2024年08月02日

独居老人の独り言 令和6年8月 サンシティ神奈川見学記(7月の続き)、子どもの教育、90歳のラブレター、など。

 令和6年7月最後の記事(「サンシティ神奈川」見学記)の続き。

 応接室で一通り説明を聞いたところで、昼食の試食のためダイニングに案内された。既に午後1時を回っていたので、広々として天井が高く、まるで一流ホテルのレストランのようなダイニングは人影も疎らである。樹々の緑と青い空が見え、陽光がいっぱいに射し込む床から天井まである大きなガラス窓の近くのテーブルに3人席をとり、3種類の日替わりメニューから好きなものを注文する。

<この日のメニューは、A御膳 野菜天ぷら、B御膳 夏野菜と燻豚グラタン、C御膳 冷やし山菜うどん、の3種類。お二人はA御膳を、僕はB御膳を注文した。>
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<食事の予約は必要なし。家族や友人との会食、パーティーには別にプライベートダイニングがあり、予約をすれば特別料理を準備してもらえるとのこと。>
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(令和6年8月2日、金曜日、晴れて35℃の暑さ。午後11時05分)

 試食を終えた後、お二人に館内の共用部分の、使用中だった大浴場と大ホールを除くエントランスロビー、ガーデンラウンジ、図書室、温水プール、大ホール、ビリヤードルーム、茶室などと、診療所(別法人の「秦野メディカルクリニック」)、そして全部で355室ある一般居室(個室)のうち現在空室となっている14室の中から3室を、最後に60室ある介護居室(24時間介護体制)のうちの1室、さらに階段浴、寝浴、車椅子対応浴などの各種の浴室まで案内していただいた。

<建物は壱番館から参番館まで3棟あり、写真は壱番館から弐番館に向かう廊下。夏祭りがあるそうで提灯が飾られていた。>
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<ゆったりしたライブラリー。ゆっくりと好きな本が読めそうだ>
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<ビリヤードルーム>
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<温水プール。入居者が一人だけ泳いでいた>
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<壱番館5階モデルルームのリビング。南向きの1LDK、50.2u、日当たりがよく、床暖房もある。>
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<同じく、ベッドルーム>
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<ベッドにはAIスキャンが敷かれていて、入居者の睡眠状況がクリニックで把握できるようになっているそうだ。>
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<エアコンは天井にビルトインされていて、入居者が設置する必要はない。>
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<同じく、リビングより玄関の方を見る>
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<弐番館6階の居室ベランダより箱根の方角を望む。生憎曇っていて富士山は見れなかった。>
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<同じく東方向を見る。湘南や江の島が見えるとか?この日は生憎の空模様で確認はできず>
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<壱番館・N棟の地下(半地下)にある介護居室。看護師、ケアスタッフによる24時間体制の看護が受けられる。>
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<60室ある介護棟のリビング>
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 午後3時からは入居者との懇談が用意されていて、入居者の方は80代の男性一人、75歳の女性一人のお二人、今日の見学者は自分と、もう一人女性の二人、計4人と施設側のお二人もオブザーブ出席された。
 入居者のお二人は、夫々ご家族の状況もご入居の経緯も違うが、お二人共お元気そうでサンシティ神奈川での毎日を安心して過ごしていると話された。(令和6年8月3日、土曜日、ほぼ晴れで相変わらず暑さが続く毎日。午後9時20分)

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 我が家の教育方針。実は我が家には教育方針というものが無い。考えてみると、僕自身も3歳から13歳(中学2年)までは祖父母に育てられた。中学2年の時に突然、東京の母の許に行くことになった。それまで、母は横浜の病院(母の同級生のご両親が経営していた関係でお世話になった)で8年半も入院していたのだが、ようやく退院できることになり、僕を引き取ることになった。

 僕は祖父から「勉強しろ」だの「〇〇はしてはいけない」等という言葉は聞いた記憶がない。全くの自由放任である。ただし、嘘をつくことと、男らしくない振る舞い(弱い者いじめや卑怯なこと)をしたときは、厳しく叱られた。それ以外は全く自由であり、したいことをさせてくれた。祖父は、自分が正しいと思ったこと、本当にやりたいと思ったことは、たとえ大多数の他人の考えと違っていたり、反対されても、それにめげることなくやり通すことを良しとする人だった。

 母もまた、自身の干支がイノシシなことからよく、「私はイノシシだから、猪突猛進するの」と言っていた。確かに父との結婚を決めたときも、「お国のために死にゆく若者を一人では行かせられない」との思いで、父や周囲の人間の反対を押し切って一人で決断したという。また、祖父と同じように嘘を嫌った。「騙すより騙される方がまし」とよく言っていたことを思い出す。また祖父と同じように「勉強しなさい」とか「〇〇はしてはだめ」などと言われたことは記憶にない。(令和6年8月4日、日曜日、今日も一日猛暑。午後11時45分)

 従って僕も自分の子どもたちに勉強しろとか、ああせえこおせいなどと言ったことはない。勉強は他人から言われてするものではないと思っているし、学校の勉強だけが勉強ではないと思っている。こどものときは自分が興味をもったことを好きなだけ自由にやればいい。そうでなければ、本当に自分がやりたいことも分からないし、自分がどんな力を持っているのかも分からない。転んでも何度でも立ち上がれる力と、他人に頼ることなく自分自身の力で壁を乗り越え、逞しく生きて行ける人間になって欲しいと願うだけである。

 子どものときは、自然と親しみ、学校では「読み書き算盤」がしっかりできるようになればよい。あとは自分で興味を持ったものをやればよい。自然や人間に興味を持つようになれば、他人から言われなくても勉強が楽しくなる。知識欲と探求心があれば充分である。なまじ学校の成績や試験の点数ばかりが気になるようでは、自由な発想や探求心の深化には邪魔になる。僕は人間、おおらかで器の大きな大人になるためには、子どものうちは自然のなかで育つことが物凄く大事だと信じて疑わない。(令和6年8月5日、月曜日、晴れのち曇り、午前中から30℃超え。時刻は午後5時10分)

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 人間にとって本当の幸せとはなんだろうか?妻が比較的軽度ではあるが要介護状態になって約10か月が経ったが、最近は人間は3食(あるいは2食)美味しいと思うものが食べられて、それが毎日安定して続くことが一番心身ともに良い状態でいられることだと思うようになった。それさえしっかり確保できていれば、残りのことは自由と工夫があれば、毎日を楽しく過ごせる。楽しくするのも、空しくするのも自分次第である。

 今日、僕は以前にも記事に書いた「九十歳のラブレター」(加藤秀俊著 新潮社)を書棚から取り出して、また読み始めた。「いつものように、ここ数年は妻の心筋症が悪化して入退院をくりかえすようになったため、夫が朝食の用意をして8時に妻を起しに寝室に向かう。」そんな書き出しから始まる。この奥さんは20年来心疾患で循環器外来に通院し、しかも骨粗鬆症による腰痛を抱え整形外科にも通院していたという。この頃二人(同級生)は翌年には90歳になろうとしていたのだ。

 僕たち夫婦より10歳以上も先のことだけれど、なんとなく身につまされる。立場は逆だけれど、心疾患だの虚血性心不全(死因)、腰痛(僕の妻は変形性膝関節炎)などという病名を聞くと、とても他人事とは思えなくなる。この本の帯に「どんなに仲のよい夫婦でも、結局どちらかが一人で残される―」と書かれている。そのとおりである。人間、最後は一人である。でも、一つだけ違うところがある。それは記憶(思い出と言ってもいいかもしれない)である。それは、この夫婦にとっては65年間の記憶である。それは、日々の何気ない日常であり、楽しいできごとであり、そして悲しい、苦しいできごとでもある。幸せとは、それらの全てが懐かしく愛おしく感じられることなのではないだろうか。(令和6年8月9日、金曜日、今日も一日暑し。午後9時48分)

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 毎日酷い暑さが続いている。外へ出ることが高齢者にとっては危険であるのかもしれない。かと言って24時間家に閉じこもって、特に座ってばかりだと健康にはよくないらしい。24時間エアコンの温度設定を26℃にしていても、8月は電気代などの補助金も無いらしいから、一体幾らの引落額になるのか想像もつかない。幸い我が家にはフィットネス・バイク(自転車漕ぎ)、ローイング・マシーン(ボート漕ぎ)、健康ステッパー・ナイスデイ(ペダル踏み)、鉄アレイ(5s×2)などがあるので、テレビのラジオ体操と並行して真面目に毎日少しづつでも続ければ、少しは筋肉の維持は可能かもしれない。

 運動が大事なことは間違いがないが、それ以上に重要なことはやはり食事の内容だろう。現在続けているのは2021年に81歳で亡くなった、サナダムシ博士藤田紘一郎先生が薦めるボーンブロス(鶏手羽中と野菜のスープ)、それと今年の3月から始めた「血管をよみがえらせる食事」(コールドウェル・B・エセルスティン・Jr著、(株)ユサブル)が薦める「プラントベースでホールフードの食事」(野菜、果物を生で食べる。肉や魚、乳製品は食べない。一切の油を使わない。全粒穀物製品だけを使う。白いご飯米や白いパン、白いパスタは使わない。)の二つである。ただし、後者は厳密に実行するとなると食べるものが殆ど無くなってしまうので、程々にしている。

 それでも、この二つを試行してからは体調が頗るよくなった。特に今までは夏場、北見で外の作業で汗を流した翌日などは便秘になることが時々あったが、それは無くなり毎日快食、快便である。何よりも、この二つを始めてからは体重が、一昨年までは多い時は92sあったときもあるが、今は77sと15sも減った。身体が軽くなり、何事に対しても意欲が増したことを実感している。いままで諦めかけていたことでも、チャレンジしたいという気持ちが沸いてくる。この調子でゆけば、100歳まで充分元気で活動できそうに思えてくる。(令和6年8月12日、月曜日、12日の山の日の振替休日、晴れで最高気温は35℃。午後3時20分)

(追記)
 関連記事 ボーンブロス 2021年11月6日、健康トレーニング 2019年4月12日、独居老人の独り言 2024年3月2日

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 9月の自民党総裁選に向けて10人前後の立候補者が報道されている。不思議なことに、参議院議員の青山繁晴氏のことについては、本人が昨年の11月から立候補を宣言しているにもかかわらず、どのマスコミもまったく取り上げていない、というか全く無視をしているとしか思えない。青山氏はこの数年、党員の獲得数で党内トップを続けている。参議院からの立候補は過去にあまり例がないとも言われているようだが、参議院議員は総理総裁になれないということはない。青山氏は自民党を中から改革すると平素から言っているので、よほど都合の悪い自民党幹部もいるらしい。しかしテレビもラジオも青山氏を、あたかも存在していないかのような扱いをしていることにには非常に違和感を感じる。(令和6年8月19日、月曜日、午後10時10分)

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 以前からそう思ってはいたが、日本のマスコミがここまで腐っているとは何とも情けない限りである。青山氏が8月23日(金)に正式に総裁選への立候補を表明する記者会見を開いたにもかかわらず、8月28日(水)現在、国民から視聴料を得て運営している公共放送のNHKを始め、民放もNHKに倣ってか僅かに地方の1テレビ局ぐらいしか報道していない。こんなことが許されていいのだろうか?盛んに取り上げているのは、小泉、石破、河野の3馬鹿トリオ(いづれも皇位継承については女系天皇、または女性天皇容認論者であり、我々のご先祖が2600年のあいだ永永と守り続けてきた男系皇統の歴史と意味を理解しているのか?まさか、国会議員ともあろう者が、学校で習わなかったからなどとは言わせない。)と財務官僚出身の小林の話題ばかりである。

 あたかもタレントの人気投票のように、中味のない空疎な報道ばかりである。ワイドショーのコメンテーターも、こんな連中しか人材がいないのかと思うようなくだらない質問をするばかりで、彼らの真の人間像や国家観、世界観、政策、経営感覚(事業経営の経験もない人間に国家の経営はできない)、などの肝心なことは全く見えてこない。一例を挙げれば、皇位継承問題についてどう考えるのか?あるいは日本だけが30年以上も貧困化している原因は何だと考えているのか?今後この惨状を打開して、再び栄光を取り戻すためには何から手をつければいいと考えているのか?こんな簡単な質問でも、彼らの頭の中を明確に知ることはできる。

 米国の大統領選のように、公共放送であるNHKが候補者を(一同にでも、グループでも)集めて、デイベートを徹底的にやらせたらいい。日本国の総理大臣になる人間を選ぶのだから、NHKが協力することは当たり前のことだろう。数回に分けて、できるだけ大勢の国民が視聴できるようにする。その際はメモ程度は可としても、原稿の持ち込みは不可とする。もちろん秘書や助言者の同席は禁止。質問あるいはテーマは司会者が準備するとして、その他に一般の国民からの質問もその場で受ける。(視聴者の質問の方が的を射ている場合が得てして多いことと、事前準備なしで回答することで頭の回転度を見ることも可能だろう。)

  マスコミやコメンテーターの先生方は本当に彼らがプーチンや習近平やほぼトラと堂々と、対等に渡り合えると思っているのだろうか?今の世界情勢は親から地盤、看板、政治資金まで税金も払わずに譲渡(相続)されるだけの二世議員でも勤まるほど甘くはない。官僚に初歩的なことからレクチャーを受けたり、まるまる読み上げるだけの答弁書を作成してもらわないと国会での答弁さえ覚束ないような素人議員は要らない。(令和6年8月28日、水曜日、曇り、気温30℃、午後4時30分)

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posted by ひろちゃん at 21:57| Comment(0) | 日記

2024年07月24日

老老介護

 また介護疲れによる悲惨な事件が起きた。令和6年(2024年)7月22日、兵庫県姫路市で91歳の寝たきりの母親を64歳の息子が殺した。息子は「介護に疲れ、母親の首を絞め殺した」と供述した。母親と2人暮らしで、ほぼ寝たきり状態だった母親を日常的に介護していた、と新聞のニュースには書かれている。それ以上の情報はないので、いつからそのような状態が続いていたのか、他に親族はいなかったのか、などは分からない。

 つい1年程前、令和5年7月21日の産経新聞、産経抄で老老介護のことが取り上げられていた。記事によれば、平成3年に放映されたNHKスペシャル「二人だけで生きたかった」が、当時大きな反響を呼んだ、という書き出しから始まる。東京大田区に住む老夫婦が新潟県直江津の海岸で入水自殺するまでの25日間の行動を追ったドキュメンタリーである。夫77歳、妻66歳、3年前に妻が老人性痴呆症と診断され、夫は懸命に介護したものの症状は悪化していく。認知症という言葉はまだなかったころである。

 長男夫妻の勧めにより同居を始めてから4か月後、夫は貯金を下ろし遺書を残して妻を連れて姿を消す。各地の温泉を転々としながら水入らずの時間を過ごす夫婦の道行きに感動の声が上がった。同時に、今でいう「老々介護」の深刻さを突きつけた番組だった、と書く。介護保険制度がスタートしたのは平成12年(2000年)である。それでも介護をめぐる悲劇は後を絶たない、と続ける。

 そして、「独居老人の独り言 令和5年8月」の記事にも書いたように、令和4年11月には、神奈川県大磯町の漁港で妻(当時79歳)を車椅子ごと海に突き落としたとして殺人罪に問われた82歳の夫の被告に、懲役3年の実刑判決が下された。40年前に妻が脳梗塞で倒れ左半身不随になってから、ずっと被告が一人で介護してきた。判決によると、事件前月に親族から施設への入居を勧められ妻は新しい生活を楽しみにしていたという。裁判長は被告の長年の苦労に理解を示しながらも「典型的な介護疲れの事案と同一視することはできない」と断じた、とある。記事は、最後を被告に突き落とされると分かった妻は「お父さんやめて」と抵抗したという。その日の湘南の海は慟哭していたはずだ、と締めくくる。(令和6年7月24日、水曜日、一日中猛暑、午前0時10分)

 このようなニュースを見聞きすると、暗澹たる気持ちになる。現に老々介護を遂行している身としては、とても他人事では済まないと感じる。なぜ世界に冠たる国民皆保険制度や介護保険制度を備えている国にもかかわらず、このような悲劇が結果として起きてしまうのだろうか?まつりごとを司る人たちは真剣に考え、制度に欠陥や足らざる点があるなら早急に行動すべきである。恐らく、この二つの事例は氷山の一角であろう。(令和6年7月24日、水曜日、曇り蒸し暑し、午後2時55分)

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posted by ひろちゃん at 00:12| Comment(0) | 日記

2024年07月01日

独居老人の独り言 令和6年7月 介護の備え、黒柳徹子の「トットちゃんの学校」、トランプ狙撃される、など。

 今日から7月である。あっという間に今年も半年が過ぎてしまった。この調子で行くと5年や10年も、あっという間に経ってしまうだろう。これから先、どういう人生が待っているのだろうか?これから先、どんな世の中になって行くのだろうか?

 いくら健康に気を付けていても、肉体は時間の経過とともに少しづつであっても衰えて行く。まして、夫婦が揃って元気でいられるのはあと何年であろうか?去年のように二人揃って入院治療が必要になることもある。片方が具合が悪くなれば、その負担はもう片方が一手に背負わなければならない。いわゆる老老介護の状態である。ただ、今は金銭的な負担はあっても、医療保険や介護保険などの制度によって他人様の支援やサービスを受けることができるから二人だけでもなんとかやっていけるかも知れない。ただ、二人共に要医療、要支援、要介護になった場合は、望むと望まざるにかかわらず子供たち(あるいは親族)の世話にならざるを得ない。最悪の場合、親の介護のために子どもが仕事を辞めなければならない(介護離職)というケースが年間10万件も発生しているという。

 そうした状態を避けようと思えば、どちらかがまだ元気なうちに対策を講じておかなければならない。  少なくとも、子供たちに経済的な負担をかけるようなことは何としても避けたい。親がそうした年齢(65歳〜75歳)になる頃は、子供たち(40歳代、50歳代)にとっては働き盛りであると同時に一番経済的な負担も増大するときである。正直言って、親の面倒を看る余裕は物理的にも、経済的にも無いというのが本音であろう。ましてや、兄弟姉妹はそれどころではない。自分たち自身が同じ境遇にあると考えておく必要があろう。要は自分(たち)のことは自分でケリを付けるしかないのである。(令和6年7月1日、月曜日、午後11時40分、天気は一日雨)

それでは今から打てる対策とは何であろうか?二人共元気なうちに、あるいは少なくとも片方が元気なうちに、万が一片方、あるいは両方が要医療、要介護状態になったときは家族以外の誰かに献身的に面倒を看て貰う約束を取り付けておくしかないのである。一つは高額な金銭を支払って、いつそういう事態になっても満足のゆく対応を約束してくれる民間施設(具体的には介護付き老人ホームといわれる施設)に入ることである。そして、それは以降最期の看取りまでを保証してくれるところでなければ意味がない。

 そうした施設は入所の際には高額な一時金の支払いが必要なところが多く、一時金が無い、もしくは低額な場合は入所してからの月々の支払がその分高額になるだけである。どちらかといえば、今、一時金を支払うことが可能であるならば、月々の支払いを抑えた方が安全である。なぜなら、これから先何年生きるか分からないのに、年金額とその他の収入(あれば)を合計した金額に余裕がなければ、いつまで月々の負担に耐えられるか予測ができないからである。施設によっては入所したときは二人共、或いは片方が自立していても、いづれどちらか、もしくは両方が要介護状態になった場合、別の介護居室、または介護施設に住替えなければならず、その際には更なる一時金の追加や月々の負担が大幅に増える施設もあるので注意が必要である。(令和6年7月3日、水曜日、午前0時18分)

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 日本がどんどん貧しくなっている。そのことが最も身近にわかるのが、毎日のテレビで(我が家は昨年から新聞の購読を止めた)報道されるニュースである。コロナ後目に見えて増えているのが、昔は考えられなかったようなおぞましい、あるいは人間の所作とは思えないような事件である。金や恨み、妬み、SEXなどの全く個人的な身勝手な欲望のために平気で子どもや他人を殺したり、傷つけたり、騙したりする人間が、老若を問わず増えている。

 これらは間違いなく、職がなく、金がなく、家族や友人などの人との縁もなく、孤独な人間が増えている証拠である。マスコミでニュースとして報道されるこれらの事件の後ろには、老若男女を問わず大勢の孤独で不満のやり場もない人たちが存在することが想像できる。(令和6年7月9日、火曜日、午後24時)

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 今日、朝のNHK番組「新プロジェクトX〜挑戦者たち」で窓際のトットちゃん、こと黒柳徹子の「トットちゃんの学校」を観た。小林宗作(1893〜1963)という音楽教師が1937年(昭和12年)に自分の理想を実現するために、リトミックを教育の基礎とするトモエ学園(幼少一貫校)を設立する。

 その教育方針は当時としては、独特なもので子供たちの自由な意思を最大限に尊重するものであった。トットちゃんこと黒柳徹子は小学校1年生の時に問題児とされ退学させられたため、トモエ学園に転校する。そこで、生涯忘れることのできない小林宗作先生と出会うのである。

 「どんな子もすばらしい才能を持っている」「教育は20年先を見て行うもの」という言葉が表すとおり、最大限に子どもの自由意思を尊重する教育であったようだ。その成果は教え子たちが如実に証明しているといえる。トットちゃん(黒柳徹子)はもとろんのこと、その他にも、井上園子(ピアニスト)、山内泰二(やまのうち たいじ、物理学者)、池内淳子(女優)、津島恵子(女優)、美輪明宏(シャンソン歌手、俳優)などがいる(Wikipediaより)。

(追記)
 〜Wikipediaでトモエ学園を調べてみたら、学園の卒業生の上から2番目に「野辺地 瓜丸(のべち うりまる)」が載っていた。「瓜丸」は幼名で、大人になってからの名前は「野辺地 勝久(かつひさ)」である。昭和初期から戦後にかけてピアニスト(ショパン弾き)として活躍。幕末から明治にかけて、教育者、外国高官、明治の政財界、文壇などの会員制クラブ「紅葉館」の館主を務めた野邊地尚義(たかよし)の孫に当る。野邊地尚義については当ブログ、2019年1月24日付けの記事を参照されたい。母がよく野邊地勝久の名前を口にしていたことは憶えている。〜

 僕はこの教育方針にはほとんど(「ほとんど」というのは、全てを知っているわけではないから)共感する。その理由についていくつか思いつくままに挙げてみると以下のようになろうか。

 理由1.僕が若い頃(子供ができて育児に関心を持ったころ、30代初めのころだったと思う)に読んで感銘を受けた本がある。その本は昭和43年に出版された「脳と人間」(時実利彦著、雷鳥社)である。未熟な状態で生まれてくる赤ん坊の脳は、育て方、教育の仕方によってどんなにでもなりうる。生まれたばかりの赤ん坊は、大人と同じ数(およそ140億*)の脳細胞をもって生まれてくる。そして、その脳細胞は死ぬまで増えることはなく(年齢とともに減ることはある)、身体の他の細胞のように一定の時間で更新されることもない。変わるのは、その脳細胞が手をのばし(ニューロン)絡み合ってゆくうちに物心がつき、知恵がついてゆく。あらゆる生物のうちで人間だけが、家族によって家庭という生活の場をつくっている。そして、この家庭の重大な役割の一つは、未熟な脳を持った赤ん坊を、親が描いている立派な理想的な人間の脳に仕立て上げることなのであると。
*最近の研究では、成人の脳の神経細胞は1000億個を超えるというものもある。別冊Newton「脳とはなにか」P.36 脳の活動を画像化できるfMRI。

 さらに、その脳細胞の絡み合いは生まれてから3歳までと、4,5歳から7歳までと、そして10歳前後の三つの段階を作って発達するという。特に、第一段階(3歳まで)の発達は急ピッチで、母親や家族などのまわりの環境から入る情報によって基本的な配線(絡み合い)ができあがる時期となる(三つ子の魂、百までも)。そして3歳を過ぎ第二段階(4,5歳〜7歳まで)になると、模倣の段階を脱却して、自分というものを自覚し、自分を主張し、自主的に行動し、意図的に学習するようになる(創造の時期)のだという。つまり、やる気が芽生えてくるのである。そして、第三段階(10歳前後)の頃には、ほぼ絡み合いが完成し、この頃になると、喜びや悲しみや、妬みや嫉みなどの情操の精神が身についてくるという。

 このことからしても、トモエ学園の子どもたちの自主性を最大限尊重するという教育方針は科学的にも正しいと思う。また、どの赤ん坊も生まれながらにしておよそ140億個の脳細胞を持って生まれてくる。そして、その数は死ぬまでにそれ以上に増えることはなく(年齢とともに減ることはある)、更新されることもない。もしそうだとすれば、天才であるアインシュタインも、どの赤ん坊も生まれた時は、ほぼ同じ数の脳細胞をを持って生まれてくるはずであり、遺伝的な要因がなければ(現在の脳科学では全く解明されていない)、「どんな子もすばらしい才能を持っている」のである。

 理由2.これは全く僕の個人的な思いなので、他の人の参考にはならないかも知れない。祖父の貴一に関する思いででもある。僕は昭和20年3月に東京で生まれた。父親は前年の昭和19年10月にフィリッピンのルソン島南端のレガスピー基地から出撃して帰らなかった(詳しくは2018年9月15日の記事、「父のこと・・・・続編」参照)。その後僕は3歳から10年間を北海道北見市の「河西牡丹園(当時)」で祖父母の許で育った。

 祖父の教育方針は、幼児であっても本人の自由な意思を尊重するというか、周りの大人が余計な手出しをすることを嫌った。今でも記憶にあるのは、子供がこけて泣いても喚いても、「放って置け!」との一言。周りが助けようとすると、「余計なことをするな!」の一喝。すべてその調子だから、風邪を引いて熱を出しても、病院など行ったことがないし、もちろん薬も飲んだ記憶がない。今から考えると、なんて無謀なとつい最近まで思っていたが、歳を重ねるに従い今の若い両親の子育てを見ていると、子供の自立心を阻害してしまっているように感じることが多い。

 祖父の教育は決して自由放任ではなかった。特に弱いものいじめや嘘をつくことにはとても厳しく怒られた。あるとき、小学生高学年か中学生低学年のころであったと思うが、当時竹ひごと輪ゴムで模型飛行機を作って、友達と飛ばしっこをするのが流行っていた。どうしても新しい模型が欲しくて、祖父の机の中にあった小銭を断りなく持ち出してしまった。祖父はそれを知って、奥座敷にいつも鎮座していた本物の刀(記憶では秀吉の家来が所持していた由緒ある二本差しで、ほんものの鎧と一緒にあった)を持ってきて鞘から抜き出して言った。「噓つきは泥棒のはじまり、嘘をついたらいまからお前の左腕を切り落とす」。ぼくは、もちろん慌て驚いて机のなかからお金を盗んだことを告白し謝った。それ以来、僕はこの歳になっても嘘をつくことが怖くてできない。一つ小さな嘘をつくと、それを隠すためにまた嘘をつかなければならなくなる。逆に嘘をつかなければ素直に反省することも、謝ることもできる。

(追記)
 これには後日談がある。祖父は僕をきつく叱った後に、こう付け加えた。「飛行機が欲しかったらそう言え。本物の飛行機を買ってやる。」と。

 もう一つ、祖父の言った言葉を憶えている。それは、毎年年末になると「赤い羽根」や「救世軍」などといって特に若者が街頭に立って、通行人に向かって寄付を呼び掛ける光景が昔も今も見られる。僕は困っている人たちのために良いことをしている、エライなあ、と思っていた。ところが、祖父は違った。「若い人は自分がアルバイトでも、手伝いでもなんでもいい、働いて自らが得たお金を寄付すればいい。ただ通行人に寄付をお願いするのは、乞食がすること。」というのである。僕は最初に聞いた時はこども心にも、納得がゆかなかったことを憶えている。しかし大人になって、歳を重ねるに従い祖父の真意が少しは理解できるようになった。賛否はあると思うが、人間はどんな境遇にあっても、ひとりひとり(自分のためのみならず、他人のためにも)できることはしなければならない。自分でできることを他人に頼ったり、場合によっては社会や国のせいにする前に、自分は充分な努力をしてきたのだろうか?考えることも必要なことである。(令和6年7月15日、月曜日、曇り、午後1時50分)
  
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 トランプ前大統領が狙撃された。13日米国東部のペンシルベニア州での選挙集会で演説中に狙撃され右耳を負傷した。集会に参加していた男性1人が死亡、2人が重傷を負った。FBI(連邦捜査局)は犯人を地元に住むトーマス・マシュー・クルックス20歳と特定、本人は現場でシークレットサービスにより射殺された。

 この一報をTVニュースで見て、最初に思ったことは「ああ、やっぱり起こったな」ということである。このところ、バイデンの認知症疑念が民主党内部でも混乱を招いている。僕が見るところでもバイデンではあと4年間は米国大統領の重責は保たないだろうと思う。このまま9月からの選挙戦に突入すれば、大掛かりな選挙違反でもない限りトランプが勝利する確率が高い。「もしとら」ではないが、トランプが大統領になれば、いままでのバイデン政権の政策は180度転換することになるだろう。

  ウクライナへの支援は見直され、NATOの負担強化を要求するだろう。そもそもトランプが明言しているように、ロシアとウクライナ間の戦争は彼一流のDEALにより停戦を迎えるか、あるいは南北朝鮮のように休戦となるかもしれない。また、バイデンが推し進めている環境問題については、パリ協定からの離脱、国内においてはバイデンによって停止している石油、天然ガス、シェールガスなどの開発が再開されるだろう。アメリカの景気は回復し、よって日本の経済も安定するかもしれない。中東についても、イスラエル、パレスチナ、サウジアラビア、イランなどの間を調整し、ガザで進行している悲劇を止められるかもしれない。現にトランプが大統領であった間は、プーチンも金正恩も大人しかった。中東でも戦争はなかった。

 トランプが再び大統領になって、これらの政策の大転換が起こることを望まないのは誰であろうか?自分たちの利益に反することを放ってはおけない勢力とは何だろう?それは、世界は自分たちの力を以てすれば自分たちの思うようにすることができると思っている人たちではないのか?ウクライナの戦争が長引けば長引くほど利益を得ることができる人たちではないのか?脱炭素などといって環境問題を声高に叫ぶことによって利権を作っている人たちではないのか?ますます、我々自身がよく知り、深く考えなければならない時代になっている。(令和6年7月15日、月曜日、海の日(?)、曇り、午後5時14分)

(追記)
〜米大統領や候補者の過去の銃撃事件を見てみると、下記のとおり圧倒的に共和党が多いことに気がつく。そもそも日本を戦争に引きずり込んだのは民主党政権(ルーズベルト)ではなかったのか。

1865年 リンカーン(共和党)南北戦争の終結直後、ワシントンの劇場で南部側支持者に銃撃され死亡。
1881年 ガーフィールド(共和党)ワシントンの鉄道駅で支持者だった男に狙撃され2か月後に死亡。
1901年 マッキンリー(共和党)ニューヨークの博覧会会場で無政府主義者に撃たれて死亡。
1912年 セオドア・ルーズベルト(共和党)ウイスコンシン州ミルウォーキーで大統領選演説中に被弾。
1963年 ケネディ(民主党)テキサス州ダラスでパレード中に銃撃され死亡。容疑者移送中に撃たれ死亡
1968年 ロバート・ケネディ(民主党)カリフォルニア州で大統領予備選の遊説中に撃たれ死亡。
1981年 レーガン(共和党)ホテルの車寄せで被弾。胸部に命中したが一命を取り留める。

 唯一ケネディ兄弟が民主党だが、JFKの暗殺については56年経った今でも謎である。一説によれば、アメリカを実質的に支配しているFRBを廃止して、FRBの力の源泉である通貨発行権を政府(国民の手)に取り戻そうとして殺害されたという。ではFRBとはその実態は何なのか?結論をいえば、民間の中央銀行である「連邦準備制度銀行」なのである。その支配構造は多重的で複雑であり、ここでは省略するが、その出資者はウオール街やイギリスのCITYなどの大手銀行であるナショナル・シティ・バンク、ファースト・ナショナル・バンクなどの民間銀行であり、政府や個人や非金融機関の法人は株主にはなれず、これらの銀行の主な株主は昔からロスチャイルド家、ロックフェラー家などの国際金融資本家と呼ばれる人たちなのである。

 今回のトランプ銃撃の犯人がまだ20歳の若者であり、本人はその場でシークレットサービスによって狙撃され死亡したとなると、いろいろな憶測が飛び交うこともある意味、当然だろうと思う。しかし、聞こえてくる状況からしすると、シークレットサービスや警察、あるいはもっと上の方が敢えて警備の手抜きをしたのでなければ、ちょっと考えにくい事件ではある。(令和6年7月19日、金曜日、午後11時10分)

(追記)
 今日、7月17日に収録された青山繁晴参議院議員のU-TUBE動画「第772回 ぼくらの国会」を観た。青山さんの見解は、今回の銃撃はトランプだけを狙ったものではなく、無差別殺戮だったというのが真相だろうとの見解を述べた。青山議員は安全保障と危機管理のプロでもあり、銃(今回使用されたAR15)についても詳しい。もちろん日米両方の公的機関とも連絡を取ったうえで話をしているので信用性は高いと思う。アメリカで続く、それも若い人の無差別銃撃は同国が病んでいることを如実に表していると思わざるを得ない。(令和6年7月21日、日曜日、午後3時40分)

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2,3日前からNETで取り寄せた2冊の本を読み始めた。2冊は上巻と下巻であり、上巻は「日本の心に目覚める五つの話」と下巻は「日本の心を思い出す六つの話」という題名である。2冊ともその題名の頭にはこう書かれている。「神道学博士が語る日本人に生まれたことが嬉しくなる日本史11話」とある。著者は皇學館大學教授の松浦光修(みつのぶ)氏である。出版社は経営科学出版。

<上巻 「日本の心に目覚める五つの話」(左)と下巻 「日本の心を思い出す六つの話」(右)>
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 2024年3月2日の記事「独居老人の独り言」で書いたアマゾンで購入した本、「血管をよみがえらせる食事」を読んで、その後の顛末について触れておこうと思う。10年前(2014年8月に心臓手術(冠動脈ステント留置)を受けた自分としては、この本に書かれていることは全く他人事ではなかった。確かにいわれてみれば、いくら最新のステント(ステント挿入時に損傷により出血が生じ、止血のために自然治癒反応が働き、血小板が活性化することにより血液が凝固して血栓が形成されてしまうために、この自然治癒反応を低下させる薬剤がステントにコーティングされている)を使用したとしても、内皮が傷ついたところに血栓ができることにより、数年後には突然詰まってしまう可能性がある。また、炎症を防ぐコーティング剤は内皮の治癒力をも下げてしまう。

 これらの治療はこの病気の根本的な治療法ではないのだ。それよりも、このような破壊的な結果になるまで堆積してしまう脂肪性の物質(プラーク)を断ち切ればよいのである。つまりは、総コレステロール値を150r/dl以下に、LDL値を80r/dl以下に下げるために、厳格なプラントベースの栄養摂取を行い、必要であれば低用量のコレステロール低下剤を併用することで、それらを達成し、維持すれば、誰一人として心臓病は進行しない。

 この本の教えに従い、といってもいざ実行するとなると、完璧に従うことは非常に難しい。第一に、避けなければならない食品として、肉類(牛・豚・羊・鶏など)、魚、卵が含まれる。第二に、乳製品(バター、チーズ、クリーム、アイスクリーム、ヨーグルト、牛乳など)第三に、オイル(油類、バージン・オリーブオイル、キャノーラオイル、第四に、精製穀物(白米、パスタ、パン、ベーグル、ビスケットやクッキー、ケーキ、ペストリーなど。ただし、全粒粉100%のものはよい)第五として、ナッツ類(心臓病の人はすべてのナッツ類を避けるべき)となっている。

 食べることが許される(推奨される)食品として、先ず第一に、野菜(ほとんどすべての野菜。ただし、アボガドは脂肪が多いので除く)、第二に、豆類(あらゆる種類の豆)、第三は、豆腐、第四は、全粒穀物、第四に、果物(すべての種類、果汁100%のジュースは避けること)、第五は、飲物(天然ミネラルウオーター、オートミルク、ノンファット豆乳、コーヒー、お茶類など)。サプリメントとコレステロール低下薬については、ここでは省略する。

 とても100%は実行不可能だが、油類は極力減らすように心掛けた。また、できるだけRAW FOOD(生のまま食する。煮たり焼いたりしていない生きている細胞を摂る)、HOLE FOOD(自然のままで、加工していない食物。例えば全粒粉の穀物や玄米など)を心掛けてみた。毎朝、ニンジンとりんごを下ろし金で摺りおろし、レモン汁をかけて食べることにした。一日二食も、主食は玄米かオートミール、または全粒粉のパンかパスタにしてそのまま続けているが、その効果は毎朝測定している体重に現れている。1年足らずで10s以上減って、毎日快食、快便で以前より体力も増したように感じている。(令和6年7月20日、土曜日、午後11時20分)

<毎朝、血圧と体重を測定して記録している>
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 僕が今、理想と考えている生活は自給自足を原則とする生活である。ただし、山谷を駆け巡って鹿やイノシシを捕らえたり、川や海で魚介を採ったりすることは、たまに遊びとしては可能化もしれないが、日常の生活では無理である。それらは地元(北海道北見市を中心とするオホーツク地区)のできるだけ自然豊かな環境で生産されたものや、近くの川や海(北見市北部のオホーツク海やサロマ湖など)で獲れた新鮮な魚貝を購入することで入手することができる。よって、主に自分でできることは、園内の肥沃な大地に季節、季節の旬の野菜や果実を、植え育てて収穫し、できるだけ採りたての新鮮なままに熱を加えたり、加工せずにそのままで食べることができるという幸せを享受することである。自然農法*により自分が食べるだけの野菜を育て、毎朝収穫したばかりの野菜を食卓に乗せるという究極の贅沢な食事を実現するのことなのである。

*自然農法は1930年代に農業試験場の研究者だった福岡正信氏が試験場を辞職して、郷里の愛媛県で帰農し、実践した農法である。無農薬、無肥料、不耕起、無除草を4大原則とした。著書「自然農法 わら一本の革命」は後に世界的ベストセラーとなり、世界各国から特に若者が氏の許を訪れ教えを乞うようになる。2015年8月22日のブログ記事「自然農法」及び2017年8月3日の記事「有機農法と自然農法ー有機農法のまやかし」を参照されたい。

 幼年期を自然に近いところで過ごすことは、人間の一生を考えるとき、非常に大事なことだと思う。僕は幸か不幸か3歳から13歳までを、このぼたん園で過ごした。今になって本当に有難いことだったと身に染みて感じている。もし、そのような時期が無かったら、恐らく北見やぼたん園に関わることはなかったかもしれない。そして自然の奥深さも、本当の恵みも、本当の厳しさも知ることなく一生を終えることになっていただろう。幼年期の経験が無かったら、恐らく今頃は自然に対する関心も、興味も、尊崇の気持ちもなく過ごしていただろう。子供たちには、そのような経験をさせることができなかったが、是非孫たちにはそのような経験を幼年期の今のうちに、させてやりたいと切に思う。(令和6年7月25日、木曜日、曇り時々晴れだが、暑さは続く。午後2時15分)

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 本日(令和6年7月31日、水曜日)、予約をしていた介護付有料老人ホーム「サンシティ神奈川」の見学に行ってきた。4年前にも妻と一緒に見学に行っているので今回は2回目になる。今回は自分独りだけの見学である。

 午前10時30分にヴァリアントを運転して自宅を出た。今日の予定は先方に正午(12時)までに到着して施設の概要について説明を受けた後、昼食を試食、その後施設内を案内してもらい、午後3時ころから入居者の方との懇談が予定されている。充分余裕をみて自宅を出た積りであったが、途中東名高速青葉インターがら高速道路に入った途端、大渋滞に巻き込まれ現地に到着したのは丁度12時であった。

 早速応接室に通され、支配人(取締役)、マネージャー(男性)、お客様相談室(女性)の3名の方々と名刺交換、そしてここ「サンシティ神奈川」の概要について説明を受ける。4年前にも説明は受けているが、さらに詳しく周りの環境や交通の利便性、施設の充実度(特に共用部分)、人的な体制、そして医療や介護が必要になった場合の安心度などについて説明を受ける。「ここは老人ホームというよりはホテルのサービスを自宅で暮らすのと同じように受けられる」という言葉が一番印象に残った。

 確かに、1996年(平成8年)の開業以来、28年も経っているにも関わらず、建物や設備は年月を感じさせないほどしっかりしている。車利用の場合は、東名高速道路「秦野中井」インターから3分(実際は5分あれば十分)というのも、僕にとっては魅力だ。そして、施設内の殆どどこからも秦野市街はもちろん、丹沢の山並みがパノラマのように見渡せる。これも昔、よく一人で歩いた大山、二の塔、三の塔、塔ノ岳、鍋割山などの山名も懐かしい。さらに高層階からは富士山や横浜、江の島や三浦半島までが一望できる。

 新しい取り組みにも力を入れており、ベッドの下にAIスキャン機能を持つ装置が設置され、入居者の睡眠状況などが自動的に館内のクリニックに送られ、早期に異常を感知する。あるいは、7年ほど前からアシストサービス課と名付けた専門職のチーム(ソーシャルワーカー、ケアマネ、リビングケア=介護福祉士やヘルパーの資格を有し、いわゆる「フレイルゾーン(健常と要介護の中間)」に対応する)による入居者が持っている本来の力を最大限に引き出し(「エンパワーメント」)、持続させ、自立を促す環境作りにも力を入れているという。(令和6年8月1日、木曜日、午前0時5分)

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2024年06月30日

独居老人の独り言 令和6年6月 冷凍・冷蔵・解凍のコツなど。

 今日は6月30日、日曜日、現在の時間は午後2時20分、曇りで気温は29℃です。6月に入って初めてでかつ最後の独り言です。何から書いたらいいのか分からなくなるほど書きたいことは沢山あるにもかかわらず、いざ書くとなるとあれこれ考えてしまい、こんなことを書いても何の意味があるのか、とかこんなことを書いたら誰かに不快な思いをさせることにならないか、などの思いがブレーキをかける。

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 毎日、妻の夕食だけは宅配弁当を取っているが、それ以外の朝、昼、そして自分自身の夕食は準備しなければならない。最初の頃は結構負担に感じていたが、最近はそれも慣れてきたからか、献立を考えたり、食材を買いに行ったり、料理することにも少しづつ楽しみも見出せるようになったような気がする。

 先日は北見のコーチャンフォーで購入したORANGE PAGE BOOKSの「まとめ買いをムダにしない!解凍・収納法まで徹底解説!一生使える冷凍・解凍のコツ」を読みながら、冷蔵庫の中の野菜や肉・魚の保存方法について勉強させて貰った。今まで随分食材を無駄にしていたことを改めて反省させられた。こういうことこそ、本当に「学問のすすめ」に書かれていることそのままであることに納得する。学ぶことの大切さを実感した。そして、学ぶことの喜び、楽しさも感じることができた。

<オレンジ・ブック「冷凍・冷蔵のコツ」>
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 学ぶことの楽しみといえば、本当によい時代になったものである。今は学ぼうと思えば、それこそ何でも学ぶことができる。しかも最新の情報が毎日無料であれ、有料であれ入手できる。ただし、情報の中身は玉石混交であり、その分普段から自分自身の判断力を磨いておかなければ間違った方向に誘導されてしまうことにもなりかねない。(令和6年6月30日、深夜)

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2024年06月21日

令和6年6月16日、日曜日を以て今年のぼたん園はクローズしました。

 皆様のお陰様で6月1日、土曜日にオープンしてから2週間+1日の間に、凡そ700人以上の方にお見えいただきました。「遊木民族」を利用されたお客様や「ゆうゆうぼたん園」と「認定こども園 美山遊子」の関係者の方々なども含めると、恐らく1,000人近い方々が来園されました。ありがとうございました。(令和6年6月21日、金曜日、午後23時45分)

今日は6月24日、月曜日です。時刻は午後10時25分。6月18日には川崎に戻り、20日には妻を老健に迎えに行き翌日からは元に戻って、介護の日々を過ごしています。クローズしてから、あっという間に1週間が過ぎてしまいましたが、オープン最後の週末、15日(土)、16日(日)の園内の様子を以下に掲載します。残念ながら、両日は既に殆んどの牡丹が散ってしまい、遅咲きの株(黄色や黒などが多い)が咲いていました。

 今年の牡丹は5月23日から咲き始めましたが、昨年のブログ記事を見てみると5月27日に咲き始めたとなっています。やはり、年々少しづつ開花が早まっているようです。今年は開花後も比較的気温が低い日が多かったにもかかわらず、6月5日(水)には夜半からの雨が朝になっても降り続いたため、午後からは止む無く休園としました。雨が降ると牡丹は花が大きく重たいこともあり、花がうなだれてしまい勢いがなくなります。前々日の6月3日、4日頃がほぼ満開でしたので、少し残念なことでした。

<6月15日、11:17AMのゆうゆうぼたん園に隣接する花壇。牡丹の花はほとんど散ってしまいました(というか、花が開ききって花芯がむき出しになったものは、種を採る場合以外は株を疲れさせないように首から先を切り落とします)>
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<6月15日、11:18AM。ゆうゆうぼたん園の側から正門のある方角を撮影した写真です。花壇全体の下草が伸びて開園前の状態に近くなっています。>
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<6月15日、11:40AMの野生の藤の木です。花はすでに咲き終わって、緑の葉が生い茂り中心の針葉樹を覆いつくしてしまっていて、まるで「藤の大木」のようになっています。>
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<6月15日、11:52AM。円形花壇の牡丹もほとんど終わって、黄色と赤い花色の牡丹が数えるほどしか残っていません。>
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<6月15日、2:50PM.真っ赤な芍薬が咲き揃いました。手前の黄色い牡丹が目立ちます。知ってますか?芍薬は「草」で、牡丹は「木」なんです。>
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<6月15日、2:55AM。牡丹が終わる頃に「いづれがアヤメかカキツバタ」(いまだに区別がつきません)が咲き始めました。円形花壇の手前にあります。>
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<ぼたん園の北西に隣接する「認定こども園美山遊子」さんです。この日は6月15日、土曜日なのでお休みでしょうか。あるいは、時間が午後3時なのでお昼寝の時間なのか、園庭には子供たちの姿はなく静まり返っていました。>
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<遊具には手づくりの押し花?が飾られています。>
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<6月15日、3:12PMの観音様。手前は満開の「都忘れ」>
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<6月15日、3:14PM。オホーツクブルーの空と緑の芝生。静かなひと時です。>
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 以下は最終日の6月16日の様子です。

<6月16日、12:37PM。今季最後の草刈りです。創立記念碑のある花壇にて。>
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<6月16日、1:10PM。株数は少なくなりましたが、ジャーマン・アイリスです。平成17年6月15日に亡くなった叔母の節は、このはなが好きで沢山育てていました。>
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<6月16日、1:19PM。黄色い花の牡丹だけになって、緑が際立つ円形花壇。>
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 以下は閉園後の6月18日の様子です。

<6月18日、7:55AM。正門から芝生まで続く針葉樹の並木。樹齢は約100年になります。>
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<6月18日、8:01AM。赤い牡丹の花に止まって密を吸う「セイヨウオオマルハナバチ」(外来種)。このところ、5年以上前から「二ホンミツバチ」を見かけなくなりました。そういえば、以前(10年くらい前)はよく見かけたモンシロチョウやクロアゲハ、赤とんぼ、オニヤンマ、などほとんど見かけなくなりました。>
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<もう40年以上前から牡丹園(当時)のために働いてくださっているSさん。今の遊木の前身である叔母が経営していた牡丹園クラブハウスの仕事を手伝ってくれていましたが、今は牡丹の御守りがメインの仕事です。6月18日、8:07AM>
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<18日、8:09AM。彼女が丹精込めて育てたアヤメ(ORカキツバタ?)が咲き揃いました。>
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<赤い花をいっぱい咲かせる紅空木(べにうつぎ、幹の芯が空洞になっているので、そう呼ばれているそうな。紅空木に続いて白い花をいっぱい咲かせる梅花空木は、少し遅れて咲き始めます。>
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<6月18日、8:18AM。画面右の2連大砲のようなものは、5,6年前に枯れたために切られた桜の木>
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<6月18日、8:19。これも、大きな羽を広げたような紅空木の木>
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<6月18日、8:20。閉園して誰も来なくなった正門までは緑のトンネルです。>
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<6月18日、8:23。右は紅空木ですが、左の白い花は梅花空木?ではなくて、そう、小手毬(こでまり)。なんとかわいい名前でせう。>
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 今年もありがとうございました。来年も健康で過ごされますように。またお会いしましょう。(AIにて作成しましたよ。)

 最後に、地元北見市の情報紙「経済の伝書鳩」(5月31日版)と「北海道新聞」(6月5日版)に掲載されたぼたん園の記事を掲載しておきます。

<「経済の伝書鳩」5月31日版に掲載された記事>
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<「北海道新聞」6月5日版に掲載された記事>
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