2019年03月11日

「フロムに学ぶ「愛する」ための心理学」を読んで

  エーリッヒ・フロムについては、フロイトと並んで名前は知っているが、その著作を読んだことはない。本屋の立ち読みで、目に止まったのでパラパラと拾い読みをして何となく買って帰った。著者はフロムの「愛するということ」の訳者でもある。

「フロムに学ぶ「愛する」ための心理学」 鈴木 晶 著  NHK出版新書
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  前書きには、この本はフロムの「愛するということ」のガイドブックとして書いたこと、そしてフロムが「愛するということ」を書いたのは今から60年以上も前の1956年であり、1959年に旧約(訳者は別の人間)が出版されたが、読み難かったために1991年に筆者による新訳として出版されたことが書かれている。
  また、原題は「The Art of Loving」であり、日本語に訳すと「愛の技術」であり、フロムは「愛は技術である」と断言しているところがこの本のもっともユニークなところであり、技術だということは、それを習得しなければ、愛することはできないということだとしている。

第1章 愛は技術である
  フロムは現代社会を「愛の本質が見えにくい社会」と捉えている。人々は「愛の本質」を見失い、間違った愛を「本当の愛」と勘違いしていると見る。
  ほとんどの人は、愛の感情は誰もが生まれながらに持っているものであり、誰かを好きになって恋に落ちるのは、人間にとって当たり前のことだと思っている。つまり、愛とか恋愛感情とかを抱く能力は誰もが生まれつき持っているものであって、人を愛することは誰にでもできることであり、したがって、愛についてあらためて学ぶ必要などない、と思っている。
  「そうではない」とフロムは断言する。愛は「成熟した大人」だけが経験できるものであり、本当の愛を体験するためには、愛とはいったい何なのかを深く学び、愛するための技術を習得する必要があるという。
  愛という技術を身につけるには、愛の理論を学び、習練に励む必要があるのだ、と。
  フロムは、人々が「愛については、学ぶ必要なんかはない。愛はうまれつきそなわっているのだから」と思い込む、その根底には三つの誤解があるという。
  
  一つ目の誤解は、ほとんどの人が愛の問題を「愛するという問題」ではなく、「愛されるという問題」として捉えているという点である。
     
    たいていの人は、愛の問題を、愛するという問題、愛する能力
   の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。
   つまり、人々にとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どう
   すれば愛される人間になれるか、ということなのだ。

  もし、愛の本質をそう考えているとしたら、あなたは未熟であり、未熟な愛しか知らない。「愛される」関係の原型は、母性愛に包まれている段階、つまり幼児の段階の愛である。だから、精神的にはあなたはまだ幼児なのだ。

  二つ目の誤解は、愛が「(愛する)能力」の問題ではなく、「対象」の問題になってしまっている点である。

    愛には学ぶべきことなど何一つない、という考え方の底にある
   第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の
   問題ではない、という思い込みである。愛することは簡単だが、
   愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるにふさわしい相手を
   見つけることはむずかしい・・・・・人々はそんなふうに考えて
   いる。

  つまり、自分には人を愛する能力はあるが、相手がいないのだ、という誤解である。資本主義社会にどっぷり浸かって生きている私たちは、愛の対象を選ぶ際も、無意識のうちに市場原理、すなわち「交換」の原則に従いがちである。自分の社会的価値を認識したうえで、自分に見合ったレベルのなかから最良の「お買い得品」を探そうとする。
  でも、人間は商品ではない。自分にとって損か得かで相手を選ぶことが、果たして本当の愛なのか・・・
そうフロムは疑問を投げかけている。
  愛は対象の問題だと考えている人は、関係がうまくいかなくなったとき、必ず相手のせいにする。「あの人は私にふさわしい相手ではなかったのだ」と。原因が自分の未熟さにあったのかもしれないという可能性など考えようともせず、「どこかにもっといい相手がいるはずだ」と、次の相手を探す。でも、そういう人は成長しないので、次の関係もうまくいかず、「どこかに理想の相手がいるはずだ」と考えながら、一生を終える。

  三つ目の誤解は、多くの人が、恋愛は自分の意志とは関係なく「落ちるもの」だと勘違いしていることである。

    第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛して
   いる、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどま
   っている」という持続的な状態とを、混同していることである。

  と、フロムは書いている。「恋に落ちる」という表現は「fall in love」からきているのだろうが、フロムも、

    それまで赤の他人どうしだった二人が、たがいを隔てていた
   壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感をおぼえる瞬間は、
   生涯をつうじてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。

  と、書いている。フロム言わせれば、これは本当の愛ではない。瞬間的に燃え上がった愛は、最初はお互いに夢中になっていても、やがては興奮から冷めてしまう。長続きしない。永続的に「とどまっている」状態こそが本当の愛だというのである。付き合ってすぐにセックスまでに進展し、それを「恋愛」だと信じ込んでしまうような愛を、フロムは「それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎない」と批判している。

第2章 フロムって、いったい誰?
  フロムとは、いったいどんな人物だったのか?

  エーリッヒ・フロム(Erich Seligmann Fromm)は1900年(明治33年)にドイツのフランクッフルトに、ユダヤ人夫婦の一人息子として生まれた。先祖代々ラビ(ユダヤ教の宗教的指導者・法律学者)の家系で曽祖父も祖父も著名なラビだった。フロムの父親もラビとして生きることを望んでいたものの、願いが叶わず、不本意ながらも生活のために小さな果実酒店を営んでいた。フロムは祖父の影響で、幼いころからタルムード(ユダヤ教の経典)学者に憧れを抱くようになり、13歳のときからラビのもとで、タルムード学者になるための本格的勉強をスタートする。

  ちょうどその頃(1914年)、第一次世界大戦が勃発する。まだ十代の若者だったフロムにとって、この戦争は、価値観がひっくり返されるほどの大きな意味をもっていたようで、このときの印象を、後にこう述べている。

     1918年、戦争が終わったとき、すでに青年になって
    いたわたしは、ひどく困惑し、どうして戦争が起こるのか
    という疑問、つまり人間の集団行動の非合理性を理解したい
    という願いと、平和と国際的相互理解に対する熱情的欲求に
    とりつかれていた。そのうえ、すべての公認のイデオロギー
    と公式宣言のたぐいに対して、極度に懐疑的となり、
    「いっさいのことについて疑わねばならぬ」という確信に
    満たされていた。

  このときフロムは、フランクフルト大学で法律を専攻していたが、1年で大学を自主退学し、その後ハイデルベルグ大学で社会学、心理学、哲学を学び、多くの知識人との交流を深めてゆく。そんななかで、フロイトの精神分析学と出会い、人間の心理に強い興味を抱くようになり、やがては、精神分析学の研究に没頭するようになる。そして、フロム30歳のときにフランクフルト社会研究所の社会心理学部長に就任するが、このころのドイツ国内では国家社会主義(ナチズム)を唱えるヒットラーが台頭し始めていた。

  1933年、ナチスが政権を握り、ドイツ国内はファシズム一色に染まってしまう。フランクフルト社会研究所は、国家に敵対する組織と見なされたため、研究所のメンバーはアメリカに亡命することになる。
  当時、フロムは一足先に、シカゴの精神分析研究所に招聘されてアメリカに渡っていたために、その後に起こったナチスによるユダヤ人への弾圧や大虐殺(ホロコースト)に逢うことはなかったが、ドイツ国民が自由を捨てて、ファシズムへと傾斜して行く状況は、肌で感じていたものと思われる。

  ファシズムを体験したフロムは、以前にも増して「戦争はなぜ起こるのか、なぜ人間は非合理な行動に向かうのか」と、人間の本質と社会の問題についてさらに深く問いかけるようになってゆく。
  それにつれて、フロムの興味は、フロイト理論からマルクス思想へと移ってゆく。「心理や精神だけを研究していても社会変革は望めない。社会制度の在り方を改めて見直し、そこから人間の行動原理を探ってゆくことも必要だ」と考えるようになってゆく。
  その頃のアメリカでは、人間の行動をフロイトのように生物学的見地から考えるだけではなく、行動の要因を社会制度にも求めて行こうという、大きな潮流が起こっていた。「新フロイト派」「フロイト左派」と呼ばれ、フロムもそのなかの一人である。

  第二次世界大戦の只中の1941年、フロムは最初の著書「自由からの逃走」を著し、ファシズムがドイツに出現した理由を、社会学的・心理学的アプローチから解明しようとした。
  「人間は孤独を最も恐れている」ということが、すべての前提であるが、人間は一方では自由への憧れをもっている。しかし、やっかいなことに人間は自由になればなるほど、個人個人はバラバラになり、やがては孤独に苦しむようになる。そうなると、今度は孤独から逃れるために、自由を手放すことを自ら選択し、大きな権威に身をゆだねる方向に向かってゆく。つまり、自由と引き換えに孤独から逃れようという心理から生まれたのがファシズムである、というのがフロムの考える論理である。

  「なぜヒトラーのような独裁者が生まれ、ファシズム国家が生まれたのか」という問いを掘り下げて行くと、結局は国民が自分たちで望んでつくり上げたものだったという事実にたどり着く。つまり、ここに書かれているのは、現代を生きる人びとすべてが抱えている普遍的な心の問題であり、現代の日本にもそのままあてはまるといっても過言ではない。

  1947年に出版された、「人間における自由」も自由をテーマに書かれたもので、人間が自由に生きるためには「生産的性格」を磨くことが大切で、そのためには正しい愛と本質を見抜くための理性を磨き、孤独であることを恐れない姿勢が必要だとして、さらに理論を人道主義的な方向へと展開している。

  そして、1956年に出版されたのが「愛するということ」である。社会変革を考えるうえでは、国家体制や政治の問題に注目することも大切だが、じつは社会のなかで愛がどんどん失われつつあることこそが、最大の問題なのだというのが、「自由からの逃走」、「人間における自由」の論理をさらに先へと進めて行って最終的にたどり着いたフロムの結論なのである。
  ユダヤ人としてこの世に生を受け、二度の戦争を体験するなかで人間の精神と社会の在り方に興味を抱き、すべてのものに「なぜ?」と問いかけ続けたフロムが最後にたどり着いたのは「愛」の問題だった。

第3章 孤独の克服
  フロムは、人間と動物の違いは、動物が本能的なものに従って生きているのに対して、人間は本能的なものもわずかながら残ってはいるが、他の動物とは違い本能的な世界(自然界とも言い換えられる)から抜け出してしまったことことである、とする。
  そのことにより、人間は「一人では生きてゆけない」存在となり、しかももっと重要なことは、心理的・精神的にも「一人では生きてゆけない」存在となった。

     人間は理性を授けられている。人間は自分自身を知って
    いる生命である。人間は自分を、仲間を、自分の過去を、
    そして未来の可能性を意識している。
     人間はたえず意識している。・・・・人は一つの独立し
    た存在であり、人生は短い。人は自分の意志とはかかわり
    なく生まれ、自分の意志に反して死んでゆく。愛する人よ
    りも先に死ぬかもしれないし、愛する人のほうが先に死ぬ
    かもしれない。人間は孤独で、自然や社会の力の前では無
    力だ、と。こうしたすべてのため、人間の統一のない孤立
    した生活は、堪えがたい牢獄と化す。
     この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人々となん
    らかの形で接触しない限り、人は発狂してしまうだろう。
     このように、人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服
    し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この
    目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。
     なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤
    立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるし
    かない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ。

  そこで、人間は原始時代から現代にいたるまで、この「孤独の牢獄」から逃れるために、さまざまな方法を試みてきた、として「祝祭的興奮状態」、「集団への同調」、「創造的活動」の三つを孤独から逃れる手段として挙げている。しかし、孤独から逃れる本当の解決策は、そこには存在しないという。

     生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感では
    ない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。
    集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感に過
    ぎない。完全な答えは、人間どうしの一体感、他者との融合、
    すなわち愛にある。
     自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間の
    最も強い欲望である。それはもっとも根源的な熱情であり、
    この欲望こそが、人類を、部族、家族、社会を結束させる
    力である。融合を達成できないと、発狂するか、破滅する。
     自分が破滅する場合もあるし、ほかの人を破滅させる場合
    もある。この世に愛がなければ人類は一日たりとも生き延
    びることはできない。

  それでは、フロムの考える「本当の愛」とは何か?フロムは「成熟した愛」こそが本当の愛だという。

     成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結
    合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人
    をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と
    人を結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立
    感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分
    の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、
    しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。

  ここで大事なのは、二人が一つになりながらも、それぞれが独立した自分自身であり続けること、どちらか一方の個性を殺すのではなく、それぞれが自分自身を失わないままの合一こそが、成熟した愛の形だという。本当の愛があるならば、お互いに個性を失わずとも合一がはかれるはずだ、とフロムは主張する。

  そして、もう一つ大事なのは、「愛は、人間のなかにある能動的な力である」という部分である。

     愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その
    なかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」もの
    である。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現
    すれば、愛はなによりも与えることであり、もらうことでは
    ない、と言うことができよう。

  フロムは、自分への見返りを期待したものや、ナルシシズムを含んだものは、本当の意味での愛を与える行為とは言えないと否定している。
  フロムは「与える」ことの重要性を繰り返し強調しているが、何を「与える」のか?これに対して、フロムはずばり、「自分の生命」を与えるのだという。ただし、ここで言っている生命とは「命」のことではなく、「自分のなかに息づいているもの」のこと。相手に対して、「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもの」すべてを与えることが愛だ、とフロムはいう。

     自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、
    自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を
    高める。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた
    者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝
    するのだ。とくに愛に限っていえば、こういうことになる。
    ・・・愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛
    を生むことができないということである。

  愛とは、最初から自分のなかにあるものではなく、相手との関係のなかで、あなたが生むものなのだ。

     与えることによって、必ず他人のなかに何かが生まれ、
    その生まれたものは自分に帰ってくる。本当の意味で与え
    れば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えると
    いうことは、他人をも与える者にするということであり、
    たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分
    かちあうのである。

  多くの人が「自分を幸せにしてくれる相手」を探しているのではないか。そういう人は「もらう」ことしか考えていない。相手を幸せにしたいと思ったとき、あなたは必ず何か行動を起こすだろう。何もしないで、相手が幸せになるはずがないのだから。そのように行動を起こすこと、それが「与える」ということなのだ。
  そのためには、自分が「生産的」で「能動的」でなければならない。そして生産的、行動的であるためには、精神的に発達していなくてはならない。「与える」という行為は、誰もが生まれつきできることではないのだから。

  フロムは、愛に必要な四つの能動的性質として、「配慮」、「責任」、「尊重」、「知(理解)」を挙げている。
  まず、いちばんの基本となるのが「配慮」である。配慮とは相手の気持ちや立場を考えること、つまり他人に対する気遣いである。誰かを好きになると、相手のことが気になって「何をすれば喜んでくれて、何をすれば嫌がられるのか」を考える。配慮に必要なのは「相手がいま幸せなのかどうか」という相手に対する想像力であり、相手の気持ちを想像し、それに対して自分がどう行動すればいいのかを考えるのが配慮である。

  二つ目は「責任」である。これは、今の時代で最も欠落しているものかもしれない。結婚とか、生涯続くような関係を築いてゆくためには、どうしても責任というものが発生する。家庭をもつということは、当然ながら我慢しなければならないこともある。それを受け入れるのが本当の愛である。

      ほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。
     責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、
     何かを求めてきたときの、自分の対応である。「責任があ
     る」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意
     がある、という意味である。

  三つ目は「尊重」である。相手を、一人の自立した人間として尊重するということである。言い換えるなら、自分が人間として成長して行きたいと願うと同時に、相手に対しても幸福や成長を願う気持ちをもつことが尊重だといえる。そのためには、自分がまず自立していなければならないことは言うまでもない。

  四つ目の「知(理解)」は、相手を理解するということだけではなく、相手を知ることによって自分自身を知るという意味を含んでいる。一人の他者を深く知れば、自分を知ることにもなり、人間すべてを理解することにもなる。さらにそれは最終的に「人間を発見する」ことにもつながってゆく。

第4章 愛はどこからきたのか
  この章では、愛する能力はどこから得られるのか。いろいろな愛の形や側面について述べている。
  愛のルーツとしての母性愛、条件のつく父性愛、人類全体に対する兄弟愛(人類愛)、恋愛(異性愛)、自己愛そして、神への愛。
  ここでは、それらのうち、恋愛(異性愛)について触れておく。

      異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つに
     なりたいというつよい願望である。
      人間が互いに孤立していることは、肉体的に離れて
     いるという意味に過ぎないので、肉体的に結合するこ
     とによって孤立を克服しようとするのである。

  「恋に落ちる」という経験をしたとき、多くの人はそれを真の恋愛と誤解してしまう。そして、すぐに相手と親密な関係になりたいと思う。それは、孤独の恐怖から逃れたいからである。愛が性欲をかきたてることもある。しかし、多くの人は「二人の人間が肉体的に求め合うときは愛し合っているのだ」と誤解している。 つまり、性欲のせいで愛していると思い込んでいるにすぎないのに、性欲を感じるということは愛しているということだ、と誤解している。セックスによって急速に接近した関係は、多くの場合、しばらくすると冷めてしまう。すると二人は分かれて、また新しい相手を探すことになる。「それで何が悪い」という人もいるが、同じ過ちを繰り返していたら、一生、真の愛に巡り合うことはできない。「理想の相手を見つけるのは難しいから、多くの人を試すしかない」という人もいるが、それは「愛を対象の問題と誤解している」のだ。本当の愛ではない、未熟な愛をいくら繰り返しても、理想の相手に近づくわけではない。

      それ(恋愛)によって彼らは孤独を克服したと感じるが、
     彼らは彼ら以外のすべての人びとから孤立しているので、
     依然として互いに孤立しており、自分自身からも疎外され
     ている。彼らが味わう一体感は錯覚にすぎないのだ。

  フロムは、また、こうも言っている。

      したがって、異性愛とはひとえに個人と個人が引きつけ
     あうことであり、特定の人間どうしの独特のものであると
     いう見解も正しいし、異性愛は意志の行為にほかならない
     という見解も正しい。いや、もっと正確にいえば、どちら
     も正しくない。それゆえ、異性愛はうまくゆかなければ簡
     単に解消できる関係であるという考え方も、どんなことが
     あっても関係を解消してはならないという考え方も、間違
     っているのである。

第5章 現代社会における愛
  フロムは、「愛するということ」の第三章「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」の冒頭で以下のように述べている。

      現代社会における愛について論じるということは、
     すなわち、西洋文明の社会構造とそこから生まれた
     精神が、愛の発達を促すものであるかどうかを問う
     ことである。そして、そのように問うということは、
     すなわち、答えが「否」だということである。
      西洋社会を客観的に見てみれば、兄弟愛、母性愛、
     異性愛を問わず、愛というものが比較的まれにしか
     見られず、さまざまな形の偽りの愛によって取って
     代わられていることは明らかだ。そうした偽りの愛
     こそ、じつは愛の崩壊のあらわれなのである。

  資本主義社会が人間をどのように変えてしまったのか、フロムは次のように述べている。

      現代資本主義はどんな人間を必要としているだろ
     うか。それは、大人数で円滑に協力しあう人間、飽
     くことなく消費したがる人間、好みが標準化されて
     いて、ほかからの影響を受けやすく、その行動を予
     測しやすい人間である。また、自分は自由で独立し
     ていると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従
     せず、それでいて命令にはすすんで従い、期待に添
     うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という
     機械に自分を進んではめ込むような人間である。そ
     の結果、どういうことになるか。
      現代人は自分自身からも、仲間からも、自然から
     も疎外されている。現代人は商品と化し、自分の生
     命力をまるで投資のように感じている。投資である
     以上、現在の市場条件のもとで得られる最大限の利
     益をもたらさなければならないということになる。
      人間関係は本質的に、疎外されたロボットどうし
     の関係になっており、個々人は集団に密着している
     ことによって身の安全を確保しようとし、考えも感
     情も行動も周囲とちがわないようにしようと努める。

  資本主義社会では、マルクスが言うように労働者は自分の労働からも、自らの労働生産物からも疎外される。その結果、労働者は労働よりもむしろ消費に生きがいや幸福を見出すようになる。そして、愛もまた消費の対象に貶められてしまう。フロムに言わせれば、愛は崩壊し、偽りの愛に取って代わられてしまった。

  以降、筆者は様々な切り口から、現代社会における愛について書き進めている。現代の結婚事情、愛とセックス、売春、「おひとりさま」という生き方、マザコン、「未熟さ」を好む日本人。いづれも、本当の愛からはかけ離れたものである。ふたたび、フロムの言葉。

      二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を
     通じ合うとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心
     において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生ま
     れる。
      この「中心における経験」のなかにしか、人間の現
     実はない。人間の生はそこにしかなく、したがって愛
     の基盤もそこにしかない。
      そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦であ
     る。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長で
     あり、共同作業である。調和があるのか対立があるの
     か、喜びがあるか悲しみがあるかなどといったことは、
     根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。
      根本的な事実とはすなわち、二人の人間がそれぞれ
     の存在の本質において自分自身を経験し、自分自身から
     逃避するのではなく、自分自身と一体化することによっ
     て、相手と一体化するということである。愛があること
     を証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの
     深さ、それぞれの生命力と強さである。これが実ったと
     ころにのみ、愛が認められる。

第6章 愛の習練
  愛の技術を習得するためには、前提条件として三つのことが必要だ、とフロムは言う。「規律」と「集中」と「忍耐」である。まずは、「規律」。

      重要なのは、外から押し付けられた規則か何かのよう
     に規律の練習を積むのではなく、規律が自分自身の意志
     の表現となり、楽しいと感じられ、ある種の行動にすこ
     しづつ慣れてゆき、ついにはそれを止めると物足りなく
     感じられるようになることだ。

  次は、「集中」。

      リラックスして椅子に座り、目を閉じ、目の前に白い
     スクリーンを見るようにし、邪魔してくる映像や想念を
     すべて追い払って、自然に呼吸をする。呼吸について考
     えるのでもなく、無理に呼吸を整えるのでもなく、ただ
     自然に呼吸をする。そうすることによって、呼吸が感じ
     られるようにする。
      そこからさらに、「私」を感じ取れるように努力する。
     私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を
     感じ取るのだ。すくなくとも、こうした練習を毎朝二十
     分ずつ(できればもっと長く)、そして毎晩寝る前にも
     続けるとよい。
      また、一人でいられるようになることは、愛すること
     ができるようになるための一つの必須条件である。もし、
     自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつ
     くとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれ
     ないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあ
     るが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件
     なのだ。
      いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛
     し合っている者たちだ。二人はしっかりとそばにいるこ
     とを学ばなければならない。

  これらは、いずれも集中力がないとできない。フロムによれば、集中力を身につけるためには、

      自分の内なる声に耳を傾けることだ。内なる声は、な
     ぜ私たちが不安なのか、憂鬱なのか、いらいらするのか、
     その理由を、たいていすぐに教えてくれるものだ。

  三つ目が「忍耐」。やみくもに事を急ごうとせず、請求に結果を求めない。

  以上の三つに続けて、フロムは、愛を達成するためのさらなる条件として、「ナルシシズムの克服」、「「信じる」こと」、「勇気」、「能動性」の四つを挙げている。

 「ナルシシズムの克服」のナルシシズムは「自分の視点からしかものを見ることができないこと」、つまりジコチューのことである。その対立概念は、客観的に考えるということであり、フロムによれば、それが「理性」というものである。感情面において、それに相当するのは謙虚さである。

  「「信じる」こと」つまり、信念には、理にかなった信念と根拠のない信念がある、とフロムはいう。

      「信じる」という問題について考える前に、まず、理に
      かなった信念と根拠のない信念とを区別しなければなら
      ない。私のいう根拠のない信念とは、道理にかなわぬ権
      威への服従にもとづいた、(ある人物や理念への)信仰
      のことである。それに対し、理にかなった信念とは、自
      分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。そ
      れは、何かやみくもに信じることではなく、私たちが確信
      を抱くときに生まれる確かさと手ごたえのことなのだ。

  さらに、信念と愛の関係について、以下のように述べている。

       愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念
      である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人
      のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

   「勇気」とは、あえて危険を冒す能力、そしてそれに伴う苦痛や失望をも受け入れる覚悟のことである。人を愛するには勇気が必要である。愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことである。こちらが愛すればきっと相手の心に愛が生まれるだろうという希望に自分をゆだねることである。こちらがいくら愛しても、相手からは愛してはもらえないかも知れないし、気持ちのすれ違いや衝突が起こるかもしれない。それでも、恐れずに勇気をもって一歩ふみ出してみることが大切なことなのだ。

       安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をも
      つことはできない。防御システムを作り上げ、そのなかに閉
      じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくこ
      とによって安全をはかろうという人は、自分で自分を囚人に
      してしまうようなものだ。愛されるには、そして愛するには、
      勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと
      判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける
      勇気である。

   以上が、この本の要約である。なるほどと納得するところもあり、イマイチ?と思うところもある。いづれにしても、僕は愛とは一方的なものだと思う。まれに、お互いに一目ぼれということもあり得るが、多くは錯覚に過ぎないと思える。愛とは僕のなかでは、紆余曲折を経て、多大な努力をしてつくり上げてゆくものと考えている。その意味ではスポーツや技術の習得のようなものではないか。最後は執念と、努力と、最後は心が相手に通じるか否かだと思う。

   妻が体調をくずしてから、僕はいろいろな本を読んでみた。この記事の後に書いた「突然、妻が倒れたら」もそうだが、友人からのアドバイスもあり、今売れているらしい「妻のトリセツ」(黒川伊保子 編著 講談社+α新書)、そして「女の機嫌の直し方」(黒川伊保子 著 インターナショナル新書)、「女はなぜ、突然怒り出すのか?」(姫野友美 著 角川oneテーマ21)など。
   「突然、妻が倒れたら」は夫が書いたものであり、次の記事でとりあげている。「妻のトリセツ」以下は、いづれも女性が書いた本であり、前者は人工知能研究者、脳科学コメンテーター、後者は心療内科医である。

「妻のトリセツ」 黒川伊保子編著 講談社+α新書 と 「女の機嫌の直し方」 黒川伊保子著 インターナショナル新書
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「女はなぜ 突然怒り出すのか?」 姫野友美著 角川oneテーマ21
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   僕は、この歳になって初めて(のような気がする。今でもそうだが、若いころに一時期 ”人間の脳” について異常ともいえるほど関心を持った時期がある。ただ、その時は ”脳”そのものであって、男女の脳の違いには関心はなかった)男の脳と女の脳の違いを知った。どの本にも共通することは、右脳と左脳を連携させる神経線維の束(脳梁と呼ばれる器官)が、生まれつき男性のほうが細く、女性のほうが太いということである。しかも、脳の容積そのものは頭蓋骨が大きいぶんだけ男性のほうが大きく、神経線維そのものは女性脳のほうが細いから、実際の太さの差よりも、右左脳を連携させている神経線維の数はずっと多く、連携の密度が高いことになる。

   ご存知のとおり、右脳は「感じる領域」、左脳は「顕在意識と直結してことばを紡ぐ領域(ことばの領域)」である。このため、右脳と左脳の連携がよい女性脳は、感じたことが、どんどんことばになって意識に上がってくる。逆に、左右脳の連携が頻繁でない男性脳は、左右の感覚器の情報が混じらず鮮明なため、奥行き認識を得意とし、ものの距離感を探ることを好む。従って、男性の多くは長期的な展望に立ってものごとを計画したり、将来の利益や危険を予測して準備を始めることが得意である。しかし、目の前の現実の状況を細かく把握するのは苦手で、ややもすると現実から目を逸らそうとする。「森」を意識し過ぎて目の前の「木」が見えなくなる。これに対して、女性は一般的に自分の見渡せる範囲にある現実を細かいところまで把握し、目の前の利益を生かし、危険を察知し回避することが得意だ。しかし、長期的・全体的にものごとを見るのは苦手で、しばしば計画性に欠けた行動をとってしまう。目の前の「木」だけを見て「森」が見えない。だから、男と女は、お互いの長所と短所を認め、互いの長所を生かすことがベストなのだ。男が長期的なビジョンに立った計画を担当し、女が現実のこまごまとした態勢を整えるようにして、お互いがその能力を発揮してゆけば、うまく歯車がかみ合って、計画や夢が実現する可能性を高めることができる。

   ここまで読んで、僕は妙に納得した。僕は将来のこと、それは2年や3年先のことではなく、10年先、20年先のことをいつも考えている。その間には地震や津波などの自然災害があるかも知れない。今回のように、予期しない病気に見舞われるかも知れない。はたまた、交通事故や事件に巻き込まれるかも知れない。やはり、男は常に自分のことより家族や子孫のことを考える。家族や子孫が最悪の事態に陥ったときのことを考え、そうした事態に備えて今、何ができるか、何をしなければならないかを考える。
   妻(女)は、そんなことは常日頃考えてはいないようだ。子供たちは、孫たちは、今日どうしているのだろうか、ちゃんと生活できているだろうか、ちゃんと学校へ行けるだろうか、経済的には困っていないだろうか、そんなことを心配しているようだ。そして夫が先々のことを考えて実行していることが理解できない。夫は夫でそんなことはいちいち説明しなくても分かっているだろうと思っている。
   どうも、そんなことが今回の妻の不調の原因ではないかと思い当たるのである。

   確かに、愛は技術である。技術を磨かなくてはならない、と思えてくる。言うまでもなく、ここでいう技術はteckniqeのことではなく、不断の努力と忍耐と強い意志がなければならないということである。男女の愛も、それぞれの頭のなかまで見ることはできないし、心のなかまでは読めない。それだけに、フロムの言うことはいちいち納得できる点は多いし、脳科学の話も、なるほどと思う。男と女は、こんなにも違うからこそ面白いのであり、お互いに切磋琢磨して、お互いの長所を生かせるように努力することが大事なんだと、いまさらではあるが考えさせられた。愛は、確かにお互いが同時に高められるような関係になることだと思う。できれば、解説本ではなく、次は原書で読んでみたいと思った。                              (了) 
  
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2019年02月04日

フェルメール展

  平成31年2月1日(金)上野の森美術館で開催されているフェルメール展に行ってきた。昨年の10月5日(金)より、明後日の2月3日(日)までの開催で、既に先月24日の時点で来場者が60万人を突破したそうだ。
  今回は国内史上最多の9点(うち2点は期間限定)のフェルメール作品が展示されるとのことで、この日は8点のフェルメール作品が展示されていた。

  本来であれば、もっと早くに見に行くつもりだったが、想定外の出来事があって最終日3日前のギリギリになってしまった。それも、入場日時が指定される前売り券を予約購入しなければならない「日時指定入場制」なのだけれど、いつ行かれるか前もって分からないので当日のチケット販売状況を見て余裕のありそうな時間帯の当日売りチケットを購入するつもりで病院をいつもより少し早く3時半ごろに出た。

  5時半にはJR上野駅公園口から歩いても2,3分の上野の森美術館に着いたが、当日売りのチケットは7時(午後19時)からの最終時間で8時半(午後20時30分)までには退館しなければならないという。
  この日は、そんなこともあろうかと可能であればすぐ近くの国立西洋美術館で開催されている「ルーベンス展」も見て来ようと思っていたので、7時までの1時間半を利用して何とか見れそうだと急ぎ足で国立西洋美術館に向かう。ところが、着いてみると閉まっているではないか。掲示板をよく見ると「ルーベンス展」は1月20日までと書いてある。そうか、もっと早く来るつもりだったので1月20日までとは記憶していなかった。
  仕方なく、隣のレストランで食事をしてから公園口前の東京文化会館に寄ってみた。昔よくリサイタルを聞きに来ていたころを懐かしく思い出した。

JR上野駅公園口。公園口改札を出ると正面が東京文化会館である。(2月1日 18:09撮影)
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東京文化会館内部。この日は大ホールは休み。昔、よく来た頃が懐かしい。(2月1日 17:59撮影)
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  6時半になったので上野の森美術館に戻ると、100メートルくらいの列ができている。仕方なく最後尾に並んだ。そうこうしているうちに、列は後ろに延びて既に300メートルくらいになっている。それでも間もなく少しづつ入場して、やっと7時近くには入場することができた。
  会場内は既に前の時間帯の入場者も残っているためか結構混んでいる。やはり絵の前は人が固まっていて真ん前でゆっくり鑑賞するという訳には行かない。それと2階建ての会場の2階部分はフェルメールと同時代の画家達の、黄金時代と呼ばれる17世紀オランダ絵画約50点が展示されている。
  順路としては、この2階を見てから階段を降りて1階の一部屋にフェルメールの8点が展示されている。

 上野の森美術館。今回はフェルメールの全作品35点のうち9点が展示される(うち2点は期間限定)(2月1日 17:02撮影)
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   やはり一番多くの人だかりができているのは、その部屋の最後に展示されている「牛乳を注ぐ女」である。絵の大きさは縦45.5p×横41pと思っていたより小さい。フェルメール作品のうちでも最もよく知られる1枚である。1658年から1660年頃に描かれたというからフェルメールが26歳から28歳の頃である。
  
  フェルメールは1632年にオランダのデルフトに生まれた。デルフトは醸造業、織物業、陶器産業で栄えた町だが、フェルメールが生まれた頃にはその盛りは終息に向かいつつあった。父親が宿屋を営む傍ら絵の売買もしていたためか、15歳の頃から画家としての修業を始めたようだ。
  「牛乳を注ぐ女」を描いた頃までには、既に1653年、21歳の時にデルフト在住のカタリーナ・ボルネスと結婚し、その年の末には親方画家としてデルフトの聖ルカ組合(画家が中心のギルド)に入会し、名実ともにプロの画家として活動を開始している。結婚の翌年には裕福だった妻の実家に移り住み、この家の二階のアトリエで1950年代末から60年代初めにかけて、今回本邦初公開の「取り持ち女」、そして「窓辺で手紙を読む女」、「士官と笑う女」、「牛乳を注ぐ女」、「デルフト眺望」、「小路」などが描かれている。
   また、この頃からは生涯にわたりフェルメールを支え続けた同じデルフト在住のパトロン、ピーテル・ファン・ライフェン夫妻からの熱い支持のもとに名声を高めて行く。

   会場に戻ろう。1階の1室に展示されている8点は右側の壁に「マリアとマルタの家のキリスト」が、そして左壁の端に「牛乳を注ぐ女」が展示され、正面の大きな壁には中央近くに「取り持ち女」が、両側には「手紙を書く女」、「窓辺でリュートを調弦する女」、「真珠の首飾り」、「手紙を書く女と召使」、「紳士とワインを飲む女」が展示されている。
   8点の中では、右端の「マリアとマルタの家のキリスト」が一番大きく(160×142p)、中央近くの「取り持ち女」が次に大きい(143×130p)くらいで、あとは40〜50p四方の大きさである。

   フェルメール展を見に行く前に2冊の本、朽木ゆり子著 「消えたフェルメール」(集英社インターナショナル新書)と小林頼子著 「フェルメール作品と生涯」(角川ソフィア文庫)を読んで出掛けたので、幾許かの知識を得ることができた。

小林頼子著「フェルメール 作品と生涯」(左)と 朽木より子著「消えたフェルメール」(右)
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   いまフェルメールの作品がなぜ世界中で愛され、ブームのようになっているのだろうか?先ず挙げられる理由は作品数が少ないことである。その作品数も専門家によって32枚から37枚の間で意見が分かれている。
   また、数が少ないだけにブランド性が高く1点の値段が数十億になることも珍しくないため、贋作事件や盗難事件も数多く起きている。今回展示されている作品の中でも「手紙を書く女と召使」はアイルランドの同じ邸宅から二度も盗まれたが、二度とも戻ってきた。今回は期間限定の展示であったため見ることができなかった「赤い帽子の女」は小林頼子氏は後世の模作ではないかと書いている。1990年にボストンの美術館から盗まれたレンブラントの「ガリラヤの海の嵐」と一緒に盗まれたフェルメールの「合奏」は29年経った今も行方が分からない。

   今回展示された8点のうち、「マリアとマルタの家のキリスト」と「取り持ち女」、そしてそれ以外の作品との間には明らかに違いが見て取れる。そこには物語画家(宗教や神話などの物語を主題とする絵画を描く画家)としてスタートしたフェルメールが、「取り持ち女」以降専ら風俗画家(当時のオランダ市民の日常を描く画家)に転身したことがある。その背景には当時のオランダの政治的な変化、すなわち絵画のスポンサーが貴族から市民に変わったことが最大の影響力として存在する。そして、その変化は絵の主題だけではなく絵の描き方も変えて行くのである。

   フェルメールの描いた風俗画は17世紀のオランダの市民の日常生活であり、人物も一人ないしは二人であり、鑑賞のために特別な神話や宗教の知識は必要としない点も人気のひとつかも知れない。画面の構成にしても、独特の光と影の描写や色彩の選択なども、よく見るにつれて緻密に計算されていることが伝わってくる。解説書を読むと、フェルメールは一度描いた絵を自分が納得の行くまで手許に置いて何度でも修正する完全主義者であったという。

   僕は今回の8点のなかでは、やはり一番好きな絵は「牛乳を注ぐ女」だ。題材、構図、光と色彩の描写などのすべてが、この絵全体から静謐さや透明感を感じさせることに成功しているからだと思う。
   今回の展示作品には入っていないが、「真珠の耳飾りの女」(1665−66年)、「天秤を持つ女」(1662−65年)、「天文学者」(1668年)、「地理学者」(1669年)、「少女」(1668−69年)、「小路」(1658−59年)、「デルフト眺望」(1659−60年)なども見てみたい作品だ。

  
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2018年11月10日

僕の好きな映画音楽と思い出

  これまでに、「僕の好きな映画」と「僕の好きな音楽」について書いてきたので、この辺りで両方にまたがる「僕の好きな映画音楽と思い出」について書いてみたい。

  映画とその音楽とは一体になっている。そしてそれらはまた、その時の思い出と繋がっている。だから、特にそのころの甘酸っぱい思い出や、あるいはほろ苦い思い出が蘇ってくるような映画音楽は特に印象深い。順不同に、思い出すままに挙げてみる。

  1968年のフランス映画「個人教授」。ミシェル・ポワロン監督、ルノー・ヴェルレー、ナタリー・ドロン主演の青春ラブロマンス映画である。ナタリー・ドロンは当時はアラン・ドロン夫人である。
  映画の内容は高校生の少年が年上の女性に恋をする他愛のないものであまり記憶にもないが、音楽を担当しているのがフランシス・レイである。
  フランシス・レイといえば、1966年に映画「男と女(Un homme et une femme)」の音楽で知られ、映画「個人教授」が製作されたのと同年の1968年には映画「白い恋人たち/グルノーブルの13日」の音楽も担当している。1973年には映画「ある愛の詩」の音楽で洋画映画音楽界を風靡した.
  「個人教授」が日本で公開された1969年(昭和44年)といえば、僕が前年に大学を卒業してサラリーマン2年目で都内の営業店に配属され、初めての営業職となった頃である。ようやくサラリーマン生活にも少しは馴染んでき頃で先輩に連れて行かれて、女性のいるバーにも初めて行くようになった。そのころ、好きになった女性がいて、たまたま見た映画が「個人教授」であり今ではこの音楽を聞くことは全くと言っていいほど無いが、何故かこのメロデイーを想い浮かべると当時の思い出が鮮やかに蘇ってくるのである。

  映画「個人教授」と前後して思い出すのが、1968年に日本公開されたスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅(2001:A Space Odyssey)」である。今、改めて公開年を見て気が付いたが、1968年(昭和43年)と言えば大学を卒業して会社に入った年である。そんなはずはない。というのは僕がこの映画を見たのは都内の営業店に配属されて、今から考えると大胆にも真昼間、勤務時間中に有名映画館で確か当時まだ目新しい70mmの大画面で見たからである。もしかしたら、日本公開の翌年くらいにその映画館で見たのかも知れない。とすると、もしかして「個人教授」ももう少し後のことだったのかも知れない。
  とにかく、映画の初めに我々人類の祖先と思しき猿人が初めて道具を使うことを覚える人類の夜明けを暗示する場面で使われていたのが、リヒャルト・シュトラウスの「ツアラトウストラはかく語りき」(カラヤン指揮ウイーン・フィル演奏)であり、当時クラッシクに目覚め始めていたころで我が家の自作ステレオでズービン・メータ指揮、ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団(LONDON SLA 1007)版を聞いていたが、SF映画で使用されるとは思ってもいなかったのでとても新鮮に聞こえたことを想い出す。また、これと並んで宇宙ステーションがゆったりと宇宙空間を移動する場面で使われていたヨハン・シュトラウスUの「美しき青きドナウ」(カラヤン指揮、ベルリンフィル)は、意外なことに広大な宇宙空間を優雅にも漂う宇宙ステーションにぴったりとマッチしていて印象的な場面となっている。

ズービン・メータ、ロサンジェルス版の「ツアラストラはかく語りき」(LONDON SLA 1007)
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  映画「死刑台のエレベーター」は1958年制作のフランス映画。8月14日の記事「僕の心に残る好きな映画」にも書いたように、弱冠25歳のルイ・マル監督の初めての劇映画(1956年にクストーと組んで、海洋ドキュメンタリー映画「沈黙の世界」を監督している)である。当時はヌーヴェル・ヴァーグ(「新しい波」を意味し、1950年代末から1960年代半ばまでフランス映画界にあって若い監督たちが中心となって起こした映画運動。ルイ・マルの他にもトリュフォーの「大人は判ってくれない」、「突然炎のごとく」やゴダールの「勝手にしやがれ」などもある。)の時代であり、日本にもその「新しい波」は玉石混交ではあるが、押し寄せていた。
  今、制作年を調べると1958年となっていて、僕はまだ中学2年生でありこの映画はそれよりずっと後に、VIDEOを借りてかTVで見たのだろう。当時としてはモノクロではあるが、斬新な感じがして何と言っても主演のジャンヌ・モロー(当時27歳)とマイルス・デイヴィスのトランペットがこれほどにしっくりと感じた映画は他にはなかなか無い。僕にとってはモダンジャズもいいものはいいなと思わせてくれた映画だった。
  
  映画「ウエストサイド物語(West Side Story)」は今からすると、とても子供っぽい感じがするが、当時はミュージカルというものを初めて知った映画である。日本公開は1961年(昭和36年)だから僕がまだ高校生のころだ。きっかけは、従姉妹(母の兄の子供)、といっても歳は僕より5,6歳歳年下であるが当時のこれくらいの年代の特に若い女性には大人気となった映画で、彼女達が何十回も見たという話を聞いて確か丸の内ピカデリーに見に行った。
  ご存知のとおり、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を基にした同名のブロードウエイ・ミュージカルの映画化作品である。当時は、若い女性の間では従姉妹もそうであったがジョージ・チャキリスが大変な人気で、いかにもアメリカ作品らしく、確かに若さとダンスと音楽がかっこいいなと思った。
  監督はロバート・ワイズとジェローム・ロビンズ、そして作曲はアメリカ・クラッシック界の大御所レナード・バーンスタインである。出演はロミオとジュリエットにリチャード・ベイマーとナタリー・ウッドが、それにジョージ・チャキリス、リタ・モレノが加わり、アカデミー作品賞、監督賞、助演男優賞(チャキリス)、助演女優賞(リタ・モレノ)など10部門を受賞した。
  それ以降しばらくは従姉妹の彼女たちの影響を受けて、エルビス・プレスリーの徴兵騒動をモデルにしたブロードウエイ・ミュージカル「バイ・バイ・バーデイー」を映画化した同名の映画(アン・マーグレット主演)を見たりした。
  その後も彼女たちの影響もあって、1950年から1960年代にかけて世界中でボサ・ノバ(Bossa Nova)の大流行があり、ハーブ・アルパートのアルバム「SERGIO MENDES & BRASIL'66」や同「HERB ALPERT RISE」を購入したり、その後の1979年、1980年ころの「Sadao Watanabe Morning island」や「DAVE GRUSIN MOUNTAIN DANCE」へと繋がって行くのである。

オリジナル・サウンド・トラック版「ウェストサイド・ストーリー」(COLUMBIA YS-189)
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SERGIO MENDES & BRASIL'66(左)と HERB ALPERT RISE(右)
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  ステイーブ・マックイーンといえば、映画「大脱走」、「砲艦サンパブロ」、「華麗なる掛け」、「ブリット」、「栄光のル・マン」、「ゲッタウエイ」、「パピヨン」など数え上げたら切りがない。その中でも僕が一番好きなのが「ブリット」と「大脱走」である。
  なぜなら、「ブリット(Bullit)」では彼がフォード・マスタングを運転し、「大脱走(THE GREAT ESCAPE)」ではトライアンフのバイクを運転している(実際の撮影は友人が代行したらしい)からである。
  僕は車を運転することが大好きだ。運転すること自体が好きなので、自動運転車など何の興味もない。せっかくの愉しみをどうして自ら放棄するようなことを考えるのか理解できない(もちろん、いろいろな理屈はあるだろうが)。同じ乗り物でも電車や汽車、船舶(クルーザーなども含めて)の運転はあまり興味がない。なぜか考えるに、それらは大きすぎて人間の操作する範囲が狭いからだと気がつく。車やバイクや自転車は殆どの範囲を人間が操作することで成り立っているからだ。
  僕の父は戦時中は戦闘機乗りだった。自慢するわけではないが、海兵では恩賜の銀時計をいただいている。聞くところによると同期(70期)でも1番か2番でないと貰えないものだと聞いているし、学業と運動の両方が秀でていないと貰えないものと思う。祖父の方針で小さいころから男は男らしくと教育された。今では、死語であり時代錯誤といわれそうな、「男子の一言」とか「女子と小人養い難し」などという言葉を聞きながら育った。恐らく僕の車好きは父からの遺伝だと思う。今でも、自分の人生で一つやり残したことを挙げるとすれば、それは飛行機(旅客機やジェット機ではなく、性能のよい双葉機や練習機がいいかな)の操縦ができなかったことだと思っている。
  話が逸れてしまったが、「ブリット」は1968年(昭和43年)日本公開、監督、ピーター・イエーツ、そして音楽はラロ・シフリンが担当している。なんと言っても、この映画のみどころは独特の坂道の多いサンフランシスコの街中と郊外のハイウエイでのマックイーン運転するダークグリーンの1968年型フォード・マスタングGT390とギャングが運転する黒塗りの1968年型ダッジ・チャージャーによる追跡シーンだ。後年、僕は会社の出張で現地を訪れたことがあるが、明るくきれいな街並みと坂と路面電車が印象に残っている。因みにマックイーンは現役のレーサーでもあるが、イエーツ監督も元レーサーだったそうだ。また、ダッジ・チャージャーを運転しているスタントマンは、映画「フレンチ・コネクション」のカーチェイスでも活躍しているようだ。
  そして、追跡シーンに効果的に使われているのがラロ・シフリンの音楽である。軽快ななかにも、これから起こることを予感させるみごとな効果を発揮している。
  1963年(昭和43年)といえば、僕が大学を卒業してY社に入社した年である。そのころ既に、僕は大学時代にデパートの配達や川崎の製紙工場や石油プラントで作業員のアルバイトをして貯めた金で中古のトヨタのパブリカを購入していた。多分、同期入社のなかで入社時に自分の車を所有していたのは自分一人だったと思う。会社の休暇には、同期の友人とパブリカで糸魚川まで日本海を見に行ったり、猪苗代湖の近くのスキー場までスキーに行ったりした。会社に入ってからも、さすがにマスタングは買えなかったが、ライトブルーのトヨタセリカ(発売初年度)や、ダークグリーンのブルーバードSSSや、広島の呉に転勤になったときは黄色のMAZDAロータリー車、RX7(これも発売と同時)などにも乗っていた。最近の若い人は、僕らの時代ほど車には関心が無いようにみえるが、僕はこの歳になってもまだまだ車を運転することが好きだ。
  「ブリット」以外にも僕が見た映画で、車が準主役とも言えるものには「フレンチ・コネクション」(監督ウイリアム・フリードキン、1972年日本公開)や「バニシング・ポイント」(日本公開は1971年)などがある。「フレンチ・コネクション」は音楽については記憶がないが、「バニシング・ポイント」ではロックが物語の伴奏になっている。因みに「フレンチ・コネクション」でポパイが運転している車はポンテイアック・ルマン、「バニシング・ポイント」で主人公のコワルスキーが運転している車は白の1970年型ダッジ・チャレンジャーである。

大脱走のDVD(左)とバニシング・ポイントのLP(右 LONDON SLC 356)
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   映画「黒いオルフェ(Orfeu Negro)」の音楽もブラジルの土の匂いのするルイス・ボンファの純朴なギターの音色とメロデイーとともに、そのころの多感だった自分を思い出す。
   今、確認してみると日本公開は1960年(昭和35年)だから僕は15歳、13歳で東京に出てきたのだから高校1年の時だ。この頃はまだ、田舎から出てきて東京の人間には負けられないと思って、勉強を頑張っていたころだ。その甲斐あってか、青山高校1学年400名超の中で、最初の学力試験で1位を取った。今でも親友として付き合っている友人は、その時に他のクラスから「1番取ったって、どんな奴だ」といってわざわざ逢いにきた奴らである。ところが、それで安心してしまったのか、徐々に順位を下げて高校在学中に二度と1位になることはなかった。やはり、高校生のころは1年、2年、3年と大学受験も近づくにつれ、性にも目覚めてくるし、身体の変調も来すようになり心身ともに不安定な時代でもあった。そんななかで、この映画と音楽は貧しいけれど陽気で、生に対する力強さを感じさせてくれた。
   監督はフランスの映画監督であり脚本家のマルセル・カミユ、生涯に一本の作品。フランス・ブラジル・イタリアの合作である。当時は何も知らずに、ただルイス・ボンファのギターの弾き語りが気に入って45回転ドーナツ盤のレコードを買って聞いていた。その後何年か後になって、懐かしくてDVDを購入している。
   物語はギリシア神話のオルペウス(オルフェ)とエウリュデイケ(ユーリデイス)を題材にしたヴィニシウス・ヂ・モライスの戯曲を映画化したものである。
   リオ・デ・ジャネイロ生まれのモライスは詩人、作詞家、作曲家でもあり、のちにアントニオ・カルロス・ジョビンらとともにヴォサノヴァを生み出す。「黒いオルフェ」(1958年)はもちろん、「想いあふれて(Chega De Saudade)」(1959年)や「イパネマの娘」(1962年)はモライス作詞、ジルベルト作曲である。今の今まで、僕は「黒いオルフェ」はルイス・ボンファの作品だと思っていた。

黒いオルフェのDVD
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   映画「スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)」は、ベン・E・キングが歌うその主題歌を聞くと映画の場面が鮮明に浮かんでくると同時に、僕の場合は北海道の北見で小学校時代と中学時代を過ごした懐かしい田舎町での思い出がよみがえってくる。
   原作はステイーヴン・キングの短編「THE BODY」で、監督はロブ・ライナー、日本公開は1987年(昭和62年)である。「THE BODY」はもちろん死体のことである。昭和62年というと、僕は42歳、映画館で見た記憶はないので、多分ビデオを借りて見たのではないかと思う。その後、自分でDVDを購入している。
   舞台はアメリカ、オレゴン州の小さな田舎町、キャッスルロック、どこか北見の街の郊外にも似たような場所があったような気がする。あのころの友達は今どこにいて、何をしているのだろう。
   この映画で4人の少年たちのリーダー格のクリスを演じているのは、将来を嘱望されながら薬物の過剰摂取による心不全により23歳で他界したリバー・フェニックスである。当時彼は16歳であるが、僕が初めて彼を映画で見たのは「ミッドナイトエキスプレス」や「刑事ジョン・ブック 目撃者」などのピーター・ウイアー監督の「モスキート・コースト」(日本公開はスタンド・バイ・ミーと同じ1987年)でハリソン・フォード演じる主人公の息子役としてである。

   映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のイタリア映画音楽の巨匠、エンリコ・モリコーネの音楽もイタリア映画全盛期復活を思わせる映画とともによい意味で古き良き時代の宝物の一つだと思う。
   監督は、イタリア、シチリア島生まれのジュゼッペ・トルナトーレ。日本公開は1989年(昭和64年・平成元年)、僕は44歳になっていた。それでも、最初にこの映画を見た時は感動した。それまでの人生で経験した幾つかの甘酸っぱい思い出と、ほろ苦い思い出が一緒くたになって蘇ってきて涙が止まらなかったことを憶えている。
   当時、この映画にはいくつかのバージョンがあって、最初に映画館で見たのは124分の国際版だったと思う。その後サルバトーレとその初恋の人エレナのその後を描いた50分を超える、初公開版ではカットされた部分が収録された完全オリジナル版が見たくて、探し探して「シネスイッチ銀座」で見たと記憶している。
   いわゆる世界の古き、良き映画全盛時代の映画好き人間にとっては、堪らない設定の話である。時代は現代から戦後間もないころ、舞台は現代のローマからシチリアの小さな村、そして村で唯一の映画館「パラダイス座」の映写技師アルフレードとトト(サルバトーレの子供時代)との友情、と全てが揃っている。さらに、この映画のもう一つの柱であるサルバトーレと初恋の人エレナとの出会いと別れ、そして人生の皮肉とも言える運命。すべてが誰にでも多かれ少なかれある経験が、この一篇の映画の中にいろいろな「愛」の形として詰まっているのである。   
   当時、僕はジュゼッペ・トルナトーレ監督については全く知らなかった。その後1990年に「みんな元気」、1995年「明日を夢見て」、1999年「海の上のピアニスト」、2000年「マレーナ」などの映画を撮っていて、そのうち何本かは見たが「ニュー・シネマ・パラダイス」ほどの印象に残る作品は知らない。
   蛇足ながら映画の最初と最後に、ローマで映画製作者となったトトを演じているジャック・ペランはパリ出身の俳優でもあり、映画製作者でもある。2002年には良質のドキュメンタリー映画「WATARIDORI」を制作している。
   今、僕の手許には175分のオリジナル完全版のDVDがあり、たまにはホーム・シアターで見ている。また、この映画が好きだった母の葬儀には御棺の中に映画のパンフレットを入れた。現在、ニュー・シネマ・パラダイスのオリジナル・サウンドトラック(完全版)がMP3ダウンロード及びCDにて販売されている。

3時間完全オリジナル版が上映された「シネスイッチ銀座」のカタログ(左)とDVD(右)
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2018年11月04日

日本の医療制度についての疑問

  平成30年11月3日(土)23:40、この記事を書き始める。今回はこの数か月で実際に自分自身が体験した事実から、素人の眼から見て改めて日本の医療はちょっとおかしいぞ!と感じたことを書きたい。

  最近、新聞や新書などで「かかりつけ医」に関する記事が見られるようになったが、その要旨は従来は内科なら内科医、外科なら外科医、循環器科なら循環器医というように患者の身体の部位により専門化されていたのを、近所の診療所で小さいころから診て貰っている町医者とか、近所のクリニックでいつも風邪を引いたとか熱が出たといって診て貰っているドクターなどという、何でも診て貰って相談もできるような身近な存在としての「お医者さん」を育成する方向に国をあげて取り組み始めたという内容のものである。

  僕は母親が亡くなる5,6年前、すなはち、平成8年か9年ころから二つの理由から日本のそして世界の老年問題と医療問題に関心を持つようになった。
  一つは、平成17年に亡くなった叔母から生前、宿題として与えられた北見の牡丹園の将来のことについて冬の間の収入を考えて置くことだった。僕は当初から、これからの時代必ず老年問題が大きく浮上してくることは分かっていたので、そして牡丹園の環境を最大限に生かすためにも園内にお年寄りのための施設を誘致するしかないと思っていた。
  もう一つは母のために、どうしたら幸せな余生が遅れるのかを考えることだった。母にはどうしても、せめてこれからは平穏で心安らぐ一生を送らせたかった。
  そこで、日本の高齢者福祉と、そして世界の高齢者福祉の現状を知りたいと思い、また今それらの何が問題となっているのかを知るために手当たり次第に関連する書籍や新聞記事などを読んだ。また、それと同時にそれらの情報から知り得た評判のよい高齢者施設を実際に見て回った。

  現在、それらの情報は北見と川崎に散逸してしまい、改めて機会があれば読み直してみたいと思っている。それらのなかに、どの本が忘れてしまったが日本の医療制度とスエーデンだったかフィンランドだったか、はたまた北欧だったかの医療制度との違いに関する記述は今でも記憶に残っている。
  すなはち、それらの国では「かかりつけ医」制度が確立していて、国民全員が夫々「かかりつけ医」を登録しなければならないことになっていて(強制)、その際は個々に自由に医者を選択することができるので、当然のことながら医者にとっても競争原理が働き、住民に選択されるための努力は欠かせないことになる。
  そして、日本のようにちょっと風邪を引いたから、熱があるから、どこそこが痛いからといって総合病院に行く前に、先ず普段から診て貰っている「かかりつけ医」に診て貰い、そのうえで「かかりつけ医」の指示により総合病院に行くというシステムがしっかり確立されているということを知った。

   今回、改めて感じたことは日本の場合は普段比較的健康で、あまり近所の医師にもかかったことがない患者は特に急に具合が悪くなったり、何が原因なのか分からない場合にはどこの医者に行けばよいのか全く分からない。どこの病院も他の医師の紹介状を持参する患者が優先であり、外来(初診)の患者は予約が詰まっていて何か月か先でないと診てさえもらえない。ましてや身体のどこが悪いのかさえ分からない患者としては何科の医者に行けばよいのかさえも分からない。
   挙句の果てはあっちの医者にかかってみたり、こっちの医者にかかってみたりして、そのたびに憶えきれないほど多量の薬を調合され途方に暮れるばかりだ。
   どの病院も、ちょっと近所では評判のよいところほど超満員で、予約さえ直ぐには取れない。総合病院へでも行こうものなら半日くらいは当然のように待たされる。
   こんなシステムでは重篤で必要度の高い患者ほど、実際には診てもらえない。なぜなら重篤ゆえに病院までたどり着くことが精一杯で、とても何時間も待てる訳がない患者もいるからである。

   こういう状況だからであろう、実際にあった話だが重篤な病気に襲われた友人がある有力なコネを使って日本有数の医師の手術を受けることができて、幸いにも一命を取り留めることができた。ただし、この医者個人か病院かは分からないが医療費の他に数百万の裏金を支払ったという。この類の話は裏から裏へと覆い隠されて表にはでてこない。恐らくこうした話は氷山の一角であろう。
   特段のコネも無く、ましてや数百万の金を右から左に難なく用意できる一般人は少なかろう。逆にこうした輩にとっては、現状のような実態が続く方が望ましいことだろうから遅々として改革が進まないのも頷ける。今の世の中に赤ひげ先生を期待しても所詮無理なことなのだろうか?全く嘆かわしいとしか言いようがない。

   唯一、今の状況でこうした患者が中央突破できる方法がある。それは救急車を呼ぶことくらいである。もちろん、重篤でもない患者が救急車を利用することは厳に慎むべきことと思うが、誰が重篤かそうでないかを判断できるのか?最近はタクシー代わりに救急車を呼ぶ不心得者が増えていると聞くが、これも一つには普段から「かかりつけ医」がいないためもあろう。
   そして、近所でも最近できたばかりの総合病院での救急対応は、いかにも地域に貢献するためにとは謳っているが、それは宣伝のための道具でしかなく、その実態は金になりそうもない患者はまるで物扱いの心のない対応である。

   今回、自分自身がこのような体験をしてみてこの国の医療制度はこのままでは恐ろしいことになると痛感した。この国には頼りになる高潔な政治家や医師はいないのか。誰かが声を上げなければいつ自分の身に、あるいは家族にこのような事態が生じてもおかしくない時代がやってこようとしている。

   このような現状が将来少しづつでも改善される見込みがあるのなら今暫くは我慢しようという気にもなるが、これから75歳以上の後期高齢者(何と無神経な命名か)が65歳から74歳の前期高齢者を上回り、高齢者全体の半数を超える「重老齢社会」がまもなく到来するというのに、これでは全く希望が持てない。
 
posted by ぼたん園々主 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年10月16日

僕の好きな音楽と思い出 その1

  平成30年10月16日火曜日、次男がプレゼントしてくれたVictorが開発中のイヤホンでラフマニノフのピアノ協奏曲2番、ウラジミール・アシュケナージのピアノ、ベルナルド・ハイテインク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を聞きながらこの記事を書いている。この音源はAMAZON Musicから取っている。

  今年8月14日の記事で「僕の心に残る好きな映画」を書いたので、映画と同じくらい、あるいはそれ以上に好きな音楽についても書いておきたい。ただし、とても1回の記事では書ききれないと思うので、折に触れて少しづつ書いて行きたいと思う。今日は僕が初めて音楽の愉しみを知って、徐々に音そのものに興味を持ち始めた高校生のころまでかな。

  僕は3歳から中学2年の1学期までは北海道の北見市の祖父母の許で育った。やっと母と一緒に東京で暮らせるようになって初めて音楽らしいものに触れた。母はピアノを弾き、子供から大人までピアノを教えて生計を立て僕を育ててくれた。今、聞いているアシュケナージも母が日比谷公会堂のリサイタルに連れて行ってくれて、僕がピアノの生演奏をコンサートホール(日比谷公会堂は音楽専用ではないが)で聞いた最初である。
  それまでの北見の暮らしは、祖父母との3人暮らしで、当時はラジオが家庭での唯一の娯楽であった。祖父の聞くラジオは浪花節か義太夫か浪曲、漫才、落語で、唯一僕が聞くことができたのは赤胴鈴乃助のドラマとその主題歌ぐらいであった。

  そんな環境から、東京へ出て母と暮らすようになって生まれて初めて本当の音楽に出会ったような気がする。と言っても中学2年で東京へ出てきても、母も病院暮らしが10年も続いていたのだから、その間はピアノも練習することさえままならなかったであろうし、もちろんピアノも持っていなかったから、とても音楽を楽しむ余裕などなかった。母と最初に住んだのは小田急線の喜多見駅のすぐ前にあったカトリック教会が運営する女子寮であった。それは元は小田急電鉄の創始者の利光謀氏(正確ではないかもしれない)の邸宅であったところで、大きな二階建ての屋敷と広い庭があって芝生の緑が今でも記憶に鮮明に残っている。
  もちろん女子寮であるから男子禁制、僕はまだ中学生だったので特別に許されたのだと思うが、二階の一部屋で他に三人のまだ20代から30代と思われるいづれも独身のOLさんと同室だった。今から考えると教会もよく許可したものと思う。今、考えるに地方から上京して独り立ちしようとする、或いは訳あって独り身の女性の一時的な駆け込み寺であったのであろう。今はそのお屋敷もなくなって、マンションになっている。

  母は女子寮の前にあった幼稚園のピアノを、幼稚園が休みの日に借りて練習をしていた。一日も早くピアノが再び弾けるようになって生計を立てようと頑張っていたのであろう。まだ退院してそう時間も経っていないので、風邪を引いたり無理をするととたんに「血沈」(母はそう言っていた)が上がるので、自分で注射を打ちながら頑張っていた。やがて間もなく女子寮を出て喜多見駅の反対側(南側)の世田谷通りから少し入ったIさんというお宅に間借りすることになった。Iさんは僕の記憶では母よりはずっと年上で、やはり母子家庭で大学生の息子さんが一人いた。田舎から出てきたばかりの僕の眼には大学生は、映画「陽のあたる坂道」に出てくる裕次郎のように映っていたことを想い出す。

  そうこうしているうちに再度、今度は同じ小田急線の成城学園前駅の北側、成城学園の近くのYさんのお宅に引っ越した。Yさんのお宅は結構な広さのお屋敷でわれわれ二人はそのお屋敷の奥座敷とでも言えそうな二間続きの部屋に住んだ。南向きの部屋の縁側からは庭の大きな松が見えた。Yさんも母よりは大分年上だったが、やはり息子さんと母親との三人暮らしだった。この辺りは如何にも落ち着いた立派なお屋敷が建ちならんでいて、近くには三船敏郎の自宅や、駅の南側には石原裕次郎の自宅(実家か?その後近くに新居ができて引っ越した)があった。毎日午後の3時頃になると、決まって台所の方で呼び鈴が鳴り、奥(Y)さんの「どなた?」という甲高い声がして、いつも同じ抑揚の低い声で「成城パン」と返すのが聞こえてくる。いつも母と一緒にその抑揚をまねて、二人で笑い転げていたことを想い出す。

  今考えると、その頃の母はどうやって生活費を稼いでいたのだろうか?呑気な僕はそんなことはお構いなく、喜多見のIさん宅から成城にある世田谷区立砧中学に通い、成城に移ってからは同じ区立の千歳中学に通った。このころはまだピアノは無かったし、ラジオももちろんテレビも持っていなかったから音楽を聞いた記憶は無い。たまに、母に連れられて都心に音楽を聞きに行ったのだろうか?アシュケナージはこのころだったのだろうか?いやいや、もっと後のような気がする。音楽に関する記憶がはっきりするのは、高校生になってからだ。3度目の引っ越しがいつだったかはっきり憶えていないが、成城のY邸から同じ成城の今度は駅の南側歩いても3分ほどのKさんのお宅に間借りした。今度は母方の母の大伯母に当たる野辺地里安(のべちりあ)と同居することになった。野辺地はその時すでに80歳を超えていたと思うが、なかなか偉い人であった。若いころにはフランスに留学していたこともあり、英語とフランス語は宮家や三菱の創始者岩崎家の家庭教師をしていたこともあり、また四谷双葉の創立にも関わり永らく四谷双葉で英語とフランス語を教えていた。この大伯母は躾に厳しくよく喧嘩したが、そのときは田舎育ちの僕のことを「こえたごや!」といって怒った。僕は最初はこの「こえたごや」の意味が分からず口ごたえしたが、普段は僕のことはかわいがってくれて、よく試験前には英語を教えてもらった。

  成城のKさん宅に間借りをしていた時に、いつの日からか記憶はないが、多分野辺地の大伯母が亡くなってからだったと思うが、母がピアノを購入した。そして、母は教会のつてもあり徐々にピアノを教えながら生徒を増やしていった。最も多い時は50人以上の子供からOLまで生徒がいた。毎年、5月には「さつき会ピアノ発表会」と称して区役所の成城支所にあるホールなどを借りて発表会を開いていた。その時期になると会場の手配からプログラムの印刷、司会の依頼まで一人でやっていたが、僕はといえばまだ人前に出るのが、特に若い女性が多いところに出て行くのが恥ずかしくて殆ど手伝いらしいことはしていなかった。今になって母の苦労を想うと悔やんでも仕方がないが、母からすれば本当に不甲斐ない息子であったと思う。
  後から母から聞いた話ではあるが、ピアノの取得については奇跡のようなことがあったのである。ある日これからの生計を立てて行くためにはどうしてもピアノが必要だけどお金が無い。どうしたものかと思い悩みながら知らない街を歩いていて、偶然にも音大時代の同級生Aさんの表札を見つけたことが運命の奇跡を生むことになったのである。「1本違う道を歩いていたらこの奇跡には出合うことはなかった」と、母はいつも言っていた。
  それからは、家にいるときは嫌でも毎日、母がピアノを練習するのと生徒を教えるのを隣の部屋で聞いていた。当時は、聞いていたというよりは聞かされていたというほうが正しいが、今となっては懐かしい。

  話が逸れたが、僕は千歳中学から都立の青山高校に進学した。そのころは、成城のKさん宅に間借りしていて少しづつ家計も余裕がでてきたからか、小さなレコードプレイヤーを買ってラジオに繋いでEP盤(ドーナツ盤ともいっていた)の映画音楽などを聞いていた。そのころよく聞いていたのは母が好きだった「エストレリータ(Estrellita)」と「魅惑のワルツ(Fascination)」だった。「エストレリータ」はメキシコの作詞・作曲家のマヌエル・マリア・ポンセの作品で情熱的なスペイン語の歌詞が付いているが、当時は誰の演奏で聞いていたか記憶がない。因みに「Estrellita」はスペイン語で「小さな星」という意味。美しい曲だ。
  「魅惑のワルツ」はビリー・ワイルダー監督、ゲイリー・クーパー・オードリー・ヘップバーン主演の「昼下がりの情事」(何とセンスのない邦題だろうか。原題はLove in the Afternoon)の主題曲であり、僕はマントヴァーニの演奏で聞いていた。その他に思い出すのは映画「シェーン(Shane)」の主題曲を作曲者のヴィクター・ヤング楽団の演奏で、映画「真昼の決闘(High Noon)」のテックス・リッターが歌う”Do not Forsake Me,Oh My Darlin"で始まる「ハイヌーン」を確かフランキー・レイン盤で聞いていた。作曲はかのデイミトリ・テイオムキンだ。この組み合わせは他に「OK牧場の決闘」や「ローハイド」がある。

  そうした時期を過ぎて、高校何年生の時かは忘れたが文化祭で確か無線部のデモンストレーションでオーデイオの演奏会を聞きに行ってすっかりその「音」そのものに魅せられてしまった。その後同部のW君と親しくなり、W君の自宅で彼が製作したオーデイオ装置で確かそのころ流行っていた「コーヒールンバ」という曲を聞かせてもらった。僅か20cm口径の国産スピーカー(Coral社製の8CX−7だったと思う)から放たれる音を聞いて感動してしまったのである。それからというものはオーデイオ道まっしぐらで、当時通っていた都立青山高校は信濃町が通学駅で、帰りには殆ど毎日そのまま1本で行かれる秋葉原通いとなった。スピーカーそのものに魅せられ、雑誌を読み漁り秋葉原の電気街を回って試聴して歩いた。ほどなく初めてのスピーカーPioneer PAX-20E を購入した。見よう見まねで作った自作のアンプで初めて音楽を鳴らした瞬間は今でも忘れられない。

  それからは主として、ラテンやタンゴ、シャンソン、ダンスミュージック、映画のサウンド・トラックなどをよく聞いた。エドムンド・ロス、スタンリー・ブラック、マントヴァーニ、フランク・チャックスフィールド、リカルド・サントス(ウエルナー・ミューラー)、アルフレッド・ハウゼ、ベルト・ケンプフェルト、ペレス・プラード、セルジオ・メンデスとブラジル66、などである。なかでもエドムンド・ロスとスタンリー・ブラックはお気に入りであった。特にロスのミュージカルやダンス音楽とブラックの低音ピアノによるシャンソンやラテンやタンゴが好きで、今でも何枚かのLPレコードは持っている。エドムンド・ロスは厚生年金会館でのコンサートにも聴きに行ったりした。

左:STANLEY BLACK AND HIS ORCHESTRA "PLACE PIGALLE" LONDON R. MPL 1006
中奥:EDMUNDO ROS AND HIS ORCHESTRA "KING OF LATIN RYSMS" LONDON R. NAX 023
中前:STANLEY BLACK AND HIS ORCHESTRA ”all time top tangos!" LONDON R. MPL 1018
右:EDMUNDO ROS AND HIS ORCHESTRA "LONDON for DANCING" LONDON R. MPL 1021
181023 001.JPG

  高校時代も3年生になるころには、クラシックにも興味を持ち始める。それまでにもレコードを買うときは下北沢の名前は忘れたがレコード専門店か新宿のコタニへ行っていたが、ある日同級生で親友だった(今でも変わらず親友だが)H君に頼まれてベートベンの第9を買いにコタニへ連れて行った頃から、自分もオーマンデイー、フィラデルフィアの「新世界」やチャイコフスキーの6番「悲愴」(デイミトリー・ミトロプーロス、ニューヨークフィル盤)のレコードを購入したりして、徐々にクラシックに傾倒していった。
posted by ぼたん園々主 at 13:43| Comment(0) | 日記