2022年06月04日

開園期間の訂正とお詫び

  開園期間の終期を記載誤りしてしまいました。お詫びいたします。
 ぼたん園のホームページ:令和4年6月2日(木)〜同年6月16日(木)
 ぼたん園々主のブログ:令和4年6月2日(木)〜同年6月15日(水)
 北海道新聞の記事:令和4年6月2日(木)〜同年6月15日(水)

  いづれも、私の間違いによるもので、道新さんやその他の方の間違いではありませんので申し添えます。6月16日(木)まで、開園させていただきます。改めてお詫びいたします。
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令和4年6月2日、今日から15日(水)まで開園。初日の牡丹開花状況。

 今日は令和4年6月3日(金)です。時間は午前7時27分です。現在は曇りで、気温は8℃、今日の最高気温は12℃の予想です。5月23日(月)の朝、初めて牡丹の開花を確認してから晴天が続いていましたが、今週は一転して梅雨入りのような天候が続いています。(ここまで6月3日夜)

 今日は令和4年6月4日(土)、午前10時50分です。北見市の現在の気温は8℃で、最高気温は9℃、最低気温は4℃の予報です。天気は曇り、冷夏というより、体感温度は「冬」の感覚です。昨日は千葉では雹が降って実害が発生したようですが、北見は外にいると軽装では、寒さで唇が青ざめ、身体が震えてきます。地球は本当はどうなっているのでしょうか?「温暖化」という言葉がとても空虚に思えてきます。

 昨日(3日)は午後から北海道新聞の若い記者さんとカメラマンさんのお二人が取材に見えました。生憎の曇り空と低温でしたが、今日(4日)の朝刊に早速、大き写真とともに記事が掲載されました。
 効果てきめんというか、9時に門を開けるとすぐにお客様が数人来られ、時間と共にその数が増え忙しくなりました。この記事もその間を縫って書いていますが、これ以上文章を書いている時間がないので2日朝に撮影した牡丹の写真などを以下にアップします。どれも6月2日午前10時台に撮影したものです。

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<紅葉の木の根元に咲く勿忘草(わすれなぐさ)>
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<園内中央の芝生の広場>
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<隣のこども園の子供たち>
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<北海道新聞、6月4日の朝刊>
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(ここまで令和4年6月4日午後1時25分>


 
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2022年05月26日

急告!!6月2日(木)から6月15日(木)まで開園します。

 令和4年5月26日(木)午前6時40分、この記事を書いています。今日は北見地方の予報では、快晴で現在の気温は17℃、最高気温の予想は28℃(スマホ)とも、29℃(FM放送)ともいわれています。

 ぼたん園はコロナ禍により令和2年から休園して参りましたが、今年はどうするか迷っていました。オホーツク地方の新規感染者は5月25日現在74人と、未だ収束したとは言えない状況です。しかし、先週頃から北見市や釧路市の方からのお問い合わせもあり、急遽牡丹の開花期間に限定して、6月2日から6月15日に限開園することにいたしました。

 開園時間、休園日、入園料など、その他はぼたん園のホームページに記載のとおりです。今年は牡丹の開花は例年より1週間以上早く、5月23日(月)朝には咲き始めました。今朝(5月26日)の牡丹の開花状況は下の写真のとおりです。開園期間中の牡丹の状況は天候と気温により大きく影響されます。今日のような高温の日には、一気に開花が進むこともあり、低温が続くと比較的開花が長続きします。また、雨が降ると水滴で花が重くなり、下を向いてしまったり、早く散ることもあります。

<5月26日(木)午前6時25分撮影>
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<同日、午前6時25分撮影。まだ草刈りが済んでいない状態です。>
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<同日、午前6時26分撮影>
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<同日、、午前6時27分撮影>
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<同日、午前6時28分撮影>
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 なお、ぼたん園のホームページの方が掲載に2,3日時間がかかるため、このブログの方が先行してのお知らせになります。今後も、できるだけUP TO DATEに、お知らせしてゆきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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2022年05月11日

独居老人の独り言 令和4年5月

 今日は5月11日(水)。昨日10日に北見へ来た。5月9日(月)朝6時半に家を出た。北見へ到着したのは5月10日(火)の午後1時半。ヴィッツのトリップメーターは1,150qを表示していた。

 この平成11年初度登録のヴィッツ(お袋が平成17年に亡くなるまで運転していたマニュアル車、いわば形見の車である)には勿論、ナビなど付いていない。そして用意したマップルは20年も前のもの、高速のサービスエリアで以前手に入れていた高速道路案内は最新のものが2016年版(平成28年版)である。高速道路の変化は日進月歩、全く役には立たなかった。唯一頼りになったのがスマホ。しかし、このスマホも東北三陸道では圏外になってしまう。万事窮す。

 去年9月に久し振りにヴィッツで帰宅したので、当然今年は同じヴィッツで北見に来るしかない。車がいいのは、好きなだけ荷物を運ぶことができることである。ただし、交通費は飛行機の3倍はかかる。人によっては車の運転が疲れることを挙げるだろう。しかし、僕は車の運転は何時間運転しても疲れることがない。運転が好きなのである。飛行機の方が、1時間半もじっと座っているから疲れる。

 それでも、一昨日は少し焦った。去年の帰途に立ち寄った東北龍泉洞の手前で時間は夕方の6時。そのときは、まだ三陸道は工事中で一部しか開通していなかったはず、と理解していたので迷った挙句龍泉洞の近くで高速を降りてしまった。幸い、降りた近くにガソリンスタンドがあってので給油をして、これから八戸までどのくらいかかるか聞いてみた。

 年配の男性と若い男性が出てきたが、年配の従業員は分からないらしく何も言わないで聞いているが、若い従業員は自分のスマホを出して画面を見ながら「三陸自動車道で行けば、3時間。海岸沿いの一般道なら4時間はかかる。三陸自動車道は久慈までが開通していて、久慈から八戸までは一般道になる。」という。おいおい、フェリーの出航時間は午後10時ちょうど。その1時間前までに手続きを済ませることになっているから、自動車専用道を行ってもギリギリじゃんか!!

 少し引き返して再び三陸自動車道へ入る。もし、10時発のフェリーに乗れなかったら?八戸で一泊するしかないなあ。面倒なことになりそう。辺りはもう暗くなってきたが、アクセルを踏む足に力が入る。走れど走れど、なかなか久慈には着かない。段々と行き交う車が少なくなり、漆黒の闇の中に「久慈」の表示を見つけたときは既に8時半を回っていた。「こりゃ、間に合わないか」と思ったとき久慈の先に自動車道は続いているではないか!八戸〇〇q(何キロだったか憶えていない)の表示が闇に浮かぶ。

 スタンドのお兄ちゃんは久慈までしか開通していないと言ったが、八戸まで開通していたんだ!
 すると、次に頭に浮かんできたのは、八戸南と八戸北の出口があるではないか!どっちだ?ええい、南で出よう。待てよ、インターを出てからは、フェリー乗り場までどうやって行くんだ?
 落ち着け、落ち着け、こういうときこそ落ち着いて考えよう。南出口の直前で左路肩にヴィッツを止め、スマホで八戸ー苫小牧フェリー乗り場をセットする。現在地を示す点滅するポインターが道を示してくれる。

 どこをどう走ったのか、停泊するシルバーフェリーのシルバーエイト号らしき明かりが見えた!(令和4年5月11日夜)

 ターミナルの玄関に車を停め、乗船受付窓口に飛び込む。時計を見ると既に9時10分過ぎ!窓口では最後の客か、受付嬢と話をしている。話が終わると同時に乗船予約票(ネットで予約した際に発行される予約票をプリントアウトしたもの)を差し出す。既に自分と受付嬢の他には誰もいない。そろそろ窓口のカーテンを閉じようとしていたのではないか?

 「車検証は?」慌てて玄関に停車している車に戻り、車検証を取ってきて渡す。危機一髪、間に合った!!車のダッシュボードに掲示する「シルバーフェリー」のステッカーと2等寝台のルームキーを受け取り車に戻る。ゲートを入ると4,5台の乗用車とトラックが1台、別々に並んでいる。乗用車の最後尾に並ぶと、すぐに船内に誘導される。もちろん我がヴィッツは最後だ。いや、さっきのトラックがヴィッツの前を通って少し奥に残された最後のスペースに停車した。

 船内は、何十台もの乗用車と大型トラックがすき間なく並んでいる。さっきから、「モー、モー」と牛の鳴き声がしきりに聞こえる。手荷物をまとめて狭い通路を通って階段を2つ昇るとデッキへ出る。すぐの客室の扉を開けるといつも見慣れたロビーがあり、ソファーや螺旋階段、売店、自販機と飲食できるスペースがある。ロビーの前後には、細い通路の両側に寝台個室が何十と並んでいる。連休も過ぎたからか、人影は疎らで売店の店員も暇そうだ。

<寝台個室が左右に並ぶシルバーエイト号の廊下>
20220516令和年北帰行船室廊下IMG_6771.JPG

 手許のルームキー(カード)の客室番号を見て、すぐに船室に辿り着く。部屋は2段ベッドで小さなテーブルと椅子が1組あるだけで、残りのスペースは大人二人が立てる程度。ベッドは普通のシングルの幅の半分くらいしかない。この日は連休明けのせいか、相部屋にならずに済んだ。ベッドには読書灯もあり、本は読めそうだし、ゆっくり眠れそうだ。

<シルバーエイト号の2等寝台室々内>
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 誰もいないデッキに出てみる。ゴーゴーとエンジンの音とデッキにある排気塔からの排気音が耳をつく。空も海も漆黒に染まり、船尾に廻るとすでに明かりも見えなくなった苫小牧の港の方向に向かって
白い帯のように航跡が延びている。船室にもどり、タオルを持ってロビーの階段を昇ると、そこには赤と青の暖簾にそれぞれ「ゆ」と書かれている。

<船内の風呂>
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 暖簾をくぐると、もうすでに大方の客は済ませたのか、誰も先客はいない。20人くらいは一度に入れるかという大きな湯舟は二つに区切られているが、どちらも同じ湯のようだ。湯に浸かり体を伸ばすと、まるでほろ酔い気分のように、湯舟が揺れているのか自分自身が揺れているのか分からないほど、ゆったりと揺れている。

 船はいつの間にか定刻の午後10時に八戸港を出航したようで、翌日10日の午前5時と5時半の艦内放送で目が醒めた。デッキに出てみると、まだ明けやらぬ空と海が寒そうに広がっている。やがて、まだ黒い海と雲一つないけれど水色の空との間の、少し赤味を帯びた地平線から白い太陽が昇ってくる。それは。徐々に黒い海に一直線に光の道を造り、薄水色の空を青色に変えてゆく。苫小牧港には定刻の6時に着岸した。

<船上からの日の出>
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<苫小牧港に着いたシルバーエイト号>
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(令和4年5月16日午前8時49分)

 苫小牧からは、昨年10月に北見から苫小牧までの来た道を逆に辿る。鵡川町から日高町、そして日勝峠を超えて十勝の清水町を目指す。今回はスマホのナビ機能を活用して帯広市街を避け鹿追、然別湖方向に向かう。然別湖への道を手前で右折し、士幌町を経て本別町まで十勝平野のど真ん中を10qも20qも真っ直ぐの直線道路を走り続ける。やがて、国道242号(陸別国道)にぶつかり左折し本別町を通過、足寄町を過ぎれば、日本一寒い町、陸別町まで来れば北見はもう指呼の距離だ。今は陸別町の少し先からは北見まで自動車専用道路が開通している。まだ全線開通には至ってないので通行料はかからない。

<日勝峠を超えて>
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 快適に専用道を飛ばせば40分ほどで、北見中央インターを出てぼたん園に到着する。時計は午後1時30分を指していた。

<ぼたん園に到着>
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(令和4年5月17日午後5時35分)

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 令和4年5月19日、午前11時35分。天気曇り。午後3時からは雨の予報。気温20℃。
 昨日まで、連日続いていた快晴が今日は久しぶりに午後からは雨の予報である。野菜苗の定植にはチャンスである。一昨日、車で10分の武田花光園にスタッフのSさんと野菜苗を買いに行った。トマト、ナス、キュウリ、ピーマン、パセリ、セロリ、レタス、ジャガイモ(男爵)を購入。タマネギの苗は販売終了していた。昨日は北見駅近くの佐々木種苗にて、タマネギ(白玉と赤玉)、ついでにバジル、ゴーヤの苗を買ってきた。

<野菜の苗(奥)と桜の実生苗(手前のふたつ)。桜の苗は園内の桜の古木の根元から採取したもの。>
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 午前9時から1時間かけてスタッフのSさんとビニールハウスの新しいビニール張りをした。以前から使用していたビニールが使用に耐えなくなったので、張り替えることにした。これは、最初から毎年トマトの雨除け用として使用していたが、トマトは沢山収穫できるが、川崎に送ることもできず、ボランティアの人たちに分けたり、遊木やゆうゆうぼたん園に寄付していたが、ボランティアも無くなり、武漢ウイルスもありで昨年はトマトは造らなかった。

<ビニール張替え前のビニールハウス>
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<ビニール張替え作業中のビニールハウス>
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<完成したビニールハウス>
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 今年は、自家消費用としてトマト4本、キュウリ2本、ナス2本をビニールハウスで造ってみようと思う。それでも、片側にトマト10本分(2本づつ支柱を交差して立てるので、2本5組となる)を植えられるので、もう半分の片側はSさんに譲ることにした。トマトは水遣り不可なのに対してキュウリ、ナスは水遣りが欠かせないので余計な手間がかかるかも知れない。それでも、半分以上(6本分)が余るので、様子をみて必要なら追加を考えよう。

 午後からは雨の予報だったが、結局は雨は1日中降らなかった。とりあえず、ビニールハウスの手前の畝に自家消費用のパセリ、レタス、セロリ、バジル各1本を植えた。そして、ゴーヤ2本は休憩室の前の小屋の脇に植えた。

<自家消費用の手前からパセリ、レタス、バジル>
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<自家消費用のゴーヤ2本。手前は自生している黒百合>
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(令和4年5月19日午後11時48分)

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 令和4年5月20日(金)午前6時50分。現在の天気は晴れ。予報では午後から晴れ。現在の気温は17℃。最高気温予想は21℃。土曜日は晴れ、日曜日は曇りの予報で、雨は月曜日まで待たなくてはならないようだ。今日の午前中に残りの野菜苗をできるだけ植えよう。

 今日と明日はSさんはお休み。誰も来ないので気楽にゆこう。去年、同じナス科のトマト、ナス、ピーマン、ジャガイモを植えた畑は連作を避けるため、今年はユリ科のタマネギ、ニンニクを植えよう。
 ニンニクは一昨年まで毎年続けていた青森産のホワイト6片を、また佐々木種苗で取り寄せてもらおう。一昨日、佐々木種苗で注文するのを、すっかり忘れてしまった。午後から注文しに行ってこよう。

そうだ、忘れてた。佐々木種苗に行ったら、発注は9月になるとのこと。毎年9月に1片づつ植えて、一冬越して翌年7月が収穫だ。ただし、今はホワイト6片は6片が取れて”ホワイト”になっているとのこと。何故かというと、かならずしも6片ではなくなっている(4片や5片が多くなっている)からだという。こんなことなら、この2年間は武漢ウイルスのせいでニンニク作りを休んでしまったけれど、種ニンニクだけでも作っておけばよかった、と悔いること大なり。今年は9月に植えようと思う。(令和4年5月21日)

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 令和4年5月31日(火)午前10時8分。今日の天気は曇り、気温は現在13℃。最高気温14℃、最低気温8℃の予報。6月2日から15日までの開園を発表してから連日、今日のような曇り、時々小雨かつ低温注意報が出る日が続いている。お陰で牡丹はスローダウンしている。

 
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2022年04月03日

独居老人の独り言 令和4年4月

 今日は4月3日(日)。朝から気温は8℃と低く、小雨が降ったり止んだりしている。

 新聞は、連日ウクライナの状況を報じているが、今日の産経新聞一面ではロシアによる侵攻で激戦が続く東部のマリウポリでは1日、民間人を退避させる「人道回廊」が設置され市民約3千人が退避した。マリウポリにはまだ市民10万人以上が水や食料無しで取り残されており、人道回廊は露軍の妨害などで十分に機能していない、と報じている。

 同じ産経新聞の五面には「マリウポリは何度死ぬのか」と題して、同紙論説顧問の齊藤勉氏の記事が掲載されている。それによると、

 ロシア軍の侵略で壊滅状態となったウクライナ東部のアゾフ海沿岸最大の港湾都市、マリウポリは帝政ロシア・ロマノフ王朝の領土をウクライナやポーランドまで拡大した18世紀後半の女帝、エカテリーナ2世の命名で、子の皇太子(後の皇帝、バーベル1世)の妻の名を取って「マリアの町」を意味する(「ポリ」はギリシャ語の「ポリス(都市)」)。
 領土拡張に伴い、クリミア半島に居住していた多数のギリシャ正教徒がマリウポリに強制移住させられ、約50万人のうちギリシャ人が今も数万人いる。

 
最近まで現地にいたギリシャの外交官は、産院や「子供たち」と書いた避難所、学校などへの残忍極まる無差別攻撃でマリウポリの犠牲者はすでに5千人にものぼる、その惨状をスペイン内戦下の1937年春のフランコ将軍側に立つナチス・ドイツの無差別爆撃で徹底破壊された「ゲルニカ」(スペイン・バスク地方)になぞらえた。

 無辜の人々の殺戮と並行して、女性と子どもも含む6千人もの市民がロシア国内に強制連行されたという。「移送後にロシア人を移住させてロシア化する魂胆だ」、「人質として停戦交渉の材料や人道上のプロパガンダ(政治宣伝)に利用される」、「移住先では強制労働が待っている」などのおぞましい情報が飛び交う。77年前の終戦時にスターリンが日本人60万人を拉致し、6万人超が非業の死を遂げたシベリア抑留を彷彿させる。

 マリウポリは過去に何度か戦火により瀕死の状態に陥る悲劇の歴史を刻んできた。1853年からのクリミア戦争ではマリウポリも戦闘に巻き込まれ、港の倉庫がすべて英仏部隊に破壊された。1917年から3年間は、ロシア革命と第一次大戦が重なる大混乱の中で赤軍、反革命の白軍(ボルシェビキによる「十月革命」に反対した)、ドイツ軍が入り乱れて激しい戦闘を繰り広げた。さらに、第二次大戦では約2年間、ナチス・ドイツに占領され、少年少女を含む5万人もの市民がドイツに連行され強制労働させられた。

 第二次大戦後の1948年から米ソ冷戦が終結する89年までの約40年間、マリウポリは「ジダーノフ」と改名されていた。スターリンの大粛清に加担した最側近で、詩人のアフアトーマら著名な文化人や前衛芸術家を批判(いわゆる「ジダーノフ批判」)、弾圧したアンドレイ・ジダーノフの生地であることに因む。
 ジダーノフは1948年8月8月に謎の急死を遂げるが、スターリンによる謀殺説も根強い反面、数々の残酷非情な「辣腕」ぶりが独裁者に評価されて死後、故郷の町の名前となった。

 ジダーノフ批判は1953年のスターリンの死後も続くが、市民の多くはこの市名に嫌悪感を抱いていたが、粛清を恐れて口には出せず苦悩は深かった。ゴルバチョフ時代の改革・ペレストロイカでグラスノスチ(情報公開)機運が高揚した1989年1月、党中央委員会は全国の町や学校、公共施設からジダーノフの名前を全て消し去る決定を下し、いの一番に「マリアポリ」は復活した。

 中略

 マリウポリは伝統的に反ロシア機運が強く、ここで誕生した国家親衛隊所属の愛国的軍事組織「アゾフ連隊」が祖国の命運を懸けた抗戦を続けている。ロシア軍は死の淵に立たされたマリウポリの近々の「完全掌握」を宣言している。(一部省略ならびに編集、令和4年4月3日 午後3時)

               ********

 マリウポリの歴史を見ても分かるとおり、ウクライナに対するロシアの侵略は今に始まったことではない。概略ながらウクライナの歴史を調べてみて分かったことは以下のとおりである。

1.9世紀末、ノルマン人の一派であるヴァイキングがノヴゴロド国を建設した。自らをルーシ(ロシアの語源?)と称し、その他の東スラブ人と同化していった。その後次第に南下して、ドニェプル川中流のキエフを占領しキエフ公国(キエフ=ルーシ公国)を作り、黒海やバルカン半島に領土を広げていった。
2.キエフ公国は兄弟の分割相続が行われていたため、12世紀には10〜15の公国が分立して争うようになり、ロシア(大ロシア)、ウクライナ(小ロシア)、ベラルーシ(白ロシア)に分化してゆく。
3.13世紀中頃にはモンゴル帝国の侵攻によりこれらの公国は次々と支配下におかれ、1240年キエフ公国もモンゴルに占領されて滅亡した。
4.キエフ公国の衰退以降、モンゴルの支配を受けながらもウクライナの東北地方ではモスクワ大公国が次第に国力を増強しウクライナ全土の領有権を主張するも、14世紀中頃には北と西から進出してきたリトアニアとポーランド(後に君主が同じリトアニア=ポーランド王国となる)に併合されてしまう。
5.15世紀には、コサック(南ロシアの草原で半農半牧生活を送る人々で勇敢な武装騎馬民族として結束しながら特権を与えられロシアの辺境警備に当たるようになった軍事集団)が登場し、ドニエプル川中流域を拠点としてリトアニア=ポーランド王国に対し反乱を起こしたことをきっかけに、ウクライナを巡ってロシアとポーランドは戦争となる。その結果、1667年には講和となり、ウクライナの東半分とキエフはロシア領となった。(令和4年4月5日午後6時)
6.その後、16世紀から17世紀にはロシア帝国は南下政策を進め1696年にはアゾフ海に進出、1774年には当時オスマン帝国の支配下にあったクリミア半島のクリム=ハン国(タタール人)を独立させ黒海沿岸地帯を獲得した。1783年にはクリム=ハン国を滅ぼし、一方でウクライナをロシア帝国の一部としたため、コサック国家は消滅し、ウクライナは「小ロシア」と称されるようになった。(令和4年4月26日午後10時)
7.そして、ポーランド領として残っていたウクライナの西半分も、18世紀末にはロシア、プロイセン、オーストリア三国によって分割され、最終的にはウクライナはその8割がロシア帝国領(小ロシア)とされ、残りの2割がオーストリア帝国に支配されることになった。
8.第一次世界大戦末期の1917年に第2次ロシア革命が勃発し、ロシア帝国が滅亡する。これによって、ウクライナには独立のチャンスが訪れ、同年11月には「ウクライナ国民共和国」として独立を宣言する。
 しかし、その後は短期間とは言えロシアの革命政権やドイツ、ポーランドなどが入り乱れて内戦状態となり、1921年にはロシア共産党政権(ソヴィエト社会主義共和国連邦=以降ソ連邦)に併合される。
9.ソ連邦では当初は民族の自主性が尊重され、それぞれの言語、習慣、文化が積極的に保護されていたが、レーニンの死後、スターリンが権力を握ると中央集権化と民族文化の抑圧に転じたため、ウクライナ文化は30年代には全く姿を消してしまった。
10.1930年から31年にはウクライナでも農業集団化が強行され、農民はコルホーズ(集団農場)とソホーズ(国営農場)に組織され、オデッサなどでは工業化が進められ、労働力として農民の都市移住が強制された。その結果、天候不順もあり穀物生産量は激減し深刻な飢饉に襲われることになった。
11.1931年から33年に起きた大飢饉は「ホロドモール」と称され、独裁者スターリンによるジェノサイド(大量虐殺)とも言われている。飢餓の原因は広範な凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連政府が工業化の推進に必要な外貨を獲得するために国内の農作物を「飢餓輸出」したことにあり、人為的に引き起こされたものであることは否定できない。
 飢餓による死者は400万とも1000万とも言われ、共産主義特有の「富農」の追放(強制収容所送り)や若者による集団監視体制など、中国の文化大革命と同じようなことがおこなわれ、街頭には餓死した農民の死骸が多数放置され、浮浪児が溢れ、ついには病死した人間の死体を掘り起こして食べたり赤ん坊を食べた例さえあったという。
12.1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、11月にはウクライナ全土がドイツ軍により占領される。スターリンはドイツ軍をくい止めるために、ウクライナの焦土化を図り、東ウクライナの住民380万と850の工場設備をウラル以西に移転、工場施設、炭鉱は破壊した。
 しかし、1943年1月のスターリングラード戦で形勢が逆転し、ドイツ軍が後退し同年9月にはソ連軍がウクライナを占領した。第二次大戦でウクライナは国民の6分の1、530万人が犠牲となった。(因みに日本は310万人)
13.1954年、フルシチョフがそれまでロシアの一部であったクリミア半島をウクライナ共和国に移管した。兄弟国であるウクライナにロシア人が多く定住するクリミア半島を移管させることで、ウクライナを懐柔すると同時にウクライナのロシア人の比率を高めることが目的であった。まさか、将来ウクライナが独立するとは考えていなかった。
14.1970年代のブレジネフ時代はソ連の停滞がウクライナにも及び、経済成長率の低下が続いた。それでもソ連の他地域よりは恵まれていたため、ロシア人の移住が増え、1926年の300万人から1979年には1000万人となり、ウクライナ総人口の20%を超える状態になった。その間、1975年のヘルシンキ宣言(国境尊重、人権尊重)の影響もあり、東欧諸国にソ連共産党政権の言論弾圧に対する反体制運動が活発化した。
15.1985年、ゴルバチョフ政権が誕生、ソ連の停滞打破、社会主義体制の再建を目指してグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げた。しかし、情報公開の広がりは過去の大飢饉や人権抑圧を明るみに出すことになり、ウクライナにおいてもソ連社会主義の硬直した抑圧体制に対する批判が高まっていった。
16.そのようななか、1986年4月ウクライナ西部のチェルノブイリ原発事故が発生し、10万人以上が避難を余儀なくされた。事故は3日間隠蔽され、被害は全ヨーロッパに及びソ連の体制の構造的欠陥が明らかになった。また、東ウクライナでは工業化による深刻な汚染問題が起こっていた。(令和4年4月27日午後5時47分)
17.1991年8月、保守派クーデターによりゴルバチョフが失墜し、クーデターを収束させたエリツィンが主導権を握ると、ウクライナ最高議会は全員一致で独立宣言を発し12月には国民投票により90%以上の圧倒的多数の支持により独立を達成する。(ソ連の崩壊)
18.こうして1991年に、ソ連邦解体とともにウクライナは独立を達成したが、歴史的にロシアの勢力下にあった期間が長い東部や南部は現在でもロシアとは経済的に強く結びついている一方、かつてオーストリアやポーランドの支配を受けた西部や中部は欧米との関係を重視する傾向がある。
 文化や産業も東西では異なり、東部や南部はロシア語を話す人が多く、ロシア向けの軍需産業・宇宙産業や精密機械・鉄鋼業が盛んな工業地帯で、ウクライナの輸出額の6割を稼いでいる。これに対して、西部はウクライナ語を話す人が多数を占め、産業の中心は農業であり、政治的志向は前者が親ロシア派、後者は親西欧派が基盤とする地域である。特に南部のクリミア半島は18世紀以降、1954年のフルシチョフによる移管までロシア領であり、現在もロシアの黒海艦隊が駐留する戦略的要衝となっている。(令和4年4月27日午後11時25分)
19.1994年12月、ブタペストで開催された全欧安全保障協力機構(OSCE)にてウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの三国が旧ソ連から引き継いだ核兵器を放棄してロシアに移管することを認める代わりに、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の核兵器保有国は三国を攻撃しないことを約束した。(ブタペスト宣言)
20.2000年5月にはロシアでプーチンが大統領となり、旧ソ連の国々の連携強化を主張。
 ウクライナでは2004年11月に大統領選挙が行われ、東部を基盤とする親ロシア派の与党ヤヌコーヴィチと、西部を基盤としてEUとの連携を掲げた野党ユシチェンコが戦った。選挙の結果はヤヌコーヴィチが勝利したが、野党は大規模な選挙違反があったとして選挙のやり直しを訴え、広範囲なデモや集会を繰返した。ヤヌコーヴィチとロシアは反発したが、結局デモに押されて再選挙が行われユシチェンコが勝ち、大統領に就任した。この時の様子はTVを通して世界中に報道され、野党側はシンボルカラーのオレンジ色のマフラーを首に巻いていたので、民衆が不正選挙を覆して大統領を選び直すという民主化を実現したとして、「オレンジ革命」と言われた。(ただし、U-TUBUなどを見ると一部の保守派、例えば元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏や中国情報に詳しい河添恵子氏、自民党の西田昌一参議院議員などによると、これらのデモはアメリカのネオコン(国債金融資本家)や民主党が仕組んだもので具体的な証拠を挙げて解説している)
21.オレンジ革命後も政情は安定せず、親ロシア派と反ロシア(=親西欧)派の対立が続き、2010年の大統領選挙で再びヤヌーコヴィチが復活する。その後も、親西欧派はEUとNATO加盟を主張し、親ロシア派のヤヌーコヴィチ政権及びその背後のロシアが親西欧派の弾圧を続けるという対立が続いた。
 2013年、ヤヌーコヴィチ政権はEUとの連合協定の交渉を停止、親西欧派の反発が強まった。2014年2月には大規模な反政府暴動に発展し、政権の汚職や金権体質への反発も重なり、首都キーウ(キエフ)ではデモ隊と警察が衝突、双方に犠牲者が出た。議会が混乱の責任は大統領にあるとして解任決議をしたため、ヤヌーコヴィチはロシアに亡命した。(ウクライナでは「マイダン革命」(マイダン=広場)といわれるが、ロシアは民族主義者、右翼が起こした暴力的クーデターとして政権交代を認めていない)
22.2014年3月、プーチンはクリミア半島のロシア系住民の保護を理由に軍隊を派遣、住民はロシア編入を希望しているとして住民投票を行い、圧倒的多数の賛成を得たとしてロシア編入を強行した。さらに4月にはウクライナ東部の、ロシア系住民の多いルガンスクとドネツク州の一部がウクライナからの分離を表明、ウクライナ政府はそれを認めず、親ロシア派は直接的にロシアの軍事支援を受けているとして激しい内戦に突入した。同年夏には、親ロシア派支配地区上空を飛行中のマレーシア航空機がミサイルで撃墜されるという悲劇も起こっている。国際社会はロシアに批判的で、先進国首脳会議(G8サミット)から除外された。
23.2014年9月、ベラルーシのミンスクにて全欧安全保障協力機構(OSCE)、ドイツ、フランスの仲介により、ロシアのプーチン、ウクライナのポロシェンコ(2014年6月に大統領就任)両大統領による停戦合意が成立した(ミンスク合意)。停戦とともにウクライナからの分離を宣言した地域に対しては特別の自治を認めるという合意だったが、東部では依然としてロシア系住民とウクライナの民族主義グループとの衝突が続き、事実上の戦争状態が続いており(ドンバス戦争)、2020年現在戦闘による死者は1万4千人に達している。
 2018年11月には、黒海でロシア艦がウクライナ艦を砲撃、さらに3隻を拿捕するという事件が起き、緊張が高まった。また、ロシアは併合したクリミア半島と本土の間のケルチ海峡に巨大な橋を建設、黒海とアゾフ海の船の出入りをコントロールしている。
24.2019年5月、大統領選挙で現職のポロシェンコが汚職疑惑などで票が伸びず、コメディアン出身のゼレンスキーが70%以上の得票を獲得し当選した。ゼレンスキーはNATO加盟を公約に掲げる一方、東部紛争の解決に乗り出すことを表明、2020年7月にはメルケル、マクロン、の仲介により、ウクライナ、ロシア、欧州安全協力機構(OSCE)3者協議による完全停戦の合意を発表したが、未だ停戦は実現していない。
25.ここからは、ウクライナをめぐる米ソ対立は緊張の度合いを増してゆく。
 2021年7月、プーチンが「統一論文」(ロシアとウクライナは一つ)を発表。
 2021年9月、ロシア、ベラルーシ軍がウクライナ国境付近で合同演習。
 2121年12月ロシア、ウクライナのNATO非加盟を求める条約草案を発表。
 2022年1月、アメリカは上記条約草案に対して書面にて拒否を回答。
 2022年2月10日〜 ロシア・ベラルーシ軍、再び合同演習。
 2022年2月21日、ロシア、一方的にウクライナ東部2州を国家承認。(ドネツク州とルガンスク州)
 2022年2月24日、ロシア軍がウクライナ侵攻を開始。(令和4年4月28日午前0時12分)

 ウクライナの歴史について、2022年2月24日のプーチンロシアのウクライナ侵攻までをざっと見てきたが、想像していた以上に複雑な経緯を辿ってきたことが分かる。元を辿れば同じ民族であるにもかかわらず、数々の侵略や弾圧と虐殺を受け続けてきて、今もなおそれが続いていることに驚く。

 いろいろなことを知れば知るほど、より複雑になってくる。ただ間違いなく言えることは現に日々犠牲になっているのは無辜の人たちだということだ。

そして、人類にとって最もリスクが高いのは特定の個人や一族、あるいは少数または一部のグループや組織に権力が集中する国家の存在である。今の世界で典型的な例を挙げれば、金一族が支配する北朝鮮であり、共産党一党支配の中国などの独裁国家である。そして、それらは全て民主主義ではなく、権威主義の国なのである。では、プーチンのロシアは?(令和4年4月30日午後6時)
posted by ひろちゃん at 15:25| Comment(0) | 日記