病でなにより恐ろしいのは、細い血管や神経が傷つくことにより起こる糖尿病網膜症、糖尿病腎症、糖尿病神経症の三大合併症だとされているからである。
  しかし、岡本先生は糖尿病の合併症は細い血管や神経にだけ起こるのではなく、それよりも太い血管に動脈硬化がが起きることによる脳梗塞、狭心症や心筋梗塞、下肢閉塞性動脈硬化症という大血管病の方が重大な問題だとする。

  細い血管(毛細血管など)の問題である三大合併症は糖尿病発症後、治療をしないままで5〜10年くらい経ってから現れるのに対し、大血管の問題である動脈硬化は境界型の人であっても既に危険な状態になっている場合がある。やっかいなのは、本人に自覚症状が無いことが多い。(現に自分の場合がそうであった)

  三大合併症は糖尿病に特有で、確かに困った問題ではある。しかし、このことばかりが声高に言い立てられ、太い血管で進行している動脈硬化や、重大な大血管病が案外知られていないのは重大な問題であり、動脈硬化によって太い血管が詰まって起こる脳梗塞や心筋梗塞は突然死に繋がる場合があるので、そうした生死にかかわる病気を防ぐことこそ糖尿病治療の目的とすべきだ、と岡本先生は警告する。

  実際に糖尿病患者の死因の26.8%が「心血管疾患」となっている。(「アンケート調査による日本人糖尿病患者の死因ー1991〜2000年の10年間、1万8385人での検討」『糖尿病』50巻、2007年)
  それ故に、岡本先生は糖尿病患者の治療では動脈硬化を食い止め、脳梗塞、狭心症や心筋梗塞を防ぐことを第一の課題としている。

  そのためには、血糖値だけでなく、コレステロール、血圧を一緒に管理し、悪玉コレステロールは薬で抑え、血圧は減塩食と運動でコントロールするよう勧めるという。もう一つは、糖尿病の患者には先ずは心臓への注意を欠かさないという。そのためには、24時間心電図を積極的に活用することが有効であり、また循環器の医師との連携こそが重要であるとしている。

3.糖尿病治療の落とし穴、低血糖とは?
  低血糖とは、血液中のブドウ糖濃度が低くなり過ぎた状態をいう。血糖値がどのくらいだと低血糖と言うかの厳密な定義はないが、血糖値が50〜60r/dlくらいになるとさまざまな症状が出て、重症になると死に至ることもある。低血糖になると、体がぶるぶる震えたり、汗が噴き出たり、心臓がどきどきしたりするような分かり易い症状ばかりではなく、胸が痛んだり、気持ちが落ち込むなどの低血糖とは無関係に思えるような症状も出るという。

  糖尿病でインスリン注射をしている場合だけではなく、飲み薬であっても低血糖になる可能性がある。血糖値を厳格にコントロールしようとすると、どうしてもインスリン注射や強い飲み薬を使用することになるが、それらによって起きる低血糖状態は胸痛や、うつや、落ち込み、疲れなどの症状も問題だが、夜間、睡眠中に起きる本人が気づかない低血糖が日中よりも何倍も多いことが分かってきた。(イギリスのマックナリー博士らの2007年の研究報告。インスリン注射による治療をしている患者160人に連続糖測定装置を装着して24時間モニターした結果、日中よりも夜間起きる本人が気づかない低血糖が特定の時間帯では100倍も多いことが判明した)

  岡本先生は、「インスリン注射も食事制限もいらない 糖尿病最新療法」の最後のほうで次のように述べている。
  「なぜ私がこれほど心臓の検査に力を入れるのかといえば、糖尿病を診る立場からは、心筋梗塞の予防が最も重要だと考えているからです。そして、糖尿病を診ている医師が、いかに症状のないうちに、患者さんを循環器の医師に連携していくかが大事だと思うのです。中略
  アコード試験が示した血糖値正常化をめざす厳格な血糖値コントロールが血中のインスリン濃度を高め、それが心筋梗塞に影響するであろうこと。これまで糖尿病治療は血糖値コントロールに重きが置かれ、血糖値を正常化すれば死亡率も下がるという思い込みで進められてきました。しかし、事実はそうではなかったのです。
  もちろん、血糖値が正常であることはいいことには違いありません。しかし、血糖値を無理やり下げる、それも心筋梗塞のリスクのある高血圧その他の合併症を持った人の血糖値を無理やり下げることは、死亡率を高めてしまうのです。このことは、糖尿病治療の到達点をどこに置くかという問題への視点を提供してくれます。糖尿病治療の効果を測るときには、血糖値を見るのではなく、その最終的な到達点である心筋梗塞を予防したのかどうかをこそ、見るべきでしょう。」
 
  
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2020年12月02日

独居老人の独り言 愛し野内科クリニック岡本先生との出会い

  今、ここに一通の紹介状がある。あて先は、北見市の北星脳神経・心血管内科病院 循環器科 福原源太郎先生御机下、そして差出人は、同じく北見市の愛し野内科クリニックとなっている。
  発信日付は2011年(平成23年)8月30日、となっているから、今から9年前である。この封書は封のところに「岡本」の朱印で割り印がされているので、本来は直接あて先の北星脳神経・心血管内科病院の福原源太郎先生に手渡されるべき封書であったはずである。今手許にあるということは当然のことながらあて先には届いていないということである。

  僕が東京都府中市の榊原記念病院で心臓の冠動脈のステント手術を受けたのが2014年(平成26年)の8月21日だから、先の紹介状の発信日から既にほぼ3年が経っている。この間、毎年愛し野クリニックの岡本先生から毎年紹介状を書いていただいているので、通算すると4通もの紹介状を書いていただいたことになる。今から考えると、その間に全く自覚症状がなかったとはいえ、我ながらあきれてしまう。

  この年(2014年)の確か7月初めだったと思うが、岡本先生から4通目の紹介状を渡されて、さすがに申し訳ないと思ったので、渋々ながら北星脳神経・心血管内科を訪ね、持参した紹介状を提出し検査を受けた。
  担当医の福原源太郎先生の最初の一言は、今でも憶えているが「河西さん、詰まっていますよ!天皇陛下と同じです!」であった。目の前のコンピューターには心臓らしきものと、それから伸びている太い血管らしきものの画像が映し出されている。2本の太い動脈が左右から心臓を包み込むように延びている。心臓の筋肉に栄養を送る「冠動脈」といわれる動脈だ。画像には左冠動脈が映し出されていて、心臓の鼓動に合わせて波打つように動いている。それは造影剤が黒く流れていることでそれと分かるのだが、途中から3本に枝分かれしていて、そのうちの2本が明らかに途中から先が白くなっていて流れていないことが分かる。血流が止まっているところから先の心臓の筋肉は壊死して、いづれ心臓は鼓動を停止する。「心筋梗塞」である。「97%詰まっています。すぐにでも手術が必要です。手術は北見ではできないので、札幌で受けることになりますが、どうしますか?」

  晴天の霹靂である。いままでも、今現在も全く自分には自覚症状が無い。胸が痛むこともないし、めまいもしたことが無い。全く心当たりが無いのである。8月か9月には自転車でスペインのサンチャゴ巡礼を敢行する計画である。「手術は旅行から帰ってからでは駄目ですか?」と僕。「とんでもない。東京で手術を受けるのなら、すぐに奥さんに迎えに来てもらいなさい。」と先生。「え?」。「飛行機はエコノミー症候群の恐れがあります。」

  それから急いで川崎の自宅に戻って(飛行機は何とか一人で搭乗した)、7月9日には救急扱いで府中の榊原記念病院の初診を受け、各種検査ののち前述したように8月21日には桃原哲也先生により手術を受けた。その後は2018年4月と翌年の2019年1月と4月に経過診療を受けたが、特に支障は無かった。
  その間は川崎にいるときは自宅近くの新ゆり内科橋央医師、北見にいるときは愛し野内科クリニックの岡本卓医師をかかりつけ医として毎月1回は検診を受けている。今のところは、お二人の医師の指導に従い検査数値に特に異常は無く、生活にも何ら支障はない。有難いことである。

  それにつけても、もし偶然にも岡本先生に出会っていなければ今頃はとっくにあの世に行っていたはずである。岡本先生のことを初めて知ったのは、全くの偶然である。2015年9月10日付の記事「命の恩人」にも書いたとおり、今から15年近く前、平成17年に叔母が亡くなった前後であったと思うが、いつも会社の帰り(その頃はまだ会社勤務で東京まで通勤していた)に立ち寄る本屋で先生の著書、「インスリンも注射も食事制限もいらない糖尿病最新療法」が目に留まったからである。

  題名が気になったことと、本を開いてみてその著者略歴の最後に、「2009年2月より北海道北見市で愛し野内科クリニックを開業」と書かれていたからで、早速買い求めて帰宅し読んだ。
  その内容は、それまで10年近く会社の健康診断や近所のかかりつけ医、そして2002年(平成14年)の5月に世田谷の関東中央病院での2週間の教育入院(糖尿病の初期の患者に糖尿病とは何か、悪化を防ぐための生活指導などを行う入院)などで受けてきた指導とは大分異なるものだった。

  翌年の春、僕は北見へ行ってすぐに岡本先生を訪ねた。愛し野内科クリニックはぼたん園からは車で15分くらい、JR石北線の駅で言うと北見駅から網走方面に向かって柏陽駅の次、愛し野駅の駅前、と言っても駅(無人駅)の周りにはクリニックと薬店があるだけで、駅の反対側(北側)は畑である。
  それでも、いつ行ってもクリニックの待合室は満室で、診察を待つ患者は絶えることが無い。2,3時間待ちは当たり前で、朝8時半からの開院の30分以上前から入り口にある専用の箱に診察券を投入して、順番待ちをする患者が多い。

  先生の著書には、『インスリン注射も食事制限もいらない糖尿病最新療法』(角川SSS新書 2009年)の他にも『薬が減らせて血糖値にもしばられない糖尿病最新療法2』(角川SSS新書 2012年)、『薬にも数値にも振り回されない高血圧最新療法』(角川SSS新書 2011年)、『本当は怖い「糖質制限」』(祥伝社新書)、糖尿病とアルツハイマー病を予防する地中海式和食レシピ』(監修 角川SSCムック 2013年)があり、その他にも『愛し野だより』として、最新の医療情報を中心にその時々の話題や「くちびるに歌を」と題したエッセイを自らお書きになっている。今、僕の手許には『愛し野だより』平成21(2009)年2月9日の第1号も、令和2(2020)年8月5日の第550号もあるので、これからも続いて行くのだろう。
  これらの著書や著書以外の本も、『愛し野だより』も待合室に置かれていて、いつでも希望者に貸し出されている。『愛し野だより』は、希望すればコピーをして無料で頂くこともできる。

  『愛し野だより』の第1号で、岡本先生は「院長の挨拶」として、いみじくもこう述べられている。
  「患者様本位の医療提供を目指したい思いでこの度、愛し野クリニックを開業いたしました。昨今の医療は機械文明に振り回されたふしの感じられるところが多いと思います。中略。
  私は患者様との直接的な人間関係重視の医療を大切にしていきます。そして機械文明に振り回されず機械文明を使いこなしていきたいと考えています。患者様にとって心ある医療となるよう最善を尽くしますので、どうぞよろしくお願いします。」

  これだけの患者を毎日こなしながら、本も書き、常に国内外の新しい知見を学習され、患者のため地域医療のために活動を続けておられること、そしてなによりも患者のことを大事に考え、いつも明るく接して居られる姿に頭が下がる思いをしている。

人生において人との出会いほど大切なことは無い。一期一会、どんな人であれ自分の人生にとって掛け替えのない宝となる可能性を持っている。永い人生、いつどこでどんなことが起こるかは誰にも分からない。神様の采配は己一人の小さな目で見ていては到底理解はできない。

  自分の体験を基に、岡本先生の著書を中心に紹介したいと思って書き始めたが、そこまで行かないうちに紙数が増えてしまった。今回はここまでとして、また機会を改めたいと思う。

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2020年11月28日

独居老人の独り言

  令和2年11月28日(土)13:50PM、雲一つない快晴。ただし、風やや強し。

  早いもので、明々後日は12月1日です。1年なんかは、あっという間です。今年はコロナ(ものごとを明確にするため僕は敢えて「武漢ウイルス」と呼んでいます)に始まり、コロナに終わりそうです。

  今年はぼたん園も、とうとう1日も開園せずに終わります。非常事態宣言が明けて、確か6月19日にはやっと国内の移動が解禁され、6月28日に北見へ行くことができました。
  北見市内では3月ころだったと思いますが、札幌の雪まつりから戻った感染者による国内でも最初のクラスターが発生して以来、遠軽の厚生病院での院内感染以外には感染者はほとんど発生しておらず落ち着いていましたから、まだまだ感染が収まらない東京からの訪問者は憚られる雰囲気でした。

  羽田空港も女満別行きのJALもいつもの半分以下の込み具合で、女満別空港から北見までのバスから見る景色も北見駅からぼたん園までのタクシーから見る市内の様子もいつにも増して寂しく感じられます。
  誰もいないぼたん園の門を開けて、久し振りに見る園内の景色は出かけたときと何も変わっていないように感じます。さあ、今日からまた一人暮らしの始まりです。早速、隣のCOOPへ買い出しに!

  翌日からは、先ずは昨年出かける前に外して住宅内に保管しておいたバッテリーをVitzに装着。危惧していたエンジンは一発でOK! 半年分の汚れを洗車して落とす。それから倉庫から草刈り機3台を出してきて調整。さらに自走式の草刈り機もエンジンオイルを交換して明日からの作業に備えます。
  夕方からは整備したVitzで近所のガソリンスタンドへ。草刈り機とチェーンソーのためのガソリンを買い、その足でA-EONに食料の買い出しに。こうして毎年の日常が始まりました。

  ところが、翌朝起きてみると雨がしとしと。しかも夜半から降り続いたらしく地面も草も雨に濡れていて草刈りはできません。こんな日は本を読むか音楽を聴くか、テレビを見て過ごすしかありません。
  一日中雨が降り続いた後は、太陽が顔を出してくれて草が乾くまでは何日でも草刈りはできません。
  6月下旬から7月にかけては、北海道といえども最近は内地の梅雨のような日が続くことも珍しくはなく、特に東北海道は内地と違ってもちろん蒸し暑い日もありますが、気温が上がらず寒い日が多いのです。

  それでも7月も半ばを過ぎると、これぞ北海道というような爽やかな日が続くこともあります。そんな日は朝から暗くなるまで、一日中思いっきり草刈りをしたり、薪割に精を出したりします。もちろんその間には30℃を大きく超えるような、時には国内で一番気温が高くなるような日もありますが、東京などと大きく違うのは湿度の違いです。同じ35℃でも北見のそれは、木陰や夜間は凌ぎ易く、さらにぼたん園の園内では街中より2〜3℃は気温が低いようです。

  今年はコロナもあって、北見にいるあいだは買い物以外は「遊木民族」と日頃お世話になっている数名の方へのご挨拶を除き、どこへも出かけませんでした。あっという間に2か月が過ぎて、園内の草刈りが一段落したところで、8月26日には管理をスタッフさんと遊木さんにお願いして北見を後にしました。
  今後、コロナがどうなるか予測ができませんが、一日も早い終息を願うばかりです。

これからは、あまり読み手のことは考えずにそのときそのときに感じたこと、考えたこと、思ったことを気楽に書いてみたいと思います。しばらくの間は、「独居老人の独り言」として続けてみます。

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2020年01月31日

ホテルニューグランド

  昨年12月、横浜市中区にあるホテルニューグランドに妻と行ってきました。以前からずっと訪れたいと思っていたホテルです。

  ホテルの目の前は山下公園、その先は横浜港です。横浜マリンタワーや横浜港大さん橋国際客船ターミナル、みなとみらい地区、そして中華街や元町にも近く、最も港町横浜らしいロケーションです。横浜らしいと言えば、この日はホテルを訪れる前に、瀟洒な洋館が点在する高台の山手町にあるカトリック山手教会に寄ってきました。すぐ近くにはフェリス女学院や横浜双葉などの名門女学校があります。

  山手教会のお御堂は、現在は工事中で内部を見ることはできませんでしたが、教会の駐車場に車を駐車して、すぐ隣のフェリス女学院と隣接している山手公園を散策してから車に戻り、元町界隈を少しドライブしました。

横浜山手教会の御堂
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  途中、代官坂トンネルを抜けたところで、偶然にも大学生時代に行ったことのある"Cliff Side"を見つけました。その頃は、まだダンスホールなど経験もありませんでしたが、オーナーが大学の先輩であったこともあり、ゼミの先輩に連れて行かれたことを懐かしく思い出しました。当時は生バンドが入っていて大人の社交場として大変な混雑だった記憶がありますが、ネットで見ると創業は1946年、今は横浜でもこうした社交場はここしか残っていないようです。まだ時間が早いので店は閉まっていて中を覗くことはできませんでした。

  それから、ちょっと足を伸ばして根岸旭台のカフェ・レストラン”ドルフィン”で根岸湾の海を遠望しながらお茶とケーキを頂きました。このレストランはかつてユーミンが昭和49年にリリースした「海を見ていた午後」の一節に「♪山手のドルフィンは静かなレストラン」として歌われていたところだそうです。

海の見える丘の上にある”ドルフィン”。すぐ近くには、かつて日本初の洋式競馬場だった横浜競馬場(根岸競馬場)の跡地で,現在は市が運営する総合公園「根岸森林公園」がある。(面積193,102u)
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  ”ドルフィン”を出て、ホテルに到着した頃には、辺りはもう暗くなっていました。5階(その後6階)建ての旧館と平成3(1991)年に開業した地上18階建てのタワー館がありますが、タワー館地下の駐車場に車を停めてエレベーターで1階に上がると、そこは吹き抜けのロビーです。床も柱も椅子やテーブルなどの調度品も、全体がヨーロッパの古いホテルにタイムスリップしたような感じです。12月だからでしょうか、天井から吊り下げられた大きなシャンデリアの下には本物のクリスマスツリーが置かれています。

タワー館1階のロビー
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  そのまま奥の方に進むと、そこは旧館の1階に繋がっていて、廊下には昔のホテルの絵や写真や生花が飾られています。旧館の1階にはコーヒーハウス「ザ・カフェ」とイタリアンレストラン「イル・ジャルデイーノ」がありますが、今日の目的の一つは「ザ・カフェ」での、ホテルニューグランドが発祥と言われる「シーフード ドリア」「スパゲテイ ナポリタン」、「プリン・ア・ラ・モード」の試食です。

旧館1階の入り口
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旧館廊下の設え
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イタリアンレストラン”イル・ジャルディーノ”はホテルの中庭(パティオ)に面している。写真の左側。
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  その前に、山下公園側にある旧館のエントランスから外へ出て公園通りを渡り、通りの反対側から建物全体を見てみます。すっかり暗くなった黒い闇に、そこだけ柔らかい照明を浴びて白く浮かび上がるようなシルエットは、正にクラッシクホテルそのものです。"The Cafe"の小さな赤いネオンが郷愁を誘います。昔、ヨーロッッパ映画で見たことのあるワンシーンのようです。

ホテルニューグランド旧館の夜景
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”The Cafe"のネオンがなぜか懐かしい
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  再び、エントランスを入ると”ニューグランドブルー”と呼ばれる品のよい青い絨毯が敷かれた大階段が出迎えてくれます。階下から見上げるその堂々とした石造りとタイル張りの階段は、威厳の中に永い歴史と伝統を感じさせてくれます。この日はたまたま、宣伝用でしょうか、モデルと思われる美男美女の新郎新婦の写真撮影が行われていました。

  大階段を2階へ上がると、正面にはエレベーターがあり、その上部には火炎のレリーフに嵌めこまれたクラシカルな時計と、アーチ状の壁には京都川島織物の綴織り「天女奏楽之図」が貼られています。このあたりは当初はフロントがあったところだそうです。

  2階にはロビーの他に大食堂と呼ばれた「フェニックスルーム」と宴会場(昔は舞踏室)だった「レインボウルーム」があります。当日は2階には誰もいなかったので、ロビー以外は中には入らずに覗いただけでしたが、ロビーには太いマホガニーの柱や横浜家具製の重厚な椅子やテーブルが配置され、「レインボウルーム」には漆喰塗のアーチ状の天井には優美な石膏のレリーフが施されているのを見ることができました。また、ロビーや「フェニックスルーム」の天井からは、東洋風の伽藍灯籠が吊るされていて、まるで歴史のある神社の伽藍をも思わせる不思議な空間です。

  「ザ・カフェ」は白い壁と木を多用した内装で、明るく暖かい家庭的な感じがする店です。店内はほぼ満席でしたが、年配のカップルや家族連れもいて、それでも騒がしくはなく和やかな空気が流れています。取りあえず「シーフード ドリア」と「スパゲテイ ナポリタン」を注文しました。

"The Cafe"の入り口
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”The Cafe”のメニュー
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  「シーフード ドリア」は、初代総料理長のサリー・ワイルがある時、滞在していた銀行家から「体調がよくないので、何かのど越しのよいものを」という要望を受けて即興で創作したのが始まりとのこと。大きな海老がたくさん使われ、それが上品でコクのあるグラタンソースによく合っていて、とても美味しく頂くことができました。

  「ナポリタン」は、2代目総料理長の入江茂忠が、ホテルがマッカーサー率いるGHQに接収されていた時に
米兵が茹でたスパゲテイに、塩、胡椒、ケチャップをかけて食べるのを見て、ホテルで出せるように工夫を加えたものだそうです。麺がもっちりとして、マッシュルームや大きめに切られたハムを、ケチャップは使わずに自然でコクのあるトマトソースと合せていて、これもとても上品な味でした。

「シーフード ドリア」と「ナポリタン」
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  「プリン・ア・ラ・モード」は、同じくGHQ時代に米軍将校夫人たちのために「華やかでボリュームのあるデザート」ということで考案されたようですが、残念ながらここまでで満腹になってしまい次回のお楽しみということにしました。
                                                   ホテルニューグランドの公式ページや、その他の関連サイトを見ると、「ホテルニューグランド」は、昭和2(1927)年の創業ですが、なぜ「ニュー」が付いているのか、それには理由がありました。

  「ホテルニューグランド」より200mほど離れたところに現在ある「人形の家」(人形博物館)の辺りにあって、明治3(1870)年まで営業していた「グランドホテル」を前身として、明治6(1873)年に外国人居留地にあった社交クラブのマネージャーや写真家などの外国人たちが出資し、外国人のためのホテルとして同名の「グランドホテル」を、建物も建て替え、スタッフや料理長も一新して開業します。

  当時は、東京築地に慶応3(1867)年に開業した国内初の本格的西洋式ホテル「築地ホテル館」がありましたが(明治5年火災により焼失)、「グランドホテル」の建物の設計は、この「築地ホテル館」や、初代横浜駅(現・桜木町駅)、横浜税関などの当時の大きな建築を手がけたブリジェンスだと言われています。
  
  また、日本初のフランス料理店だったといわれる「築地ホテル館」の初代料理長を務めたルイ・ベギューが「グランドホテル」の料理長となり、開業当初からホテルの料理は評判となります。
  当時、ホテルの宿泊代が月決めで2食付58ドル、今の価格だと116万円といいますから、かなりの高級ホテルです。明治23(1890)年には、隣接して新館がオープンし、その後も改修と増築を重ね、最終的には客室数360余に及ぶ国内最大のホテルとなります。当時の写真や絵を見ても相当に立派な建物です。

現在のアメリカ山から見たグランドホテルの全景。アメリカ山公園の案内板から。
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  ところが、大正12(1923)年関東大震災が発生します。東京だけでなく、横浜の街も焼野原となります。「ホテルグランド」を含めて、山下町界隈に軒を連ねていたホテルの殆どが崩壊してしまいました。現在の山下公園は、復興のシンボルとしてその時の瓦礫で海を埋め立てて造成されたといいます。

  その後、当時の横浜市長有吉忠一の提案により、「ホテル建設計画」が市議会に提出され、その可決を受けて三溪園を造った原富太郎ら横浜財界の有力者を集めた「横浜市復興会」が結成されました。そこで決議された議案の中にあったのが「外人ホテル建設の件」で、これが「ホテルニューグランド」建設のきっかけとなりました。外国人向けのホテルは、生糸輸出などが支えていた横浜経済の地盤沈下を防ぐためにはどうしても必要なものだったのです。

  ホテルの名称は公募されましたが、関東大震災で崩壊し廃業した外国人ホテル「グランドホテル」の後継として、「ホテルニューグランド」が選ばれたとも、公募作に適当な名称がなかったため当時、横浜市復興会・計画部長だった井坂孝が命名したとも言われています。

  ホテルの建物は、当時38歳で新進気鋭の建築家、渡辺仁が設計。渡辺はその後、上野の東京国立博物館、日比谷の第一生命館、有楽町の日本劇場などを手がけています。設計書には「細部に東洋的手法を配し、日本の第一印象を付与することに努める」と書かれています。
    
  こうして「ホテルニューグランド」は横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設がすすめられ、土地、建物は市が提供し、経営は民間が担う今日の第三セクターとして出発します。初代会長には、前出の井坂孝が就任します。井坂は東洋汽船出身で、当時同じ東洋汽船のサンフランシスコ支店長だった土井慶吉を補佐役として引き入れます。

  土井は、ホテルの業務(サービス、宿泊、飲食)に明るく、早速、欧米の視察に出かけ、帰国するとパリの一流ホテルから初代の総支配人となるアルフォンゾ・デユナンを引き抜き、当時最新の設備とフレンチ・スタイルの料理をホテルの目玉に据えます。さらに、アルフォンゾ・デユナンの推薦により、当時パリのホテルで一緒に働いていた、既に若干30歳で四つ星ホテルの総料理長だったスイス生まれのサリー・ワイルを呼び寄せ、元帝国ホテルの第4代総料理長の内海藤太郎をその補佐に付けます。

  サリー・ワイルは、料理の腕前は言うまでもなく、指導者としても優秀な人物でした。本格フランス料理の味についてはもちろん、当時は堅苦しいばかりだったホテルのレストランに、パリの下町風の自由な雰囲気を取り入れました。ドレスコードや酒、煙草についても自由にし、コース以外にもアラカルトを用意するなど、一般客でも利用しやすいサービスを工夫し提供しました。

  そして、「どんなにうまい料理ができても、それを客の前に運ぶボーイの態度で客の印象は変わる」、「自分は魚の料理しかできない、肉の料理しかできない、と言うのは恥ずべきことだ」と、スタッフを指導しました。当時の日本の料理界は、まだ徒弟制度の色合いが濃く、料理人も食材ごとに担当して年季を積み、修行するのが一般的でしたのでワイルの考え方はとても革新的でした。

  こうして「ホテルニューグランド」からは、後に広く親しまれることになるドリア、ナポリタン、プリンアラモードなどの料理が生まれました。また、この厨房からは、ホテルオークラやプリンスホテルグループの総料理長、数々の名店の料理長など、多くの名料理人を輩出し、日本の食文化に多大な影響を与えました。後に、「ニューグランド系」と呼ばれるホテル料理人の人脈の創始者となったワイルは日本に20年間滞在し、弟子たちから「スイス・パパ」と呼ばれて慕われ、昭和48(1973)年にはその文化的業績に対して勲5等瑞宝章が送られています。

  ネットサイトtravelbook.co.jp から引用すると、歴史とともに歩んだ「ホテルニューグランド」として、開業当初から、皇族やイギリス王族などの賓客、チャーリー・チャップリンやベーブ・ルース、ジャン・コクトーなどの著名人が数多く来訪し、「外人ホテル」としてのブランドを確立していったとしています。また、日本人では、池波正太郎、石原裕次郎、松田優作なども訪れています。

  ダグラス・マッカーサーは、戦前には新婚旅行で(1937年)、戦後にはGHQ最高司令官として滞在しています。特に、再来日した1945年8月30日には、厚木飛行場に降り立ち、声明文を朗読後すぐさま乗用車に乗り込み、まっすぐホテルニューグランドに直行したそうです。彼が執務室として使用した315号室は「マッカーサーズスイート」として残され、現在も一般客も宿泊できます。

  また、横浜生まれの昭和の文豪、大佛次郎も昭和6(1931)年から約10年にわたり、「ホテルニューグランド」の本館318号室を創作活動の場とし、この部屋から、横浜を舞台にした「霧笛」をはじめとして、代表作「鞍馬天狗」など、数々の名作を生み出しました。大佛は仕事の気分が乗らないと、部屋から横浜港の展望をを眺めたり、バー「シーガーデイアン」(現在の「シーガーデイアンU」)でくつろいだりして過ごしたそうです。昭和48(1973)年、大佛はこの世を去りますが、遺体が東京の病院から鎌倉・雪の下の自宅へ帰る際に、わざわざ車を「ホテルニューグランド」を経由させ、横浜港とイチョウ並木、そしてホテルの従業員たちに見送られていったということです。(同サイトより)
          
  
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posted by ひろちゃん at 17:13| Comment(0) | 日記