2018年10月16日

僕の好きな音楽と思い出 その1

  平成30年10月16日火曜日、次男がプレゼントしてくれたVictorが開発中のイヤホンでラフマニノフのピアノ協奏曲2番、ウラジミール・アシュケナージのピアノ、ベルナルド・ハイテインク指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を聞きながらこの記事を書いている。この音源はAMAZON Musicから取っている。

  今年8月14日の記事で「僕の心に残る好きな映画」を書いたので、映画と同じくらい、あるいはそれ以上に好きな音楽についても書いておきたい。ただし、とても1回の記事では書ききれないと思うので、折に触れて少しづつ書いて行きたいと思う。今日は僕が初めて音楽の愉しみを知って、徐々に音そのものに興味を持ち始めた高校生のころまでかな。

  僕は3歳から中学2年の1学期までは北海道の北見市の祖父母の許で育った。やっと母と一緒に東京で暮らせるようになって初めて音楽らしいものに触れた。母はピアノを弾き、子供から大人までピアノを教えて生計を立て僕を育ててくれた。今、聞いているアシュケナージも母が日比谷公会堂のリサイタルに連れて行ってくれて、僕がピアノの生演奏をコンサートホール(日比谷公会堂は音楽専用ではないが)で聞いた最初である。

  それまでの北見の暮らしは、祖父母との3人暮らしで、当時はラジオが家庭での唯一の娯楽であった。祖父の聞くラジオは浪花節か義太夫か浪曲、漫才、落語で、唯一僕が聞くことができたのは赤胴鈴乃助のドラマとその主題歌ぐらいであった。

  そんな環境から、東京へ出て母と暮らすようになって生まれて初めて本当の音楽に出会ったような気がする。と言っても中学2年で東京へ出てきても、母も病院暮らしが10年も続いていたのだから、その間はピアノも練習することさえままならなかったであろうし、もちろんピアノも持っていなかったから、とても音楽を楽しむ余裕などなかった。
  
  母と最初に住んだのは小田急線の喜多見駅のすぐ前にあったカトリック教会が運営する女子寮であった。それは元は小田急電鉄の創始者の利光謀氏(正確ではないかもしれない)の邸宅であったところで、大きな二階建ての屋敷と広い庭があって芝生の緑が今でも記憶に鮮明に残っている。

  もちろん女子寮であるから男子禁制、僕はまだ中学生だったので特別に許されたのだと思うが、二階の一部屋で他に三人のまだ20代から30代と思われるいづれも独身のOLさんと同室だった。今から考えると教会もよく許可したものと思う。今、考えるに地方から上京して独り立ちしようとする、或いは訳あって独り身の女性の一時的な駆け込み寺であったのであろう。今はそのお屋敷もなくなって、マンションになっている。

  母は女子寮の前にあった幼稚園のピアノを、幼稚園が休みの日に借りて練習をしていた。一日も早くピアノが再び弾けるようになって生計を立てようと頑張っていたのであろう。まだ退院してそう時間も経っていないので、風邪を引いたり無理をするととたんに「血沈」(母はそう言っていた)が上がるので、自分で注射を打ちながら頑張っていた。
  
  やがて間もなく女子寮を出て喜多見駅の反対側(南側)の世田谷通りから少し入ったIさんというお宅に間借りすることになった。Iさんは僕の記憶では母よりはずっと年上で、やはり母子家庭で大学生の息子さんが一人いた。田舎から出てきたばかりの僕の眼には大学生は、映画「陽のあたる坂道」に出てくる裕次郎のように映っていたことを想い出す。

  そうこうしているうちに再度、今度は同じ小田急線の成城学園前駅の北側、成城学園の近くのYさんのお宅に引っ越した。
  Yさんのお宅は結構な広さのお屋敷でわれわれ二人はそのお屋敷の奥座敷とでも言えそうな二間続きの部屋に住んだ。南向きの部屋の縁側からは庭の大きな松が見えた。Yさんも母よりは大分年上だったが、やはり息子さんと母親との三人暮らしだった。

  この辺りは如何にも落ち着いた立派なお屋敷が建ちならんでいて、近くには三船敏郎の自宅や、駅の南側には石原裕次郎の自宅(実家か?その後近くに新居ができて引っ越した)があった。
  
  毎日午後の3時頃になると、決まって台所の方で呼び鈴が鳴り、奥(Y)さんの「どなた?」という甲高い声がして、いつも同じ抑揚の低い声で「成城パン」と返すのが聞こえてくる。いつも母と一緒にその抑揚をまねて、二人で笑い転げていたことを想い出す。

  今考えると、その頃の母はどうやって生活費を稼いでいたのだろうか?呑気な僕はそんなことはお構いなく、喜多見のIさん宅から成城にある世田谷区立砧中学に通い、成城に移ってからは同じ区立の千歳中学に通った。
  
  このころはまだピアノは無かったし、ラジオももちろんテレビも持っていなかったから音楽を聞いた記憶は無い。たまに、母に連れられて都心に音楽を聞きに行ったのだろうか?アシュケナージはこのころだったのだろうか?いやいや、もっと後のような気がする。

  音楽に関する記憶がはっきりするのは、高校生になってからだ。3度目の引っ越しがいつだったかはっきり憶えていないが、成城のY邸から同じ成城の今度は駅の南側歩いても3分ほどのKさんのお宅に間借りした。

  今度は母方の母の大伯母に当たる野辺地里安(のべちりあ)と同居することになった。野辺地はその時すでに80歳を超えていたと思うが、なかなか偉い人であった。若いころにはフランスに留学していたこともあり、英語とフランス語は宮家や三菱の創始者岩崎家の家庭教師をしていたこともあり、また四谷双葉の創立にも関わり永らく四谷双葉で英語とフランス語を教えていた。
  
  この大伯母は躾に厳しくよく喧嘩したが、そのときは田舎育ちの僕のことを「こえたごや!」といって怒った。僕は最初はこの「こえたごや」の意味が分からず口ごたえしたが、普段は僕のことはかわいがってくれて、よく試験前には英語を教えてもらった。

  成城のKさん宅に間借りをしていた時に、いつの日からか記憶はないが、多分野辺地の大伯母が亡くなってからだったと思うが、母がピアノを購入した。
  そして、母は教会のつてもあり徐々にピアノを教えながら生徒を増やしていった。最も多い時は50人以上の子供からOLまで生徒がいた。毎年、5月には「さつき会ピアノ発表会」と称して区役所の成城支所にあるホールなどを借りて発表会を開いていた。その時期になると会場の手配からプログラムの印刷、司会の依頼まで一人でやっていたが、僕はといえばまだ人前に出るのが、特に若い女性が多いところに出て行くのが恥ずかしくて殆ど手伝いらしいことはしていなかった。今になって母の苦労を想うと悔やんでも仕方がないが、母からすれば本当に不甲斐ない息子であったと思う。

  後から母から聞いた話ではあるが、ピアノの取得については奇跡のようなことがあったのである。ある日これからの生計を立てて行くためにはどうしてもピアノが必要だけどお金が無い。どうしたものかと思い悩みながら知らない街を歩いていて、偶然にも音大時代の同級生Aさんの表札を見つけたことが運命の奇跡を生むことになったのである。「1本違う道を歩いていたらこの奇跡には出合うことはなかった」と、母はいつも言っていた。

  それからは、家にいるときは嫌でも毎日、母がピアノを練習するのと生徒を教えるのを隣の部屋で聞いていた。当時は、聞いていたというよりは聞かされていたというほうが正しいが、今となっては懐かしい。

  話が逸れたが、僕は千歳中学から都立の青山高校に進学した。そのころは、成城のKさん宅に間借りしていて少しづつ家計も余裕がでてきたからか、小さなレコードプレイヤーを買ってラジオに繋いでEP盤(ドーナツ盤ともいっていた)の映画音楽などを聞いていた。

  そのころよく聞いていたのは母が好きだった「エストレリータ(Estrellita)」と「魅惑のワルツ(Fascination)」だった。「エストレリータ」はメキシコの作詞・作曲家のマヌエル・マリア・ポンセの作品で情熱的なスペイン語の歌詞が付いているが、当時は誰の演奏で聞いていたか記憶がない。因みに「Estrellita」はスペイン語で「小さな星」という意味。美しい曲だ。

  「魅惑のワルツ」はビリー・ワイルダー監督、ゲイリー・クーパー・オードリー・ヘップバーン主演の「昼下がりの情事」(何とセンスのない邦題だろうか。原題はLove in the Afternoon)の主題曲であり、僕はマントヴァーニの演奏で聞いていた。

  その他に思い出すのは映画「シェーン(Shane)」の主題曲を作曲者のヴィクター・ヤング楽団の演奏で、映画「真昼の決闘(High Noon)」のテックス・リッターが歌う”Do not Forsake Me,Oh My Darlin"で始まる「ハイヌーン」を確かフランキー・レイン盤で聞いていた。作曲はかのデイミトリ・テイオムキンだ。この組み合わせは他に「OK牧場の決闘」や「ローハイド」がある。

  そうした時期を過ぎて、高校何年生の時かは忘れたが文化祭で確か無線部のデモンストレーションでオーデイオの演奏会を聞きに行ってすっかりその「音」そのものに魅せられてしまった。
  その後同部のW君と親しくなり、W君の自宅で彼が製作したオーデイオ装置で確かそのころ流行っていた「コーヒールンバ」という曲を聞かせてもらった。

  僅か20cm口径の国産スピーカー(Coral社製の8CX−7だったと思う)から放たれる音を聞いて感動してしまったのである。それからというものはオーデイオ道まっしぐらで、当時通っていた都立青山高校は信濃町が通学駅で、帰りには殆ど毎日そのまま1本で行かれる秋葉原通いとなった。スピーカーそのものに魅せられ、雑誌を読み漁り秋葉原の電気街を回って試聴して歩いた。ほどなく初めてのスピーカーPioneer PAX-20E を購入した。見よう見まねで作った自作のアンプで初めて音楽を鳴らした瞬間は今でも忘れられない。

  それからは主として、ラテンやタンゴ、シャンソン、ダンスミュージック、映画のサウンド・トラックなどをよく聞いた。エドムンド・ロス、スタンリー・ブラック、マントヴァーニ、フランク・チャックスフィールド、リカルド・サントス(ウエルナー・ミューラー)、アルフレッド・ハウゼ、ベルト・ケンプフェルト、ペレス・プラード、セルジオ・メンデスとブラジル66、などである。

  なかでもエドムンド・ロスとスタンリー・ブラックはお気に入りであった。特にロスのミュージカルやダンス音楽とブラックの低音ピアノによるシャンソンやラテンやタンゴが好きで、今でも何枚かのLPレコードは持っている。エドムンド・ロスは厚生年金会館でのコンサートにも聴きに行ったりした。

<左:STANLEY BLACK AND HIS ORCHESTRA "PLACE PIGALLE" LONDON R. MPL 1006
中奥:EDMUNDO ROS AND HIS ORCHESTRA "KING OF LATIN RYSMS" LONDON R. NAX 023
中前:STANLEY BLACK AND HIS ORCHESTRA ”all time top tangos!" LONDON R. MPL 1018
右:EDMUNDO ROS AND HIS ORCHESTRA "LONDON for DANCING" LONDON R. MPL 1021>
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  高校時代も3年生になるころには、クラシックにも興味を持ち始める。それまでにもレコードを買うときは下北沢の名前は忘れたがレコード専門店か新宿のコタニへ行っていたが、ある日同級生で親友だった(今でも変わらず親友だが)H君に頼まれてベートベンの第9を買いにコタニへ連れて行った頃から、自分もオーマンデイー、フィラデルフィアの「新世界」やチャイコフスキーの6番「悲愴」(デイミトリー・ミトロプーロス、ニューヨークフィル盤)のレコードを購入したりして、徐々にクラシックに傾倒していった。
posted by ぼたん園々主 at 13:43| Comment(0) | 日記

2018年09月15日

父のこと・・・・続編

  前編で父のことを書いていて、果たして当時のまだ20歳前後の若者が一体この戦争をどう受け止めて、どう行動したのか、特に究極の状態に置かれた「特攻」隊員が何を考え、何を守ろうとしたのか。果たして自分がその立場に立っていたらどうしていただろうか。考えてみたいと思った。

  今となっては当時、父と接触のあった方は殆どの方が鬼籍に入られており、ご存命の方もとてもお話を伺うことは憚られる年齢となられている。真実を知りたいと思う気持ちはあっても、それはわずかに母から聞いた話と、父が主に海兵時代に書き残した「自啓録」(海兵では生徒全員が休暇中には日記を書くことが義務付けられていた。休暇中の出来事を記し、それについて「所感」を書く。帰校後、提出して担当官、校長の検閲を受ける。その他に「自啓録」という革表紙のノートがあり、これは生徒の自主性を重んじて閲覧はされなかった)や家族に出した手紙から窺い知るしかない。

  あとは、種々出版されている書籍から当時の時代背景や当時の資料や伝聞、取材による著述から推定するしかない。それでも母に語った言葉や他人が読むことを前提に書かれた文章がどこまで父の心の内面を吐露したものかは分からない。

  父のことを書くにあたって、これまで読んだ本を改めて読み直してみた。それらは以下のとおりである。(順不同)
@敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯 上・下 森史郎著  文春文庫
A失敗の本質 日本軍の組織論的研究  共同研究  中公文庫
B雑誌  正論 2015年9月臨時増刊号 戦後70年 大東亜戦争-民族の記憶として 産経新聞社
C海軍江田島教育を知っているか 強いリーダーはこうしてつくれ 龍岡資明著 アーバンブックス 
D海軍飛行科予備学生よもやま物語 陰山慶一著 光人社
E自啓録 河西久夫 海軍兵学校
F澎湃の青春ー70期の記録ー 海軍兵学校第70期会
 *澎湃(ほうはい)とは1.水がみなぎり逆巻くさま。2.物事が盛んな勢いで沸き起こるさま。「江田島健児の歌」(校歌ではない。海軍兵学校には校歌はない)の歌詞の最初の言葉に「澎湃寄する海原の」とある。
G江田島海軍兵学校 世界最高の教育機関 徳川宗英著  角川新書
H特攻の真実 なぜ、誰も止められなかったのか 大島隆之著 幻冬舎文庫
I特攻 知られざる内幕 「海軍反省会」当事者たちの証言 戸高一成編 PHP新書

  これらのなかから、今回は主として@敷島隊の五人と、E自啓録、F澎湃の青春、G江田島海軍兵学校、及びH特攻の真実 なぜ、誰も止められなかったのか、について取り上げてみたい。

@敷島隊の五人
  先ず、この本を読んでびっくりしたのは、昭和19年10月25日隊長の関行男以下5人の特攻隊員がフィリピン・ルソン島のマバラカット基地を飛び立ち、米空母への体当たりに成功し、一隻撃沈、二隻中小破という大戦果をあげて神風特攻隊の先駆けとなったという事実である。
  僕の父は同年同日、同じフィリピン・ルソン島のレガスピー基地を飛び立って戻らなかったのである。

  次に、隊長の関行男は父と同じ海軍兵学校の第70期であり、しかも戦死した時の年齢は二人とも23歳である。もっとも、他の四人の隊員ー谷暢夫、中野磐雄、永峯肇、大黒繁男たちは二十歳前後の若者である。さらには、隊長の関行男には新婚五か月目の新妻があった。
  僕の父も関と同じ昭和19年5月に結婚し、わずか半年足らずの新婚生活でこの世の別れを迎えた。二人の違う点は、関には子供はなく、僕の父、そして母には僕という子孫ができていたことだ。

  さらに、昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業すると同時に432名の70期生徒は、夫々臨戦準備中の連合艦隊各艦に配属される。関行男は扶桑のち千歳、父は伊勢のち鈴谷に乗艦している。

  そして、昭和18年1月には二人とも第39期飛行学生として霞ヶ浦航空隊に所属、関はその後同年3月には宇佐航空隊にて実用機教程を終え昭和19年1月には霞ヶ浦航空隊付教官となり、同年7月には台湾の台南航空隊付教官として赴任する。その間5月には渡辺満里子と結婚している。

  僕の父は霞ヶ浦航空隊のあとは関より6か月遅れて大分に赴任し、関と同じ昭和19年1月には大分航空隊の教官兼分隊長となり、同年4月には筑波航空隊の分隊長になっている。そして奇しくも関と同じく5月に染山泰子(僕の母)と結婚しているのだ。

  そして、二人とも平成19年10月25日にお互いにわずか数百キロしか離れていない海上で敵艦に突っ込んだのである。
  ただ、関行男の場合は最初の「特攻隊」として大西瀧次郎中将という強烈な指揮官による命令と、直援機(直接援護の略で、特攻隊としての戦闘機は500Kg爆弾を抱えるため速度が落ち、敵の攻撃にさらされるためそれらを守るため一緒に出撃する護衛機であり、各隊からベテラン搭乗員が選りすぐられた。彼らは多くの激戦を勝ち抜き、多くの戦友の死を見届ける役割もあった)による戦果(空母1隻二機命中撃沈、空母1隻一機命中火災停止、軽巡1隻一機命中轟沈)の報告が可能だったこと、それとその戦果が軍により正式に公表され、朝日新聞を初め大々的に新聞報道されたことにより広く国民の知るところとなった。

  この本の下巻、393ページV資料編にはこう書かれている。
  神風特別攻撃隊の誕生は、昭和19年10月28日午後3時付で、海軍省より公表された。第一回目の発表でふれられているのは敷島隊のことのみで、彼らと同時に発信した他の六隊についてはふれられていない。この敷島隊発表の時期については、明らかに政治的意図が感じられる。

同公表内容・・・・・
「神風特別攻撃隊敷島隊員に関し聯合艦隊司令長官は左の通り布告せり。
    布  告 
戦闘〇〇〇飛行分隊長海軍大尉              関 行男
戦闘〇〇〇飛行隊附海軍一等飛行兵曹           中野巌雄
戦闘〇〇〇飛行隊附同                  谷 暢夫
同海軍飛行兵長                     永峯 肇
戦闘〇〇〇飛行隊附                   大黒繁男
  神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和19年10月25日〇〇時スルアン島の〇〇度〇〇海里において中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦隊の一群を補足するや必死必中の体当たり攻撃をもって航空母艦1隻を撃沈、同1隻炎上撃破、巡洋艦1隻轟沈の戦果を収め悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり
  仍つて茲に其の殊勲を認め全軍に布告す
     昭和十九年十月二十八日
                     聯合艦隊司令長官 豊田副武」

  上記の敷島隊と同時に発信した他の六隊及び父の動向についてはFの「澎湃の青春」に記載がある。

  この本を読んで僕が最も関心を持つのは、華々しい戦果よりも個々人の死に至るまでの呻吟や苦悩であり、生い立ちから死に至るまでの人間形成であり、妻、子、両親、兄弟姉妹、家族や友人、そして郷土あるいは国家に対する思いであり、そして残された遺族のその後である。

  その意味で、当時20歳の関行男が横須賀の料亭「小松」での少尉任官の祝いの席で出会った芸者「朝日」(源氏名)19歳との恋もそのひとつである。当然の結末を迎えることになるが、直情肌の関は純粋に一途に彼女を求めようとして世間という厚い壁に弾き飛ばされる。このことが後年彼が見せた虚無感と大きく関わっているようだと著者は書いている。

  そして、全くの偶然が重なって一歳年下の運命の女性、渡辺満里子と出会い、昭和19年5月に結婚する。
  それは、関が海軍兵学校を卒業して水上機母艦千歳に乗艦していた昭和17年初めに始まる。内地から送られてきた慰問袋の山の中から偶然にも関に配られたのが後に妻となる渡辺満里子の妹、恵美子からのものだった。そしてこの年の夏、関は横須賀に帰港した際に感謝の意を伝えるために鎌倉の渡辺家を訪ねるのであった。
  渡部家では不意の訪問にもかかわらず、家族の一員のような歓待を受ける。関は恵美子を妹のようにかわいがり、その後2年にわたり渡辺家を訪問している。

  丁度その頃は横須賀の芸者との恋に破れ失意のどん底にあった時期と重なるが、もう一つの偶然が彼の結婚への決意を後押ししたのである。それは関が霞ヶ浦の教官となり、たまたま同期生の教官たちとの酒盛りの席で20代の若者たちのことでもあり、来る海軍記念日(5月27日)までに合同結婚式を挙げるという誓約書を交わしてしまう。

  昭和19年仲春、関は渡辺家を訪れ二人の姉妹を前にして母親に言った。「お母さん!私に満里子さんをください」そして「こんどの海軍記念日までに、是非結婚させてください!」

  関行男の特攻出撃前の偽らざる心境はどうであったのだろうか?

  同盟通信特派員小野田政は、体当たり攻撃を命じられた関の心境を聞く機会を得た。敷島隊が編成された20日午後、マニラの報道半員宿舎でデング熱で寝ていた小野田は海軍病院からの電話で呼び出された。
  海軍病院では左足を包帯でぐるぐる巻きにした山本栄大佐が横になっていて、小野田の顔を見るなり、「おい、特ダネだぞ!」「君はわしの隊付報道班員だから特別に話す」と言って、前夜、司令部幕僚から聞かされた攻撃隊編成のいきさつを打ち明けた。

  小野田特派員はマバラカット基地に車を飛ばしたが、その日の出撃が中止になった関を夜にバンバン河原に連れ出した。その時のやりとりを戦後の回想録「神風特攻隊出撃の日」にこう記している。

  砂利石の上に腰をおろし、二人きりになったところで関は腹立たしげにこう言った。
  「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に五十番を命中させる自信がある」 五十番とは500キロ爆弾のことである。
  そして、彼はこうも打ち明けた。「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍用語で妻のこと)のために行くんだ。命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」

  201空に着任して以来、艦爆出身のよそ者分隊長で心を打ち明ける同期生もなく、隊員たちとのなじみも薄い。隊ではどこか寂しげで孤立した感が深かっただけに、心の鬱積が一気に解き放たれたようであった。
  胸のポケットにしまいこんである新妻満里子の写真をみせ、その美しさを褒めると、茶目っ気たっぷりにキスしてみせた。海軍報道班員といえば201空で唯一の民間人だから、つい心を許す気持ちになったのだろう。

  関は、自分が率いて共に体当たりする四人の隊員たちのことにふれてこうも言っている。「ぼくは短い生涯だったが、とにかく幸福だった。しかし列機の若い搭乗員はエスプレイ(芸者遊び)もしなければ、女も知らないで死んで行く。インチ(恋人)もいるだろうに・・・・・・・」

  関家の家族についてもふれておきたい。

  関行男は大正10年8月29日に愛媛県新居郡大町村(現在の西条市栄町)で父勝太郎と母サカエの間に生まれた。父勝太郎は骨董商を営み、関が生まれたとき勝太郎は38歳、サカエは23歳という娘盛りであった。大阪に店舗があるため、勝太郎は時折西条に訪ねてくるだけで、幼いころ関は若い母親とほとんどふたりきりで暮らしていた。

  しかし、勝太郎は21歳のときに1歳年下の女性、アサノと結婚していて、二人のあいだに、3人の息子があり、そのことをサカエは知らされていなかった。サカエは関を出産後、子供を連れて一時親戚に身を隠したが、勝太郎の懇願に負けてふたたび栄町にもどる。こうして関は私生児として生まれ、勝太郎が認知して自分の籍に入れたのは大正14年9月17日、関が4歳になってからのことである。そのために、戸籍上は関家の四男ということになる。

  しかし、勝太郎の最初の結婚は不幸続きで、大正12年に生まれた5男は生後すぐに死亡、他の3人の息子たちも病死や事故死で喪い、最後には関一人となる。昭和5年にアサノとの協議離婚が成立し、4年後、勝太郎はサカエとの婚姻届を出す。ここで関は正式の嫡出子となる。関が西条中学に入学する直前のことである。

  そして、昭和16年初春、関行男が海兵の1号生徒になる直前に父勝太郎が病死する。勝太郎の葬式を終えたあと関は江田島に帰り、サカエは栄町に一人残された。勝太郎の病気が長かったので貯えも底をつき、家を処分するしか方法がなかった。従弟の小野勇太郎宅に身を寄せ、戦争が始まってからは草餅の行商で生計を立てた。関が昭和19年5月に満里子と結婚してからは、西条市氷見新町で一人間借り生活をしながら夜は草餅を作り、和裁の賃仕事もこなし、昼間は草餅を売り歩くつつましい暮らしであった。

  その後、近所づきあいをしていた女性教師の世話で小学校の小使いをして暮らしたが、昭和28年11月9日に買い物先で倒れそのまま息を引き取る。行年55歳。敷島隊長関行男の母は、なに一つ花の咲くことのなかった薄幸の人生を閉じたのである。

  折しも同年6月には、旧軍人に対する恩給復活法案が上程されたが、母サカエも妻満里子も結局その恩恵に浴することは一度もなかった。

  関行男の妻、満里子はその後どうなったのであろうか?

  突然の戦死公表のために、鎌倉の実家に帰っていた妻満里子と西条の母それぞれに新聞記者が押しかけた。記事発表の思惑と地元の熱狂ぶりが先行し、妻と母は別々に祭壇を設けさせられる羽目になった。

  そして新妻と母の間柄について、地元では思いがけない不評が立つ。まもなく行われた氷見新町の関の葬儀に、新妻満里子は父と一度姿を見せたきりで、いらい西条と鎌倉とは行き来がなく、敗戦後サカエが物置部屋に寝泊まりし極貧のなかで一人暮らしをつづけるのに対し、満里子は昭和23年4月に戸籍上の旧姓に復し、働きながら女子医大に入り、医師の道を志す。縁あって医者と結婚し、二人の子供を生んだ。

  この陰には、サカエの満里子に対する強い意志があった。「再婚して、新しい人生を歩みなさい。私は一人でちゃんと暮らして行けるから」と新妻を励ましていたのである。幼くして父をなくし一人で生き抜いてきたこの母には、鎌倉女学院を特待生で卒業した都会育ちの才媛と、石臼で粉をひき草餅の行商で生きている田舎の母との共同生活には所詮、無理があることが分かっていたのである。

  戦争中は「軍神の母」「軍神の妻」とあおりたてた世間が、戦後置き去りにされた母と妻に対していかに非情であったかは想像を超える。敗戦直後は、「軍神の母」「軍神の妻」は「戦争協力者の母」「戦争協力者の妻」と批判を浴びる立場に移り変わるのは、他の四人の隊員家族と同様である。米軍の進駐とともに陸海軍は解隊され、それに付随する一切の観念は旧思想として排除された。「軍神」は「戦争犯罪人」とも批判され、「特攻」は「犬死」扱いとなった。

  そして、僕にはもう一つの重大な関心事がある。それはこの本の下巻の385ページ以降、393ページまでのT補遺の部分である。そこには以下のとおりのことが書かれている。長くなるが抜粋する。(一部改変)

  特攻隊決定の経緯についてはすでに多くのことを記したが、今なお解き明かさねばならぬいくつかの疑問がある。その最大のものは、督戦側の指揮官たちが戦後に発表した記録内容と、生き残り隊員たちが語る証言との食い違いである。次に、そのいくつかの点について検証してみたい。

1、関大尉が特攻隊長を引き受けたときの心境について
  参謀井之口力平大佐と201空飛行長中島正少佐の共著「神風特別攻撃隊」に、次のような有名な一節がある。

  昭和19年10月19日夜、大西長官を迎えた201空本部士官室で、副長玉井一中佐から特攻隊長になるように口説かれたときの描写・・・・・・

  「関大尉は唇を結んで、何の返事もしない。両肘を机の上につき、オールバックにしている長髪の頭を両手で支えて、眼をつむったまま俯き、深い考えに沈んでいった。身動きもしない。・・・・・一秒、二秒、三秒、四秒、五秒・・・・・・・。と、彼の手が僅かに動いて、指が髪をかき上げたかと思うと、静かに頭を持ち上げて云った。『是非、私にやらせて下さい』 少しの澱みもなかった。明瞭な口調であった。玉井中佐も、ただ一言、『そうか』と応えて、じっと関大尉の顔を凝視していた。急に重苦しい雰囲気が消えた。雲が散って月が輝き出た様な爽々しい感じだった」

  この文章は、特攻隊長を引き受けた関行男の潔い見事な決断の例として各書で引用され、英訳もされ、防衛庁の戦史叢書にも記録されて、事実として固定している。だが、関の友人、加藤敬氏の証言によれば、玉井中佐自身が加藤氏に洩らした内容は、関大尉が最初に示した反応は、「一晩考えさせてください」という苦渋に満ちたものであった。

  台南空教官から比島に転じてわずか三週間余り、実践体験もなくまた郷里に残してきた母や新妻を想えば、心にとっさの逡巡があったとしても無理はない。むしろ、関の性格からみて、こうした反応を示すことの方がいかにも彼らしいと思われる。加藤氏も「彼の性格からして、自分から特攻を志願していったとは考えられない」と断言する。「最後には、お母さん、お母さんと言って泣きながら飛んで行ったんでしょう。母一人子ひとりでしたからねえ。それを思うと、関の心情が哀れでならんのですよ・・・・」

  前掲の著書「神風特別攻撃隊」は、戦後の「特攻隊神話」を形成するのに大いに役立った。すなわち、特攻隊員は指揮官たちの強制ではなく志願によって選ばれたこと。その証拠に兵学校での士官は、このように見事に最初の隊長を志願したではないか・・・・。そして命令する側の猪口参謀は、わざわざ傍点をふって関の言葉を書く。「是非、私にやらせて下さい

  こうした、特攻命令を下す側が書いた回想録は、生き残った指揮官たちが命令を正当化するために書いたものだから、記述に潤色が多く信頼できない。また、同書には、致命的なミスもある。敷島隊はじめ体当たり攻撃隊の中心となった谷暢夫、中野磐雄たち甲飛十期生を「九期飛行練習生」と誤記していることである。しかも「九期飛行練習生」が特攻隊員として選ばれたのは、201空玉井浅一中佐と「前々から切っても切れない深い縁があったからである」と書き、その由来が念の入ったことに半ページにもわたって紹介されている。

  これは命令する側が、される側の事情に関して極めて無頓着で、無神経であったことの証左のひとつである。体当たり攻撃に関して、命令を下す側はその人選にも編成に当たっても、処理は極めて杜撰で、事務的であった。

2、特攻隊と天皇の関係
  この項は別の機会に譲ることとする。

3、特攻計画者たちの証言
  この項についても、特攻を計画した陸海軍首脳、あるいは軍の中枢にあってその経緯を知り得る立場にいた指導者たちの戦後回想には、事の真相が明確に語られていない。
  そのために、特攻立案者、推進者たちの姿が陰にひそみ、特攻は搭乗員たちの自発的な意志、あるいは一航艦長官大西瀧次郎中将の発意という個人的動機に問題がすり替えられてしまっている。として、これら首脳陣の記した戦史、回想録が掲載されている。それらは、いづれも次第に厳しくなる戦況下で航空隊を中心に醸成しつつあった特攻攻撃の気運がレイテ決戦の危急に直面して、上からの命令ではなく下の方から自然に盛り上がってきて、日本を救う最後の手段はこれしかないという犠牲心から遂行されたとしている。

<「敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯 上・下」>
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   僕は、父とは逢ったこともないし、もちろん父も僕が母のお腹に宿っていることは知っていたが、赤ん坊の僕を見たこともない。父はそのとき何を考え、何を感じ、どうやって自分の死を自分自身に納得させたのだろうか?

  ここからはあくまでも推定になるが、叔母の話では、父は小さいころ(小学生ころか)から毎月「海軍グラフ」を購読していたそうである。僕自身も小学生のころは当時の少年雑誌に載っている戦艦や戦闘機の勇ましい絵(小松崎茂の名は今でも憶えている)に心躍らせたものである。父の父(僕の祖父)は若いころには近衛兵(天皇を警衛する直属の軍人)を務めたこともあり、天皇または国家に、一旦急あれば命を捧げる覚悟だったので、その影響を父が受けていない訳はないと思う。

  しかし、母から聞いた話では父は割合早くから母には、この戦争は日本が負けると言っていたそうである。また、当時はあちこちに「贅沢は敵だ」というスローガンが貼られていたが、父は敵の前に「素」を付け加えて「贅沢は素敵だ」とする悪戯(当時のことだから見つかれば悪戯では済まなかったはずだ)をしたりしたそうである。

  そんな父だから、まして戦闘機乗りを希望して軍人になったからには、恐らく普段から「死」に対する覚悟はできていたであろうと思う。

  そして、後にEの「自啓録」にも出てくる父親、貴一が父の海兵卒業に際して送った手紙にあるように、長兄の博(僕の伯父)の名誉(昭和14年に満州とモンゴルの国境ノモンハンでおきた国境問題に関する日ソの武力衝突、ノモンハン事件で名誉の戦死)を汚さぬように、との厳命も影響があったのかも知れない。

  僕は、この本に書かれていることが全て事実のとおりだと単純には思わない。当事者しか分からない経緯や思いがあっただろうと思う。得てして人間は自分の経験や考え、ときには他人の意見によって当事者の言動を判断、推測してしまうが、事実は小説より奇なりという言葉もあるとおり、当事者にしか分からない事実もあったと思う。
  戦時下の軍隊という特殊な組織のなかで、自分の思いとは違う言動を取らざるを得ない場合もあっただろう。何事も他人を批判することは簡単だが、それはあくまでも客観的な事実に基づいてなされなければならない。

  恐らく父にも関行男が洩らしたと同じように「僕は最愛のKA(海軍用語で妻)と生まれてくる子供のために行くんだ。命令とあれば仕方がない。僕は彼女と子供を護るために死ぬんだ。最愛のもののために死ぬ」という気持ちは当然ながらあったと思う。

  しかし、僕は母からは、父が霞ヶ浦でも(多分大分でも)敵艦の艦橋に体当たりする訓練を毎日行っていたこと、その訓練中に急降下に失敗して死亡する例もあったことを聞いている。また、最後のころには、ネジの1本くらい抜けていても飛んでいたと聞いている。そんな状況で、ある日突然体当たり特攻隊が編成されたということも、にわかには信じがたいと思う。

  母は、父より1歳年下である。だから父が戦死したときは22歳。父と知り合ったときは、まだ音楽学校(現在は音大)の学生であった。父はまだ兵学校の学生である。前編で書いたとおり、父の姉(私の伯母)が同じ音学学校のピアノ科の同級生であったことから二人は出会った。母の話によれば、父は母の校内演奏会で母の弾くリストの「追憶」を聞いて感動し、姉を通じて猛烈にアタックしたようである。父の残したアルバムにはそのときの母の写真が貼ってある。

  叔母の証言では、母は父が戦死してからも是非にという縁談がたくさんあったようであるが、頑として首を縦に振ることはなかった。父ほどの男は一人もいなかった、と言って憚らなかったそうである。
  今頃は天国で二人なかよく、毎日いい音楽を聞きながら、いつまで経っても危なっかしい僕のことを叱っていると思う。

<父のアルバムに貼られている母の写真。「此の写真を見ると、死んだお袋を想い出し、独り涙ぐむ」と書かれている。>
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E自啓録
  海軍兵学校の「自啓録」は、前にも書いたように唯一、上官の検閲を受けない自習帳のようなものである。その最初には「凡例」として、次のように書かれている。曰く、「本記録ニハ自己ノ感シタル格言、自己ノ反省セル事項及講演ノ所感等ヲ記註シ自啓修養ニ資スルヲ目的トス」と。次には「教育勅語」、「軍人勅諭」、「明治天皇御製百首」、「艦船職員服務規程綱領」、そして聯合艦隊司令長官 東郷平八郎が明治38年12月21日に発した、最後に「古人曰ク、勝テ兜ノ緒ヲ締メヨ。ト」で終わる「聯合艦隊 解散の訓示」と続く。

  中身はペンと毛筆により書かれていて、上官あるいは分隊監事の講話や訓話が多いが、禅や茶道、さらにはドイツ人の日常生活や武士道まで多岐にわたる。

  毛筆で書かれたものには、(昭和16年)12月3日 勅語 聯合艦隊司令長官 山本五十六大将ニ給ヘルモノ、そしてそれに対する 奉答文や、(昭和16年)11月14日 海軍兵学校長 海軍中将 草鹿任一 卒業ニ際シ校長訓示、昭和17年4月16日 旗艦 大和 聯合艦隊司令長官 作戦司令、昭和17年8月16日 旗艦 翔鶴
第三艦隊司令長官 南雲忠一 昭和17年8月16日出撃に際し各級司令官に訓示と続く。

  面白いのは、昭和16年11月14日 兵学校卒業に際して父上御教訓と題して、父親、河西貴一からの直筆の手紙が張り付けられている。そこには、

一、学校を卒業したりとて 心ゆるめな 此れからが本統(ママ)の実力を発揮する大切なる時代の第一歩を  ふみ出し国家に盡す 修業時代に這入りしなり 夢 修業をおこたるな
一、君国に身を捧げるは もとよりなるも 祖家の事を常に心に留め 殊に名誉の兄を恥ずかしめざる様 心  得べし
一、上司 友人 親類等の交誼にも 本末の過らざる(ママ)様 心掛るべし

  と、書かれている。

  この後は、昭和17年11月1日 旗艦 大和 聯合艦隊司令長官 山本五十六 南太平洋海戦直後各級指揮官に対し訓示、最後は乃木大将復命書で終わっている。
  途中、2か所ほど破り取られているページがあるが、残念ながら父の心情が窺えるような言葉は見当たらない。

<「自啓録」 表紙>
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<「自啓録」 久夫(父)直筆ペン書き。写真を左クリックして拡大することができます>
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<「自啓録」 久夫(父)直筆筆書き 聯合艦隊司令長官 山本五十六 訓示。拡大できます>
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<「自啓録」 兵学校卒業に当たり 河西貴一(祖父)より久夫(父)に宛てた手紙。拡大できます>
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F澎湃の青春
  この本は、海軍兵学校の第70期会の生存者の方々によって編纂され、平成7年12月に出版された70期の第1章 「兵学校入学まで」、から第7章 「終戦」 までと、追憶編として、「ありし日の級友(とも)」 は、かつての級友をクラスメート、家族、生存者については本人が思い出を寄稿したものである。また、付録として70期生全員の経歴(出身、兵学校在学時の分隊 昭和16年から20年までの足跡)、海兵70期年表、生徒採用試験(学術)問題、別図として大東亜戦争要図、ハワイ作戦部隊行動図、フィリピン沖海戦外見図まで全578ページの労作であるとともに正確な戦史としても貴重な記録である。

  この本の最初の方に、発刊を祝して として70期指導官の飯川尚介氏(62期)がこう述べておられる。
  戦後ご遺族はもとより、生存級友各位のご苦労は筆舌に尽くし難いものでありました。平成5年には最高指導者たる首相や国会議員が「今次戦争は侵略戦争であった」と断言しました。私共は断じて侵略戦争を戦ったのではありません。私は敢えてここに声を大にして叫びたい。
  「吾等当時の海軍将校は祖国の独立と栄光のために戦ったのであって、侵略戦争を戦ったのではない」と。・・・・・・一部を抜粋

  僕も声を大にして叫びたい。「戦争をしたくて戦争をした日本人はいない。戦争に負けたからといって何も卑屈になることはない。なんら恥じることなく正々堂々と戦って負けたのだから」と。

  父が参加したフィリピン沖海戦の経緯については、145ページから165ページに詳しい。父の戦死については156ページから157ページにかけて記載されている。

 昭和19年10月、マッカサー将軍麾下の比島攻略部隊がレイテ島上陸作戦を開始した。これに対し大本営は18日、「捷1号作戦」を発動し戦艦大和、武蔵などを擁する水上部隊の主力である第1及び第2遊撃部隊を25日黎明にレイテ湾に突入させ、この突入作戦に呼応して陸海軍協力して敵攻略部隊に集中攻撃を加え、連合軍上陸部隊を破砕しようとした。
 
  作戦は、第1遊撃部隊を3部隊に分け、第1、第2部隊(栗田部隊)は22日朝ブルネイ湾を出撃してシブヤン海を経由して北から、第3部隊(西村部隊)は22日午後ブルネイを出撃してスルー海、ミンダナオ海を経由して南から、それぞれ25日夜明け前にレイテ湾に突入することになった。また、第2遊撃部隊(志摩部隊)は21日夕刻台湾の馬公を出港し、コロンを経由して25日明け方、西村部隊に約1時間半ほど遅れてレイテ湾に突入することになった。

  一方、機動部隊本体(小澤部隊)は10月20日に本土を出発南下して24日夜明けにはルソン島北東岸のエンガノ岬沖東方に達し、敵機動部隊を比島から北へ誘引する囮作戦を展開し、その間に遊撃部隊のレイテ湾突入を成功させる作戦である。

  この作戦の結末は、西村、志摩部隊は25日夜明け前の栗田部隊の露払い役としてレイテ湾に突入したが、待ち構えていた米第7艦隊の大部隊の集中攻撃を受け、西村部隊はほぼ全滅、志摩部隊はこれを見て撤退せざるを得なかった。

  栗田部隊は途中敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、旗艦を失いながらも24日朝ミンドロ海峡を通ってシブヤン海に入るも、延べ5時間にわたり敵艦載機250機以上の猛攻撃を受ける。
  栗田部隊は味方航空部隊の援護も情報もなく、敵艦戦機の攻撃は激化するばかりの状況に、敵の空襲を一手に引き受けているのではないかという印象を持つにいたる。このままではサンベルナルジノ海峡を予定の日没までに通過することは覚束なく、夕刻になって栗田長官は一時空襲を避けて味方航空部隊の協力を得た後、再進撃することを決断し全部隊を反転させた。

  ところが、反転してから全く不可解なことが起こる。今まで激しかった空襲は嘘のようにピタリと止まる。小澤部隊による囮作戦の成功である。栗田長官はこれを見て反転2時間後に再び進撃を開始するのであるが、この栗田部隊の一時反転は各部隊の連携に混乱を招いた。

  一方、機動部隊本体(小澤部隊)はエンガノ岬沖で空母全滅という多大な犠牲を払いながらも米機動部隊の北方誘引に成功した。しかし、この犠牲的囮作戦の成功も無為に帰することになる。
  いわゆる「栗田艦隊の謎の反転」により栗田部隊がレイテ湾突入を止めてしまったからである。栗田長官には小澤部隊の戦闘状況も、西村部隊との戦闘によりレイテ湾にある米艦隊の弾薬払底の実情も判っていなかったのである。

  かくて、連合軍は初戦の困難を脱して上陸作戦を続行、我が水上部隊は損耗多く、もはや艦隊としての組織的決戦力を失い、基地航空隊もまた兵力を損耗し尽して比島から撤退せざるを得ない状況に追い込まれた。
  
  以上のような状況下で、僕の父はレガスピーを基地とする第6基地航空部隊(2航艦ともいう)に所属し、マニラを基地とする第5基地航空部隊(1航艦)とともにレイテ湾決戦に臨む遊撃部隊と呼応して敵の攻略部隊を攻撃すること(他に陸軍との共同作戦もあり)が任務であった。

  この第5基地航空部隊(1航艦)の指揮官が着任したばかりの大西中将であり、関行男が神風特別攻撃隊敷島隊の隊長として昭和19年10月25日午前、マバラカット基地を発信レイテ沖にて体当たり攻撃に成功して特別攻撃の第1号となった。

  第6基地航空隊(2航艦)に所属していた父の戦死に関する部分を抜粋する。
  25日は遊撃部隊のレイテ湾突入作戦に呼応して総攻撃を実施した。レガスピー沖約100浬及びレイテ沖約150浬の敵機動部隊に対し、午前制空隊75機、攻撃隊艦爆28機からなる1次攻撃を、午後零戦28機、艦爆2機の2次攻撃を実施したが、いづれも敵を発見できず帰投した。さらに、これらの部隊を再編成し、夕刻、夜間にかけ延べ100機に及ぶ攻撃をしたが、敵戦闘機により進撃を阻止され期待ほどの戦果はあがらなかった。

  901空の山之内は97式で東港を発信、敵機動部隊発見報告の後戦死、河西久夫は零戦でレガスピー発信、同地沖敵部隊を攻撃戦死した。

  最後に、母が追憶編、「ありし日の級友(とも)」に寄稿とともに寄せた短歌。
  わが行く道 いついかになるべきかは つゆしらねど
  主はみこころなし給はむ そなえ給う主の道を
  ふみて行かん 一すじに

<「澎湃の青春」の表紙>
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<「澎湃の青春」 生徒館のカラー写真と江田島健児の歌(左頁)、大講堂(上)と教育参考館(下)の写真(右頁)。写真の拡大ができます>
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<「澎湃の青春」 6,7頁。写真の拡大ができます>
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<「澎湃の青春」付録のフィリピン沖海戦概見図。画像をクリックして拡大(二段階の拡大ができます)してご覧ください。>
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G「江田島海軍兵学校」
    副題には「世界最高の教育機関」とある。著者は1929年、ロンドン生まれ。徳川宗英、御三郷・田安徳川家第十一代当主。学習院、江田島海軍兵学校を経て慶応義塾大学工学部卒業。石川島播磨重工業海外事業本部副本部長、IHIエンジニアリングオーストラリア社長などを歴任、95年退社ののち、多くの団体役員を勤める。昭和20年4月に江田島海軍兵学校最後の第77期生として入校、終戦を迎えている。  

<「江田島海軍兵学校」>
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   Hの「特攻の真実 なぜ、誰もとめられなかったのか」を読み直してみた。筆者はNHKエンタープライズのデイレクターとして、入社5年目の2006年(平成18年)から取材を始めて20011年(同23年)に「零戦」を、2013年(同25年)には「戦艦大和」をテーマに元搭乗員や元乗組員の証言によるドキュメンタリー番組を制作した。

   そして、それら二つのテーマを追ううちに「特攻」に関する本や研究が数多くあるなかで、「昭和19年10月に始まった特攻が、何故、どのような経緯で、終戦まで1年近くも続くことになったのか」という、特攻の本質に関わるテーマが抜け落ちていることに気づき、更に取材を進め2015年8月8日に放送したのが、NHKスペシャル「特攻」だった。そして、番組で紹介しきれなかった膨大な資料を書籍にまとめたのがこの本だという。プロローグの最後の方で、次のように語っている。

   「10か月に及んだ特攻作戦によって、4,500柱を超えるとも言われる前途洋々の若者が命を落とした。彼らをおとしめるのでも美化するのでもなく、そこからぼくたちはどんな教訓を学び取っていけるのか。それを後世に伝えることで、命を散らした特攻隊員の御霊やご遺族を慰める一助になればと願っている。」 

                                          この項続く

<「特攻の真実 なぜ、誰も止められなかったのか」>
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2018年09月10日

父のこと

  僕の父親は23歳で戦死した。後の戦死公報では昭和19年10月25日、フィリピンのルソン島南部のレガスピー基地を飛び立って還ることはなかった。わずか6か月足らず前に娶った妻と、この時すでにそのお腹に宿していた小さな生命を残して。

  僕は父が戦死した翌年の昭和20年3月に東京信濃町の慶応病院で生まれた。それから3歳になった時に病に倒れて横浜の病院で入院加療を受けていた母と別れて、父の実家である北海道北見市の祖父母に引き取られた。以来13歳、中学2年の1学期までの10年を「河西牡丹園(当時)」で育った。

  中学2年になって、母がようやく退院して僕を引き取ることになり、それからは東京で母と一緒に暮らすことになった。母は東京生まれ東京育ちで幼少のころからピアノを習い、音楽大学のピアノ科を卒業していたのでピアノを教えることで生計を立てた。今になって思うに8年以上も入院していて、ピアノもなく、その頃の母の頑張りを想うとその度に涙が止まらない。

  僕にとっての父は、少なくとも北見で育った10年間は、最初から父も母もいないことがあたりまえであり、時折祖父母や周りの人から聞く昔話の中に登場する人物でしかなかった。
  母と暮らすようになって、母から父のことを聞くことが増えてようやく父のことが生身の人間として身近な人になった。

  父は北見で5人兄弟(男3人、女2人)の三男として生まれ、6歳の時に母親(僕にとっては祖母)が33歳の若さで急逝したこともあり、家出同然のように東京へ出て早稲田中学(当時)に入学、そこで生涯尊敬して止まなかった恩師に出会い、苦学しながらも中学3年(現在の高校1年)で子供のころからの憧れだった海軍兵学校を受験し合格した。

  丁度そのころ父の姉(僕にとっては伯母)も音楽教師を目指して上京、母と同じ音楽大学のピアノ科に入学していて母とは同級生(年齢は母が下)だったので、伯母を通じて父と母は出会ったのである。

<父の兄弟。左から姉の郁子、妹の節子、父(三男)久夫、兄(次男)の二郎。この写真には写っていないが、長兄の博(ノモンハンにて戦死)、の五人兄弟であった。円内は異母妹。>
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  父は海兵の70期で、母の話では同級生からは「クマさん」と呼ばれていたらしい。北海道の山奥から出てきて、当時父は飛行訓練中は敢えて太陽に顔を向けて日焼けすることがあった(推測するに、本来は色白の方だったので敢えてそうしていたのではないかと思う。なぜなら僕もそうだから。)ので、見た目にも黒かったからそう呼ばれたのだろう。

  また、父は北見にいたころから音楽、なかでもクラッシクが大好きでベートーベンの交響曲は1番から9番まで全て口笛で吹けたそうである。母から聞いた話では父が帰ってくる時はこの口笛が遠くから聞こえてくるので分かる、私よりも音楽については詳しかったと。今でも父が鉛筆で描いたベートーベンの肖像画が残っているが、絵の才能もあったのではないかと思う。シューベルトの交響曲「未完成」も好きでよく聞いていたそうである。

  父は僕のもう一人の叔母(父の妹)によると子供の頃は相当に暴れん坊だったようで、小学生の時には、喧嘩して机のふたで当時の市長の息子を殴って怪我をさせたり、常呂川に馬に乗って泳ぎに行き、母親から帰りに豆腐を買ってくるように頼まれ、馬に乗ったまま自分の褌に豆腐を入れてぶら下げて持ち帰ってきたり(本人はよく洗ったからいいと思ったのだろう)、その類の逸話にはこと欠かない。しかし反面、弱い立場の人には大変やさしかったそうである。

  母の話によれば、海兵の時には自分の部下(下級生か)に恋人が郷里から面会に来た時には、厳しい規則を破ってでも自分の個室を提供したりする優しい人間だったそうである。

  平成29年2月、僕はやっと父が亡くなった地を訪ねることができた。従妹(父の兄の長女)からフィリピンに来ないかという誘いを受けたからである。 
  従妹は普段はシンガポールの近くに住んでいるが、たまたま仕事の関係でマニラ市に出張していて1か月後にはシンガポールに戻るので、この機会にという配慮である。
  有難く受けることとし、2月2日から2月6日までフィリッピンに渡った。

<マニラ市郊外の従妹の滞在するアパルトメントからマニラ湾方向を望む。(2月2日 18:14撮影)>
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<翌朝、レガスピーまでは飛行機を利用するのでアパルトメントからマニラ空港に向かう。(2月3日 8:02撮影)>
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<マニラ市中心に近づくにつれて半端じゃない渋滞。車窓から見える川(どぶ川)の両岸には工場の廃屋や墓地に勝手に住みついてしまう人々がいる反面、中心地に高い塀を廻した金持ちの屋敷があったりする。(2月3日 8:17撮影)>
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<レガスピーまでは1時間20分のフライト。マニラ空港にて。(2月3日 12:34撮影)>
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<レガスピー港。漁港であると同時に造船所や大きなショッピングセンターもある。(2月3日 16:26撮影)>
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<レガスピー中心市街、ホテルの近くの路上の電柱。(2月3日 17:00撮影)>
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<レガスピー空港が見渡せる小高い丘(リグノン・ヒル)の上に旧日本軍の司令部があった場所は、現在は小さな公園になっていた。写真は丘の入り口に掲示された説明板。(2月4日 10:20撮影)>
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<写真は丘の途中に残っている日本軍の壕の跡。兵隊はレプリカ。(2月4日 10:21撮影)>
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<岡の上の公園展望台からレガスピー湾方向を見る。左右に延びるのがレガスピー空港の滑走路。(2月4日 10:48撮影)>
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<公園の反対側からは富士山によく似た火山のマヨン山(2,463m)が見える。この日は雲がかかってその秀麗な姿は半分隠れてしまっている。(2月4日 11:19撮影)>
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<レガスピーから案内人付のレンタカーで2時間近くかけてダガラという町に向かう。途中のカマリグという所にある小高い丘に立ち寄る。レガスピーから上陸してくるアメリカ軍に抗戦した日本軍の壕の跡などがジャングルの中に残っている。(2月4日 12:06撮影)>
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<同じくジャングルに残されている階段。(2月4日 12:15撮影)>
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<同じく丘の上の展望台にて従妹の真理と。後ろに見えるのはマヨン山。(2月4日 12:22撮影)>
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<ダガラ中心部から3qほど北西にあるカグサワ教会遺構(Cagsawa Church Ruins)にて。1814年2月、マヨン山が大噴火し、火口から噴き出た溶岩流が麓のカグサワ村を襲い、教会に避難していた村人約2,000人とともに村全体がそのまま飲み込まれてしまった。現在、教会の敷地は公園になっていて教会の壁の上部と鐘楼だけが残っている。雲が掛かっていて見えないが、後ろにはマヨン山が近い。(2月4日 13:27撮影)>
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<ダガラの街の中心部にある小高い丘に建つダガラ教会(Dagara Church)。1773年に建てられ幾度もマヨン山の噴火により損傷を受けたが、現在も多くの信者を集めている。(2月4日 14:44撮影)>
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<ダガラ教会内部。(2月4日 14:48撮影)>
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<ダガラ教会の回廊にはキリストや聖人の像が並んでいる。(2月4日 14:53撮影)>
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<同じ回廊には、1814年のマヨン山の大噴火の際にカグサワ教会からダラガ教会に避難してくる大勢の村人の様子を描いた大きな絵が架けられている。(2月4日 14:56撮影)>
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<レガスピーのダウンタウン中心地にあるホテルへ戻る途中、近くにあるレガスピー駅に寄ってみた。駅の入り口はシャッターが閉まっているが横からホームに入ってみる。ガランとして近所の子供たちが遊んでいる。運行しているのかどうかは不明。(2月4日 15:45撮影)>
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<翌日、2月5日はホテルで朝食を済ませて、レガスピー市内観光に出かける。便利な乗合タクシー、ジプニー(jeepney)を利用する。初乗りは8ペソ、160円強。>
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<街のどこからでもマヨン山が見える。(2月5日 10:03撮影)>
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<市役所前の広場。(2月5日 10:23撮影)>  
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<市役所の近くの教会の前で。(2月5日 時間不明)>
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<久し振りにミサに与かる。(2月5日 10:34撮影)>
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<市役所広場に近い魚市場。(2月5日 11:30撮影)> 
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<レガスピーよさようなら。レガスピー空港。(2月5日 16:57撮影)>
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<空港から見るマヨン山と、手前はリグノン・ヒル。(2月5日 18:55撮影)>
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<マニラに戻り、夜はタクシーでビジネス街にある日本居酒屋の「相撲茶や 関取」で喉を潤した。(2月5日 21:00撮影)>
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<「相撲茶や 関取」の店内。日本のビジネスマンが多く、メニューも日本の居酒屋と変わらない。(2月5日 21:00撮影)>
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<マニラよ、レガスピーよ、フィリピンよ、そして父よ安らかに、さようなら。また来る日まで。(2月5日 11:07撮影)>
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2018年08月26日

回想の北海道一周バイクの旅

  2011年7月26日。平成23年7月26日。ちょっと古くてよく憶えいない部分もある。写真のデータによるとそうなっている。でも、ファイルを移動したりすると撮影日が移動日に変わったりするらしいからちょっと当てにはならない。

  ともかくこの頃にバイクで北海道の海岸線を時計と反対周りに7日間で1周した、といっても知床半島はさすがにバイクでも通れる道は無いので除く。最終日は確か野付半島の突先まで行って、標津から中標津、そしてバイカーのメッカ開陽台、最後は摩周湖の伏流水が作った神の子池に寄って美幌経由で北見まで戻った。

  本題に入る前にバイクとの関わりに触れておこう。今、手許の免許証を見ると普通自動二輪の資格取得は平成23年3月30日となっている。平成19年から北見に半移住(定住ではないという意味)してから北海道のことをもっと知りたいと思うようになり、また何となくバイクでどこまでも真っ直ぐな北海道の道を走りたいとも思った。
 
  生まれてこの方、自転車以外には原付も含めて全く二輪を運転したことがない。平成22年、65歳。20代の若者に交じって川崎の自宅近くの教習所通い。免許を取得してすぐに中古バイクを購入した。最初から免許を取得したら川崎から北見まで行くつもりだったので、長距離ツーリングに適したYAMAHAのアメリカン、ドラッグスター・クラッシック(400CC)に決めた。
 
  バイクを購入してすぐ、5月の連休に朝6時に川崎の自宅を出発、初めての路上運転(教習所では路上運転はない)で、初めての高速道路。連休中なので早速首都高から渋滞。盛岡を過ぎて八甲田の辺りで暗くなってしまった。
 これから先は本題と離れてしまうので、機会を改めて。

初乗りで北見へ。行くぞDrugStar!!(平成23年5月3日 5:50撮影)
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  さて、話を平成23年7月26日に戻す。朝、ぼたん園を出発、国道333号を走り遠軽から湧別へオホーツク海を目指す。オホーツク海の直前で左折してオホーツク国道を紋別を目指してひた走る。右手はオホーツク海だ。
 
  紋別の港を右下に見て、興部(おこっぺ)、雄武(おうむ)、枝幸(えさし)と右にオホーツク海を見ながら北上する。この辺りの道は直線が続くので、そして殆ど対向車もなく気持ちがよい。道の真ん中で大鷲が日向ボッコをしていた。雄武の寿司屋で昼食。さすが、新鮮度が違う。

  やがて浜頓別(はまとんべつ)でクッチャロ湖に立ち寄りしばし休憩。人影も殆ど無く、静かな湖畔だ。
  猿払(さるふつ)から宗谷岬が近づくにつれ海岸線に沿ってオホーツクラインから宗谷国道となり、左手には風力発電の白い風車が建ちならんでいるいる。いかにも強風が年中吹いている感じだ。

  宗谷岬で写真を撮ってから、よく晴れた日には樺太が見えると書いてあるので背伸びして遠く北方を見つめたが、かすかに陸らしきものが見えたような気はしたが確信は持てない。

雄武町(おうむちょう)から見るオホーツク海(平成23年7月26日 12:05撮影)
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源泉100%を謳うオホーツク温泉 ホテル日の出岬。海から昇る朝陽と牧場に沈む夕陽、冬は流氷が一望できる。(同年7月26日 12:08撮影)
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枝幸町から浜頓別に向かう途中にある「北見神威岬(かむいみさき)」。断崖の中腹に灯台がある。岬の手前、枝幸町側には北見神威岬公園がある。上が公園。下が灯台。(同年7月26日 14:46と15:00撮影)
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浜頓別(はまとんべつ)町のクッチャロ湖。クッチャロはアイヌ語で「沼の水が流れ出る口」の意味で屈斜路湖と同じ語源である。サロマ湖と同様に汽水湖である。(同年7月26日 15:26撮影)
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どこまでも、真っ直ぐ続く道。クッチャロ湖の近くか。(同年7月26日 16:07撮影)
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日本最北端の地、宗谷岬。樺太までは43qだそうなので、晴れた日には樺太が見えるのだ。(同年7月26日 17:17撮影)
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 この日は野寒布(ノシャップ)岬のたもとにあるライダーズハウス(主としてバイカーのための簡易宿泊所で1泊2,000円前後で宿泊できる。北海道には多く、シャワー付き食事付のところもある。基本的に寝袋持参で雑魚寝。ライダーハウスが正しいと思うが、以降一般の表示のライダーハウスに従う)の「サガレン」(1泊1,500円)に宿泊した。

  翌日(7月27日)は朝早く食事をしてライダーハウスを出発、稚内市街地を一望できるという「稚内公園」に行ってみた。
  昭和29年に開園した同公園には、かつて日本の領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑である「氷雪の門」がある。Wikiの解説によると、「樺太で亡くなった全ての日本人が対象であり、第二次世界大戦終戦後のソ連軍の侵攻により亡くなった日本人だけを対象としているわけではない」としている。

  さらに近くには、「九人の乙女の像」がある。再びWikiの解説を引用すると、「1945年8月20日、樺太真岡へのソ連軍侵攻に際し、真岡郵便電信局にて連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうちの、9人が青酸カリなどを用い自決した。戦後、彼女らを英霊として顕彰しようとの機運が関係者・遺族の間に起こり、地元の樺太関係者と遺族の手によって氷雪の門と九人の乙女の像が設立され、ともに1963年8月20日に序幕された。」となっている。9名は公務殉職として靖国神社にも合祀されているとも記されている。

  また、昭和43年9月5日、昭和天皇と香淳皇后が稚内市を訪問され、氷雪の門と九人の乙女の像の前で深く頭を垂れた。その時の感銘を歌われた和歌の碑が九人の乙女の像の傍にある。

稚内公園からは稚内港が一望できる(7月27日 8:15撮影)
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樺太師範学校の碑(7月27日 8:16撮影)
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氷雪の門(7月27日 撮影時間不明)
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みなさんこれが最後です、。さようなら。さようなら。(7月27日 8:19撮影)
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九人の乙女の碑、解説文(7月27日 8:30撮影)
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九人の乙女の像の傍にある、昭和天皇と香淳皇后の和歌の碑(7月27日 8:32撮影)
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バイクのツアラーも多く立ち寄るようだ。稚内公園にて。(7月27日 8:35撮影)
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  稚内からは日本海岸沿いの道道106号を右に利尻島(利尻富士)を指呼の間に見ながら、ひたすら南下する。真っ直ぐに延びた道の右には日本海、左はサロベツ原野である。30qほど走ったところで道道106号線で唯一の駐車場のある浜勇知展望休憩所がある。

  「こうほねの家」と呼ばれる木造の休憩所があり、屋上からは日本海に浮かぶ利尻富士が見られる。「こうほね(河骨)」とは休憩所の裏に広がる池塘に浮かぶ睡蓮の一種で黄色い可憐な花を咲かせる。尾瀬ヶ原でお馴染みの方も多いと思う。
 
浜勇知の原生花園には森繁久弥の歌碑もある。碑には「浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の
海に立つ富士」と刻まれている。(7月27日 10:09撮影)
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浜勇知海岸に立つ日本海の標示と利尻島(7月27日 10:17撮影)
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稚内から札幌までの道道106号、国道232号、国道231号、通算330qは「日本海オロロンライン」とも呼ばれ、信号もガードレールも看板も無い、一直線の道が続き痛快な走りが満喫できる。
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  道道106号を真っ直ぐに南下すると、やがてここが日本か?と思わせるような景色が現れる。日本海に向かって30基近い巨大な風車が横一列に並んでいる。そして左側に、あの幻の「イトウ」が住む天塩川が近づいたと思うと橋を渡り、今度は右側に天塩川と並走する。天塩川はこの先で日本海に注いでいるのだ。

  ここで、道道は国道232号と合流してさらに遠別町、苫前町、留萌市、と南下する。留萌港では黄金岬(おうごんみさき)に立ち寄る。かつてニシンの見張り台でもあった岬は、ニシンの群れが夕陽を浴びて黄金色に輝きながら岸をめがけて押し寄せたのが名前の由来と言われている。「日本一の落陽」とも。

黄金岬海浜公園のモニュメント。残念ながら黄金の夕陽は見れなかった。(7月26日 15:14撮影)
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公園の反対側は、浜の食堂が並ぶ。濃厚な生ウニ丼、イクラ丼が食べられる。(7月27日 15:15撮影)
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  留萌からは国道は232号から内陸の深川に向かう233号と日本海沿岸沿いに増毛町に向かう231号に分かれる。分岐点から増毛町までは19q、その歴史的な街並みは2001年第1回の「北海道遺産」に「増毛の歴史的建物群」として登録されている。

  JR留萌本線の終着駅「ましけ」駅から市街地に向かう通りには、明治時代から営業を続けてきた豪商・旧商家丸一本間家をはじめ、昭和初期建築の駅前旅館・増毛館、昭和56年公開の映画「駅STATION」で使われた「風待食堂」の雑貨屋「多田商店」が、また高台にある増毛小学校は1936年(昭和11年)に建築された戦前の都市木造校舎としては道内唯一の現役校舎である。

増毛駅。平成28年に路線廃止に伴い廃駅となり、廃駅後も旧駅舎・線路とも解体されることなく存置され、平成30年には開業当時の駅舎に近づけるため建物面積を2倍に増築し、まちづくりの核となる観光施設として復元された。この写真は復元前の駅舎。(平成27年7月27日 15:43撮影)
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風待食堂。増毛駅の向いにある建物で、もとは雑貨屋(多田商店、大正2年創業)だったが、昭和56年に公開された映画「駅 STATION」では「風待食堂」として使われた。映画では高倉健扮する警官が追っている容疑者の妹(烏丸せつこ)が働く食堂の設定。現在は外観はそのままに観光案内所になっている。(7月27日 15:44撮影)
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国指定重要文化財 「旧商家丸一本間家」國稀の創業者である本間泰蔵の自宅。(7月27日 15:48撮影)
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 さて、増毛から雄冬岬を越えて札幌を目指して国道231号を南下するが、留萌までの直線的な道とは打って変わって同じ海岸沿いでも岩の断崖をくりぬいたトンネルが多く、くねくねとしたカーブが続くので気が抜けない。

  ところで、今回のバイク旅にはもう一つの目的がある。それはJR札幌駅から北へ向かう学園都市線の石狩月形駅下車7分にある「コテージガーデン」に立ち寄ること。
  梅木あゆみさんというガーデナーが経営する園芸専門店でクレマチスとバラの苗を育てて、その仕立て方や見せ方を提案している。寒冷地の北海道ではバラとクレマチスは、ほぼ同時期に咲く、なくてはならない植物である。

  クレマチス(日本では鉄線(テッセン)とも風車(カザグルマ)とも呼ばれている)の花(実は愕)は華やかなものから可憐なものまで、実に多様な表情を持ち、その蔓はいかにも弱々しそうで繊細な印象を受けるが、実際は非常に強い植物である。間違って草刈りの時に刈られてしまっても必ずまた蔓を伸ばして花を咲かせる。僕はいつも理想の女性像をこの花に重ねて見ている。因みにクレマチスの花言葉は「精神の美」だそうだ。ぼたん園にも数年前からバラを導入しているので、是非クレマチスを加えたいと思っていたからである。

  そこで、石狩市の手前、厚田村というところで国道231号と別れ、月形厚田線(厚田山道)の山道を上り月形町を目指す。
  尾根を越えて下って行くと、月形町に入る。人に道を聞きながら「コテージガーデン」に到着。 梅木さんにお会いして、いろいろと話を伺う。マウレ山荘のガーデンも梅木さんが設計、監理していることを知る。それにしてもクレマチスの苗は想定していたよりも結構値段が高い。

  「コテージガーデン」を辞して今晩の宿、ライダーハウスを探す。幸い道央自動車道の三笠インターの近くに今は廃線となっているが(なに線かは忘れたが、多分近くの桂沢ダム湖か美唄の炭鉱まで行く支線だったのでは)、「旧萱野駅」というライダーハウスがツーリングマップに載っているのでそこを目指す。

  道を尋ねながらやっと「旧萱野駅」に着いた時にはもう陽は沈みかけていたが、声を掛けても返事はない。やっと人を見つけて訪ねると駅前の床屋さんが管理しているとのこと。鍵を貰って誰もいない駅舎で一晩を過ごした。因みに1泊1,000円也。

ライダーハウス「旧萱野駅」。無人駅ならぬ無人ライダーハウス。(7月28日 7:29撮影)
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駅舎とDrugStar(7月28日 7:30撮影)
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  翌日、7月28日朝早くライダーハウス「旧萱野駅」を出発、岩見沢市、江別市、札幌市街を経由して小樽を目指す。今日の目的地は積丹半島の神威岬である。

  小樽を過ぎると余市町で国道はニセコに向かう5号線と別れて積丹半島の海岸沿いを走る229号を西へ進む。ここから暫くは右手に日本海の石狩湾に突き出た奇岩の数々が続く。途中国道を右折して島武意海岸に立ち寄る。

  島武意海岸の駐車場から遊歩道の坂道を10分ほど上ると積丹出岬灯台がある。小さな灯台だが、その少し先にある広場からは石狩湾や日本海だけでなく、さらにその先の暑寒別岳まで360度の展望が得られる。

  灯台から島武意海岸駐車場まで戻り、小さなトンネルを抜けると海岸を見下ろすさほど広くはない展望台に出るが、そこから眺める海岸は海中の海草、岩や小石までが透き通るように見える。「積丹ブルー」とは宜なるかなと思わせる見事なブルーである。ここから10分ほど急階段を下ると海岸に立つことができるようだが、残念ながら時間がないので諦めた。

積丹出岬(しゃこたんでみさき)灯台。灯台自体の高さは13mしかないが、海面から灯火までの高さは141mある。(7月28日 15:11撮影)
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積丹出岬灯台前の広場に立つ島武意海岸の案内板(7月28日 15:10撮影)
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大人二人がやっとすれ違えるほどの、真っ暗な島武意海岸トンネル(7月28日 15:22撮影)
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真っ暗なトンネルを抜けると突然、眼下に島武意海岸が飛び込んでくる(7月28日 15:19 撮影)
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   再び国道229号に戻り、7.5qほど進み右折すると神威岬に到着する。駐車場から岬の突端まで歩いて30分くらいかかるが、アイヌの娘チャレンカが義経に恋い焦がれたという源義経伝説があるため岬の突端に行く途中に「女人禁制の門」がある。

   駐車場からこの門までは急坂だが舗装道なので歩きやすい。門を過ぎると譲り合わないと通れないような小道(チャレンカの小道)となり、階段があったりしてアップダウンが続く。ここからは左右に「積丹ブルー」の美しい海岸が見下ろせる。
 岬の先端からは、神秘的な色の海に立つ乙女の化身とも言われる神威岩が目の前に見られる。

女人禁制の門。現在は女性も通れる。ここから先は強風や濃霧のときは閉鎖される場合もあるようだ。(7月28日 16:04撮影)
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「チャレンカの小道」と神威岬。小さく灯台が見える。(7月28日 16:14撮影)
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「チャレンカの小道」から見下ろす「積丹ブルー」の海岸(7月28日 16:21撮影)
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神威岬先端とその先に立ち尽くす神威岩(7月28日 16:24撮影)
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振り返って見れば、神威岬灯台(7月28日 16:25撮影)
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   神威岬を後にすると再び国道229号を海岸沿いに南下する。北海道で唯一の原子力発電所「北海道電力泊発電所」がある泊村を過ぎ、岩内町に入るころには暗くなってきたので近くのライダーハウスを探すが適当なところが見つからず、やむなく小樽の「ライダーハウスやまだ」まで戻ることにする。

  岩内町で229号と別れ、276号から午前中に余市で別れた国道5号線に出て余市へ逆戻り、小樽を目指す。  余市に着くころには既に暗くなっていて、夜道を探して「やまだ」に着いた時にはもう真っ暗になっていた。
  「やまだ」は札幌と小樽の中間にあり、国道から100mしか離れていないのに川のせせらぎと豊かな緑に包まれたところでご夫婦と黒い大型犬のマローで経営している。

「ライダーハウスやまだ」のオーナーご夫婦とこの日同宿のご親戚(?忘れた)と、稚内から佐多岬を徒歩で目指していると言う若者。稚内からここまで既に1か月が経過したそう。(7月29日 8:47撮影)
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脱サラしてライダーハウスのオーナーになったというご夫妻と。ハウスの施設はすべてご主人の手作り。一泊1,200円、奥さん手作りの朝食付き。(7月29日 8:50撮影)
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  「ライダーハウスやまだ」を辞して昨日来た国道を戻り、再び229号を日本海を右に見ながら寿都町、瀬棚町、枝幸町、松前町、知内町、木古内町、と海岸線を辿る。函館に入り函館山に近い「民宿ライムライト」に到着したのは午後9時を回ってからだった。

そろそろ疲れが出てきていたのか、写真の場所がどこか思い出せない。2枚目は松前あたりか?
(7月29日 11:40撮影)
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(7月29日 15:48撮影)
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(7月29日 16:36撮影)
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4泊目の函館の宿「民宿ライムライト」。1泊1,000円、朝食付き。(7月29日 21:54撮影)
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  翌朝は早めに朝食を済ませて近くの元町へ。函館港に近く函館山の麓に広がる坂の多い町が「元町エリア」である。どこか横浜の元町を連想させる歴史的建造物が建ち並ぶ異国情緒漂う町だ。

ハリトリス正教会。緑の屋根と漆喰の白壁のコントラストが美しい国重要文化財。(7月30日 8:11撮影)
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大三坂。日本の道100選に選ばれている坂道で石畳が元町にマッチしている。(7月30日 8:14撮影)
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カトリック元町教会。六角形の屋根に風見鶏が目印。(7月30日 8:16撮影)
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どこかエキゾチックな街並み(7月30日 8:19撮影)
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二十間(約36m)坂。函館は度重なる大火を経験していて、防火帯として真っ直ぐな幅の広い道が作られた。
(7月30日 8:25撮影)
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  函館の街よさようなら、また来る日まで。昨日走ってきた松前半島をつま先とすれば、かかとに当たる亀田半島の海岸沿いの国道278号を東に向かい、かかとの突端の恵山岬を目指す。恵山岬をぐるっと回って今度は北西に向かい駒ヶ岳の西端に位置する、昔から「森のいかめし」で知られた森町を目指す。

  「森のいかめし」は僕が北見にいた子供のころから森駅の駅弁として知られていた。今回調べてみたら、「いかめし」を開発したのは創業が1903年(明治36年)の「阿部弁当店」(当時)で、第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)に、食糧統制で米が不足していたため、当時豊漁だったスルメイカを使って米を節約して作れる商品として考えられ、駅弁として販売された、とある。

  現在は株式会社いかめし阿部商店が森駅構内のキヨスク、駅ホームでの立ち売り(7月下旬〜8月下旬)または森駅前の柴田商店で販売している。売り上げの殆どを全国のデパートで開催される駅弁大会での出店が占めているそうだ。

JR函館本線、森駅前の柴田商店。店の前にはDrugStar Classic。(7月30日 11:56撮影)
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 森町からは内浦湾(噴火湾)を右に見ながらJR函館本線(長万部からは室蘭までは室蘭本線)と並行して、八雲町、長万部町、豊浦町、洞爺湖のある虻田町、伊達市、室蘭市と、ほぼ内浦湾を一周するように走る。

  室蘭からは北東に向かって右に太平洋を見て、登別市、白老町、苫小牧市と進み、苫小牧からはJR日高本線と並行するように今度は東南に襟裳岬まで一直線に突っ走る。

  苫小牧は何度か川崎と北見を往復する際に苫小牧と八戸を繋ぐフェリーを利用しているので若干土地勘がある。そこでいつものように道央自動車道の苫小牧東ICから、道東自動車道には向かわず日高自動車道に入り日高富川ICで降りてすぐのライダーハウス「味処西陣」に泊まることとする。

  近くに「味処西陣」のオーナーが経営する寿司店と風呂屋があり、割引券をもらって食事と風呂を済ませて宿に戻ると、二人の若いライダーが同室することになった。二人とも愉快な若者で遅くまで飲みながらお互いのツーリングの体験話に花が咲いた。

ライダーハウスで同室となった愉快な若者二人と(7月30日 23:24撮影)
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  翌朝、二人の若者と別れ国道235号(通称、浦河街道。国道235号は浦河町の幌別でえりも町に向かう336号と日高山脈を越えて広尾町、大樹町に向かう236号に別れる)を襟裳岬を目指して走る。
  サラブレッドの故郷、日高町から浦河町までの約90qの区間は「優駿浪漫街道」の愛称が付けられている。アポイ岳のある様似町を過ぎて暫く走ると国道は左へ曲がり、直進すれば道道34号となり襟裳岬まで13qの標識がある。

  襟裳岬は風と霧の岬だった。風速10m以上の風が吹く日が年間290日を超えると言われている。この日はおまけに霧が風に舞い体感温度はまるで冬のように感じた。

襟裳岬灯台(7月31日 時間は不明)
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襟裳岬の案内板と雨具着用の僕(7月31日 9:13撮影)
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岬の突端にある展望台は強風と霧雨が吹き付けていた(7月31日 9:15撮影)
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  襟裳岬から再び国道336号に戻り、広尾町に向かい北上する。えりも町庶野から広尾町までの33.5qの区間は急峻な海岸線ギリギリに沿うように道路が続いていて、断崖絶壁での工事は難航を極め「黄金を敷き詰めるぐらいに金がかかった」ことから「黄金道路」と呼ばれている。

  広尾町から、大樹町、豊頃町、浦幌町へ。この辺りは十勝川を初めとする河川が太平洋に注ぐ河口地帯に当たり、336号線は海岸線からは少し離れて走るが道の右側には海岸線との間に湿原が続く。豊頃町と浦幌町の間の吉野共栄という交差点で国道336号は帯広からの国道38号に合流し、再び太平洋の沿岸に沿って釧路市に向かう。

  釧路からは国道38号は44号となり、途中厚岸から国道を離れて海岸沿いに道道123号を走り霧多布岬に寄る予定であったが、この日は雨でそろそろ疲れもあり、そのまま44号を真っ直ぐ突っ走って根室市に向かった。
   
  根室での最大の目当ては本土最東端の納沙布岬灯台のすぐそばにあるライダーハウス「鈴木食堂」に泊まって、「生さんま丼」を食べることだ。
  根室市街を過ぎて根室半島を一周する道道に入ると霧が段々濃くなり、納沙布岬に近づくにつれて真っ白で前が見えなくなった。

  やっとのことで「鈴木食堂」に着き、とりあえず今夜の寝床を確保してから別棟の食堂へ。ご飯が全く見えないほどに光輝く新鮮なさんま切り身が敷き詰められていて、真ん中にとびっこがのっている。残念なことにさんま丼の写真を撮るのも忘れてしまうほどの絶品だった。因みにさんま丼・味噌汁(ワカメ)・漬物付で1,300円也。(花咲カニの鉄砲汁付きは1,800円)

「鈴木食堂」の鈴木さん夫妻と家族(?忘れた)と(7月31日 21:38撮影)
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  翌朝(8月1日)は朝食をいただいてからすぐ先の納沙布灯台を見に行く。今朝も相変わらず霧が出ていて本来なら見えるはずの貝殻島や歯舞群島は全く見えず。

  根室から昨日来た国道44号を厚床まで戻り、右折して国道243号、別海町からは244号と辿り、尾岱沼、野付半島を目指す。途中、尾岱沼の少し手前にある別海北方展望台(独立行政法人が運営する北方領土の関する資料を展示する啓発施設で、展望室から国後島が望める)に立ち寄った。

納沙布岬灯台。北海道最古の灯台で、明治5年に完成、現在の灯台は昭和5年に建設された。(8月1日 9:01撮影)
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納沙布岬から北方領土を望む。霧で何も見えない。(8月1日 9:03撮影)
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晴れていれば見えたであろう北方領土(8月1日 9:04撮影)
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別海北方展望台に展示されていた説明文。ソ連軍の侵攻などについて書かれている。(8月1日 11:34撮影)
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  展望台から15qほど走り、右折して野付半島で唯一の一本道に入る。野付半島は別海町と標津町にまたがり、釣り針のように海に長く突き出た砂嘴(さし)で、全長が26qある(日本最大)。
  砂嘴とは、岸沿いに流れる海水によって運ばれた土砂が堆積してできる地形のこと。砂嘴は幅が狭くて道の両側が海なので、まるで海の上を走っているような錯覚に襲われる。

  釣り針の先端まではバイクでは行かれないが、途中には「トドワラ」や「ナラワラ」と呼ばれる海水に浸食されて立ち枯れたトドマツやミズナラが荒涼とした景色を出現させている・・・・・・はずだが、今回はどこにもそのような景色は見られず、帰宅してから調べてみたところ立ち枯れの木々も風化により姿を消しつつあることが分かった。

真っ直ぐな砂嘴の道を走る(8月1日 13:27撮影)
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昔見た「トドワラ」、「ナラワラ」の荒涼とした景色はもう殆ど見られない(8月1日 13:58撮影)
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  野付半島のつけ根まで戻り、国道244号を標津町で左折、272号を行く。この辺りからは真っ直ぐな道が格子状に走っていて迷いながらも、バイカーのメッカといわれる「開陽台展望台」を目指す。どの道も直線的に延びていてどこまでも続いているように見える。

  1時間ほど走ってやっと開陽台の入り口に着いた。開陽台は標高271mの小高い丘で展望台までは上りと下りが一方通行になっている。展望台からは視界を遮るものがなく根釧台地の格子状防風林と地平線が見渡せる。今では北海道をツーリングするライダーの聖地として、バイカーの間では広く知られている。

どこまでも続くように見える道を開陽台を目指して走る(8月1日 14:57撮影)
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「開陽台展望館」の屋上展望台からは360度の視界が広がる(8月1日 15:28撮影)
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展望台からは牧場の間を囲む格子状の防風林が見られる(8月1日 15:15撮影)
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地球が丸くみえる 開陽台(8月1日 15:20撮影)
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ツーリングライダーの聖地 開陽台(8月1日 15:30撮影)
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  いよいよ北海道一周バイクの旅も終わりに近づいた。最後に摩周湖の伏流水が湧き出た池という言い伝えがある「神の子池」に立ち寄った。
  摩周湖が他の湖と大きく違うのは、湖に流れ込む川も流れだす川も無いことだ。それなのに、春にはたくさんの雪解け水が流れ込むのに水位が変わらないのは神の子池のような伏流水が湧き出ているからだとされている。

神の子池の入り口にある案内板(8月1日 16:37撮影)
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神の子池(8月1日 16:39撮影)
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  そして、北見へ戻る前に美幌の焼肉割烹「田村」に寄って、旅の疲れを癒したのであった。めでたし、めでたし。
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                            回想の北海道一周バイクの旅 完

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2018年08月16日

靖国神社参拝

 平成30年8月15日(水)、今日は73回目の敗戦の日。晴れ。午後の最高気温は33℃。
 前日の8月14日、北見より上京。午前11時に九段下の改札口にて、長男夫婦と待ち合わせて靖国神社に向かう。神社までの短い舗道は混雑している。それに増して道の両側には様々な団体が横断幕を張り、チラシを配ったり、署名を求めたりして騒々しい。例年は8月15日を避けて参拝するので静かなものだが、やはり想像したとおり15日当日の参拝は賑やかだ。

 いつものように一礼して鳥居をくぐり、手水舎で手と口をすすぐ。少し行くと右側のテントではなにやら聴衆を前に奥の演壇からマイクを通して話しているが、どこかで聞いたような外国人なまりのある声だ。ケント・ギルバート、そう彼だ。と思えば、左側では旧陸軍のカーキ色の軍服を着た兵隊と白い士官服を着た軍人が大きな掛け声を掛けながら行進している。

ケント・ギルバート氏の講演を聴く聴衆(8月15日 11:24撮影)
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 そして、雑踏を潜り抜け拝殿に近づくと神門から先は50mもあろうか、行列ができている。このかんかん照りにもかかわらず黙々と並んでいる。その両脇にはスキー場の人工降雪機のような機械が設置され水蒸気を吐き出しているが効果なし。
 暫く並んでいたが、こりゃだめだと観念し二人はまだ遊就館を見ていないと言うので、列の外へ出てその場で手を合わせ二礼して遊就館に向かう。

炎天下、参拝のため並ぶ行列(8月15日 12:43撮影)
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拝殿前の混雑(8月15日 12:45撮影)
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 遊就館に入って少しして正午とともに、その場で全員が黙祷。ここも混んでいて映画室も満席。飛ばして明治維新から大東亜戦争までの近代史解説や遺品の展示を見て、最後に英霊の遺影や遺書が展示されているところで久夫(僕の父であり、二人には祖父)と博(久夫の長兄。久夫は三男。ノモンハンで戦死。)の名前を探すが見当たらず。今まで何度か遊就館を訪れているが、「遺族が写真や遺書を提出した英霊だけが展示されていて、それ以外は展示していない」と断りが書いてある。母も祖父も何故か提出しなかったのだろう。

遊就館入口。ここも大混雑。(8月15日 11:54撮影)
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遊就館内部、入り口近くに展示されているゼロ式戦闘機。(8月15日 11:58撮影)
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 遊就館を出て、相変わらず拝殿前に並んでいる行列を横目に二人は神札をいただく列に。僕はここで二人とは別れて、歩いて飯田橋へ出て帰途に就いた。

 
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